一吉野宮滝を歩く一
吉野 桜木神社 宮滝 大名持神社
一吉野宮滝を歩く一
吉野 桜木神社 宮滝 大名持神社
持統天皇は、在位中の九年間に、実に三十一回もの吉野宮行幸を行ったとされる。皇位を退いてからの一回を加えると、三十二回にも及んでいる。このことは何を意味するのだろう。
飛鳥から吉野へは半日から一日の行程だったと思われる。輿や馬を使って飛鳥川沿いに南淵から栢森を抜けて芋峠を越え、吉野川沿いに進み、上流の宮滝離宮に滞在したのだろうか。女帝の滞在期間は二、三日から長いときは二十日位、季節を問わず繰り返し訪れている。史書には「天皇、吉野宮に幸(いでま)す・・・・。天皇、吉野宮より至(かえりおは)します」と折々の行幸の記録はあっても、訪れた理由までは記されていない。女帝がなぜ頻繁に宮滝に通ったのかについては推測するしかなく、諸説あって判然としない。
宮滝が、夫の天武天皇らと過ごした思い出の地であるからという説。心身の療養説。吉野の有力者たちとの関係緊密のためという政治的配慮説。
吉野は古くから辰砂(水銀朱)を産し(水銀は防腐剤、鍍金、また不老不死の仙薬としても用いられた)神仙の地であったことから、吉野川での禊、霊力増強、若返り信仰など、ある種の呪術的行為のためという説。
雨乞いや止雨のため宮滝を訪れて水の祭祀を行い、また神意を聴いて政治に反映させたという説・・・・。
どれも当っていそうな気がするが・・・・。女帝が過ごした吉野宮滝とはどんなところなのか、実際に歩いてみることにした。
吉野といえば桜の名所として知られている。吉野山に多く植えられている桜は、ソメイヨシノではなくシロヤマザクラが大半で、これは開祖役行者への献木という形で始まったのだそうだ。今回は吉野から入って、宮滝万葉の道を歩いて象(きさ)川沿いに下り、桜木神社を経て宮滝散策の後、大和上市まで歩くことにした。
吉野口駅に着いたのはまだ早朝であった。ケーブルを使わず、つづら折れの山道を上っていると、前方から突如ほら貝の音が立て続けに響いてきた。山の空気を震わせて流れてゆく。人の叫び声に似た音色を聞きながら進んでいった。
土産物店の続く通りを行くと、くすんだ色の銅(かね)の鳥居に出た。室町時代のもので、これは聖域に入る結界の門であり、日本三鳥居の一つであるという。あと二つは厳島神社の朱の大鳥居(木)、四天王寺の石鳥居なのだそうだ。手で軽く叩いてみて、金属であることを確かめくぐり抜ける。
さらに道を進んでいくと、重厚な仁王門が見えてきた。金峯山(きんぷせん)寺の北側にあり、これも室町時代に作られたという立派な門である。
門を入って、威容を誇る金峯山蔵王堂にお参りする。豊臣家の寄進であるという木造建築の巨大さに圧倒される。さっきの仁王門もこの蔵王堂も国宝で、重々しい中にも木の温もりが感じられる。ご本尊は三体あって、身の丈は七メートルもあり、役行者が山で修業中に感得した蔵王権現を桜の木に刻んで祀ったといわれ、秘仏になっている。
お堂を出て中千本まで歩いていく。勝手神社の前まで来て足を止めると、入り口にはロープが張られ、立ち入り禁止になっていた。小高くなった奧に草地が見えるが、そこには社殿のない索漠とした空間が広がっていた。不審火で勝手神社が全焼したという報道を見たのは、数年前のことだったろうか。この神社は天武天皇が挙兵の折、戦勝祈願すると天女が現れた、という瑞兆が起きたとされる古社であった。
さらに先へと進み上千本の吉野水分(みくまり)神社にお参りする。この神社は古くて美しい佇まいを持っている。祭神は玉依姫命で、以前来たときは咲き残った境内の桜が儚げなのが印象的であった。
この近くにあるはずの「宮滝万葉の道」を探すのだがなかなか見つからず、少し休憩する。以前桜の季節にここへ来たときは、奧千本へ向かうバス待ちの人の長蛇の列に恐れをなして、ここから西行庵まで歩いていったことを思い出した。西行庵に着くと、すでに大勢の人がいて、谷へ散っていく桜の花を見つめていた。そのときは義経の隠れ塔や金峯神社にも寄ってゆっくりしたが、今日はここから宮滝へ下るのである。
ようやく万葉の道の表示を見つけて歩き出すと、行く手の脇の茂みに雉のような、いや尾の長い山鳥が一羽・・・・。考えてみれば吉野は昔から狩場でもあった。今でも山は深く雉や山鳥が棲息していても不思議ではない。
万葉の道は、よく整備された自然道である。途中稚児松地蔵という祠があったので休み、駅前で買い求めた名物柿の葉ずしの昼食をとった。さばや鮭を柿の葉で包んだ押しずしで、柿の葉の良い香りがした。
下っていくと落差はそう大きくないが高滝という滝があった。すがすがしい気分に浸りつつ涼しい杉木立の道を行く。杉や檜の林立する象の小川沿いの下り坂で雰囲気のある道である。この辺りを詠んだ万葉歌は多いという。そのうちのいくつかを紹介してみよう。
昔見し象(きさ)の小川を今見れば いよよさやけくなりにけるかも 大伴旅人
我が命常にもあらぬか昔見し 象の小川を行きて見むため 大伴旅人
み吉野の象山のまの木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ鳥の声かも 山部赤人
象山、象の小川、み吉野・・・・どの歌にも古代の人の吉野に対する思い入れが感じられる。地名を歌に詠み入れるとき、そこに籠められる憧憬、地霊への畏敬の念、そんな感情も自然と入ってくるのだろう。
下りの道はごく自然に山麓の集落に続いてゆき、ひっそりした民家の間を抜けていくとやがて桜木神社に出た。象の小川にかかる屋形橋を渡ると社殿があり、背後には象山がある。屋根の付いた橋を渡るのが珍しく、立ち止まって川を見ると、流れは澄みきっていた。緑に包まれた静かで趣のあるお社であった。
天武天皇がまだ大海人皇子であった頃、病床にあった天智天皇に呼ばれると、野心のないことを示すため直ちに僧形となり、家族を連れて近江の宮を離れ、吉野宮滝に身を潜めていた。あるとき大友皇子側の放った刺客に襲われて、この神社の桜の木に隠れて難を逃れたと伝えられている。そんな出来事もあったのだろうか。お社の祭神は大己貴命、少彦名命、それに天武天皇とあった。
桜木神社を出て先へと進んでいくと、俄かに景観が開け、吉野川が現れた。切り立った岸には奇岩と巨岩、その間を縫うように流れていく青く深い水の色に心奪われ、しばらくの間眺めていた。川の上に張り出して設営された展望所で座り込んでいたが、ふと川に下りてみようと思い立ち、柴橋を渡って道を探した。
川原には、大きなごつごつした岩が転がっている。そこには人を寄せつけない険しく荒々しい自然が残っていた。対岸は崖のようになっていて水の色は深く流れは速い。うっかりしていると流れに引き込まれそうで、恐ろしいような美しさを持っている川であった。一箇所段差になって水が流れ落ちている所があり、それが象の小川が吉野川に合流する「夢のわだ」であった。わだとは曲と書くそうだ。白く泡立ちながら、小さな滝となって注ぎ込む清冽な流れをいつまでも見ていた。
我が行きは久にはあらじ夢のわだ 瀬にはならずて淵にあらぬかも 大伴旅人
以前二度ほど大台ケ原に行ったことがある。大和上市からのバスは、いつも宮滝を通っていくのだが、車窓から見える深い川水の色と巨岩の続く光景に心惹かれ、毎回吸い寄せられるように見入っていた。たとえ通りかかったバスの中からであっても、宮滝は受ける印象が強いのである。古代の都人にとっても、最初にこの宮滝の奇岩と深い水の色を目にしたときの衝撃は、忘れがたいものがあったろう。聖域とは、聖地とはこういうものと実感できる、そういう何かがこの風景の中にはあるのだった。
天武・持統天皇の頃には、この辺りの森は今よりも深く、風景は幽玄な雰囲気を帯びていたに違いない。持統天皇がもし雨乞いのために頻繁にここを訪れたのだとすれば、川の上流で仮屋を設けて禊をし、祭祀を行ったことであろう。
日本書紀によれば、天武天皇の母の皇極(後の斉明)女帝も、旱が続いた年に、自らの祈りの力によって雨雲を引き寄せている。そのときは、牛馬を捧げるなど物部氏による祈雨の呪術によっても、蘇我氏による大雲経の読経を以てしても効果がなかったが、女帝自ら飛鳥川の上流に赴き、川原でひざまづいて四方を拝み、天を仰いで祈ると、雷が鳴って五日間大雨が降ったという。(日本書紀 皇極紀)
当時の女帝には、こうしたシャーマン的な要素が期待されていたかもしれない。義母に当る皇極帝のそうした神事に倣う形で、持統天皇も、宮滝において雨乞いまた止雨など何らかの水の祭祀を行っていたのかもしれない。古代では女帝と祭祀の結びつきは強く、切り離せないものがあっただろうから・・・・。
しかし時代が下っていくにつれ、そうした宮滝の持つ神仙境としての神秘性は次第に薄れていったらしい。聖武天皇の頃になると、都の貴人たちは、景勝地を楽しむ感覚で折々に吉野や宮滝を訪れ、景色を愛でたという。
靴を脱ぎ、吉野川の流れに入ってみた。あまり深みに行かないようにしていたが、そう長い時間は浸かっていられない冷たさであった。小魚が泳ぎ回る透き通った流れに気持ちが寛ぎ、童心に帰って水辺で遊び、飽きると川原で寝転んで空と雲を見つめた。古代の人たちも同じようにして過ごしたかもしれない。
川から上り、宮滝離宮跡を見にいった。今は民家が立ち並んでいるが、集落の中には、そのことを示す石碑もちゃんとあった。宮滝宮は初め斉明天皇が造営し、天武天皇の時になって改修されたという。
まだ大海人皇子と呼ばれていた天武天皇が、大津京から慌しく家族とともに吉野宮滝に逃れたとき、ここはたぶん古い離宮のままであったのだろう。妻の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)、まだ少年だった草壁皇子、わずかな従者たち、大津京からの兵や刺客がいつ襲ってくるかもしれないという不安と緊張の日々。天智天皇の死が吉野に伝えられてから挙兵までの間、離宮での暮らしは決して穏やかなものではなかったろう。
歴史資料館に入って、往時の宮の様子を再現した展示、遺跡から発掘された土器などを見て古に思いを馳せた。吉野宮滝は縄文時代から開けていた地で、宮滝式といわれる巻貝で模様をつけた独特の土器の存在でも知られている。
資料館を出て集落内を少し歩いた。色んな時代の宮跡が重なっていると思われる。ここが古い吉野宮の跡、ここがたぶん後の時代の建物のあった所、そういう思いとともに小道を歩き回り、宮滝を後にする。
吉野川沿いに下っていくと、大名持(おおなもち)神社があった。祭神は大己貴命(おなむちのみこと)。社殿のすぐ背後には妹山(いもやま)がある。妹山とは忌山のことで、ずっと人の立ち入りを禁じ、古来斧を入れない神奈備山である。そのせいか近寄ってみると樹木は鬱蒼と茂りに茂り、樹叢がかなり深いのがわかる。
社殿はぎりぎりまで山に寄せて建てられ、急傾斜の山がすぐ背後に迫っていた。もし登ろうと人が山に分け入れば、そのまま山に呑みこまれそうな勢いがある。何かしら底力の感じられる山の様相であった。夕方近かったせいもあるが、樹木やその影がとりわけ濃く暗く、少々雰囲気が恐いのである。社殿にお参りし山を眺めながら休憩をとる。
ここには六月の晦日に、神社の下を流れる吉野川の潮生淵(しおうぶち)に潮水が湧くという言い伝えがあり、桜井市内の神社の祭礼に先立って当屋の氏子がここに来て参拝、川で禊を行って水を汲み、川原の小石を持ち帰る慣わしがあるという。これも吉野川の聖性にまつわる伝承の一つなのだろう。もっとも明治の頃になって、その潮生淵は閉じられてなくなったそうだ。
神社を出て大和上市駅に向かう。疲れてきたがあと二キロ位と思われる。対岸には背山が見えている。妹背山と対になっているあの背山である。水量豊かな吉野川を挟んで在る二つの特徴的な美しい円錐の山を間近に見ていると、それはやはり一種の神秘とも思えてきて、古来の信仰が何とはなしに納得できるのが不思議でもあった。
大穴牟遅(おおなむぢ)少御神(すくなみかみ)の作らしし 妹背の山は見らくしよしも (万葉巻七)