一風土記への旅一
伊和神社(播磨一宮)
一風土記への旅一
伊和神社(播磨一宮)
播磨一宮は姫路市にあるのではと思いがちだが、宍粟市(しそうし)一宮町に鎮座している。伊和(いわ)神社である。これまで何度か訪ねようとしたが、あまりに交通不便のため思いとどまってきた。三宮から山崎まで一気に高速バスで、という方法もあるが、今日はJRを利用し、時間をかけて路線バスを乗り継ぐことにする。
JR姫路駅で姫新線に乗り換える。播磨新宮で降りて、バスで山崎へ。揖保(いぼ)川に沿ってバスは北上していく。揖保は手延素麺の有名な産地、畑の中を縫うように川水が流れゆき岸辺にはゆるく藻がなびいている。その向こうには晩秋の紅葉の山が連なり、彩りが美しく見飽きない。日本の原風景のような光景が広がっている。
山崎で時間待ちをしてバスを乗り換え、さらに川沿いに北上を続けてゆく。近づく山並みの情景、冬枯れの始まった田畑を眺めているうちに、ようやく一宮に着いた。うっそうとした深い森が眼前にある。朝早く家を出たのにもう昼近い。ここはほとんど鳥取県に近いのではないだろうかと思えてくる。神社前にある「道の駅」ではちょうど朝市が開かれていて、地元のみごとな野菜や鳥取産の梨、日本海の魚介が並べられていた。
伊和神社の森へと入ってゆく。結界を示す標柱(しめばしら)をくぐった先に両部鳥居が立ち、さらに神門を進むと手水舎がある。広い境内は濃い緑に包まれていて、静寂そのもの、林立する杉も檜も大木が多く森は深い。漂う空気もひんやりとしており、鳴き交わす野鳥の声も木々の高い梢から降ってくる。入口は東にあってずっと西へと進んでゆくが、手水舎の所で参道は南に折れる。ふつう神社の社殿は東、または南向きに建てられることが多いのだが、ここの社殿は北向き、珍しい布置である。
祭神は伊和大神。大己貴命(おおなむちのみこと)、大国主命とも。神社側の見解では、それらは同一神とみなされている。けれども別々の神であるという説もあって、定かではない。時代の推移によって祭神の新旧交代、神名の変更などもあったかと考えられるが、複数の祭神であったとしても、現在はすべて大己貴命の名に重ね、祭祀しておられるようである。
余談になるが、どなたかの本で大国主には多くの別名(葦原醜男、八千矛神、大穴持命、大己貴命)があることについての解釈を読んだことがあった。それによると、葦原醜男というのは青年時代の名、しこを、というのは強い男という意味で、八千矛神というのは武器をとって敵と戦ったことにちなむ名、妻を娶って大きな家を構えた頃の名が大穴持命、大己貴命で、多くの国を統一していって最終的に大国主命と名が変わっていくそうである。たとえば出世魚の鰤が、ワラサ、ツバス、ハマチ、ブリと成長の段階で名を変えていくようなものであるという説であった。
興味深い説であるが、同一人物とは固定せず、固有名ともかぎらずに、年齢や身分に応じて支配者の呼称が変化することがある、という風に考えれば、理解しやすい。
ちなみに本居宣長の古事記伝によると、その大国主命も死後は名が変わり、大物主命(おおものぬしのみこと)という名が大国主の幽界での名であるとしている。
神社由緒によれば、創祀は成務天皇の時代(欽明天皇の時代という説も)という。土地の伊和恒郷という者に大神から「我を祀るように」との託宣があった。森に行ってみると、一夜にして木々が生い茂り、空には多くの鶴が舞い、二羽の鶴が降臨し北向きに眠っていた。そのことにより、社殿を北向きに建てたと伝承されている。
すると、その時点では伊和大神は播磨の社に祀られていなかったということになる。あるいはかつては敬われていたが、時代が進むうち伊和大神を奉じる氏族が衰退、大和の支配下に入るなどして支配者も交替し、伊和大神は人々の記憶から遠ざかってしまっていたのだろうか。伊和大神は自分がもっとふさわしい扱いを受けることを望んで子孫の夢枕に立ち、自分への祭祀を促した、という風にもとれる。
伊和大神とは、古層における土着、先住の神の名であろうかと思われる。開拓神としての名であろう。伊和大神は出雲から来た神(風土記による)という説があり、神の出自については定かではない。また揖保川流域や宍粟市近辺では、土地の領有を巡って、伊和の大神と渡来人の集団天の日槍(ひぼこ)との間で激しい戦いもしばしば起きたようである。誰がどの時代にここを開拓しておさめ、この地を守り、領したか、そしてここに神として祀られて鎮まったのか、今となってはそれを特定し、探り当てることは難しいかと思われる。
社殿は風格があって好もしい。裏に回ってみると、鶴石と呼ばれる降臨の石が玉垣で囲ってあった。そこは窪んで低くなっておりひっそりとした場所、大小二つの磐座があり、しばらく佇んで岩を見つめていた。由来についてはよく知らないけれども、人の霊は死後、白い鳥になって空を翔るといわれている。人の魂は鳥になって他界へと向かうと信じられていたらしい。(倭建命の霊が白鳥になったという伝承が想起される)
二羽の鶴になってここに舞い降りてきたのは、どの時代の神霊であったのだろう。この地にゆかりがあって、ここに葬ってほしかったのだろうか。鶴が眠る姿というのは、その死を暗示していると思われる。ここを神霊の鎮まる奧津城(墓所、あるいは廟所)としてみるなら、大きい岩のほうは男神をあらわし、小さいほうは妻神か、御子神ということになる。
ここのお社が北向きの理由は、由緒に説明されている通りであるが、その意味するところを推測してみると、その方向が、神霊のやって来た故郷に当たるためであったとみていいのだろうか。あるいは武人として戦った神霊であるのならば、ここを自ら永眠の地と定め、この地を守護し、北方向の敵を威嚇し続けているかたちとも考えられる。
播磨国風土記の世界を見てみよう。
宍禾(しさわ)の郡。そう名づけられたわけは、伊和の大神が国土を作り固められた後に山川、谷、峰の国境を定めに巡行されたとき、大きな鹿が舌を出して矢田の村で大神に出会った。大神が言われるには「矢はその舌にあり」と。それで宍禾の郡、村を矢田と名づけた。(播磨国風土記 宍禾の郡)
地名起源説話として、大きな鹿が矢で舌を射抜かれた壮絶な姿で、大神と出会ったというのである。狩に関する逸話ということなのであろうか。ほかにも大神の国占めのときに鹿が来て山の峰に立ち、山の形が墓に似ているので鹿来(かぐ)墓と名づけた(揖保郡)など、鹿にまつわる話はいくつか載っている。
宍禾郡のこの逸話の場合、なぜ大鹿が舌を射られたのかが疑問である。背に刺さったのならわかるが、舌というのは・・・・。伊和大神が境界を定めるために放った矢が、鹿の舌に刺さったという説もあるらしいが、それにしてもなんという痛々しい気の毒な鹿の姿であろうか。
鹿を現実に現れた山野の鹿とみてもいいが、比喩として土地の精霊、地霊、先住民を象徴的にあらわしているという風にみるなら、大鹿というのはその長の寓意的表現、矢で舌を射抜かれた、というのは先住民が大神に敗北し、抵抗の術を失った苦しみの姿ともとれる。
(風土記には、国占め、国見など、要所ごとに鹿が何か意味ありげな姿で出てくる。このことが気になるので少し考えてみた・・・・。これらを、角のついた鹿の頭の被り物をまとっていた人、と想像すれば、それは山地の民の装束、ということにもなるのだが)
鹿に会った、ししあふ、というのが転訛して、宍禾(しさは)の地名として残ったと説明される風土記の背景には、大神が来て山野を拓き、山に住む鹿も含めて樹木も獣も土地神もみなくだき伏せた、というような平定の逸話が投影されているのかもしれないとも思う。
伊和大神の国占めについてみてみよう。
讃容(さよ)の郡。大神と、土地の玉津日女(ひめ)命との間で、土地の占有を争ったとき、日女命は、鹿を捕らえその腹を割いて籾種を血に浸すという呪術を駆使して、一夜で苗を生えさせたのだった。大神は負けて、立ち去っていく。この鹿は山に放たれた。(播磨国風土記、讃容の郡)
土地の日女神は自分の民と土地を守るために、大神が知らない秘術を用いて勝負に出たようである。霊力のある女性とみられる。日女命は妻どいに応じ大神の妻にはなったものの、領地までも大神に取られてしまうのはなんとしても防ぎたかったのであろう。
別の讃容郡の筌戸の項には、
「大神、出雲の国より来たまひしときに、嶋村の岡を以て呉床(あぐら)として坐(いま)して筌(うへ)をこの川に置きたまひき・・・・」とある。大神が出雲からきて、川に仕掛けを置いたというのである。(播磨国風土記 讃容の郡)
この話は川漁の獲物で吉凶を占ったということらしい。その鹿の肉を食べようとしたところ、地に落ちてしまった。それで大神はそこを出て別の所に去っていかれた、と話が続いてゆく。鹿肉が口に入れば幸先が良く、国占めは行われたのだろうが、土に落ちたので不吉の兆、国占めは失敗したのだと思われる。
この場合、鹿は地霊を象徴しているのだろう。大神は国占めのために播磨の各地を歩いたようで、これらの記述からみると大神は外来神であり、さらに古い先住の民が播磨各地にいたことが推測できる。
次に天の日槍との戦いの記述をみてみよう。天の日槍との戦いの場面では、伊和の大神、葦原志挙乎、葦原志許乎など複数の名が用いられている。
粒丘(いいぼおか)。そう名づけたわけは、天の日槍(ひぼこ)の命が韓(から)の国から海を渡ってきて宇頭(うず)の川辺に到着し、宿処(やどり)を葦原志挙乎(あしはらしこを)命に乞うたので、海中を住居として許した。そのとき外来の神の日槍の命は、剣で海水を掻き回し、それによってできた島に宿った。霊力の盛んなこの外来の神の行為におそれをなした志挙乎の命は、先に国を自分のものにしようとして、巡行して北上し、粒丘に着いて食事をしようとした。急ぎ焦っていたので、口から飯粒が落ちた。だから粒丘と名づけたのである。その丘の小石は皆飯粒に似ていた。また杖で地を刺すと泉が湧き、その水流は南北に通った。(播磨国風土記 揖保の郡)
揖保郡の地名起源説話である。渡来人の集団天の日槍が現れて、居住するための地を要求してきたので、その勢いに驚いた葦原志挙乎が、対抗しようとした様子が描かれている。思いがけない事態にかなり動揺しているようである。天の日槍軍は海から船で河口に入って上陸し、さらに土地を獲得しようとしていたのであろう。葦原志挙乎はそれを防ごうと急ぎ、軍を率いて駆けつけたのである。下流で戦うのではなく、川の上流をまず押さえようとして北上、どこかの丘に上ったと考えられる。その比定地は、たつの市の揖保町の中臣印達(なかとみいだて)神社境内に「粒丘」と刻まれた石碑があるそうで、そこが関係地とされているようである。
この付近の川はどれも北から南へと流れ、揖保川もあちこちの谷から支流を集め、海へと流れ下っている。土地の長にとっては川の上流を制することが戦の勝敗を決するという判断だったのであろう。川上で水を堰き止めれば下流は水に困るからである。
「杖以て地(つち)を刺す」とは土地の占有を示す行為、支配者として土地の領有を宣言したということであろう。
こんな記述もみられる。
奪谷(うばひだに)。葦原の志許乎(しこを)の命と天の日槍の命と二はしらの神、この谷を相奪ひたまひき。故(か)れ奪谷といふ。(播磨国風土記 宍禾の郡)
谷を奪い合うとは、水源を巡って二つの勢力が争ったということであろう。水を左右できるので上流を取った側が断然有利なのである。戦いは川をさかのぼり川上の地で展開されたことであろう。このときの勝者はどちらであったのか。
波加(はか)の村。国占めましし時に、天の日槍(ひぼこ)の命、先に到りし処なり。伊和の大神、後に到りたまふ。ここに大神、ひどくあやしと思ひて、のりたまひしく「度(はか)らずありて先に到りしかも」故(か)れ波加(はか)の村といふ。(播磨国風土記 宍粟の郡)
国を占有するとき、天の日槍の命のほうが先に到着して、伊和の大神のほうが後になってしまった。そこで大神が「自分が対策をはからなかったために、あちらのほうが先に着いたのだな」といわれた。
天の日槍の軍がいったんはこの土地を領有したのであろうか。そして後になって大神が取り返したときに、この村の名をつけたのであろうか。
両勢力の戦いの決着は、御方(みかた)の里という山地において、神意による占いによってつけられたと風土記は記している。
葦原志許乎と天の日槍がそれぞれ黒葛(くろかづら)三条(みかた)を足に着けて投げると、葦原志許乎の黒葛は、一本は但馬の気多の郡に、一本は夜夫(やぶ)の郡に、一本はこの村に落ちた。天の日槍の投げた黒葛は三本とも但馬の国に落ちた。それで天の日槍の命は但馬の伊都志(出石)の地に鎮座されているのである。(播磨の国風土記 宍禾の郡)
土地を巡る戦いの最終的な決着が、武力ではなく土地の神霊の裁定である「うけひ」によってつけられたというのである。外来の天の日槍の命はこの決定に従い、播磨の地を去って但馬へと行ったという。はじめに上陸した播磨の国でも、風土記にも残るような戦闘が住民との間に繰り広げられたのである。但馬の国でもここと同様、地元民との間にさまざまな軋轢が生じたことであろうことが想像できる。
それでは天の日槍命とは、いったいどういう人物であったのか。
日本書紀では、垂仁天皇の御代に、新羅王子の天日槍が神宝、玉三種、矛、刀、鏡、熊の神籬(ひもろぎ)を持って渡来したと記述されている。船で来てはじめは播磨の国の宍粟邑にいた。天皇が重臣たちを遣わして天日槍に「お前は誰か、どこの国の人か」と問いただすと、「自分は新羅の王子で、自分の国を弟に譲り、日本の国に住むためにやって来ました」と答えて神宝八種を奉った。天皇は播磨の国の宍粟邑と淡路島の出浅(いでさ)邑の二箇所に住むのを許そうとされたが、天日槍は諸国を巡って心に適った地を選びたいと申し出て、宇治川をさかのぼり近江に住み、その後但馬国に行き出石の首長の娘を娶って子孫を残した。(日本書紀 垂仁天皇)
古事記では応神天皇の項に天の日矛(ひほこ)の名がみえる。
新羅の国の阿具沼のほとりで、賎の女が昼寝中に太陽の光がほとを差して女は孕み、赤玉を生んだ。王子の日矛が、その玉を賎の男から手に入れて床の辺に置くと、玉は美女になったので妻とした。妻は常に種々の珍味を作って夫にすすめるので、夫は心がおごって妻を罵り、妻は祖(おや)の国に行くといって小船で逃れてきて難波にとどまった。難波の比売碁曽(ひめこそ)の社に祀られる阿加流比売(あかるひめ)神である。
天の日矛が妻を追ってきて、難波に入ろうとすると、難波の神が海上を遮って入れなかった。それでさらにかえって但馬国に船泊(ふなはて)をし、そこにとどまって土地の女を娶り子孫を残した。天の日矛が持ってきたのは玉、領巾(ひれ)、鏡、など八種で伊豆志(いずし)の社に祀ってある。(古事記 応神記)
ざっと史書の記述をみると以上のようなことになる。天の日槍、天の日矛が新天地を求めて来たのか、それとも逃げた妻を追ってきたのか、どちらなのかはわからないけれども、渡来人集団はこのときだけでなく、各時代にさまざまな理由により何度も来たことであろう。そういう異国の人たちの姿が人々の間に強い記憶として残り、天の日槍という名に集約、仮託されているのかもしれない。
風土記の記述でみるかぎり、伊和の大神は出雲(あるいは別の地)から来て播磨に入って国占めをし、山野を拓いて国作りにいそしみ、勢力を伸ばしていったようにもとれる。そしてある時代には、渡来人集団がやって来て播磨に上陸、川沿いに北上を続けたらしく、そのとき播磨の人々は外来の人々が来て住むことを拒み、大神は必死で戦ったようである。
伊和大神、葦原志挙乎、葦原志許乎と次々変えて語られる戦の指揮官の名も、固有名ではなく、武人として応戦した長や将軍たち、その土地の代表者としての名であったのではないだろうか。
伊和神社に話を戻そう。
境内手水舎の横には「乙女の泉」という童女を刻んだ彫刻があって、それは比較的新しいもののようであった。その裏や近辺にはかなり大きな磐座がみられる。巡ってみると注連縄こそ張られていないもののどれも立派な大岩である。社殿裏の鶴石と対応する磐座なのかもしれない。
乙女像の前には心の字に掘りくぼめた池もあり、右手の岩の上には鶴の置物もあり、かつて水を流していたような痕跡もみられた。ここは小公園風に整備された時期もあったらしいが、今はすっかり寂れていて、足元には落ち葉が厚く積もり池も枯れている。荒れた通路を歩きながら木々を見上げていると、風ではらはらと黄葉が舞い降りてきて、もの哀しい雰囲気であった。(左手に奇妙に手を加えた造形物を置いてあるが、違和感があり残念である)
中央磐座の裏には、かつての泉の名残であろうか、土管で塞いだ井戸の跡らしいものもみられる。勝手な想像でいうので、違っていたら申し訳ないが、おそらくここに泉が湧いていて、管で水を導き心字池や鶴の置物の辺りにまで水を引いていたのであろう。何らかの理由で井戸が枯れてしまったか、あるいは冬の季節向きではないので、閉じてあるのかもしれない。乙女の泉についての説明板も入口左手にあったが、古びて汚れほとんど字も読み取れず、由来については不明であった。
最後に伊和の地名起源をみておこう。
伊和(いわ)の村。本の名は神酒(みわ)なり。大神、酒(みわ)をこの村に醸(か)みたまふ。故(か)れ、神酒(みわ)の村と曰(い)ふ。また、於和(おわ)の村といふ。大神、国作りおへて以後(のち)、のりたまひしく、「於和(おわ)。我が美岐(みき)と等し」とのりたまひき。(播磨国風土記 宍禾の郡)
伊和の村のもとの名は神酒(みわ)であったというのである。大神が酒をこの村で醸造なさったので神酒(みわ)の村といい、また於和(おわ)の村ともいうのである。大神が国作りを終えて、おう、私の酒と同じくらいうまくできた、といわれたことが由来であるという。(風土記 小学館)
大神が国作りを終えて後、神が疲労して気力も抜けて仮死状態になるのを「おえ」というのに通じるとし、「美岐(みき)を等(まも)らむ」と読んで美岐を棺とみて、この地で大神が亡くなって鎮座したとし、そのことにちなむとする解釈もある。(風土記 岩波書店)
素人がごく普通に考えれば、これだけ立派な磐座が境内にあるのだから、伊和神社の伊和とは磐座の磐かとも思えるし、たしか古では、イワは(聖地の)岩山という意味だったような気もして、そのほうが自然だとも感じるのだが・・・・学者の先生方の解説は上述のようであったので紹介しておく。
伊和神社を出ると、秀麗な神奈備らしいかたちの山がのぞまれた。紅葉に山全体が染まり美しい。神体山に当たるかと思われるが、それは北東にある宮山(標高五百十四メートル)という山で、山腹や山頂には多くの磐座があるということであった。帰りのバスの時間が気になるので宮山に上ってみることはできなかったが、晩秋の秋山の情景が印象に残った。