一出羽への旅一
湯殿山神社 羽黒山神社
一出羽への旅一
湯殿山神社 羽黒山神社
羽黒山、月山、湯殿山を出羽三山といい、修験道の霊地として知られている。古くから山岳信仰があったが、神仏習合の時代に入ると真言宗、後には天台宗を中心にした信仰が盛んとなり、行者が修行する地として有名になった。これらの山を巡ることは、現世を経て(羽黒山)、死後の世界へ行き(月山)、この世に再生する(湯殿山)という意味を持つという。
明治の神仏分離、廃仏毀釈の折には、この地域でも多くの寺院が破壊され、三山は古来の祭神を祀る神の山に戻った。
羽黒山神社の祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、いでは神、月山は月讀命(つくよみのみこと)、湯殿山は大山祇命(おおやまつみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)であるが、それぞれの山は、観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来を本地仏としており、山伏修行として、羽黒山から峰入りし、これら三山を山駈けする荒行が現在も行われている。
三山の開祖は崇峻天皇の皇子、蜂子(はちのこ)皇子とされる。蘇我氏による父の暗殺を見て難を避け、大和から遠くに逃れた皇子である。
一度これらの霊地を訪ねてみたいと思っていたが、今回は季節が遅かったため月山へのバス便はすでになく(九月十五日までであった)、参拝は二山のみであった。
湯殿山神社
山形県に旅をするのは初めてである。JR山形駅から山交バスで湯殿山へと向かう。延々と乗って山中に入り途中で乗り換え、ようやく着いたのは湯殿山神社の大鳥居下であった。大きく開けた空間に、赤く塗られた巨大な両部鳥居が屹立している。その大きさは、安芸の宮島の海中に建つ厳島神社の大鳥居を思わせる。
大鳥居の正面から仰ぐと抜けるような青空が広がり、風が流れてすがすがしい。更にそこから湯殿山神社本宮前へ乗り継ぐバスもあったが、あまり遠くないようなので徒歩でバス道を上がることにする。
その名も梵字川という清流にかかる橋を渡り、山道を上がっていく。山伏修行の人たちが歩く道は、川沿いにある別の険しい道であるという。周囲の山は紅葉にはまだ届かないが、折り重なった山並みは雄大で美しい眺めである。湯殿山は月山と尾根続きなので、ここからも見えるはずと思い目で探していた。前方にひときわ高くそびえる山があり、たぶんあれが月山、と勝手に思い込み、何度もその山を見上げながら行く。
山道の途中、小さな滝を見たり、脇道へ少し入って祠に手を合わせたり、お地蔵さんの前で立ち止まったりしながら進んでいくうちに、湯殿山神社本宮に着いた。
祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。
本宮といってもここには拝殿はない。ここから先の写真撮影は禁じられており、神域になっている。ご神体についての言及も禁じられており、参拝に際しては、土足厳禁、靴下も取り素足になってお祓いを受け、紙の人形(ひとがた)に息を吹きかけて体を撫で、それを水の上に浮かべ穢れを流した後に、ご神体の前に進んで礼拝するしきたりである。
ここでの詳細については「語るなかれ 聞くなかれ」の掟があり、見聞を人に言うと神様の祟りがあるそうなので、もうこれ以上は書かないことにする。
参拝を終えると、出口には足湯が設けてあり、秋とは言っても吹き抜ける風や通路の石の上は冷たかったので、しばらく浸かって温まっていた。傍らにはここで詠んだという芭蕉の句(奧の細道より)があった。
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
帰りも同じ道を歩いて鳥居下まで戻った。標高は一千メートルを越えており、さっきまでよく晴れていた空はもうどんよりと曇っていて、気温が急激に下がっていくのがわかる。何年も山で厳しい修行をし、五穀を絶ち、即身成仏を遂げたという上人の墓所などを見て回るうちに、雲が厚く垂れ込め早くも西の空が暮れかかってきた。しんとした山の中の冷気が感じられる。お地蔵さんに奉納された風車が、時折からからと乾いた音を立てて回るのがもの悲しい。古い墓石が立ち並ぶ墓地の中、中央のお堂には即身仏のレプリカも置いてあり、急に風が冷たく吹き降ろしてくるひと気の少ない山中でそれを覗き込むと、鬼気迫ってくるものがあった。
今夜の宿泊は大鳥居横にある湯殿山参篭所である。実は参篭所に泊まるのは初めてである。ここには「御神湯」があるということなので、神の湯とはどういうものなのかと思いつつ地下に降りてみる。入口に注連縄のかかっている浴室で、おそるおそる戸を開けると窓はなく、内部は湯気で曇っていて薄暗く、湯船の蛇口の上には大きな神棚が鎮座・・・・かなりの至近距離である。
神前でどう入浴するのかとためらいつつ見ると、洗い場は非常に狭く、すのこの上でかけ湯のみできるようである。風呂の蓋も自分でとって浸かるしかなく、湯の色もよく見えないほど暗い。成分の関係か、お湯は鉄気の多いような感じがする。神棚に目が行くたびにすぐ目の前に神様がおられるようで何やら落ち着かず、お風呂でこのように緊張したのは初めてであった。
晩ご飯は、川魚の焼き物、野菜の天ぷら、竹の子、ごぼうの煮物、山菜ごま和え、おひたし、おそば、ごま豆腐など数品、どれも丁寧な料理で、季節のモッテ菊の酢の物が珍しい。薄紫色の食用菊できれいな一品であった。デザートは少し固い柿。
部屋に戻ると、なんとカメムシが飛び回っている。窓はちゃんと閉めておいたはずなのに、とため息が出る。時間がたつに連れだんだん数が増えていき、全部で数匹になった。何度つまみ出してもどこからか入り込んできて、行方を目で追っていると落ち着かない。
頭から布団を被り、息苦しいのを我慢して虫を見ないようにして眠る。カメムシが多い年は雪が多いと聞いたことがある。ここら辺は深い雪に埋もれて銀世界になってしまうのだろうか。この参篭所も十一月には閉め、皆山から降りてしまうのだそうだ。
虫は時々かさこそとかすかな音を立てる。天井に張り付いているのが今にも落ちてくるのではないかと気になって、あまり眠れなかった。
朝七時には朝御饌(あさみけ)祭というのに参加してみる。太鼓が打ち鳴らされ、神職さんが祝詞をあげた後、神様に朝ご飯を差し上げるのである。お酒、塩、水、茄子などの野菜がきちんと三宝に載っていた。自由参加であるが、こういう儀式があるのは参篭所らしいと思った。
鶴岡までのバス待ち時間があったので、もういちど本宮前まで散策する。昨日辿った道だが、朝早いにもかかわらず参拝客は多い。ふと見ると本宮へと続く山道の草の中に蛇がいた。一本道でもうご神体が望まれるような位置である。蛇は動かないので死んでいると思うが、参拝の人たちは気づかずにすぐそばを通り抜けていく。この季節、神社へ行くとよく蛇に出会う。社はその多くが山の中や森にあることから、遭遇は仕方ないのだろうと思う。
羽黒山神社
鶴岡へ向かうバスで、運転手さんが前方に見えてきた山を指して、あれが鳥海山ですと親切に教えてくださった。映画「おくりびと」にも出てきたきれいな山、窓からしばらく眺めていた。少し遠かったがなるほど印象的な稜線を持つ山で、今回は立ち寄れないのが残念であった。
鶴岡から再び別系統のバスで羽黒山に向かう。昨夜の睡眠不足のせいか、流れ去る大通り商店街を見ているうちに、睡魔に襲われ眠りこんでしまう。目を開けるともう山中の終点に着いていた。ぼんやりした頭でバスを降りると、目の前には緑に彩られた静謐な空間が広がっている。ずっと寝ていたために時間がつながらず、ふっと異世界に来たような感覚があった。周囲を見回すとそこは深い山の中にある静かな神社であった。
羽黒山神社の祭神は、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、いでは神。
伝承によると開祖は蜂子皇子、592年、父の崇峻天皇が蘇我氏によって弑逆されたため、大和を離れた。海路で東国に逃れて出羽に着き、三本足の烏に導かれて羽黒山に上り修行、やがて出羽三山の開祖となったとされる。羽黒山の名は道案内をした大烏にちなんでのこととされる。
伝えられている開祖像の絵を見ると、色は黒く口が耳まで避けた容貌魁偉な姿として描かれている。とても人には見えず、怨霊と化したのかとも思われるほどであるが、行者というのは一種の超能力者とみなされていたところから、このような人間離れした造形になったのであろう。事もなく都にあれば、皇位を継いだかもしれなかった大和の貴公子が、さすらいの果てに異形の行者としてこの地に定着しているのである。
日本書紀を見ると、蜂子皇子については一行のみの記述であった。
・・・・大伴糠手連(ぬかてのむらじ)が女(むすめ)小手子(こてこ)を立てて妃(みめ)とす。是(これ)蜂子皇子(はちのこのみこ)と錦代皇女(にしきてのひめみこ)を生めり。(日本書紀 崇峻紀)
蜂子皇子が東国に逃れたという記述もみられないようである。また、崇峻天皇弑逆のくだりは次のようであった。
・・・・山猪(いのしし)を献(たてまつ)ることあり。天皇、猪を指して詔(みことのり)して曰(のたまは)く、「いずれの時にか、この猪の首を断(き)るが如く、朕(わ)が嫌(ねた)しとおもふ所の人を断(き)らむ」とのたまふ。
・・・・蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔(みことのり)したまふ所を聞きて己(おのれ)を嫌(そね)むらしきことを恐る。やから者(ひと)を招(お)ぎ集めて天皇を弑(し)せまつらむと謀(はか)る。
・・・・すなはち東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)をして天皇を弑(し)せまつらしむ。是の日に天皇を倉梯(くらはし)岡陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。(日本書紀 崇峻紀)
猪を献上した者があった。天皇が猪を指して「いつかこの猪の首を斬るように、にくいと思う人を斬りたいものだ」とおっしゃった。蘇我馬子はその言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを警戒した。一族の者を集めて天皇を弑することを謀った。そして東漢直駒を使って天皇を弑し、その日に天皇を葬った・・・・というのである。
崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立された形だけの天皇に過ぎず、政治の実権は常に馬子の手にあった。天皇はそのことに大きな不満を持っていただろう。猪になぞらえて斬りたいと思うほどに。馬子を排除するため、天皇側では兵を集めようとする動きもあったことを書紀は伝えている。馬子はそれを知って、先手を打ったと思われる。
天皇を亡くなった当日に葬った、と記述されているのは記紀では他に例を見ない。天皇の場合は長い殯(もがり)の期間があり、遺体を殯の宮に安置しさまざまな葬送儀礼を尽くしてから陵に埋葬するのが普通である。この天皇への蘇我氏の扱い方がどんなものであったかが想像できる。
崇峻天皇の後の皇位は馬子の姪に当る推古天皇が継ぎ、以後馬子は天皇の傍にあって専横を強め、息子の蝦夷、孫の入鹿の代へと続き蘇我氏全盛時代となっていく。
暗殺者の東漢直駒は、事件のあと馬子の手によって殺されている。馬子の娘で天皇の妃になっていた河上娘(いらつめ)を盗んで妻にした罪によるというが、時の天皇を弑した刺客が無事でいられるわけもなかっただろう。ちなみに言うと蘇我氏宗本家の滅亡は645年、中大兄皇子、鎌足らが起こした乙巳(いっし)の変(大化の改新)によってであった。入鹿は殺されて、その遺体は家へ送り返され、父の蝦夷は自殺、甘橿岡にあった邸宅は火に包まれるのである。
杉や檜、大木が林立する羽黒山神社の広い境内には、かつて多くの銅鏡が沈められていたという鏡池があった。水草や睡蓮が浮くきれいな眺めの池である。池を見て本殿に参拝する。立派なお社で、月山、湯殿山は冬季閉められる事から両社はここに合祀されている。境内には蜂子皇子を祀る社とその陵墓もあった。
斉館の近くを歩いていると、突如木の幹を駆け上っていく鳥があった。キツツキの類であろうか、鳩よりもかなり大きく見える。アオゲラかもしれないと思う。駆け上がる様子が珍しくて注視していた。鳥は梢近くまで一気に登っていき、大きな鳴き声とともに飛び立って森に消えていった。
帰りはバスでなく石段を下ることにした。ここは2446段もの石段で有名なところである。以前讃岐の金刀比羅宮で奧社までの1368段を上ったが、それよりも多い。下り始めると、眼前には大杉、檜に囲まれた実に美しい森が広がっている。石段の数は多いものの比較的緩やかで歩きやすい。
三の坂から二の坂へと降りてゆき、やがて一の坂まで下ると、樹木の間にひっそりと建つ国宝の五重塔が現れる。六百年前のものという。当時の彩色はすでに剥落しているが、損壊はなく落ち着いた気品のある塔である。明治の廃仏毀釈の折に、羽黒山でもお堂は多く破壊されたというが、この塔は残ったのだ。この地のお堂が人手によって次々壊されていく様子をこの塔は樹木越しに見つめていたに違いない。そういう思いで塔の周囲を巡りしみじみと眺めると感慨深いものがある。
そこを過ぎると爺杉という杉の大樹が現れた。対になっていた婆杉もかつては近くにあったそうだが台風で倒れ、失われたそうだ。注連縄が張られた大杉を見上げると、真っ直ぐな姿ですっと天に向かって延びており、根も広く深く地に張っている。爺杉というより王者、大王杉といった風格を備えている。この辺りは谷間になっているため、五重塔も爺杉も風害を避けることができ、長く命を保ったのだと納得できる。
その先に行くと、岩から音を立てて豊かに流れ落ちる須賀の滝があった。澄んだ水の祓い川を渡り滝の前に佇んでその水音を聞いていると、この清澄な情景の中にいる幸せに静かに心が満たされていく。
鶴岡駅前に戻ってビジネスホテルで一泊、翌朝もう一度羽黒山を訪ねることにした。
昨日はあまり時間もなかったので石段は下りだけだったが、今日は上るほうも体験してみたいと思ったのである。
随神門の手前でバスを降りて、集落の中を少し歩いてみる。江戸時代には三百を越える宿坊があって栄えたという。現在も〇〇坊というようなものものしい名の宿坊が数多く並んでいるが、どの宿もひっそりしていた。
宿坊の入口は、昔風に冠木門(かぶきもん)に注連縄を張ってあるのが特徴である。門柱に木を渡した屋根のない門であるが、時代劇に出てきそうな雰囲気である。また宿坊や民家には、太い綱を折りたたんだものが軒の正面に吊るしてあるのが多く目に付いた。ガラス箱にこの綱を入れて飾っている家もある。今までこのような風習を見た事がなかったので、集落で会ったおばさんに由来を尋ねてみた。
おばさんの話によると、毎年大晦日に羽黒山神社では、つつが虫(魔物)を退治する松例祭という神事があり、そのときに使った引き綱なのだという。雪の上を引っ張っていき、つつが虫になぞらえた大綱を焼くという。雪のない年には他の山から雪を運んでくるのだそうだ。使用した引き綱は、魔よけとして大切に集落の家の軒に吊るされるとのことであった。この綱は誰でも飾ることができるのではないそうで、吊るす際には、その家ではお客さんを招んでお膳を出し披露の振る舞いをするのだとも・・・・。綱はその家の格の高さや財力を象徴するものでもあるらしい。
隋神門から入っていく。まず継子坂という坂を下りて谷間に入る。神橋を渡るとそこには須賀の滝、祓川、爺杉、五重塔・・・・朝の冷気の中に昨日見たのと同じ静謐な世界が広がっていた。心が洗われていくような清浄空間である。
今日は2446段の石段をゆっくり上がることにする。ここの「羽黒山杉並木」はミシュランのガイドブックで高く評価され「わざわざ訪ねる価値のある場所」と紹介されたというが、その効果なのかちらほら外人観光客の姿も見える。
石段には花や人の顔が刻まれているというが、どれがそうなのかわからない。しいて言えば、これなのだろうかと思うものも一つ二つあったが、かなり見つけにくかった。
二の坂の近くに「火石」という石が柵で囲ってあった。磐座かと思って近寄ると見たところは普通の岩に見える。火石という命名から隕石を祀っているのかとも思ったが、夜になると光る石であるということであった。蛍石というのだそうだ。こういうものが山中でぼんやり光を放っていれば不思議である。この山が神秘とされる所以でもあったろう。
途中茶店があり、そこからは眺望がよく、庄内平野が一望できた。ここまでで半分ぐらいは上がってきたのだろうか。再び石段を登っていく。両側の杉の大木はどれも見事で、見回すとどこまでも豊かな森が広がっている。以前歩いた熊野古道に似ていると感じた。山中を辿る参詣道にはどこか共通する雰囲気が漂っているのだろう。
時間をかけて三の坂を上がりきった。古風な佇まいの斉館を眺め、本殿、鏡池と進んでいく。蜂子皇子の社、陵墓、摂社、末社と昨日に続いて広い境内を歩いていると、みやげ物店の店先でパック入りの「モッテ菊」が並んでいるのに気がついた。湯殿山参篭所の夕食に出ていたきれいな薄紫色の菊の花である。その横には「イナゴの佃煮」パックもあって、旅人の目には珍しいものと映った。(地元では普通に使う惣菜らしく、これらは鶴岡駅前のスーパーでも売られていた)
羽黒山はしんと静まりかえっている。ときどき観光バスがやって来るが、人並みが途絶えてしまうと、後は再び静寂の世界になる。じっとしていると段々寒くなってくる。秋とは言えやはり山形の山中なのだった。もう一度境内を巡って羽黒山の深い森を眺めた後、鶴岡へと戻るバスに乗った。