磐 余 の 池
磐 余 の 池
先日、大和の磐余の池跡と伝えられている二箇所の地を巡ってきた。磐余の池は、大津皇子が辞世の歌と漢詩を詠んだとされる地で、現在はそういう名の池はなく、幻の池となっている。
大津皇子は天武帝の皇子で、二歳上の姉に大伯皇女がいた。母は天智帝の娘の大田皇女だが、早く亡くなっている。
686年9月9日、天武帝が死去すると、10月2日に謀反が発覚して皇子は捕えられ、その翌日には訳語田舎(おさだのいえ)で死を賜った。二十四歳であった。大津の妃、山辺皇女は夫の死を知ると、裸足で家を走り出て殉死した、と日本書紀は伝えている。
実際に謀反があったかどうかはわからず、天武の后である鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が、我が子草壁皇子の即位を確実にするために、人望が厚く文武にも優れていた大津皇子に無実の罪を着せ、排除した、とみる説が有力である。
磐余の池は、飛鳥から訳語田への途中にあったという。桜井市の吉備池は、推定地の一つである。行ってみると、池は折悪しく水抜き作業中であった。灌漑池で底には厚く泥が積もり、その中で取り残された魚がもがいている。池は自然の様相とは異なっていて、伝承の磐余の池とは言いがたいものがあった。
大津皇子と大伯皇女の歌碑が立つ堤の上からは、遠く二上山が望まれた。二つの頂を持つ二上山は、大和のどこから見ても、その稜線が印象的である。池の横の春日神社の境内で、皇子の漢詩「臨終」が刻まれた石碑を見て、そこを後にした。
次に、もう一つの推定地である、橿原市東池尻町の御厨子(みずし)神社に行ってみた。参道口の木の下にある、大津皇子の歌碑の前に佇んでみる。
百伝(ももづた)ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日(けふ)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ
案内板には、碑の東側に磐余の池があったと説明されていた。その辺りは田んぼで、竹薮や低い丘が折り重なって続く、のどかな田園風景が広がっている。どことなく寂寥感が感じられる場所であった。古代には本当にここに池があったのかもしれないと思わせるような雰囲気が漂っている。上述の歌を口ずさんでみる。
木立の背後に静かに水を湛え、鴨が水面を泳ぎ、鷺が水辺で餌をついばみ、岸に青い芦が生い茂る古の磐余の池が、蜃気楼のように浮かんで、消えていった・・・・。
(2006.6.7)