宇野千代
「刺す」(集英社文庫)
宇野千代
「刺す」(集英社文庫)
宇野千代は一八九七年(明治三十年)、現在の岩国市生まれ。生家は裕福な造り酒屋であった。二歳で母を結核で失い、父が再婚、若い継母に育てられた。弟妹は五人。岩国女学校に進むが、十四歳のとき、父の命令で十七歳の従兄享一に嫁ぎ、十日ほどで逃げ帰ったという。十六歳のとき、放蕩と暴力で家族を苦しめた父が病没。文学に興味を持ち仲間と同人誌を作って活動、女学校卒業後小学校の代用教員となるが、同僚との恋愛で退職した。京城に渡るものの帰国し、十九歳で従兄藤村忠(享一の弟)と両家合意のもと、京都知恩院近くで同棲。東京帝大に入学した忠とともに上京し、送金が途絶えたため、千代は事務員、家庭教師、燕楽軒のウエートレス(十八日間)などで支えた。
燕楽軒では高田樗陰、久米正雄、今東光、芥川龍之介、東郷青児、菊池寛らと知り合った。芥川龍之介の短篇「葱」はこの頃の千代がモデルという。二十二歳で忠と入籍、寵子が生まれるが、七ケ月の早産で当日に死去した。忠は卒業後銀行に就職し、千代は夫の赴任地の札幌に移り住んだ。二十四歳のとき、時事新報の懸賞小説に応募した「脂粉の顔」が当選し大金を得た。次席は尾崎士郎、横光利一が佳作であった。
翌年上京して中央公論社の高田樗陰を訪ね、送っていた原稿「墓を発く」の掲載を知り、稿料を貰うと岩国に帰郷して母にお金を渡し、上京してしばらく次作執筆に専念、尾崎士郎を紹介されると恋愛関係となり同棲、忠とは離婚した(二十七歳)。一歳下の尾崎と結婚し大森馬込に住み、多くの短篇を発表、文人仲間とも交流した。川端康成に勧められ、夫婦であるいは単身で伊豆湯ヶ島に滞在して、執筆する。療養に来ていた梶井基次郎らと親しくなり、やがて千代と梶井との仲が噂され、それは誤伝だったようだが、尾崎は若い女性と一緒になって家を出てしまい、千代との生活は破綻した。
千代は連載小説「罌粟はなぜ紅い」に必要な場面を描くため、旧知の画家東郷青児を訪ねて、心中未遂事件のあらましを聞くが、そのまま同棲し、尾崎とは離婚した(三十三歳)。アトリエ付きの豪華な家を新築し、その借金金策のため千代は関西に出向いて絵を売り歩いた。その後東郷は未遂事件の相手と復縁し、千代は別れた(三十七歳)。東郷からの聞き書き「色ざんげ」を発表、千代の代表作の一つとなった。
三十九歳のとき、日本初のファッション誌スタイル社を創設、取材に来た北原武夫と知り合う。北原は妻を亡くし、カリエスを病む幼い娘がいた。千代の勧めで北原は作家生活に入り、スタイル社の編集を手伝う。千代は北原らと文芸誌「文體」を創刊、四十二歳で十歳年下の北原と結婚した。先妻の娘は病没、戦時下でスタイル社は解散となった。北原は徴用されて戦地に赴き、千代は阿波を訪れて名人といわれた老人からの聞き書き「「人形師天狗屋久吉」を発表(四十五歳)。
戦後再刊した「スタイル」は急激に売れ行きを伸ばしていくが、北原の女性関係は絶えず、煩悶を抱えたまま千代は、親友宮田文子とヨーロッパを旅した。やがて社の脱税が摘発され、経営が難しくなる(五十五歳)。
執筆に十年を要したという、妻と情人の間で揺れ動く男を古風な語り口で描いた「おはん」で野間文芸賞、女流文学者賞を受賞(六十一歳)。その翌年スタイル社が倒産、持ち家も売却し、多額の債務を負った。北原は中間小説を量産し、千代は着物デザインの収益で返済を続けた。六十六歳のとき雪道で転び腰を骨折、翌年に北原と離婚、北原は長年の交際相手と再婚した。
千代は創作に力を注ぎ、北原との生活と別離を描いた「刺す」(六十九歳)、生家や父親を題材にした「風の音」(七十二歳)、老いた桜への想いを巡って展開する「薄墨の桜」(七十七歳)などを発表。新聞連載の自叙伝「生きて行く私」(八十六歳)はミリオンセラーとなった。文化功労者。九十八歳で没。
「刺す」あらすじ
戦後、人の勧めで服飾雑誌を再刊することになり、夫婦は働き始める。雑誌は大成功し、人を増やし弟妹も呼び寄せて仕事を手伝わせた。銀座の土地を手に入れて事務所とし、毎夜社員たちと出かけて酒とダンスに興じる派手な生活が始まっていく。「いつまでもこんなことは続かない。世間が落ち着いて、正常な状態になったら、きっとあなたたちは狼狽てる」そう忠告してくれる人もあったが、聞き流していた。熱海に別荘を買い、執筆の場として夫婦が交互に使うようにしたが、やがて夫の身辺に愛人の影がちらつくようになり、十歳上の妻は苦悩する。気晴らしに高価な骨董品を求めてみても空しかった。
妻の発案で文芸誌も復刊させるが、返品が続いて出版事業はじきに挫折する。妻が言いだして銀座に贅を尽くした自宅を新築するが、夫は黙って家を空けるようになった。
ある日投書による脱税摘発があって査察が入り、その危機感や不安から夫婦は一時的に近づき身を寄せ合う。競合誌が出て雑誌の売れ行きが止まり、熱海の家は売却した。ようやく追徴金も納め騒動が片づいた頃、人から夫の愛人の存在を知らされる。傷心のまま妻は親友とパリに旅をする。夫からの手紙で愛人との別離を知らされるが、なぜかすぐには帰国する気にはなれず、二ケ月後に帰京したとき、夫には次の情人がいた。
社の経営は次第に傾き、ついに多額の負債を抱えて倒産した。自宅は売り払い、社屋も引っ越した。夫婦は妻の妹宅に寄寓し、夫は別棟に住み、返済のため書き物をした。妻はデザインした着物を作って売るのを仕事とした。生活は分かれたものの、絶えず気配を感じてはいた。夫の棟に多くの客があったとき、ふと以前のように客に出すものを自分の手で作りたい、という思いに妻は駆られる。誰からも声は掛からなかった。
ある雪の夜、妻は雪道で転んで腰を骨折する。夫は内心では離婚を考えていたと後でわかるが、鉢植えを持って夫が病室を見舞ってくれたことが妻には嬉しく、退院して歩行練習のため夫の部屋まで伝い歩くそのひとときが、仮の幸せとして妻には心に残るのであった。治癒後、夫から離婚話を切りだされた妻は、一人になる恐怖を堪えつつ承諾する。二十五年間ともに過ごした夫が家を出て行く日、妻は何気ない様子で荷造りを手伝い、その後ろ姿を見送る。夫は振り返らなかった。・・・・
作品は「答える」「這う」「刺す」「笑う」「落ちる」の五章から成っている。過去を回想するかたちで、現在と過去が入り混じりつつ進行する。タイトルの「刺す」は、さそりと亀の寓話に由来するという。
海に出ようとする亀に「泳げないから背に乗せてくれ」とさそりが頼むと、亀は断った。「海へ出たら俺を刺す気だろう」「そんなことをしたら、一緒に海に沈んで死んでしまうじゃないか」それで亀は納得し、さそりを乗せて海へ出た。だが海の上でさそりは亀を刺した。「や、刺したな。一緒に溺れて死ぬんだよ」亀が言うと、さそりは悲しい声で言った。「わかっているよ。でも刺すのは私の性質なんだ。刺さずにはいられないんだ。堪忍しておくれ」
哀しい習性で相手を刺してしまうさそりと、それを知りつつ運命をともにする亀。内在する人の本質を、ふっとこの寓話に託してみたのであろう。夫婦のうち、どちらが亀でどちらがさそりであるのかは、読み手によって意見が分かれるところかと思う。作品を通して読めば、その内容、展開は妻が「刺される」話であることに気づくが、妻のほうは、もしかすれば自分が加害者であり、同時に被害者でもある、という視点で以て、一連の出来事を抑制のきいた文章で振り返ってゆく。問いは自分に向けられ、反省するかのように答えを探り、意識の流れを追ってゆく。揉め事が起こるその原因を作ったのは自分では、という厳しい目が、自身のとった行動や内面に注がれてゆく。
ここまで私たちを引き摺って来たものが何であるか、私は考えたことがあったろうか。人は、世の中が落ち着いてきた、そのためだと言った。また人は、私たちが仕事に向かない性質の人間だったからだと言った。しかし、ほんとうにそうだったろうか。私にはわかっていた。良人の情事から逃れるために私が案出した、数々の無益な計画のためだったろうか。いや、もっと根源的に、もっと隠れた場所に、私の心の奥底に、ものごとを健全には運ばせないような、或る何かがひそんでいるのではないだろうか。この思いは私を打ちのめした。(「笑う」より)
妻は何か思いつくと、後のことを考えずに突っ走ってしまう性癖があった。常に即決で、決断を下すのも速く、立ち止まって熟考する慎重さに欠けている。たとえば自分の独断で社屋を銀座に決めたことは、このように回想される。
「私はいまでも、あの土地を買って、のちにたくさんのいさこざのもとを作ったのは、私があんなに風の強い、雨の日をよって探しに歩いた、そのせいのように思うのであった」(「答える」より)
銀座に豪勢な新居を建てた折のことも、次のように語られる。
・・・・その夜の中に、私はこの計画を良人に話した。言葉に出すと、そのことは、先ず始められたことになるのであった。おかしな、陽気な声をして私は言った。「どうして、あそこをあのまま放っておいたのかしら。・・・・ねえ、あなたも東京で仕事ができるし、この辺で、私たちのほんとうの家を建てても好いんじゃない」
良人はすぐには返事をしなかった。その顔には、私たちの住みよい家を東京に、而もすぐ社の近くに建てると言う喜びは浮かんではいなかった。しかし、それはいつでもの良人の癖であった。私たちの間の習慣では、暮しのことに直接関連のあることは凡て私が考え、私の工夫でして了うのであった。(「刺す」より)
夫には愛人がいたから、近所に家を持つのは都合が悪かったのだ。物や家で、去ってゆく人の心は繋ぎ止められないことはよくわかっていても、妻は贅沢で凝りに凝った家を建ててしまう。妻が社の近くに家を新築した真の理由とは、夫が熱海の家で書き物をすることを隠れ蓑にして、愛人と会うことを少しでも防ぎたいからであった。年上の妻としての密かな嫉妬が、家の新築という散財の一つの動機になったのである。
でも結局夫は外に愛人を求める生活を続け、妻もまた空しさを味わうしかなかった。かつて美貌をもてはやされた日々は遠のいてしまい、妻には老いや衰えが少しずつ忍び寄ってくる。十歳年上という負い目が諦念となったものか、作品では夫のする浮気への恨みつらみは語られない。倒産により財産すべてを失くした後、骨折して健康すら失ったときにも、心は平静にその現実を受け入れようとしていた。離婚の話も、夫の発する言葉を聞いた衝撃が納まってみれば、次のような心境に至るのであった。
「なぜ、あなたを捨てたのでしょう」とはのちにしばしば人の言うことであったが、しかし、この言葉は、私にとっては無縁であった。ながい間、私のところに留まっていたことが、良人の私に対する思いやりであった、と考えることで、私はそのときも、安らかになったのであったから。(「落ちる」より)
この作品は北原武夫との別離を挟んで、連作のかたちで書き継がれた。作者六十九歳のときに刊行されている。事業家として会社の危機に直面した緊迫感と、二十五年間にわたる結婚生活の破綻、という重い内容が語られてゆくが、時系列に沿ってあるときは淡々と、またあるときには緊張感を孕んだ文体でもって事柄を列挙はしていても、夫や周囲を少しも悪いように言わないのが、いかにもこの人らしい。負債額は当時のお金で九千万近かったらしいが、二人でこれを返済したというから大した手腕と思う。夫との別離に際しても、辛かったに違いないのに、それを感じさせない静かな言葉で理性的に行動し表現し、恨みがましく暗いものは漂わせない。そうありたいと願い、そのように生きようと思い、事実そうしたのであろう。北原はやがて再婚する。
糖尿病を抱えていた北原に死が訪れたのは、千代が七十六歳のときであった。その翌年には北原との思い出とその後の心境を綴った「雨の音」を千代は発表している。「刺す」と内容的には重なる部分があり、前作を補完する意味も持ち、文章の雰囲気も似通っているが、独りになって那須で過ごした日々の随想の要素も加わり「刺す」の続編として読める。
ほかの作品にも触れてみよう。代表作は「おはん」であろう。「人形師天狗屋久吉」によって人形浄瑠璃に魅入られた千代は、あたかも生きた人形たちが薄暗い舞台上で劇を演じてみせるかのように「おはん」の世界を創作した。こんな話である。
純朴な妻おはんを捨て、芸者おかよの家で女に養われながら暮らす日々を選んだ男がいた。おはんが親の家に戻り、男の子を生んで育てていると聞いた男は、わが子可愛さに少しずつ母子に近づいてゆく。やがておはんと強引によりを戻し、おかよとは別れるつもりになったがそれを言いだせないまま、男は二人の間を巧妙に行き来し、胡麻化しながら過ごす。おはんは夫を信じ、再びやり直せるものと思っていた。借りた家で、親子三人水入らずで暮らそうとしたときに、子どもは川に落ちて水死した。男はおかよの家に戻り、おはんは手紙を残して姿を消してしまう。
女二人の間を行き来する、身勝手な男の心理や行動を描き尽くした作品である。その手腕はみごとなものだが、子を失くした哀しみの中で「私は仕合せもの」という素朴だが崇高な内容の手紙を道楽者の夫に残し、妻は身を引きどこかへ行ってしまう。もとはといえば夫の不実に起因する運命の変転であったのに、誰も恨むことなく何もかも受け入れて赦し、一人去ってゆくおはんをどう考えればよいのだろう。あまりに無垢すぎてもう聖女の高みに達しているのか、それとも悲哀や諦念が極まった末に菩薩の心を得たとでもいうのだろうか。
現代の感覚でもって「おはん」を肯定するのは難しい。現実にはどこにもない、幻影のような古色蒼然とした世界が、そこには広がっている。古風な衣装を着けた人形たちが息を吹き込まれ、もし生命を与えられれば、優雅な所作でこのようなせりふを言い、三味線の調べに乗って身体をくねらすのでは、というある種の情感がもたらす陶酔がある。情念に憑依された人形たちが演じてみせる虚構である。非現実の世界が巧みに演出され、独特の雰囲気が醸し出されている。「おはん」という題も古めかしさを象徴している。
「色ざんげ」は、東郷青児の体験を小説化した作品である。聞き書きの技も冴えているが、実話をもとにした、というのがやはり利いており、東郷青児の淡い色調の絵を心に思い浮かべつつ読んでしまう。展開も興味深くて最後まで読み手を飽きさせない。男は妻と子がありながら知り合った相手と二重結婚をし、また別の相手と心中未遂をする。いわゆる女蕩しなのであろう。実は家にはもう一人新しくやってきた女性が住みついており、それがこの作品を書いている千代なのである。
そういう事情を頭に入れてから読んでいくと、話の流れが理解しやすいだろう。奇妙で複雑な女性関係を描き分けて逸話も多く入り、特に後半は上手いと思う。人の陥る愚かしさや、愚かしさがもたらすどうしようもない業(ごう)が行間からにじみ出ている作品である。ただ「色ざんげ」という題が変なので、この本を書店のレジに持ってゆくのも、図書館のカウンターに出すのも、気が引けてためらってしまう。ほかにもっと良い題はなかったものか。読んでみれば面白い作品なのに、このタイトル故に敬遠されてきたのではないだろうか。
タイトルに関していえば「人形師天狗屋久吉」は漢字ばかりで固苦しい印象だし「刺す」では読む前から読み手は怖くなってしまう。「風の音」「雨の音」「水の音」という作品群もあるが、何か作者に拘りがあって無理につけたような感じがあって、果たして題と内容が合っているのかどうか・・・・。ほかに「罌粟はなぜ紅い」という良い題の作品もあるが、これは梶井基次郎がつけてあげたのだそうだ。
宇野千代は九十八歳まで生きた長寿の人で、八十五歳のとき新聞連載した自伝エッセイが一冊にまとめられると、たちまちベストセラーになるという強運の人でもあった。これは故意なのか本人の記憶違いのせいなのか、事柄に整合性がないところもあるそうだが、よく売れて代表作の一つとなった。何しろ小説家、実業家、デザイナーとして知られただけでなく、若いときから美貌をうたわれて同棲や結婚、離婚を繰り返した怒涛の人生である。若い頃、尾崎との別離に傷つき自暴自棄になった一時期もあったらしいが、持ち前の復元力で何とか乗り越えていったのだろう。桜の花を好んで着物やハンカチ、小物などさまざまなモチーフに使い、お洒落で料理も上手かったという。
スタイル社を立ち上げるなど事業家としての手腕もあり、仕事にも恋愛にも積極的に出て、多くの才能に恵まれていたようである。生涯に家を十一軒も建てたというから、恐るべきエネルギーの人である。浮沈の多い人生であったようだが、晩年独りになっても、常に前向きで充実した思考で過ごそうとしたらしい。ただ著名な男性たちと係わってきたので、恋愛沙汰やその生き方の起伏ばかりが取り上げられ、人々の関心を惹いているように思われる。
純文学への姿勢を崩さず、心の中では常に高い水準のものを目指していて、試行錯誤を繰り返していたのではないだろうか。若い頃からチェーホフ、ドストエフスキーなどを愛読し、フランス文学にも親しんだそうである。
男を愛したが、書くことにも強く執着したので、一人になって創作する時間を生み出すための、さまざまな葛藤があったと思う。男と暮らしていても、書きたいと思う気持ちが募ると、執筆用に別の場所へ移動したくなったらしい。作家としての孤独な空間を必要としたということであろう。結婚や別離を繰り返すその激しさに、結婚生活と作家を両立させる難しさが表れているような気もする。
「人形師天狗屋久吉」「おはん」は語り物として完成された文学であったが、作者が年齢を経るにつれ、その作品世界は次第に自伝的なものを多く題材にする傾向へと推移していったようである。人生経験を活かし、印象的な逸話を使いこなして、いろんな角度から試みてもいる。私小説でもなく随筆とも完全創作とも違う、それらが混然と入り混じった、いわくいいがたい曖昧模糊とした独特の領域へと読み手をいざなうことに成功し、味わい深い作風を編み出していったのではないかと思う。