一吉野天川村を歩く一
天河弁財天(天河神社) みたらい渓谷 洞川温泉
一吉野天川村を歩く一
天河弁財天(天河神社) みたらい渓谷 洞川温泉
以前から日本三大弁財天の一つである天川村の天河弁財天(天河神社)に行ってみたいと思っていた。同じ村内にある洞川やみたらい渓谷も散策に良さそうである。強行軍で日帰りすることも可能なのだが、何となくそこは遠い場所に感じられて、行くのを延ばしているうち今日に至ってしまった。
聞くところによると、天河神社はその人に縁があればふっと行けるそうだが、時期が来ていなければ、何らかの支障が起きて行くことがかなわなくなるのだとか。今回、一泊二日の旅を計画したのだが、ちょっと不安になる。無事にたどり着けるのだろうか。
十月半ばのある日、早朝に家を出て、阿倍野橋から近鉄で下市口駅へ、そこで洞川温泉へ向かうバスに乗った。こう書けばいかにも順調な旅のようであるが、実は夫とともに兵庫県にある自宅を出て、最寄り駅から電車に乗っていくつか駅を進んだところで、ガスの消し忘れが心配になった夫が、突如引き返すと言い出した。
こんなことははじめてである。ああこういう風に思いがけない「支障」が起きて、天河神社に行けなくなるんだな、と内心でがっかりするものがあった。でも家に戻った夫が、ガスが消えていたのを確認、問題がなくなり、その上ちょっとした忘れ物もついでに取って来ることができたので仕切り直し、一時間半遅れで出発することになった。
今年は九月に十二号、十五号と二回も台風が襲来し、奈良県にも大きな被害が出て、豪雨により水没した集落や川の氾濫の様子が連日のように報道され、心を痛めていた。これから向かう天川村は水害地域であり、どうなっているのか事情がわからないので危惧し、いったんは計画した旅を先へ延ばそうとしていたのだが、先日夕方のテレビで、天川村の村役場の人が大阪駅で観光PRしているのを見てひと安心、さらに天川村にも交通事情などを電話で確認の上、訪れることにしたのである。
バスは天川川合を過ぎ、山中を進んでいき、虻(あぶ)峠というトンネルを抜け、山上川に沿って上っていく。水量も低いし水は遥か下を流れているが、バスの窓から見ていると、流木やごみが水面よりかなり高い位置に引っかかっており、増水時の信じられない高さを示していた。
下市口から山中を走ること約一時間半、バスはようやく終点の洞川温泉に着いた。降りると川からの風がすうっと冷たく集落を吹き抜け、辺りは何ともいえない冷気に包まれていて、吉野の深い山の中に来たのだと実感された。
洞川(どろがわ)は古くから大峰山の門前町として栄えた里である。大峰山は言うまでもなく山伏、修験道の聖地、信仰の山で、千三百年間女人禁制を守ってきたことでも知られている。洞川の参道には今も二十数軒の行者宿が立ち並んでいる。
洞川温泉の通りはレトロな雰囲気が漂い、立ち並ぶ旅館は古めかしい造りで、時間が昭和の時代に巻き戻されたような感じがした。木の皮から作った伝統の胃腸薬、陀羅尼助(だらにすけ)丸を売る店、行者用白衣、ほら貝、数珠、錫杖など法具一式を並べた店、珍しさについ立ち止まってしげしげと眺めてしまう。
以前葛城に行ったとき、行者さんの集団に出会ったことがあった。この人たちは電車内では普通の服であったが、御所駅に着くと駅前、路上でいっせいに服を脱ぎ、あの白装束へと着替えはじめたので驚いた。頭には黒い頭襟(ときん)や笠、手には手甲をつけ、鈴懸の白い法衣にふわふわの丸い房のついた結い袈裟をかけ、とみるみる山伏さんの服装に変身していくのである・・・・。あれは葛城、金剛の山に入る人たちだったのだろうか。
夏にここ洞川はそういう修験の人たちの宿として賑わうそうだ。でも山頂にある大峰山寺の「戸閉め式」もすでに九月に終わっているため、旅館街に白装束の行者さんたちの姿はなかった。それと水害のせいもあるのだろう、飲食店も閉まっている所が多く、どの宿も閑散としていた。
立ち並ぶ多くの宿には、軒先に長い縁側がついていた。かつては山から帰ってきた行者さんが縁側に腰をかけ、たらいで足を洗ってから部屋に上ったという。まるで時代劇に出てきそうな雰囲気のしつらえである。今ではもう使われなくなった黒ずんだ縁側には、古い置物の類や趣味の盆栽なども飾られていた。
今夜泊る宿はすぐにわかった。九月の台風の後、道路が寸断されたことで洞川でもキャンセルが相つぎ、客が激減したのだそうだ。この宿もがらんとして、宿泊客はほかにはいないようだった。部屋に荷物を置いて、山上川沿いに女人結界門の辺りまで散策に出かける。
川の近くにこうもりの岩屋、とうろうの岩屋がある。一の行場とされ、役小角がこもって修行した洞窟と伝えられる。入り口が閉まっていたので、外から眺めるのにとどめた。こうもりの岩屋前の川水は美しい青緑色をしており、眺めていると魅入られるようで不思議な気分になった。
森林の中を抜け、川沿いの道を上る。道は流木が転がり倒木が道を塞ぎ、荒れている所もあった。増水の折の雑多なごみがそのままになっているのを見ると、川は今おとなしく流れているが、先月には暴れ川になったのだとわかった。川原には石灰岩だろうか、きれいな石が多くあって陽を受けて眩しいように輝き、その純白の色に見とれつつ川をさかのぼった。
役小角の母を祀るという母公堂を過ぎる。土地の伝承では、山で修行する小角を案じて山へ入ったものの、母親は子に会えずに引き返し、ここに庵を結んで帰りを待ったと伝えられる。お堂の傍らに女人結界門があり、ここがかつての結界で、現在は約二キロ先の山寄りに結界門が立てられているという。
緩やかな登りの広い道を進んでいくと、やがて視界が開け、大峰山脈の山並みが現れた。大峰山は広義には大峰山脈を、狭義にはここ山上ケ岳(一七一九メートル)を指すという。夫に訊くと、以前夏に一般登山者として頂上まで登ったことがあるそうだ。
山上ケ岳の登山口にある女人結界門の所まで行ってみた。門のそばには、女人禁制の掟は宗教上の伝統であり、伝統を尊重するため、というような意味のことが書かれてあり、横に英文の表示もあった。千三百年もこの地で女人禁制が続いてきたのは、修行の妨げになるからだろうが、ほかにも理由はあったらしい。でも絶対に女性を山に入れなかったわけではなく、抜け道もあり、嫁入り行列とか緊急事態の時には、女性も通れたそうだ。
女人結界門をしばらく見て引き返す。下っていく道筋に「ごろごろ水」という行者の水飲み場があった。名水百選に選ばれ、今はその近くに湧き水を汲む所が別に設けてある。車でやって来た人たちが、ポリタンクに水を詰めていた。手に受けて飲んでみると冷たくておいしい水であった。
洞川の集落に下り、役小角が開いたという龍泉寺へ行ってみた。行者さんが山に入る前に身を清める滝や泉、境内の池などを順に見て回る。夕方になると急激に気温が低くなっていくのがわかる。夕食は外の食堂で、あまごの塩焼きと湯どうふの定食。素朴な味わいで温まった。
天河神社
翌日は宿の人に車で天河神社まで送ってもらった。台風十二号で途中道路が崩落したため修復中のところがあり、豪雨の被害は天河川合から天河弁財天に近づくほど大きいようだった。
「天の川の増水でこの橋が水没、橋から数メートル上まで水が来たんですよ」
と聞いて絶句する。車は洪水に耐えたという赤い弁天橋を渡り、神社のある坪内の集落に入っていった。
天河神社の祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。神仏習合により弁財天と同一視されている。弁才天(弁財天)はインドの河の神サラスバティーで、楽器を手に持つ女神である。芸能、音楽の神として信仰を集めている。ご本尊は秘仏ということであった。
天河神社の創建は古く飛鳥時代にさかのぼるという。開祖は役小角でここを拠点として大峰を開いたとされる。天武天皇が壷中天(壷の中に不思議な別世界があったという話)の故事により、この地に社を建てたと伝えられ、空海も一時期ここで修行したという。集落名は坪内、実際丸い壷のような地形で低くなっている。
南北朝時代、南朝方の天皇や皇子は天川村を本拠とした。修験の山伏、天川の郷士らも南朝方につき、坪内にも御所の坊と呼ばれた行宮があったという。川合にあった河合寺には黒木の御所と呼ばれる行宮が設けられていたが、北朝方に攻撃されて炎上した。天川村はたびたび北朝方に侵攻され、その折には天川郷士らも応戦し、さらに深い山中へ天皇をかくまったという。
朝早いので天河神社の境内はひっそりしていた。手水舎に水はまったくなく、横の赤い太鼓橋は、洪水で壊れたのか流出したのか見えず、池も水を抜いて修復工事中であった。机が出してあって水の入った手桶と柄杓、手をぬぐうのに半紙を切ったものが重ねて置いてあった。これらを使わせてもらって手を清め、急な石段を上っていくと、中ほどには磐座と摂社が五座あった。
石段を上りきると、思いがけず広い神楽殿の舞台と立派な拝殿が現れたので驚いた。舞台では神楽や能が演じられるのであろう、檜づくりの実に美麗なものでまだ新しく、屋根が社殿とひとつにつながっているのが珍しい。天河神社は能と縁が深く、文化的価値のある能面も多く所蔵しているそうだ。拝殿の鰐口には、五十鈴というこの神社独特の形の鈴が使われ、とても重々しい感じで実際鳴らしにくかった。五十鈴は、天鈿女命 (あめのうずめのみこと)が岩戸の前で舞った折の、持ち物であるちまきの矛(神代鈴をつけた)にちなむそうだ。
本殿はここよりさらに上の岩の上に建てられていた。石段下にあった社務所や建物は床上浸水して被害に遭ったが、ここはそれより高い位置にあったので、社殿も舞台も無事だったのである。
反対側の石段を降りて集落の中を少し歩き川の方へ行ってみた。川へ近づくにつれ、横倒しになった家屋、つぶれた屋根、壊れたペンションの建物、と無残な光景が次々に出現し、言葉を失う。天川村は風評被害で客が来ず困っているとテレビでは言っていたけれど・・・・天川村といっても広いし、洞川ではそれほど被害があったようにはみえなかったが、坪内地区では、目を覆うような惨状のままであった。坪内では犠牲者も出ていて、それはこの春に赴任してきたばかりの中学校の女の先生だったという。
痛々しく枝がもげた栗の木の横に立ち尽くす。そこから先は危険で、もう進むことはできない。道路の先はひたひたと水に浸かっていて、橋も流失している。川向こうの山(神体山の高倉山)が崩れ落ち、その下にあったはずの禊殿というお社も土砂で埋没、流れはせき止められて一面土砂の海となっていた。赤茶色にえぐり取られた山の斜面を無言で見つめる。おそらくここに住む人たちにとっては、悪夢としか言いようのない光景が広がっていた。
台風の前、天の川の清流はここちよく音を立てていたことだろう。六角岩という聖石が左岸にあって、右岸には神体山と禊殿、その前の流れに神官が身を浸して清める禊の場だったという。いわばここは水の聖空間だったのである。けれどもこの位置からは、川岸にあるという六角岩を確認することはできなかった。
美しかったときの天の川を知らないので、今はじめて見るこの水害禍の絶望的な情景を、目に焼き付けて帰るよりほかない。自然の力は厳しくて恐ろしいのだと思う。色んな神社を訪れたが、神体山の崩落現場を目の当たりにしたのははじめてであった。神体山が崩れ落ちたというのは、どう解釈してよいのかわからないが、やはり一種の神様の死のかたちを見ているような気がした。それもまた神の意思であったのかもしれないが・・・・。
日本三大弁財天の厳島神社も、台風で本殿が浸水、強風で由緒ある建物が損壊するなど、過去に何度か被害に遭っているし、同じく三大弁財天の琵琶湖竹生島も、近年増え続けるカワウの被害に悩まされ、宗教上の理由もあって大量に殺生もできないので、裏山全体が糞害のため白く染まっていた。天河の洪水被害は、本当に痛ましいことだけれど、なんといってもここは古からの水の聖地、また美しい姿でよみがえる日がきっと来るに違いない。
集落内を歩いて引き返していく。畳のないむき出しの家の床に白い消毒剤が撒かれ、奥で片づけをしている人影があった。その横を、目を伏せて通り過ぎる。天河神社へと戻り、拝殿に手を合わせたあと、石段を降りていった。
境内では作業衣姿の巫女さんがお掃除に余念がなく、大イチョウの木の下では、宮司さんが屈みこんで、手でたんねんに砂利の間のごみを取り除いておられた。お参りに来た集落の人が足を止め、宮司さんに慰めと励ましの言葉をかけていく。再び静寂が広がる中、神社の人たちは黙々とそれぞれの作業を続けておられた。
みたらい渓谷
みたらい渓谷への道を歩きはじめた。今見てきたものが重い衝撃となっていて、ともすれば傍らの天の川を見つめてしまう。道路から十数メートル下、今はきれいな青い流れであった。
川筋に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社があったので立ち寄ってみた。ふだんは村人の崇敬が厚いのだと思うが、今はとてもここまで手が回らないのだろう。気の毒なくらい荒れて片付けられておらず、洪水時のごみが散らばっていた。
川合までずっと車の往来する道路を歩くのも、と思ったので、橋を渡って山添いの道をとろうとしたのだが、しばらく進むと通行止めになっており、橋を引き返すことになった。次の橋でもう一度試みて山に寄るが、また通行止めで引き返す。山に近い道はまだ復旧中なのであった。
みたらい渓谷の入り口を探し、川合の手前から入る舗装道路を進んでいく。川の左岸をしばらく行くと、みたらい渓谷遊歩道の入り口を見つけた。ずっと湿った苔の道が続き、清流を見ながら遡る。奇岩、大岩の連続に驚かされる。道はまだところどころ崩れている箇所があった。途中の吊り橋には、流されてきた木の枝が引っかったままで、改めて豪雨の威力を知る思いであった。対岸を見ると普通の道路であるが、こちら側は山に沿っているので、上ったり降りたり変化のある道である。ここで流れを見ながら、菓子パンとお茶の昼食をとって休憩する。
急な階段を上り詰め、橋を渡るといよいよみたらい渓谷の入り口であった。大峯山を源流とする山上川が、川迫川と合流する地点に峡谷が形成されており、これがみたらい渓谷である。巨大な岩盤を削るかのように、勢いよく目の前を滝水が流れ落ちていく。自然の力強さが迫ってくる。落差二十五メートルのみたらい滝で、その大きさ、水量、咆哮のような滝の音に圧倒され、しばらくたたずんで眺めた。
階段を上がって吊り橋を渡り山道に入っていく。右手には急流が渦巻き、巨石の間を縫って水が白く泡立ちながら走っていく。急峻な地形でスリル満点である。見とれて思わず足を踏み外しそうになりながら、ゆっくりと登っていく。各所に取り付けられた格子網目状の鉄板通路は下が透けて見えるので少々怖く、なるべく見ないようにする。
ほどなく落差十五メートルの光の滝が現れる。この滝には北朝軍に追われた長慶天皇が入水したとの伝承がある。
長慶天皇は北朝に対して強硬派であったらしい。南朝への協力を求めて各地に潜幸したといわれている。天皇は吉野でその生涯を終えたとも、京に戻って寺院で崩御したともいわれ、晩年の行動についてはよくわからないという。
でもここでの伝承によれば、天皇は黒木の御所を出て洞窟に潜んでいたところ、北朝軍が押し寄せたので、やむなく逃れようとし、増水した光の滝に誤って入水、遺体はみたらいの滝で引き上げられ、遺品なども寺におさめてお祀りしたということであった。もしかすれば北朝軍の追撃をかわすため、誰かが身代わりとなって峡谷で入水した可能性もないことはないだろうが・・・・。
川の近くには天皇が身を隠したとされる洞窟があった。ぱっくりと口を開けた黒い洞窟には、そこだけなにかまがまがしさが漂っているようで、光の滝というきれいな名を持つ滝とは対照的な暗いものが感じられた。
その光の滝のあとは、豪雨の影響で山寄りに迂回路が設けられ、危険な川筋からは離れて歩いていくことになり、渓谷としての見どころはそこまでであった。
天川村は南北朝の時代、ずっと南朝方を支え続けたという。後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇らゆかりの史跡や戦闘の伝承が今も天川村に残っている。北朝侵攻の際には天皇や皇子らを天川郷士が警護してこの峡谷に案内し、観音峯中腹にある岩屋にかくまい、また洞川の龍泉寺にも天皇が身を寄せたと伝えられているそうだ。今たどっている山道も、往時の貴人たちの逃避行のときの道だったかもしれない。
峡谷を少し離れるとごく普通の山道となり、間近に見る急流の緊張感もなくなっていく。水音が遠のいていくにつれ、今通り抜けた渓谷はまるで異空間のようだったと感じられるのだった。岩を噛む急流、激しい水音、深い淵、それらが幻のように霞んでゆくのが残念である。ほどなく山道が終わって舗装道路に降りていった。
観音峯のバス停を見つけて行ってみるがバス便はなく、歩いて洞川に戻ることにする。川筋に近いほうの道を歩いてみたいともちょっと思うが、おそらく道は流木で荒れていて、もし通行止めにでもなっていたらここまで引き返さねばならないので、安全なバス道を行くことにする。
洞川に帰り着き、宿屋で預かってもらっていた荷物を受け取り、下市駅までのバス待ちの間の間にもう一度集落を歩いてみた。清らかな山上川の流れと紅葉がはじまった山のたたずまい、古い旅館街、のどかな山里の秋の情景がいつまでも忘れがたかった。