一風の小径一(かぜのこみち)
稲渕 栢森 芋峠越え 千股
一風の小径一(かぜのこみち)
稲渕 栢森 芋峠越え 千股
飛鳥川をさかのぼり、古社を訪ねながら栢森の集落を抜け、さらに芋峠を越えて吉野側へ降りてみよう、と思い立った。この道は飛鳥と吉野をつなぐ古道で、流域には古の雰囲気が今も残っているという。一度ゆっくり歩いてみたいと思っていた道であった。
橿原神宮前駅から石舞台の近くまでは路線バスを利用したが、ちょうど朝の通学時間帯で、車内は小中学生で込み合っていた。
バスが甘樫丘を通ったとき、樹木越しに頂上の近くを散策している数人の人影が見えた。甘樫丘の東麓には蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったという。近年その邸宅跡らしいものが発掘されて話題になった。あの人たちは朝早くから丘に登って、その辺りを眺めているのだろうか。
少し先の交差点で止まったとき、窓の外を眺めると、雷丘(いかずちのおか)がすぐ目の前に見えた。緑に包まれ、小さいお椀を伏せたような形をしている。雷丘に関しては、こんな逸話がある。
・・・・雄略天皇が、三輪山の神の姿を見たい、といわれたので、少子部(ちいさこべ)スガルが三輪山に登って大蛇を捕らえてきた。天皇は斎戒せずにご覧になったので、大蛇は雷のような音を立て目がきらきらと輝かせた。天皇は畏れて見ることができず、殿中にかくれられた。それで大蛇を丘に放たせて、その丘に名を賜って雷(いかずち)とした。(日本書紀)
日本霊異記には、この話と少し異なる地名起源説話がみられる。また丘に名を賜ったのではなくて、スガルに名を賜い、スガル改め少子部雷となったのだとみる説もあるそうだ。
バスは雷丘を通り過ぎていく。岡寺の近くまで来たとき、バスを降り、石舞台古墳のほうへと歩いていった。整備された古墳公園になっている。フェンスに植物が絡ませるように植えてあって、中は見えない。
せっかくここにいるのだから、遠くからでもちょっと古墳を見たくなった。それで道を隔てた脇の小高い丘に上がってみると、遠いながらも横穴式石室が望まれた。大きな天井石が重い存在感でもって、草の上に盛り上がり黒い塊となって座している。石舞台古墳は蘇我入鹿の祖父、蘇我馬子の墓といわれている。
ずいぶん前のことになるが、玄室に入って内部を見たことがあるが、中は空っぽで何もないのにもかかわらず、不吉な不気味さが漂い、暗い羨道を通ると俄かに空気が薄くなったかのような息苦しさを覚えた。
今丘の上から遠望すると、古墳は柔らかい緑の芝草に包まれ、朝の冷気の中にある。かつての被葬者は、その肉体は失われても、時を経てまだこの空間の静寂の中で眠り続けているようにもみえる。遠目にもわかるその重量感のある巨石は、見る人に何かしら重い歴史のひとこま、その凝縮した情景を感じさせる力があった。
石舞台古墳を通り過ぎて、緩やかな道を上がっていく。道を取り違えたらしく、朝風峠のほうへ行きかけた。祝戸地区に入ったのである。おかげでミハ山という緑に包まれた山を、間近で見ることができた。実に堂々とした雰囲気を持つ山である。ここが飛鳥の神南備山ではないかという説もあるので、いつか訪ねてみたいと思いつつ眺めた。畑で作業中のおじさんに稲渕への道を教わり、農道を歩いていくと、せせらぎの音に混じって時折小鳥のさえずりが聞こえ、のどかである。畑には青い稲の穂がそよいでいる。
ほどなく稲渕の棚田が近くに見えてきた。傾斜地に緑の段々畑が作られていて、どれも手入れが良くされていて整っている。近年、ここはユニークな案山子の展示でも知られ、どこか心懐かしい田園風景の広がりに、しばらく見入っていた。
飛鳥川に勧請縄(かんじょうなわ)が掛かって揺れていた。全長七十メートル。これは男綱(おづな)といい、中央に藁で男性自身をかたどったものが結わえ付けてある。毎年一月に掛け替え神事があるという。村の入り口にこうしたものを掛けて、悪霊や疫病、厄災の侵入を防ぐ古代の一種の呪術で、中断されたときもあったろうが、今もなおこの行事が続けられているというのが、歴史を感じさせる。風雨にさらされ風に揺れる一本の縄ではあるが、そこに託された集落の人々の祈りのようなものを思うのだった。
川に沿って旧道を進んでいくと、「飛び石」の表示があった。向こう岸まで石が置いてある。石橋、岩橋ともいうそうだ。古代では、こんな風に流れに石を並べ渡っていたという。飛鳥川には数箇所の飛び石があったが流失し、現在残っているのはここだけなのだそうだ。さらさらと清水が石の間を流れゆき、涼しげで風情のある情景であった。
ほどなく「竹野王の石塔」のある竜福寺の前を通る。竹野王は八世紀の人で、長屋王の木簡にもその名が記されているという。丹後に竹野という地名があるので、そこと繋がりのある人なのかもしれない、と思う。石塔は竹野王のお墓とも、そうでないともいわれていて不確かだが、何らかの所縁があることは間違いない。日本最古の石塔という説もあり、黄色味を帯びた石が四重に積まれているが、その一部は欠けている。人が直立しているような形にも見えて、そのせいか受ける印象は重く、古墳の石の一部を切り取って重ねたような感じもする。石塔に刻み込まれた竹野王の名が、今も往時を偲ぶ手がかりになっていて、文字が持つ力、そこに籠もる永遠性を思う。
その先には「南淵請安先生の墓」の表示があった。南淵請安は小野妹子らと共に隋に学んだ学問僧で、当時の知識人であった。大化の改新のとき、中大兄皇子や中臣鎌足らに儒教の教えを授けた人で、この辺りに住んでいたという。皇子と鎌足は南渕請安の元へ通う道すがら、蘇我一族を倒す策を練ったと伝えられている。
飛鳥川に沿ってさらに上がっていく。清らかな流れである。対岸を地域循環の「かめバス」が走っていくのが見える。遠くには南渕山、目の前には澄みきった流れの飛鳥川、そして連なる山々から吹き降ろしてくる風、と次第に情景は古代風の雰囲気を帯びてくる。この辺りでは黒米を作っていると聞いていたので、どれがそうなのかと畑をみていくと、確かに古代米らしい黒っぽい実をつけた稲穂があった。
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社
やがて飛鳥川上坐宇須多伎比売命(あすかかわかみにいますうすたきひめのみこと)神社の石段前に着いた。ひと息でいえないほど長い神社名である。
社の前は淵になっていて、清流が渦を巻いている。ここが皇極天皇の雨乞いの地ともいわれている所である。(もう一箇所、女淵という説もある)少し日本書紀の皇極天皇の項の記述をみてみよう。
・・・・皇極天皇のとき、祝部の教えに従い、牛馬を殺すなどして諸社の神に祈り、市も移し、また河伯(かわのかみ)にも祈ったが、雨はなく雨乞いの効き目がなかった。蘇我の大臣(蝦夷)が、百済大寺に僧を集め大雲経を読ませ、自らも香を焚くなどすると、翌日には小雨が降ったものの、中止になった。それで天皇が南淵の川上に行かれ、四方を拝し、ひざまずいて天を仰いで祈ると、雷が鳴って大雨が降った。雨は五日間続いて天下はひとしく潤い、民は喜んで天皇の徳を称えたという。
物部氏の旧来のやり方による雨乞いでは雨は降らず、蘇我氏の読ませた大雲経でも効果は薄く、女帝の祈りによって、ようやく旱(ひでり)が止んだことを書紀は伝えている。古来の神道や新来の仏教に打ち勝って、雨を降らせた女帝の権威や神性は、このことによってさぞ高まったことであろう。以後女帝の振る舞いも神秘化されていったかもしれない。
稲淵の川原で、一心不乱に雨を乞い天に祈り続ける女帝の姿には、神がかりをする卑弥呼のような古の巫女王の姿が重なってみえる。
飛鳥川は確かにここで少し深くなっている。覗き込んでみると、流れは白く泡立ちながら、岩を滑り落ちていた。水音が周囲にとどろいている。清涼という言葉がふさわしい、古代もこんな風であったかと思わせる岩と水の情景であった。
神社への石段を登り始めると、非常に上りにくいのに気がついた。奥行きの少ない昔風の石段なのである。勾配の急な約190段をゆっくりと上がっていくと、参道は一度折れ曲がる。やがて眼前に現れた社殿は、杉と檜の林を切り開いたと思われる、奥まったすがすがしい空間にあった。
本殿はなく、背後の宮山が神体山である。三輪山と同じく、古の形をとどめる社であった。うすたきとは、臼滝の字を当てる説があるそうで(渦という意味合いもあるらしい)、臼は女性を表徴する言葉、水を司る女神を祀る社ということであった。
時間はもう昼近いので、駅のコンビニで買い求めたお弁当と果物を出して、しばらく休憩した。ふつう山中の古社であれば、もう少し荒れ果てた感じが漂っているものであるが、ここは清浄な領域を保つように、よく心配りがされている。調和のとれた美しさがある。きっと村人の信仰も篤いのであろう。何ともすがすがしい気分になってくる場所で、立ち去りがたかったが、先があるので、元の飛鳥川の道へと降りていった。
加夜奈留美神社
進んでいくと、栢森集落の入り口に勧請縄が見えてきた。女綱(めづな)である。男綱と同じく飛鳥川に掛け渡され、女性自身をかたどったという藁飾りが下がっている。福石と呼ばれる女陰を表わす石があり、それを祭壇として、毎年一月に僧侶が綱の掛け替え儀式を行うそうである。先に見た男綱は神式で、女綱は仏式で執り行うしきたりという。眺めると風雨に打たれ続けたためか、目の前の女綱はかなりくたびれた様相をしていた。
栢森集落に入っていく。ひと気のない静かな集落である。飛鳥川の支流である稲淵川のそばに、加夜奈留美(かやなるみ)神社があった。集落内に位置しており、隣はお寺であった。
先の宇須多伎比売神社があまりにも清涼感に包まれていて良かったので、その後でこちらを拝すると、やはりどこか違うものがある。境内に遊具があり、使わない古い物が雑然と置かれてあるなど、生活感が身近に漂っている社であった。
祭神は謎に包まれている。その由来がはっきりしないのだそうだ。男神か女神かもわからないらしい。加夜奈留美の神とは、あまりその名を聞かないが、出雲国造神賀詞によれば大穴持命の子神であるという。
・・・・大穴持命が天孫に国土を譲って、出雲へ退去する際、自らの和魂(にぎみたま)を三輪山に、子神らの御魂を大和の要地に留めおいて、天孫を守護することを誓ったという。事代主命(ことしろぬしのみこと)を雲梯(うなて)に、阿遅須伎高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を葛城に、加夜奈留美命(かやなるみのみこと)を飛鳥の神奈備に坐せて・・・・
とあるそうだ。
栢森を、飛鳥の神南備というには、少々離れていて無理があるかとも思うが、その理由として、後に鳥形山に遷座したのだが、神霊は旧地のここで祀られているのだとする説、また水源に近いことから宇須多伎比売の神と同様、水を司る神という説もある。
たとえ由緒のはっきりしない神社だとしても、集落では大切な神様である。静かな森の広がる地にひっそりと鎮まる社は、集落の要としての役割を今も担い、地域の人々の生活の中に根づいていると感じられた。
芋峠越え
栢森集落を離れ、芋峠に向かうことにする。時折蝶が舞うのどかなあぜ道を歩き始めたが、道がよくわからず不安になる。遠くで農作業をしている麦藁帽のおじいさんを見つけたので、訊きにいく。
「芋峠は橋を渡って右へ進むと、立て札があるのでそこから入る。峠へ行く途中には切通しがある」
と教わり、少しお話もうかがった。芋峠は、県道ができてからはすたれ、今は人も歩かない寂しい道になったが、ひと昔前までは吉野と奈良を結ぶ生活の道で、よく往来があり、嫁入り行列も物資の運搬もあって賑わっていたのだそうだ。
南淵山であろうか、ある存在感をもってそれらしい山が眺められる。流れに沿ってもう少し進むと山中には女淵、男淵という二つの滝があり、特に女淵のほうは、皇極女帝雨乞いの地という説もあって気になるが、今日は訪ねる余裕がなく、峠の入り口を探して先へ進む。
芋峠の表示板が見えてきた。見るとふっと吸い込まれそうな感じの、ほの暗い古道が山中に口をあけている。峠まで2300Mとある。
初めは歩きやすい山道であった。山に分け入っていくにつれ、次第に緑が深くなり、道が狭くなっていく。道端に小さなお地蔵さんがあったので手を合わせ、重なった柔らかい落ち葉を踏んで進む。切通しの山道もあって、おじいさんが言ったのはここだな、と思いつつ通り過ぎる。
飛鳥から吉野へと向かう道は複数あり、たとえば巨勢のほうからも行けるし、少々遠くなるが竜在峠からも越えられる。でもなんといってもこの芋峠越えが最短であり、最も知られている道であろう。元々は妹峠の字が当てられていたとも聞いたことがある。今使われている芋の字よりはるかに良いと思われるが。
近江京で天智天皇の病が重くなったとき、身に迫る危険を感じた大海人皇子は、天皇からの譲位の要請を固辞し、殿中で僧形となった。そして吉野へ籠もる意思を告げて天皇の許しを得、飛び立つように近江を離れる。
近江を発ったその夕方にはもう飛鳥に着き、島庄で一泊、次の日には吉野宮滝の宮に入ったとされる。鵜野讃良皇女や年少の草壁皇子らを伴っての逃避行は、さぞ緊迫感に満ちた難儀な旅であったろう。
そのときの吉野へ入った経路までは書紀に書かれていないので、どの道を通ったかは不明である。一行は絶えず追っ手の影におびえ、何度も振り返っては、後ろを気にしていたはずである。一刻も早く吉野へ逃げ込みたい、と焦る切迫した状況を考えると、通った道は諸説あるが、おそらくは最短の芋峠を選んだかと思われる。島庄は石舞台の近くにある。そうなると一行の吉野への逃避行は、今日歩いてきた道にほかならない。
壬申の乱に勝利して、都は再び近江から飛鳥に戻り、天武天皇が飛鳥浄御原宮で即位する。天皇は後継を草壁皇子と定め、相争わないことを、吉野宮滝において、高市皇子はじめ六人の皇子たちに誓わせた。やがて天武天皇が亡くなると、人望の高かった大津皇子は、持統皇后の手により、謀反の罪で殺されてしまう。後継の草壁皇子は三年後に病死、諸皇子ではなく、持統天皇自身が即位して、その四年後には藤原京に遷都、女帝の治世へとめまぐるしく歴史は移っていくのである。
持統天皇の在位中に、三十一回、吉野宮滝の離宮に行幸があったことを、書紀は記している。高市皇子はじめ諸皇子たちが歩いた道、柿本人麻呂ら歌人も随行した女帝の行幸の道、それらは今歩いている芋峠の道なのである。
山道が急斜面に差しかかったとき、ふっと風が吹いてきた。巻くような風で涼しいのだが、何かしら気配が妙であった。山道を歩いていて、変な感じにとらわれることは時折あるが、このときもそうで、見ると周囲の木々の枝葉はまったく風に揺れず、足元の草もそよとも動かないのに、首の周りだけは風が回っている。とたんにすっと血が引く思いがした。しばらくすると気配は自然に消えていった。単に風の通り道なのだとわかってはいても、少々恐いものがあった。
すれ違う人にも会わず、常にどこか寂しい感じの伴う山道であった。小峠を過ぎ、下りになって役の行者像を祀る地点に着くと、芋峠へと通じる県道に出た。ここで古道が分断される形になっている。
ここまで来て今から県道を歩くのも、と思い、さらに旧道の方を伝って芋峠を越えることにした。
旧道の入り口の表示板を確認して、細い道を上り始めると、道の両側には草が生い茂り、道はさっきよりさらに荒れていた。人影はまったくなくて寂しいかぎりだが、古い道の雰囲気がそのままに残っていた。
三軒茶屋跡で立ち止まり、周囲を眺めた。少し開けた空間に、羊歯に覆われるようにして崩れかけた井戸らしいものがある。落ち葉で詰まったか細い流れ、汚れた木の腰掛などがぽつんとあった。かつて賑わっていたが、今はさびれてしまった侘しい茶店の情景がそこに広がっていた。
山道を進んでいく。芋峠神社跡の矢印に従って斜面に分け入ると、さらに荒廃した神域空間が見られた。しばらくたたずんで眺める。社はもう跡形もなく「芋ケ峠宮地」と刻まれた石碑のみである。どんなお社であったのか、あるいは祠であったのか、想像するしかない。杉の木の傍らに少しばかり残っている石垣の跡、燈篭の台の一部、散らばっている石や器物の欠片、と順に辿ってみていくと、狛犬をかたどった瓦があった。その狛犬の眼は見開かれ、斜めに地面に倒れた姿勢のまま、じっと虚空を見つめているのだった。
歩いているうちに、ほどなく芋峠らしい場所に出た。道はそこからは下りになっていて、さっきの県道と結ばれているようだ。でもここが本当に芋峠の頂上なのかどうかわからず、本当の頂上はさらにこの上にあるのかと思われたので、懸命に山道を上って探してみた。上りが急になるばかりで、特にいい眺めがあるわけでもない。時間がかかることからあきらめて途中で引き返した。
元の地点に戻ってよくみると、古道では、やはりここをもって芋峠の頂上としているらしい。利便性を考えれば、何も真の頂上にこだわって、わざわざ余分な道をつける必要などないのだった。峠にはきっと素晴らしい眺望があって休憩のためのベンチも置いてあり、由来を書いた説明板もあって・・・・と勝手に思い込んだのは当方である。納得して山道を下っていくと、すぐに県道に出た。
ここで古道は切れている。あとはあまり車の通っていない静かな県道を、延々と歩いて、吉野側に降りてゆくしかないと思われた。もうここで山中の古道歩きは終わったのだ、と少し物足りないような気持ちで歩き始めると、「千股までの所要四十分」の小さな表示板が道路際に掛かっている。うっかりすると見落としそうな薄暗い小道がずっと下へ続いていた。これはきっと昔使われていた道に違いない。
千股は吉野の集落である。ちまたと読むのであろう。多くの道が集まっていたことを思わせる古の地名である。いったんは切れたと思われたが、まだ古道の続きを歩けるのだ、と内心喜んでそこを降りることにした。
歩き始めて気がついた。この道はほとんど使われておらず、現在ここを歩く人は滅多にいないものとみえて、特に最初のほうが荒れ放題であった。折れた木の枝が行く手を塞ぎ、道はところどころ崩れて、雨の後でもあったのかぬかるんでいて滑りやすい。ほとんどずり落ちるようにして、細い道を降りていった。よそ見をしていて一度転倒し、おかげで靴も手足も泥まみれになった。昔の人の旅の様子がしのばれる。往時の道の険しさ、危険はこの程度ではとてもすまなかったことだろう。
千股までずっとこのような嫌な道が続くものと覚悟していたら、途中から急に道が広くなり、歩きやすくなった。まるで遊歩道に切り替わったような感じで大変楽である。いよいよ古道が終わりに近づいているのを感じた。この辺りは森林の伐採作業などで、車が入るようになっているらしい。人里に近寄ったのである。今日は朝から山道を大分歩いたが、山中に漂っていた古代の雰囲気も徐々に遠のいていく。名残惜しい気持ちで時計を見ると、さきほどの歩き始めから四十分経っていた。ほどなく山道が終わり、吉野の千股の県道に降りると、景色が開け、目の前には千股川であろうか、流れが爽やかな水音を立てて傾きかけた陽にきらめいていた。帰途につくことにし、人に道を尋ねながら 上市駅まで歩き、今日の散策を終えた。