一古代への旅 伊勢一
外宮 内宮 月讀宮 徴古館 倭姫宮 二見浦
一古代への旅 伊勢一
外宮 内宮 月讀宮 徴古館 倭姫宮 二見浦
外宮
夏の初めであったが気温は高く、近鉄特急から降りると、眩しい日差しがかっと照りつけていた。伊勢市駅は、人で賑わう宇治山田駅に比べると、ひっそりとしている。
外宮までは十分ぐらいなので、森を目指して歩き始める。道筋の商店街もひと気は少なく、日陰を探しながら辿っていくうちに、行く手にこんもりとした外宮の森が見えてきた。お社は鬱蒼とした森が目印になる。神社巡りをしていて、深い木々の緑に覆われた森を目指していくと、お社に行き当たることが多いが、外宮の森は特に大木が多いようである。杉、檜、樫、椎、楠などが大きく枝を広げている。太古の森という雰囲気が感じられて圧倒される。近寄って楠の大木を見上げていると、その大きさに打たれ、畏怖の思いすら感じた。
参道は参拝の人が途切れずに続いている。団体客はバスで来てバスで去っていく。人波が引いた後は、一とき短い静寂が訪れて、蝉の声だけが周囲に響き渡っていく。背の高い木が並ぶ森は奥行きが深く、濃い緑に包まれている。
祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)。外宮に祀られる豊受大神は、雄略天皇の御代に、丹後半島から遷座されたという。神宮側の史料によれば、伊勢内宮の神、天照大御神があるとき天皇の夢に立ち顕われ、御食(みけ)つ神として、豊受の神を丹後の真名井原の地から伊勢へ迎えることを、天皇に告げられた。(記紀には天皇夢見の記述はない)みけつ神とは、五穀などの食物を司る神のことで、内宮の神に食物を供する役を担うという。
豊受大神がかつて鎮座されていたという、丹後真名井原の位置に関しては、幾つかの説がある。有力視されているのは、丹後半島の天橋立にある丹後一宮、籠(この)神社奥宮説という。天の橋立からもう少し内陸部に入った大江山内宮説(大江山のほうには天岩戸神社と神体山の日室岳がある)も有力とされるが、どちらなのかは特定されていないらしい。ともに元伊勢と呼ばれ信仰を集めている。
外宮正宮に参拝した後、木立の中を抜けて別宮の土の宮、風の宮へと回っていく。伊勢神宮には百を越える摂社があるというが、その中でも土宮、風宮、多賀宮、月夜見宮は正宮に次いで位が高いとされる。
土宮前で、ちりとりほどもある大きな亀が道をこちらへ歩いてくるのを見かけた。正宮前にある池からたった今出てきたらしく、まだ体が濡れている。通りかかった人たちが気づいて取り囲み、亀の動きに合わせて移動しながらしゃがんで携帯で盛んに撮っている。亀はゆっくりと風の宮のほうに進んでいった。
風宮には風を司る級長津彦(しなつひこ)、級長戸辺(しなとべ)の神が祀られている。しなつ彦とは、息が長い男という意味だそうである。元寇のとき、人々の必死の祈願に応えて神風を起こしたのだそうだ。内宮にも同じ風の神が祀られており、両方の風の神が力を合わせて日本を守ったというのである。
階段を上がって多賀宮に詣で、降りてくるともう亀の姿はどこにも見えなかった。体が大きいので思ったより歩くのが速かったらしい。
大鳥居近くの勾玉池のほうに行ってみることにする。鶏が前方の茂みにいて突如コケコッコーと続けざまに声を上げたので驚かされた。ここで飼われる鶏はたぶん神鶏で、長鳴鶏と呼ばれているのかもしれない。天の岩戸伝説にも登場している。
・・・・かれここに天照らす大御神、天の石屋戸(いわやと)を開きてさし隠(こも)りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因(よ)りて常夜(とこよ)往く。ここに万(よろず)の神の声はさ蠅なす満ち、万の妖(わざわひ)悉に発(おこ)りき。
ここを以ちて八百万(やおよろず)の神、天の安の河原に神(かむ)集ひ集ひて、高御産巣日(たかみむすひ)の神の子、思金(おもひかね)の神に思はしめて常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集へて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石(かたしほ)を取り、天の金山の鉄(まがね)を取りて鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて伊斯許理度売(いしこりどめ)の命におほせて、鏡を作らしめ・・・・ (古事記)
記紀のこの天の岩戸隠れの場面は、皆既日食の現象を指しているのだとよくいわれるが、先日起きた皆既日食のことを思い出してしまった。あの日食の日、時計を見ながらじっと曇り空を見ていたが、最も太陽が欠けるとされた午前十一時過ぎ、自宅のある兵庫県でも光がだんだん薄らいでいって、戸外は何ともいえない嫌な暗さになっていた。
この天の岩戸の場面がもし皆既日食の現象を語っているのだとすれば、古代の人々は突然訪れた昼間の暗闇にどんなにか不安を感じ、恐れおののいたことだろう。
記紀によれば、天照大神が弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴な振る舞いのために、岩屋に隠れたので闇の世界となってしまった。多くの災いが起きたので、神々が集まってこの世に光を取り戻すため、さまざまの呪(まじな)いを行ったという。
まず鶏を集めて鳴かせているが、夜を終わらせ、太陽を呼ぶ呪術的行為の一つであったらしい。この後、神聖な天の香具山の青木を伐ってきて、立派な鏡を造って掛け、玉、幣なども取りつけて、天の宇受売命(うずめのみこと)が伏せた桶を踏み鳴らし、神がかりになる場面へと続いていく。やがてそれらが功を奏したのか、天照大神は岩屋から出て、世界は再び明るくなるのである。
ここの鶏の鳴き声を注意深く聞いていると、普通よりときの声が長いようであった。コケコッコーの語尾のところをかなり引っ張るようにして鳴いている。そういう種類の鶏なのだろうか。赤いとさかの色が鮮やかで、首を振りながらそこらを歩き回り、何かを見つけては盛んについばんでいる。
以前天理の石上神宮に行ったときも、鶏がたくさん境内に放し飼いにされていたが、この外宮の鶏は姿も声も立派であった。
勾玉の形になった池をしばらく眺める。季節であれば水辺で菖蒲の花も見られたのであろうが、池は青々とした夏草に包まれて涼しげである。
一周してみようと思い、池を見ながら時計周りに歩き始める。稲荷神社の鳥居際まできたとき、長い蛇が道を横切っていたので、思わず悲鳴を上げて後ずさった。蛇のほうも声に驚いたらしく、大急ぎで草むらに隠れてしまった。もう引き返したくなって、しばらく迷っていたが、そのまま何の気配もないので、思い切って蛇のいた辺りを走り抜け、稲荷社の境内へと入って一息ついた。
稲荷社を出た後は、勾玉の縁の形に沿って岸辺の道を進み、出発点へと戻った。そこで鶏とまた出会い、再び長いときの声を聞いた。
外宮を出て月夜見宮に向かう。祭神は天照御大神の弟神、月夜見尊(つきよみのみこと)。外宮からは少し離れているが、住宅街の中にお宮はひっそりと静まっていた。昔はもっと境内は深い森になっていたのではないだろうか。区切られた一角にそれでも木々は固まって立ち、さわさわと枝が揺れる度、風が吹き降ろしてくるのだった。
内宮
バスで内宮に移動する。宇治橋を渡って(架け替え中であった)五十鈴川のほとりへ向かう。流れに手を浸していると、冷たくて実に心地よい。下流の方で、水に入って遊んでいる子供たちを見かけた。参道の玉砂利の道には一部散水してあって、そこをたどって歩くと暑さが少し和らいだ。
祭神は天照大御神。正宮に着いて参拝後、周囲の木立や拝殿の様子を眺めていた。子供の頃、親に連れられて初めて参拝したとき、お社が大きくて立派だと思い、普通の神社とは違うのだ、と感じたものだった。
外宮もそうだったが、拝殿脇には衛士の人が立っておられて、他の神社とは異なるものものしさである。暑い日差しだが、お参りの人波は次々押し寄せてきていて、中には半紙に包んだ紙幣や熨斗袋を、賽銭箱に入れる人もいた。
瑞垣は全部で四重になっていて、その一番奥に正殿があるという。ここは一番外側なので、垂らした布(門帳というのだろうか)に遮られて中はどうなっているのか見えない。以前斎宮博物館で見た社殿の模型を思い浮かべ、大体の様子を想像する。
社殿は、内削ぎの千木(ちぎ)、何本も並んだ太い鰹魚木(かつおぎ)、どれも堂々としたものである。周りの鉾杉の威容、檜の香りの清々しさ、それらが相まってここが神域の中心であることを感じさせる。立ち並ぶ椎や樫、楠の大木が連なる森は外宮と同様濃い緑に包まれている。
正宮参拝のあとは、古殿地を経て裏の荒祭宮へと回っていった。弥生の高床式の貯蔵庫のような建物を見ながら進んでいくと、石段に出る。降りていく途中に「踏まぬの石」という霊石があるので、うっかり踏んでしまわないよう気をつけていく。わかりやすいようにそこだけ囲ってあり、よく目立つように散水してあった。
荒祭宮は天照大御神の荒御魂を祀っている。詣でた後、しばらく石段に座って木々の梢を眺めていた。私はひと気の少ないこの谷が好きで、前回もここに来て同じように坐っていた。
やがて蝉の声が風の渡るように、どこからか湧いてくるように聞こえてきて、それは真夏によく鳴いている油蝉やくま蝉ではなく、春から夏にかけての蝉で、少々変わった鳴き方をするヒメハルゼミであった。羽が透き通った黒い小型の蝉というが、まだ目にしたことはない。見つけにくいのである。
地泣きのようにひとしきり集団で鳴いてはふっと止んでいく。鳴き方は比較的地味である。何かに呼応するようにまた鳴き始め、しばらく続いて気がつくと、また静寂に戻っている。寄せては返す波のようにそれが繰り返されていく。この蝉の声を聞いていると、心がちょっと不思議な感覚になってくる、そういう蝉なのであった。
耳を澄ませていると、頭上から小鳥の囀りも降ってくる。木陰なので涼しく、目の前の枝に可愛いジョウビタキが舞い降りてきて留まっているのや、また飛び立っていくのを喜んで観察していた。
風日祈宮(かぜひのみのみや)に向かう。橋を渡っていくのだが、ここの情景はとても美しく、内宮へ来てよかったと思うほどいつまでも心に残る。立ち止まって流れていく澄んだ川水を見つめていると時を忘れ、橋の上から周囲の木々の緑に染まった川面を飽かずに眺めていた。
風日祈宮は先に述べたように、元寇時に暴風を起こして国難を救ったという風の神が祀られている。ここは少し参道から離れているためか、とても静かであった。林の中にたたずんでいると、またどこからか波のような蝉の合唱が起きて、思わず木の幹に目を凝らし、その姿を捉えようとしていた。けれどもどこにも見ることができず、聞こえるのは蝉時雨のみで、やはり幻の蝉なのであった。
月讀宮
月讀宮へとバスで向かう。自信がなかったので運転手さんに尋ねると、バス停からの方向と入り口を親切に教えてくださった。着いてみると、思いがけずそこはきれいな深い森が開けていて、道をたどっていくとその奥にお社が四つ並んでいた。
月讀命は天照大神の弟神に当る。古事記によれば、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が死んだ妻、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国に訪ね、変わり果てた姿を見て恐れをなして逃げ帰り、黄泉比良坂に大岩を置いて道を塞ぎ、追いかけてきた伊弉冉尊とそこで絶縁の言葉をかわす。
その後、黄泉の穢れを祓うために海に入って禊をするが、左目を洗ったときに天照大神、右の目を洗ったときに月讀尊(つきよみのみこと)鼻を洗ったときに素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれている。それぞれ太陽、月、暴風の神とされる。
月讀宮はいかにも清浄空間という感じであった。白く切り取られたような空間であるが、辺りは社にふさわしい緑と冷気に満ちていて、気持ちのよい場所であった。
四社とは、月讀宮とその荒御魂、伊弉諾尊、伊弉冉尊、両神を祀るお社であった。さきほど訪れた内宮のものものしさ、壮大さ、厳粛さとも異なり、ここには日本の神を祀る、社や祠の原型のようなものが感じられた。内宮の建物はどれをとってみても壮麗で立派であるが、そのお宮も倭姫命が伊勢に来て最初に天照大神を祀ったときには、たとえばこの社のように簡素で素朴なものだったかと想像する。
もともと神のお社は大きな岩や、背の高い樹木に神が降臨、その存在を感得するところから始まっていったとされる。石や木だけではなく、すべての自然の中にそれぞれの神が存在していることを感じ取り、それを信じることが基になっている・・・・とそういうことをいろいろ想起させてくれるような月讀宮であった。
倭姫宮
倭姫宮に回った。伊勢神宮の歴史は古く、垂仁天皇のとき、皇女倭姫命によって、天照大神を祀る社が五十鈴川のほとりに建てられたという。古事記には、
・・・・倭比売(やまとひめ)の命(みこと)は、伊勢の大神の宮を拝(いつ)き祭りたまひき。
と短く記述されているだけだが、書紀の垂仁天皇の項を見ると、
・・・・天皇、倭姫命を以て御杖(みつえ)として天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ。
とあってもう少し詳しく載っている。少し引用してみよう。
・・・・天照大神を豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)より離ちまつりて、倭姫命に託(つ)けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐(ま)させむ処を求めて菟田の笹幡に詣(いた)る。更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻(めぐ)りて、伊勢の国に到る。ときに天照大神、倭姫命に教えてのたまはく、「是の神風の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ。
大神の教えのまにまに、その祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上(かわのほとり)に興(た)つ。是を磯宮と謂(い)ふ。 (日本書紀)
中世の神道書「倭姫命世記」になるとさらに記述は詳細である。
・・・・倭姫命、天照大神を戴き奉りて行幸(みゆき)す。(相殿神は天児屋命、太玉命・・豊石窓、櫛石窓命・・・・相副ひて仕え奉る)
宇多秋の宮に遷りたまひ、四箇年の間を積(へ)て斎き奉る。時に倭の国造(くにのみやつこ)、釆女(うねめ)香戸比売(かとひめ)と地口御田とを進(たてまつ)る。
伊賀国に遷幸し、市守の宮に隠れ、二年斎き奉る。・・・・
同国の穴穂の宮に遷りたまひ、四年を積て斎き奉る。伊賀の国造、みふじ山葛山の戸、並びに地口御田、あゆ取る淵など進(たてまつ)る。・・・・
淡海(あふみ)の甲可(かふか)の国の日雲の宮に遷りたまひ、四年斎き奉る。時に淡海の国造、地口御田を進る。・・・・
(倭姫命世記)
伊勢に到るまで、地口御田、あるいは釆女、神祭りの土器、神田、神戸、あるいは船などさまざまな富の献上を受け取って領有し、各地の地名、人名、物品の列挙がなされつつ、倭姫の旅は延々と続いていくのである。
この倭姫宮は比較的新しいお宮だそうである。垂仁天皇の皇女倭姫は、すぐれた霊能者でもあったのだろう。天照大神の祀り手として、神鏡を携え大和を出て各地を巡り長い旅を続けたという。巡った地は大和の宇多から近江、美濃、伊勢と多いのだが、それらの地ではそれぞれの国造、つまり首長によって地口御田の寄進などがなされている。
その地において天照大御神を祀るということは、それまで信奉されていた土地神が後退したという意味であろうか。鎮座は新旧の神の交替であったかもしれない。いつも平和的に事が運ぶとは限らず、時には反発も起きただろうから、戦も予測していただろう。大和から倭姫とともに赴いていたのは精鋭の軍隊であったかもしれない。
土地の首長による地口御田などの献上は、大和への帰順を意味するとされ、初期大和政権がその勢力を拡大していったことを反映する記述とも読めるという。土地神もまた征服され、大和から新しく来た神にその座を明け渡していったのだろうか。
この資料を読み進むと、行く先々で土地の首長による地口御田、物品の献上が繰り返され、首長側の女性も差し出されていく。「汝が国の名は何ぞ」という問いに、首長が国の名を答え、神田、神戸を捧げる。あるいは神社を定め、姉妹や娘と思われる女性などを差し出していく。土地や人名がくどいほどに列挙されているのは、帰服の証、国や人の名を相手に明かすのは、そこにこもる魂を、告げた相手に渡す行為とみなされているためでもあり、服属儀礼の形になっているとされる。
倭姫命は高位の巫女という立場だったのであろうか。何はともあれ、倭姫の一行は軍事的な意味合いを持つと思われる長い旅の末に、苦労して伊勢に入り、五十鈴川のほとりで最初に大神を祀る地を定めた。神祭りの場は、どこでもその地における最高の聖地であろうから、伊勢の五十鈴川のほとりは、当時においても最も霊性の高い地だったということになる。倭姫命は伊勢神宮の創設者ということで、顕彰のため近年になって宮が建てられたのだという。
山麓の静かな地に倭姫宮はあった。倭姫命は倭建命(やまとたけるのみこと)のおばにあたる。記によると、倭姫は熊襲征伐に向かう甥に、自らの衣を与えた。機会を待ちその衣装をつけて新室宴の席に紛れ込んだ倭建命は、隙を見て熊襲の兄弟を倒すことに成功した。またその後、倭姫は、天皇の命によって東国に向かう甥を励まして剣と袋を与え、それは野で焼き討ちに遭った折に、倭建命の命を救うのである。
倭姫命の墓所は、もう少し山の中に入った前方後円墳であるという。皇女豊鋤入姫(倭姫の伯母)が大和で長くしていた祭祀を引き継いだ倭姫は、大和を出て各地を巡り、帰郷することなく伊勢で祭祀を続け、年老いてこの地で亡くなったのだろうか。
たたずんでいると、色んなことが想起された。倭姫が担わなければならなかった重責やそれに伴う孤独感、肉親への思い、望郷の念、そういう諸々の感情であった。
景行天皇の御代に、天照大神の祭祀は倭姫から五百野(いおの)皇女に代わり、その後も未婚の皇女、皇妹、天皇ゆかりの女性たちが次々に伊勢に送られてくるようになる。必ずしも天皇の代替わりの折という訳でもなかったようだが、天武天皇の御代に、壬申の乱の戦勝祈願のお礼として大伯皇女が派遣されてきて、その頃から斎宮制度が確立していったのだとされる。
現在斎宮趾と呼ばれている場所は(伊勢市の郊外の多気郡)斎宮の住居のあったところといわれており、現在も発掘が続けられているそうだが、初期のころはどうだったのだろうか。多気郡は、伊勢神宮からは十キロ以上離れている。
斎宮博物館で見た史料によれば、斎宮は普段は多気郡に住んでいて、世間と隔絶して潔斎の日々を送り、伊勢神宮へ直接出向いての神事奉仕は、六月、九月、十二月の年三度ほどであったという。神宮では大物忌(おおものいみ)と呼ばれる別の童女が大神に奉仕していた、ということであった。
伝説的な初期の頃の皇女も含めると、鎌倉時代で途絶えるまで七十人を超える斎宮が選ばれ、伊勢に来て大神に仕えたそうである。それぞれの時代の歴代齊宮の人生を思うとき、まず浮かぶのは、さまざまな事情のもと、都を離れて伊勢に下り、運命を変えられていく高貴な若い女性たちの姿であった。
徴古館
倭姫宮を出て、よく手入れされた庭園の道を進み、神宮の宝物を収めた徴古館へと向かう。ベルサイユ宮殿を模したという重厚な感じのする建物であった。その入り口一階に巨大な倭姫像があってぎょっとした。まるで荒野を行く弘法大師のように、杖と笠を手に、弥生時代の旅装束で遠くを見つめて立っている。男が持つような頑丈そうな杖、筒袖の上衣、足には足結、たくましさや強さが特に強調されている造形であった。
私は倭姫をこれほど大柄で太い体型の人とは思わなかったので戸惑ったが、作者は高名な彫刻家、板倉白龍ということであった。
一階から順に見て回る。古い時代から配置してあって、同じ板倉白龍による豊鋤入姫像もあった(大変な老女に造形されている)。その他数々の山海の珍味を集めた神饌類や古代の八足台(神饌を供える台)などがあり、興味深かった。自然のままの木の枝を結び合わせた台で、「しもと案」というものがあり、それは椎の木の小枝をそろえて藤蔓で結び合わせてあった。
先ほど訪れた神宮の模型もあって、見られなかった奥の拝殿の配置や構造についても確認することができた。鰹魚木の実物の一部も置いてあり、近づくとその大きさには驚かされた。その他土器や鏡、武具、きぬがさや翳(さしば)の実物展示、古文書、衣装類、布、機織機など美しく精巧な工芸品の数々にも目を奪われていった。
あれこれ見て回るうちに時代が新しくなるほど、興味が薄れていく。やはり古代が好きなのだと思い、何度か後戻りして関心のある古代の展示品ケースに見入っていた。
二見浦
二見浦に循環バスで移動する。小学校の修学旅行で来た記憶がある。夏だったので、遠浅の海で泳ぎ(海はとても濁っていた)、集合写真は夫婦岩を背景にして撮った。その後も伊勢にお詣りに来たときには、たいていここに立ち寄っているので、寒風に吹き付けられて寒そうにしている家族写真などがアルバムに残っている。
二見浦といえば、夫婦岩であるが、来るたびに歩道の感じが変わっていて、どうしても昔見たときの印象に引きずられるので、今のように観光客向けの歩きやすい広い道がつけられてしまったのは少々残念であった。こんなに夫婦岩が近かっただろうかと思ってしまうのである。
二見興玉(ふたみおきたま)神社に参拝する。祭神は猿田彦命。天孫の一行を道案内したという神である。今回は寄らなかったが、内宮の近くに猿田彦神社がある。天孫降臨時に、境界の道に立って行く手を遮った猿田彦命に対し、一人進み出て、向かい合って名を問い、名乗りをさせ、後に妻となった天宇受売命(あめのうずめのみこと)とともに祀られている。猿田彦命は全国の神社で祀られているが、謎めいた神である。このいきさつについて考え出すと、疑問が次々と沸き起こるので、深入りはせず、今回はその死についてのみ記しておく。古事記にはこう記述されている。
・・・・猨(さる)田彦の神、阿耶訶(あざか)に坐ししときに、漁りして、比良夫貝にその手を咋(く)ひ合わさえて海塩(うしお)に沈み溺れたまひき。かれその底に沈み居たまふ時の名を底どく御魂(みたま)といひ、その海水のつぶ立つ時の名をつぶ立つ御魂といふ。(古事記)
簡潔に書いてあるだけに、何か恐いものも感じられる。妻となった天宇受売命については、猿田彦命との出会いの場面、その後の経緯も少々不可解な記述と感じられる所もあり、そういう観点からみていくと、猿田彦の側にも何か記述されなかった事情がありそうな気がする。このことについてはいつかまた考えてみたいと思う。(日向 くしふる神社 荒立宮の項、出雲 佐太神社、伊勢 椿大神社の項でも書いている)
伊勢は謎めいていると改めて思った。表層をめくれば古代は実に多くの謎を秘めているが、内宮と外宮の神についてさえ、実はその性別がはっきりしないという。神様の性別を詮索するのも申し訳ないと思うが、内宮外宮と二社並立していれば、普通はどちらかが男神でもう一方が女神と思われがちだが、伊勢に関しては違うようである。
天照大神は女神とされているが、女神であるのなら、外宮の神(食物の女神)を呼ぶのはおかしいという意見、また女性の大神に皇女、皇姉妹が仕えるのは違和感があると考える学者もあり、それゆえ内宮の神は男神という説、また神はもともと性を超越する存在なのだから男女の別を言うのは無意味という意見など、伊勢の神の性格についてはさまざまの論議があるという。
例えば、上田正昭氏の「日本神話」によれば、天照大神はその元の名は「おおひるめのむち」というそうで、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)に仕える巫女であったという。長い年月の間に祀るものと祀られるものが合一し、つまり仕えた巫女が昇格して天照大神と崇められるようになったと考えるそうだ。古代においてはそういう例は他にもみられるという・・・・。
伊勢は他にも訪れたいところがあったが、また別の機会にすることにして、宇治山田で早めの夕食として名物の「手こね寿司」(手桶に入っていた)を頂くことにした。しょうゆ漬けのマグロが乗っている。伊勢名物は他に「伊勢うどん」があるが、前回来たとき、おかげ横丁で伊勢うどんを試したところ、真っ黒いどろりとしたしょうゆをかけただけの太うどんが出てきて、食べにくく当惑した。私は大阪の薄い甘いおだしのきつねうどんで育っているので、ああいうタイプのうどんには馴染めなかったのだ。でもこの「手こねずし」のほうは、すし飯には青じそが刻んで入れてあって、さっぱりとした味で納得した。お土産に定番の「赤福もち」を買い求め、帰途につく。
宇治山田駅は、窓が古代の鏡を思わせる形になっており、構内も天井が高く雰囲気があって、好もしい雰囲気の駅である。難波行きの近鉄特急に乗って窓外を眺めていると、ほどなく斎宮駅が近づいてきた。以前斎宮の森でたたずんだ時、戸外はさんさんと明るい日差しが照りつけているのに、そこだけはしんと薄暗く、何ともいえない寂寥感が漂っているように感じられて、侘しい気持ちになったのを思い出した。
夕闇近い斎宮趾は広がった野の風景の中にある。位置をよく確かめようと目を凝らしているうちにも、景色は流れ去っていく。一瞬黒ずんだ斎宮の森の辺りをとらえて見つめていた。そしてその森の情景らしいものの残像を心に残したまま、列車はみるみる伊勢から遠ざかっていくのだった。