気多神社(越中一宮) 高瀬神社(越中一宮)
射水神社(越中一宮)
気多神社(越中一宮) 高瀬神社(越中一宮)
射水神社(越中一宮)
越中一宮 気多神社 大伴家持の万葉歌 雨晴海岸
越中国には一宮が四社ある。気多神社、高瀬神社、射水神社、雄山神社で、時代の変遷により、一宮の位置も移り変わったのだと思われるが、一国について一宮がこんなに多いのは珍しいと思う。雄山神社は、以前立山に登ったときに、山頂にある奥宮のほうをすでに参拝しているので、今回の旅では、雄山神社を除く三社を訪れることにした。
まず高岡から氷見(ひみ)線に乗り換え、気多神社を訪れた。
列車は氷見出身の漫画家、藤子不二雄にちなむ「忍者ハットリくん列車」であった。二両連結のローカル線だが、派手なイラストの車体、駅名を告げる車内放送も、普通の放送の後、改めてハットリくんの音声で繰り返すという、サービスというか念の入れようであった。
伏木で降りるかどうか迷ったが、その次の越中国分駅で降りることにした。一宮の気多神社は二つの駅の中間に位置しているからである。降りてみてわかったが、いい近道が見つからず、山側にある神社へ行くには、結局かなり後戻りすることになった。
ひっそりした住宅街を抜けて、ゆるい坂を上っていく。参道に今もこんこんと湧き出る清泉があった。そこで手を清め、長い石段を登ると湿潤な森が現れた。分け入るように進むとその奥に社がある。二上山東麓に位置しており、静かで良い雰囲気に包まれている。
気多神社は、能登一宮から勧請され、伏木に国府があった時は繁栄したらしい。社伝によれば、二上山山麓にある射水神社と一宮を争って勝ったことがあったとも。境内は広くて森も美しい。ほとんど人影もみられないが、歴史の感じられる風格のある古びた社殿と、深い木立のたたずまいが心に残った。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)相殿には菊理姫命(くくりひめのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)。傍らには大伴家持を祀る大伴神社もあり、これは比較的新しいものであった。
家持は聖武天皇の時代、七四六年に越中国守としてこの地に赴任、五年を過ごした。その間実に二二〇首もの歌を残している。あるときは雄大な自然を歌い上げ、また身近な情景にもこまやかな目を向けて、秀歌が多いという。大和とはまったく違う自然や風土に触れたことで、新境地が開かれたのだろう。家持がここに来たのは、栄転ではなく政争にからんでの左遷だったという説もあり、真相はよくわからないが、歌に関して言えば、収穫のある五年間だったのではないだろうか。
境内には「かたかごの丘」という場所があり、越中国総社跡とあった。かたかごの花とはかたくりの花のことで、水辺に群生し早春に薄紫色の可憐な花をつける、万葉の花としてもよく知られている。 家持が赴任中に詠んだ有名な歌。
もののふの八十をとめらが汲み乱(まが)ふ寺井の上のかたかごの花 (万葉集)
(たくさんの乙女たちが入り乱れて水を汲んでいる、寺の井戸のほとりに咲くかたかごの花よ)
かたくりの花は花びらがそり返った独特の形をしている。花を容れものと見たて、まるで水を汲む乙女たちの姿のようなかたかごの花よ、と解釈する説もあり、花が乙女たちのことだとするのなら、また情景も少し変わってくる。どちらにしても優美である。私は花を娘たちとみる説が可愛くて好きであるが。この歌にちなみ、高岡市の花はかたくりの花という。
国守であった家持はおそらく国守館のあった伏木に住み、朝夕二上山を眺めたことだろう。大和の二上山とはまたおもむきが異なるが、同じ名前を持つ山、二つの峰に望郷の思いも重ねたかもしれない。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の 声の恋しきときは来にけり
(二上山に鳴くホトトギス、その声の恋しく思われる季節がやってきたことだ)
朝床(あさどこ)に聞けば遥(はる)けし射水(いみず)川 朝漕ぎしつつ唱(うた)ふ舟人
(朝の寝床で聞いていると、遥かに射水川で舟を漕ぎながら舟人がうたっているよ)
気多神社を後にして道を下り、地図を見ながら往時の国分寺跡を訪ねてみた。ほどなく住宅街の一角で史跡の表示のある、ほとんど朽ち果てかけた侘しいお堂と六地蔵を見つけた。それは薬師堂であった。今にも崩れそうで、いつ自然崩壊してもおかしくはないという感じである。もうほとんど廃屋であった。今昔物語に、「僧登照、朱雀門の倒るるを相するの語」という話があったのを思い出した。ちょっと横道にそれるが、紹介してみると・・・・
・・・・あるとき、通りかかって朱雀門に集う人々の顔に、皆死相が現れているのを見た僧登照が門が倒れるのを予見し、人々に早く逃げるようにと叫んだ。すると風も吹かず、地震で揺れもせず、塵ほども門がゆがんでいるわけでもないのに、急に門が傾いて倒れた。僧の言葉によって門から逃げ出したものは助かった・・・・。
あるときふっと崩れ落ちたという朱雀門。ここもそんな風になるのだろうか。倒れるのももはや時間の問題という気がして、荒れ果てたお堂を見つめていた。
駅に引き返した。無人駅である。次の電車まではかなり待たなくてはならない。次の駅は雨晴(あまはらし)という駅で、海岸が美しいことでも知られている。氷見線は海岸の景勝地を走っているのである。家持も愛でたという海沿いの道を雨晴までひと駅歩くことにした。
馬並(な)めていざうち行かな渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそま)に寄する波見に
(馬を並べてさあ出かけよう 渋谿の清らかな磯に打ち寄せている波を見るために)
渋谿とは現在の雨晴海岸のことである。ときどき立ち止まって海を眺めながら歩いていく。富山湾越しに立山連峰が遠くかすみ、雲間から雪のついた峰が一部望まれる。海辺には奇岩が点在し、松などの樹木が茂っている岩も見られ、波が打ち寄せてはくだけている。古い日本画によく描かれるような風景が目の前に開けていた。
渋谿(しぶたに)をさして我が行くこの浜に 月夜飽きてむ馬しまし止め
(渋谿を目ざして私たちが行くこの浜で、月の世界を心ゆくまで見よう 馬をとめて)
月の美しい夜、家持の一行は波の音を聞きながら馬を進ませたのだろうか。白い月光に照らされた浜辺に寄せては返す波。湾の向こうには遠く連なる山並み。歌を詠む心は高まっていったことだろうと思われる。都を遠く離れた寂しさや、冬の風雪の厳しさにはとまどっただろうが、大和にいれば決して出会うことのなかった大自然、その冴え渡った光景に、家持は心打たれたに違いない。
景色を見ながら一時間ほどかけて雨晴まで歩いた。現在の雨晴海岸は、駅の近くにある義経岩伝説のほうで知られている。義経が奥州に落ちのびる際、この海岸の岩陰に身を潜めて雨宿りをしたというのである。雨晴の地名もこのことに由来するそうだが、最近では縁起の良い駅名ということで、テレビなどで紹介され鉄道ファンの間では有名であるという。
また気嵐(けあらし)という海上に発生する霧が幻想的ということで、写真を撮る人たちも多くここを訪れるそうである。駅舎には雨晴海岸の四季の美しい情景を撮った地元の人の作品が多く飾られてあり、けあらしを写した写真もなかなかのものであった。
越中一宮 高瀬神社
高岡市に戻った。駅前には、かたかごの花の歌にちなみ、筆を持つ大伴家持と少女たちの像があった。
翌日、高岡から城端(じょうはな)線に乗って高瀬神社を訪れた。福野まで三十分ほどの距離である。米どころの砺波平野を列車はのんびりと進んでいき、窓の外に広がる田畑には「散村」が見られた。農家が集落としてかたまっておらず、点在している形なのだという。それぞれが自宅の周囲を耕作するので、作業効率がよいらしいが、治安がよくないと成り立たない形態だったらしい。昔習った社会の教科書では、散村の例として砺波平野の写真が載っていたような気がする。ほかに散村がある地域としては、島根県だったか。珍しいものなのだろう。でもここ富山県では、山村と区別するため散居村と言っているようだ。家々には、ちゃんと私道もつけてある。防風のための屋敷林が周囲に植えられ、見ているとそれは杉とかヒノキ、松、柿の木など、ごく普通の木のようであった。
福野駅で降りた。改札口で菊花展の招待券を配っていたので、帰りに寄ってみようかと気持ちが動き、ついもらってしまった。
高瀬神社は駅から三・五キロの所にあった。平地の神社である。この日は何かの祭事が行われていて(後で調べると十一月三日、明治祭であった)社殿では巫女さんが笛の音でしずしずと舞っていた。しばらく優雅な舞を見せていただく。
その後は着飾った七五三の子どもたちのご祈祷や参拝が切れ目なく続いて、境内は家族連れでにぎわっていた。神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)である。昨日の気多神社に漂っていた、まったくひと気のない森厳さとはまた雰囲気が違っているが、ここは地域の人たちに密着した大切な神社なのだと感じられた。社殿の横に回ってみると、暴風で倒れた古木の切り株がいくつもあった。かつてはここに大木が聳え立つ深い森が存在していたのだろう。
きれいな着物を着せてもらった女の子が、境内ですれ違う私にもにっこり笑いかけてくれて嬉しくなる。社の背後にもう深い森はなくなったけれども、土地の人たちが楽しそうに過ごしている様子をみていると、ほっと気持ちが和んでくるのだった。
菊花展にも寄ることができて、会場の展示を見て回った。大輪の菊に懸崖菊、さぞ手間ひまかかった作品なのだろう。屋台も出ていてたくさんの人出であった。ゆっくりすることはできなかったが、辺りはほのかな菊の香に包まれていた。
越中一宮 射水神社
再び城端線で高岡まで戻り、市内の中心部にある射水神社へと向かう。公園になっている高岡城址を歩いていくと、その中に神社があった。祝日なので晴れ着の七五三の子供たちと着飾った親でここもたいそうにぎやかである。街中にあるため、先ほどの高瀬神社よりも人が多いようだ。祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)あるいは二上神ともいわれる。社殿の感じはごく普通の印象であった。
公園は敷地が広くて市民が散歩を楽しんでいた。桜やカエデなどの樹木もたくさん植えてあって、散策に適しているようだ。古城公園というそうである。城郭はないが土塁の一部が保存され濠も残されて水をたたえており、かつての城の面影がうかがえた。