一生田の森を巡って一
生田神社 裔神八社巡り 布引の滝
一生田の森を巡って一
生田神社 裔神八社巡り 布引の滝
生田裔神 八宮神社 六宮神社
湊川神社の近くに用があり、神戸市内に出かけて行った。
地下鉄大倉山駅の近くを歩いていると、偶然八宮神社というお社の前に出た。これは生田神社の裔神八社の一つで、一宮から八宮まである。母神に当たる生田神社を、子神の八社が緩く囲む形になっている。
時間があったのでお社に立ち寄ってみた。八宮神社には、六宮神社を合祀してあった。二つのお宮は、もとはこの近くの別々の場所にあったというが、そこに公共の建物が造られることになったので、この地に移され合祀されたものらしい。
お社はなるべく動かさないのがいいのだろうが、創祀されてから時代を経ていくうちには、戦乱や災害、また行政上の事情により、遷座や合祀、移転が行われることも避けられないのであろう。
六宮神社の祭神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)。八宮神社の祭神は熊野杼樟日命(くまのくすひのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)。
小さなお社でひっそりしている。車が行きかう大通りに面しているのだが、境内にはひと気もなく、木漏れ日だけがちらちら揺れて地面に縞模様を作っている。都会の中の忘れられたような静空間であった。
用事が早く終わったので、その後近くの湊川神社を訪れて境内を散策した。ここは楠木正成を祀る神社で、正成はここで足利尊氏と戦って戦死したのだ。その名に因むのか楠が多く植えられていて、楠の神社という雰囲気であった。
以前のことになるが、大阪府島本町水無瀬のあたりをサイクリングしていたとき、正成、正行父子別れの地、桜井駅跡の表示を見かけて、立ち寄ったことがあった。小公園になっていて、そこも楠が多く、それ以外の木は少なかったのを覚えている。「青葉茂れる桜井の・・・・」という歌で知られる地であり、親の世代は全部歌えるのだろうが、私は出だしの部分しか知らない。
緑の濃い湊川神社の境内を歩いていると、子供のころ、家族で親戚の家を訪ねるときに、何度かここに寄ったことがあるのを思い出した。
正面鳥居前には瓦せんべいの菊水という店があった。昔その店先には生け花や、盆景といって、黒塗りのお盆の上に砂できれいに風景をかたどったものが展示してあり、特大瓦せんべいも飾られ、子供心に珍しいと思ってしげしげ眺めたものである。
そんなことを思い出しながら菊水の看板を眺めていた。今はモダンに建てかえられ雰囲気も変わったが、昔と同じ位置にある。
三宮神社
元町のほうに向って歩き出す。右手にハーバーランド、メリケンパークの表示が見えてくるが、今日は寄らず、まっすぐに進んでいく。
やがて中華街が近づいてきたので、左の道に入って中華街の中を抜けていった。休日は大混雑だと思うが、今日は人が少なく、呼び込みの声も活気がない。豚まんの湯気、シュウマイや焼き豚の匂いが漂う通りを歩いていく。
大丸デパート前に出た。三宮までどの道を通ろうかと迷ったが、旧居留地の道を進むことにして、少しいくと、三宮神社があった。だいたいこの辺りとは思っていたが、大丸の北の角にあったのだ。早速訪ねてみる。
三宮神社は八宮神社と同じくらいの大きさであった。三宮の地名はこの神社に由来する。祭神は湍津姫命(たぎつひめのみこと)。他には神戸事件発生地の石碑があった。備前藩の行列を横切ろうとした外国兵と、それを制止しようとした藩士が衝突したという事件である。
見回すと境内には河原霊社もあった。これは源平一ノ谷合戦の折に、生田の森で、真っ先に切り込んで討ち死にした源氏の河原太郎・次郎兄弟を祀った社である。前述した瓦せんべいは、この河原兄弟の名に因んで作られたという説があり、ゆかりの社を見てちょっと感慨深いものがあった。
再び歩き始める。そのまま旧居留地の道を進んでいくと生田筋が見えてきた。そこを上がれば生田神社だが、歩き詰めで疲れてきたので、少々迷う。
コンビニで抹茶アイスを買い、鳥居下でアイスを食べてしばらく休憩する。元気が出たところで、生田さんに向かうことにした。
生田神社
生田神社は背後に森が少し残っている。昔は鬱蒼とした森が広がっていたという。枕草子にも「杜は布留(ふる)の杜、生田の杜」とあるそうだし、この辺りはきっと深くきれいな森だったのだろう。でも今は繁華街が近くにあり、ぎりぎりまで住宅やビル、店舗が迫ってきていて、神社は敷地を削り取られてしまった感がある。
阪神大震災のとき、ここの拝殿が倒れ、屋根が地面に羽を広げたように着地した姿が大きく報道されたのを記憶している。
でも再建は早くて、今回来てみると、従来の木造ではなく、鉄骨の丈夫な装いで耐震設計、近代的な朱塗りのきれいな神社として蘇り、賑わっていた。ここまで頑丈にしておけば、もう倒壊の心配はないという訳だろう。建物に強固なものが感じられる分、以前の木造の社の柔らかい雰囲気は失われてしまっている。
三宮に近いので、いつでも人の流れは多い。境内には若い人たちや外国人観光客の姿も目立ち、活気のある神社である。
生田神社は、昭和十三年の阪神大水害で、社殿や森が被害を受け、また昭和二十年の神戸空襲でも火災に遭ったというが、水、火、地震、どんな災害に見舞われても、その都度いつも早々と立ち直り、その復興ぶりには目ざましいものがあるので、今では「蘇りの神」として信仰を集めているとか。何しろその名も生田、死んで再生する神、倒れても必ず復活する神なのであろう。
創建は古く、神功皇后が三韓外征の帰途、船が進まなくなったとき、神託を受けて、稚日女尊(わかひるめのみこと)を山に祀ったことに由来するという。その折、神功皇后はゆかりの裔神八社を順拝したと伝えられている。
稚日女尊とは、伊勢神宮に祀られている天照大神の幼名であるという。古事記や日本書紀の記述によると、姉の天照大神とその弟素戔嗚尊の間で、弟が邪心のないことを示そうとして、姉弟で誓約(うけい)を行った。
天照大神は太陽を象徴する神で、素戔嗚尊は風を司る神である。その際、互いの身に着けている剣と玉を交換することによって、五男神、三女神の計八神が、次々と産み出されていったという。その神々が裔神八社として、生田神社を取り巻くように祀られているのだという。
生田の神は当初は布引の滝の近くの砂(いさご)山に祀られたというが、平安時代、洪水時に神体が山から麓に移されて、この地に社を建てて祀ったのが生田神社の起源とされる。生田の神に供える、神酒や米を作るための田が、朝廷から与えられたことが、神戸の地名の由来になったことはよく知られているだろう。
境内には、弁慶が代理参詣したことにちなむ「弁慶の竹」、平敦盛の遺児が父を偲んだという「敦盛の萩」、源平合戦の折、梶原源太景季が梅を折って箙(えびら)に挿して戦ったという故事にちなむ「箙の梅」などの伝承にまつわる史跡がある。この地でかつて戦があったことを、それらの人名は想起させる。
社の裏にある生田の森に回ってみた。古にあったと思われる深い広大な森は失われてしまっているようである。でも残されている森の中の小径を散策し、古木を見上げて往時を偲ぶことができる。大楠が左右に枝を差し広げている。
楠は多いようだが、ここには松の木が一本もない。伝承によれば、松の多い砂山にかつて生田の神は鎮座していたのだが、松は少しも役に立たず、洪水で山は崩れてしまったので、神の怒りを買い、境内には松は植えないしきたりなのだそうだ。ここでは神を憚って正月の松飾り、門松にも松でなく、杉が用いられるそうだ。
生田の森とはいっても、すぐ向こうにはもう背後の建物が透けて見えている。夕暮れが近づき、帰り支度をしつつ見ると、ぽつぽつと点り始めた町のネオンの灯が社殿に映えている。神戸屈指の繁華街の中に、何の違和感もなく森とともに溶け込んで立ち続ける神社であった。
布引の滝
別の日、銀行に用があり、三宮まで出かけていった。三十度近い蒸し暑い日であったが、用事を済ませたあと、北の方向にある布引の滝に向かうことにした。気候のよいときであれば、布引まで歩いていくのだが、今日は地下鉄を利用して新神戸駅に向かうことにする。
駅で見ていると、滝見物よりも布引ハーブ園を目指して行く人が多いようで、降りた乗客は三々五々、ロープウェイ乗り場のほうに急いでいく。ハーブ園の珍しい草花を見に行かれるのであろう。
駅の人に訊き、滝へ行く登山道を見つけて登り始める。生田川の渓流に沿う心地よい新緑の道である。軽やかなせせらぎの音を聞くうちに、赤いレンガ造りの古く美しい砂子(いさご)橋を渡る。布引の滝を詠んだ古人の和歌を刻んだ碑がところどころにあって、それを眺めながら山道をいく。
ほどなく雌滝に着いた。昨夜来の雨のせいか、水量は多い。滝の前にいると、心の中で何かが洗い流されていくような、すがすがしい気持ちになってくる。落差十九メートルの滝をしばらく見つめていた。
布引の滝は、華厳の滝、那智の滝とともに日本三大神滝の一つであるという。滝が神体だとみなされているということなのだろう。
さらに山道を上がっていく。鼓滝、夫婦滝の表示があるが、傾斜がきつい上、木々が生い茂っていて、滝を遊歩道からみることはできない。轟く水音だけを耳にしながら十分ぐらいかけて登っていくと、視界が開け、忽然と雄滝が現れた。小橋を渡り滝の近くまで寄っていく。
落差四十三メートル、迫力ある音がごうごうと周囲に鳴り響いている。五段になって白く泡立ちながら流れ落ちる水の形が実にきれいである。見とれていた。滝つぼも深そうである。丸くえぐられて青い水を湛え、水際には小さな虹が立っていた。
風向きの加減で、飛沫が顔にかかってくる。霧を浴びているようで涼しい。冷気に包まれていると、時間を忘れた。古代もきっとこれと同じだったことだろう。古に流れていた時を思う。
ここには古来多くの人が訪れて、滝を詠んだ歌を残している。谷川に沿って山道を登り、景勝地の情景の中を歩いて、順に滝を拝していったのだと思われる。紀貫之も在原業平も藤原定家も藤原俊成も、流れ落ちる滝を間近に見て、心のうちに神を感じたことだろう。滝の近くには、日常とは違うまるで別の時空が流れているようだ。それを霊気というのだろうか。
山道には流麗な字で刻まれたたくさんの歌碑が建てられているが、その中から三首ほど挙げてみよう。
松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ 紀貫之
ぬき乱る人こそあるらし白玉の まなくも散るか袖の狭きに 在原業平
たち縫はぬ衣着し人もなきものを なに山姫の布晒すらむ 伊勢
布引の滝は、山姫が手に飾った玉を揺らしながら織り上げたと古くから言い伝えられている。滝が白く見えるのは、山姫の着る衣が水に晒されているからだとも。岩を流れ落ちる滝水を、古人は飛び散る真珠の玉や、優美な白い衣に見立てたのだろう。布引の滝は、雄滝、雌滝、鼓滝、夫婦滝これらの四つの滝を指すそうだ。
下りは同じ道を引き返す。豊かな自然の感じられる山道を歩いていると、ここが都会であることを忘れそうだ。滝の東側には砂山という独立峰があり、古代にはそこに、生田の神が祭られていたという。弥生時代の遺跡などもあるということだが、現在砂山は個人の所有地なので、勝手に入ることはできないそうだ。
山を降りて振り返り、名残惜しい気持ちで布引の緑の山に別れを告げる。
山麓に目を転じると、新幹線駅に高層ホテルや商業ビル、現代の光景がすぐ山際まで押し寄せている。つい五分前まで、山道で古代を感じて遥かな思いに浸っていたというのに。早くも二十一世紀の現実に引き戻されていく。
一宮神社 二宮神社
帰りは三宮まで歩くことにした。途中加納町の交差点で立ち止まって周囲を見回す。旧生田川は、布引渓谷から、阪急、JR線を越え、現在のフラワーロードの辺りを下って海に注いでいたという。そうするとたぶんこの辺りをうねりながら流れていったのだろう。度重なる氾濫に手を焼いて、現在のように西寄りに下る流路に付け替えたのは、明治の初めの頃だそうだ。
街角の地図を見て、一宮神社と二宮神社がこの近辺にあることを知り、寄ってみることにする。まず一宮神社を目指すが、どこかで道を取り違えたらしく、さんざんに探し回った。一時は北野異人館のほうまで行きかける。慌てて引き返し、やっと見つけたお社は折悪しく修復中で、青いシートが掛かっていた。祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)。住宅街の中の傾斜地にあって、こぢんまりとした構えである。
再び加納町の交差点に戻り、今度は葺合区のほうに向って歩き始め、二宮神社を探した。今度は見当がついていたのと、大きな表示板のおかげですぐに見つかった。
祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と応神天皇。かつて布引の砂山に生田の神が祀られていたことは前述したが、平安時代、洪水時に神主の刀禰七太夫という人が神体を背負い、山から降ろして避難させ、一時自分の家に置いて祀ったのだという。そのとき神体を安置したというゆかりの石も置いてあり、風格のある楠の神木も境内にあった。住宅地と商店街の中に挟まれ、軒を接している。地域に息づいているお社であった。
余談になるが北沢正邦著「日本人の神話思考」(講談社現代新書)という本がある。それによると、天の河の誓約(うけひ)の場面、天照大神と素戔嗚尊の持ち物交換によって三女神、五男神が生まれるのは、これは星の神話ではないだろうかという説を述べて、日本神話と星との関連を指摘しておられて大層興味深い。
日本には、星の名としては、唐鋤(からすき、三つ神さま、オリオンの三星)と昴( すばる、肉眼では五ないし六個の星がみえる、プレヤデス星団)が残っているそうで、三女神を唐鋤に、五男神を昴に見立てて、色々考察しておられる。
昴やオリオンは冬に美しい星座である。私は空の雲や星を眺めるのが好きなほうであるので、何年か前の冬に、初めて氏のこの本を読んだとき、早速外に出て夜空を観察した。清澄な冷たい天空に星がきらめいていて、昴とオリオンはすぐに見つかる。
太陽の神、天照大神と、風の神の素戔嗚尊、交換するものは剣と玉。ともにきらきらと輝く性質を持っている。そしてそれらの持ち物が、神の息吹となって天空に吹き出され、星々が生まれていく。古代人はなんと雄大な空想力を持っていたのであろう。そのような視点で、星の神話として記紀を読み解く方法があるということが、新鮮だった。氏の説にすっかり魅了されてしまったので、ちょうどそのとき書いていた古代小説の中に、その一場面を引用し、取り込んでしまったくらいである。
その冬、何度マフラーを巻き、星を眺めに外へ出たことだろう。冷え込みがきつい冬であったが、星を見るたび心が満たされていくのだった。
北沢氏の説によれば、三女神をオリオン三星に比定しておられる。ついでにいうとオリオン三星は住吉大社に祀られている上筒、中筒、底筒の男三神を表わしているという説もあり、このことについては、また別の機会に考えてみたい。
話を元へ戻し、最後に古事記から、姉天照大神と弟、須佐之男命の誓約の場面を引用して、この項を終わることにする。
・・・・「然(しか)らば汝(みまし)の心の清明(あか)きはいかにして知らむ」とのりたまひしかば、速須佐の男の命答へたまはく「おのもおのも誓(うけ)ひて子生まむ」とまをしたまひき。
天の安の河を中に置きて誓(うけ)ふ時に、天照らす大御神まず建速須佐の男の命の佩かせる十拳(とつか)の剣を乞い渡して、三段(みさだ)に打ち折りて、ぬなとももゆらに天の真名井に振りすすぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹(いぶき)の狭霧に成りませる神の御名は多紀理毗売(たきりびめ)の命・・・・。
速須佐の男の命、天照らす大御神の左の御髷(みみづら)に纏(ま)かせる八尺(やさか)の勾玉の五百津(いおつ)の珠を乞い渡して、ぬなとももゆらに、天の真名井に振りすすぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝速日(まさかあかつはやひ)天(あめ)の忍穂耳(おしほみみ)の命・・・・略・・・・天の菩卑(ほひ)の命・・・・天津日子根(あまつひこね)の命・・・・活津日子根(いくつひこね)の命・・・・熊野久須毗(くまのくすび)の命・・・・。 (古事記より)
四宮神社
免許証更新の折に、四宮神社に立ち寄った。県庁前の広い道路に面していて、石段を上がったところにお社がある。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。この界隈には所用で何度か来ているのに、四宮神社のことは今まで気づかずにいた。申し訳ないことと思い、改めて詣でた。お社は両側からビルの建物に押されるような形であるが、小さな赤い鳥居は幹線道路から見上げると存在感があり、丹塗りのお宮もきれいであった。
五宮神社
五宮町のバス停で降り、山の方に上がってゆく。細い道が続き、急な坂を数分上るとお社があった。見晴らしの良い位置にある。祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)。出雲から勧請された神様とのことである。しばらく境内にいたが、誰にも会わない。社務所も無人、ひっそりとしていた。かつては賑わっていたのであろうか。
それにしても神戸市内には裔神八社に因む地名が多いことに気づく。三宮は有名だが二宮町もあるし、ここ五宮町も。
バス停に戻り、せっかくなので西へ進んで、平野交差点の先にある清盛ゆかりの雪見御所跡を歩いてみた。港山小学校の敷地から土器などが発掘されたそうだ。遺跡といっても何もなく、今はそこは小学校の校舎と校庭になっている。付近も住宅が立ち並び、道路で分断されているが、この辺りに清盛の邸宅、庭園などがあったらしい。それは清盛の別荘であったとも。現代の風景の中に、往時の様子を偲びながら付近を散策、石井橋にたたずんで流れを見つめ、緩く連なる六甲山系の緑の山並みを眺めた。
裔神八社の残りの一社、七宮神社は少し遠いので未見である。七宮の社の祭神はこれまでの経緯から推すと、五男神のうちの活津彦根命(いくつひこねのみこと)かと思われるが、そうではなくて、大己貴尊(おおなむちのみこと)という。五男三女神とは別系統の国津神とされている。いつか機会があれば訪ねてみたいと思う。