一東海道の古社一
砥鹿神社(三河一宮) 豊川稲荷
一東海道の古社一
砥鹿神社(三河一宮) 豊川稲荷
JR豊橋駅から飯田線に乗って三河一宮駅で降り、数分歩くと砥鹿(とが)神社里宮の杜が見えてきた。信号を渡って大きな石鳥居をくぐり、参道を進んでゆく。境内の樹木は緑が濃く感じられ風も爽やかである。横から入ったことに気づき、改めて正面表門から入り直すことに。境内は砂利が敷き詰められ広々としており、社殿は戦後に再建されたもので古色はないけれども、堅固で質実な印象を受ける。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。国土開拓神である。由緒によると、里宮鎮座の伝承は次の通りであった。
文武天皇の御代、天皇の病を治すため、草鹿砥公宣(くさかどきみのぶ)卿が勅使として煙厳山に遣わされた。卿は三河山中で道に迷うが、出現した老翁の導きで無事に祈願をはたし、天皇の病も平癒された。天皇はこの翁に返礼するため再び勅使を遣わし、卿は山中に入って翁と会い、その望みによって山麓に宮居を定めることとなった。翁は衣の袖を抜き取り、宝川の流れにこれを投じた。卿は袖を追って川を下り、袖が止まった岸辺に神を祀ったのが、当社の起源であるという。
水占で宮居が定まったというのである。ここの神紋を見ると、占いに因んでか、亀甲の中の卜の字に一画足したかたちになっている。これは亀卜の際、甲羅に刻みつける占いの記号であるという。珍しい神紋かと思う。
川の上流からものを流して占いをする、ということが古代では行われたようである。流れ着いてとどまった所が神意にかなう地、ということであろうか。洪水で社が流されて神体が下流の岸辺などに留まると、そこに神意をみて、新たにその地で社を建てお祀りすることもあったようである。砥鹿神社の場合、翁が袖を流して、宮にふさわしい地を決めたのであろう。
ちなみに古ではこういう占いのことを「水縄延え」(みなわはえ)というそうである(「呪の思想」梅原猛・白川静著 平凡社より)。川に縄を流して、流れかたや、どこへ寄り着くかによって吉凶を判断、また神意をうかがったらしい。古代中国では「束薪」といって、柴を川に流す水占があったということである。
本殿の左にはえびす社があった。ここには二宮と三宮があり、一宮の神社の境内に三宮まで揃っているのはあまり例をみないと思う。二宮には事代主命、三宮には建御名方命が祀られていた。これら二柱の神は大己貴命の御子神たちである。そしてさらに左手には奥宮遥拝所が設けられていた。
砥鹿神社の祭神は、太古の昔に本宮山(標高七八九メートル)に降臨、約千三百年前に里宮に遷座されたとのことである。本宮山には奧宮があるという。遥拝所にたたずんでみるが、山は見えなかった。
なお川村二郎氏の「日本廻国記一宮巡歴」(講談社文芸文庫)によると、当社の鎮座伝承は、遠江一宮小国神社のそれと奇妙なほど酷似しているということである。両社はともに、古に背後の本宮山(神奈備の山)に神が降臨、その後都から勅使が遣わされて山麓に神を遷し、里宮で祭祀されるようになったという伝承を持っているそうだ。祭神の名も同じなら山の名も同じということである。氏は律令制が始動してからの政治の中央集権志向が、土地土地の神の画一化を推し進めた、とみておられる。
たしかに不思議な一致ではあるが、このことは、古に未開の国土が順次開拓されてゆく過程の中で、人々が移動し、その奉じる神もまた遷っていって伝承が投影され、定着していった、という風に考えてもよいのであろうか。
境内には楠の古木が目立った。どれも老木で立派な木である。御神木の大ケヤキは、表神門の右手の坂を下った所にあるという。いったん門を出て歩いてゆくと、二俣に分かれたみごとな大ケヤキが、周囲を圧するようにそびえ立っていた。根元にはかつて神泉が湧いていたそうだ。見回すが、泉はもう枯れてしまったらしくて水の気配はなかった。この木は境内から見ることもできるが、近くに寄って仰ぐと迫力がある。樹高四十五メートル、樹齢六百年という長寿の木である。さすがに幹にはいたみが見られるが、今も力強く斜面に根を張って生きており、そのたたずまいにはご神木と称えられる王者の風格があった。
豊川稲荷
JR飯田線でひと駅戻り、豊川駅で下車、土産物店や飲食店の並ぶ門前通りを数分歩いてゆくと、豊川稲荷の総門が見えてきた。豊川稲荷は通称で、正式には円福山豊川閣妙厳寺という。曹洞宗の寺院であるが、境内の鎮守の稲荷である荼枳尼眞天(だきにしんてん、仏教世界を守護する神、ダキニ天)が有名になったため、豊川稲荷と呼ばれている。日本三大稲荷の一つとされている。三大稲荷は、まず伏見稲荷(全国に三万以上あるといわれる稲荷社の総本社)、後の二社には豊川稲荷、祐徳稲荷、笠間稲荷、瓢箪山稲荷など候補が多く、諸説あって定かではないそうである。
暑い日だったので、涼を求めて境内にある木陰で少し休憩した後、山門をくぐって本堂へと向かった。重厚な感じのする広いお堂である。
縁起によると、鎌倉時代の禅僧、寒巌義尹(かんがんぎいん、順徳天皇第三皇子)は道元の門下であった。二度にわたって渡海し、宋で学んでいる。二度目の帰国の際、船上において荼枳尼天を感得した。稲束を担い、宝珠を持つ見目うるわしい尊像で、オンシラバッタ ニリウン ソワカと真言を唱えつつ、出現したという。寒厳禅師は帰国後にそのお姿を自ら刻んでお祀りした。時代が下り、六代目の弟子の東海義易という僧が当地に妙厳寺を開いた際、寒巌禅師伝来の千手観世音菩薩をご本尊として安置し、寒巌自身が刻んだ荼枳尼天の尊像を、山門の鎮守としてお祀りした。それは十五世紀半ばのことであるという。
この荼枳尼天の霊験はあらたかで、織田信長、豊臣秀吉など戦国武将たちの尊崇が厚く、また一般の人々の間にも信仰が広まっていったという。この荼枳尼天のお姿は、稲束を担い、宝珠を手にし、白狐に乗る麗しい尊像であった。また開山の折に、狐が平八郎と名乗る翁になって現れ、よく手助けをしたので、境内の奧にこの狐を霊狐塚として祀っている。
明治の神仏分離令の折には、ここは稲荷を鎮守として祀ることが認められた。伏見稲荷大社では、境内にあった愛染堂が廃されるなど、仏教色が一掃されてしまったが、ここは存続したのである。伏見稲荷は宇迦之御魂(うかのみたま)大神を祀る神社であるが、同じように稲荷という名ではあっても、ここは仏教と習合したかたちであり、豊川荼枳尼眞天を祀る曹洞宗の寺院である。現在全国にある多くの稲荷社は神道系が多いそうであるが、豊川稲荷は、仏教系の稲荷信仰の霊地として知られている。
縁起を読んでいると、荼枳尼天についての記述が多く、本来のご本尊である「千手観音菩薩」の存在感が薄いようであった。鎮守社であったはずの荼枳尼天のほうが、はるかに知名度が高いようなのである。開山の折には、まさか当寺院が後の時代に豊川稲荷と称えられ、隆盛をみるような展開になるとは、お坊さんたちも予想しなかったかもしれない。
本堂で手を合わせた後、境内右手から奥の院のほうへと向かった。たくさんの幟が風にはためき、弘法堂、大黒堂などが見えてくる。小道を進んで奥の霊狐塚の辺りまで行くと、そこにはたくさんの狐像が奉納されていた。稲荷社独特のこわい雰囲気が辺りに漂っている。狐さんたちは赤い前垂れを掛けて、ひっそりと薄暗い空間に坐り、ここにやってくる人々の心を見つめているのだった。
荼枳尼天について少し記しておこう。荼枳尼天は、インドのヒンドゥ教のカーリー女神(戦闘の神)の眷属で、夜叉神としての性格を持つ。おそろしい姿で表現される。時代を経て仏教に組み込まれてゆくが、初期密教では羅刹としてあらわれ、中期密教では大日如来が化身した大黒天によって調伏され、死者の人肉を食べることを許される。後期密教では、タントリズムの影響を受け、性や愛の女神として登場する。
日本では空海が真言密教を伝えたが、当初荼枳尼天は閻魔天の眷属としての位置付けであった。おそろしい姿であったが、後の時代になると、白狐に乗った麗しい尊像へと変容していった。ただ荼枳尼天は祀るのが難しく、途中で信仰を止めると祟るとされている。中世には、荼枳尼天を本尊とし、性を肯定する修法や儀式を行う真言立川流が盛んになるが、邪教としてたびたび政権から弾圧され、江戸時代には衰退していった。
余談になるが、以前ネパールのポカラを旅したとき、湖の中にある小島を訪れた。そこにはヴァーラーヒー(バラヒ)というヒンドゥ教の女神を祀る小さな寺院があった。猪の顔を持つ女神で、ダキニ天なのだそうである。
早朝に島の寺院を訪れ、木陰に坐って湖を眺めていると、捧げものをするらしく、村の神職の老人と少年がやってきた。二人は足を結わえた仔山羊を運んできて、そっと寺院の前庭に横たえた。何が始まるのかと思って見ていると、少年が山羊の足を押さえ、老人が鎌を取り出すと、山羊の首に当て、まるで柔らかいものを押し切るかのように切断した。鋭い悲鳴が聞こえ、血しぶきが上って近くの木の幹にかかった。首を失った山羊の胴体は、痙攣しつつ地面を飛び跳ねて草を赤く染め、そのまま動かなくなった。思いがけない場面に衝撃を受け、呆然と見つめるばかりであった。老人は血が流れる山羊の首の部分を手に持つと、さらに女神に捧げる儀式を行うらしく、寺院の中に入っていった・・・・。この女神は動物の犠牲を好まれるのであった。
かなり以前のことになるが、インド、カシミール州ラダックを訪れて、チベットのゴンパ(寺院)を巡り、曼陀羅などを見て回ったことがあった。そこには多くの交合仏が祀られていた。チベット仏教では、ダキニ天は護法尊の明妃として表現されており、武器や髑髏杯を持ち、半裸体で頭蓋骨をつないだ首飾りをかけ、人骨のアクセサリーで頭髪や身を飾っている。寺院の壁に極彩色で描かれており、タンカと呼ばれる仏画にも描かれていた。合体仏はどれもほとんど夢魔の世界かと思われるなまなましいもので、日本でなら秘仏として隠され、とても公開はかなわないとされるものであった。
たたずんでそれらの壁画を眺めていると、風もないのに目の前でぽろぽろと壁画の土の一部が剥がれ落ちてゆき、しばらくすると小坊主さんが来て、赤い顔料の混ざった土を無造作にほうきで掃いてゆくのであった。このまま崩落が進んでゆくのなら、いつか寺院の壁画も失われてゆくのかもしれない、と思ったことであった。
日本では柔和な表情で袋を背負っている大黒天(マハーカーラ)も、お身の色は黒、武器を手にした憤怒の姿であらわされており、驚きをもって見つめたものであったが、ダキニ天の場合も、日本にもたらされて習合が進むうちに、そのおそろしい部分が消されて和らぎ、白狐に乗る穏やかな女天像として尊崇されていったようである。