樋口一葉
「たけくらべ」(新潮文庫)
「日記」 (小学館)
樋口一葉
「たけくらべ」(新潮文庫)
「日記」 (小学館)
樋口一葉は明治五年(一八七二年)東京生まれ、本名は奈津、夏子とも称した。樋口家は山梨で農業を営んでいたが、父の代で上京、同心株を買うことによって士族の身分を得た。父は下級官吏となり、金融、不動産業にも手を広げ、生活は中流程度だったようである。一葉は学業に優れ、進学を望んだが、女に学問は要らないとする母親の方針で上級学校には進めず、私立小学校の高等科のみで終了した(十一歳)。悲しんだ一葉は母親に隠れて本を読んだという。一葉の文才や向学心を知る父は、和歌を学ばせることにし、一葉十四歳のとき、中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門させた。塾の生徒は名家の令嬢や夫人が多く、一葉は士族ではあったが農民の出であるので「平民組」であった。一葉は塾で書を習い「源氏物語」「古今和歌集」などの古典も学び、歌の才能を伸ばしていった。
一葉十六歳のとき、長兄が病死、翌年には父も死去し、多くの借金が残された。働き手を失って一家の生活は暗転してゆく。素行が悪く分家した次兄がいたが、結局は一葉が樋口家を継ぐことになり、一葉は十七歳で戸主となった。一葉には親が決めていた渋谷という許婚者があったが、父の死後、その婚約は結納金を巡るいきさつから解消された。一葉は戸主なので嫁にはゆけず婿をとるのだが、相手側から多額の結納金を要求されたのに対し、母親が立腹したということである。父の死後、一葉たちは次兄宅に身を寄せるが、母と次兄の折り合いが悪く、同居が困難になってゆく。一葉は歌塾の内弟子となって住み込み、塾の雑用をこなし、代稽古も務めて僅かな報酬を得ようとした。
一葉は半年近く住み込んだ歌塾を出て、母と妹と三人で、本郷菊坂町の借家に転居した。塾に通って手伝いを続けながら、三人で内職や針仕事に精を出すが、借金、利子の返済に追われ生活は困窮していった。一葉は同門の姉弟子、田辺花圃(かほ)が小説を書いて多額の原稿料を得たことを知ると、自分も文筆で身を立てようと決意する。
妹の友人を通して半井桃水に師事、小説の方法を学び、上野の図書館に通って多くの書物を読んだ。筆名を一葉とし、二十歳のとき「闇桜」などを桃水主宰の雑誌に発表。筆名は一枚の蘆の葉の舟に乗って揚子江を渡った、という達磨大師の伝説からとったとされる。けれども一葉の初期の作品は戯作の域を出ず、文壇からは評価されなかった。
半井桃水は長身の美男子で、妻に死なれ独身であった。一葉一家の困窮を知って援助を続けていたが、世間では桃水と一葉の間柄を取りざたし噂となったため、中島歌子の忠告に従って一葉は桃水から離れた。
一家は生計を立てるため、吉原遊郭近くの龍泉寺町に転居、荒物、駄菓子を売る店を開いた。仕入れは一葉が担当し、店番は妹がした。このときの界隈の見聞が「たけくらべ」となって結実することになる。田辺花圃の紹介で「うもれ木」「雪の日」などが一流の文芸誌に載ると、好評ではあったが、稿料は薄謝程度で生活苦は相変わらずであった。一葉は相場に手を出して金を得ようと考えるほどであった。かつての許婚者渋谷が現れて求婚してくるが、一葉の母親が拒絶。一家は利の薄くなった荒物店を畳んで再び転居、一葉は「萩の舎」で講師を務め、自宅でも和歌の弟子をとって教える一方、周囲の知人に金銭的援助を乞い続けた。一葉はさらに創作に力を注ぎ「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」などを書き継いでいった。
これらの作品が文芸誌に掲載されると、一葉の文名は高まっていった。特に「たけくらべ」は幸田露伴、森鴎外に絶賛された。自宅を訪ねてくる賛美者が増え、原稿依頼も相次ぎ、平田禿木、馬場孤蝶、川上眉山、泉鏡花、島崎藤村、上田敏など文壇での交友関係も広がっていく。けれども一葉は肺結核が進行しており、病状が次第に悪化、二十四歳半でその短い生涯を終えた。作家としての活動期間はわずか十四ヶ月であった。
一葉は、書きためていた日記を、死後焼き捨てるようにと妹に言いおいていたが、妹は日記も草稿も反故も、手元にあるものはみな大切に保存していた。結果として、一葉の研究者にとっては、これらは一葉の内面をうかがい知る貴重な資料となった。
「たけくらべ」 あらすじ
吉原に暮らす大黒屋の美登利は、勝気で美しい十四歳の少女、姉は遊郭一の花魁大巻であった。美登利は龍華寺の僧侶の息子、信如に惹かれている。信如は内気で真面目な少年であった。信如の父は、僧でありながら泡盛を飲み美食で太り、妻や娘に商いの店をさせ、金貸しの副業で蓄財にいとまがない。信如はそんな父親を内心で恥ずかしく思っていた。運動会の日、つまずいて泥に転んだ信如を見かね、美登利は紅の絹ハンカチを差し出して介抱し、皆にはやし立てられてしまう。困惑した信如は美登利を避けるようになる。
子どもたちの世界にも対立する構図があった。鳶の頭の子の長吉を中心とする横町組と、高利貸の子、正太郎の表町組である。信如は長吉の組に属し、美登利は正太の組に入っていた。夏祭りの夜、突如襲ってきた乱暴者の長吉たちは、横町に住んでいるのに表町に属した車夫の子の三五郎を見つけると、暴力を振るって痛めつける。美登利は止めに入るが、長吉に女郎、乞食と罵倒され、額に汚れた履物を投げつけられるという屈辱を受ける。襲撃を采配したのは信如では、という疑念にさいなまれ、美登利はその日を境に学校へは行かなくなった。
雨の日、家の前で鼻緒が切れて困っている人に気づいた美登利は、とっさに鼻緒にと布切れを手渡しに飛び出してゆくが、相手が信如とわかると恥じらって身を隠す。美登利はそれでも無言で格子越しに布を投げる。信如も美登利と気づくが、内気ゆえにどう動くこともできない。信如は偶然やってきた長吉の下駄を借りると、好意の布切れはそのままに家の前から立ち去っていった。
冬の酉の市の日、美登利は初めて島田に髪を結い上げ、美しい装いであった。姉と同じ道を歩み、遊郭で花魁となる日が近づいてきたのである。正太はいつものように話しかけるが、美登利はすっかり元気を失くしており、それからはもう子どもたちとは以前のように遊ばなくなった。
ある朝、誰がくれたのかはわからないが、水仙の造花が家の格子から差し入れてあった。美登利は懐かしく感じ、造花を一輪挿しに飾って眺める。それは信如がここを去って僧侶になる学校へ入る日のことであった。・・・・
吉原遊郭に住む人々の日々の暮らし、その中で成長してゆく少年少女の姿が鮮やかに写し取られた作品である。冒頭の「廻れば大門(おほもん)の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前(だいおんじまへ)と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き・・・・」はよく知られているだろう。題名の「たけくらべ」は伊勢物語二十三段、幼馴染の男女の恋の歌のやりとりからとったとされる。
筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに
(井戸の縁の高さとくらべていた私の背丈も、もうその井筒よりも高くなってしまったようだ。あなたに会わないでいる間に)
くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき
(あなたとくらべ合ってきた振り分け髪の長さも肩を過ぎました。あなたのためでなくて誰のために髪を上げましょうか)
「たけくらべ」の題はこの古歌からとったとされている。けれども和歌の内容をそのままなぞって物語を展開したわけではなく、借りたのは古典の持つ象徴性だったようである。たとえば、美登利が信如に折って欲しいと頼んで花の枝を手に入れる場面も、古典ではよく使われる手法であるという。古典では、男が女のために、梅や桜など美しい花の枝を自らの手で折って贈るのは、好意を示す意味があるという。美登利が花を頼むのも、信如が求めに応じて与えるのも、象徴性を持つ振る舞いであるらしい。
・・・・学校退(ひ)けての帰りがけに、我れは一足早くて道端に珍しき花などを見つくれば、おくれし信如を待合して、これこんなうつくしい花が咲てあるに、枝が高くて私には折れぬ、信(のぶ)さんは背(せい)が高ければお手が届きましよ、後生折つてくだされと一むれの中にては年長(としかさ)なるを見かけて頼めば、さすがに信如袖ふり切りて行(ゆき)すぎる事もならず、さりとて人の思はくいよいよ愁(つ)らければ、手近の枝を引寄せて好悪(よしあし)構はず申訳ばかりに折りて、投つけるやうにすたすたと・・・・
転んだときに美登利に絹ハンカチで介抱して貰った真如は、からかわれて恥ずかしい思いをしたが、美登利に惹かれる自分が恐ろしく、避けるようになっている。けれども道で花の枝を折ってと美登利に頼まれたとき、先のハンカチの好意への返礼の意味もあって、むげに断ることができなかった。それでも人目が気になって仕方がない信如は、申し訳程度に手近な枝を折り取ると、恥ずかしさから美登利に投げつけるようにして与え、立ち去ってしまうのである。
この場面は、源氏物語や古今集の和歌の世界の一場面をまねたかたちになっており、その仕掛けにある古くささも払拭できない。けれども思春期の内気な少年の感情の表現として、投げつけるようにして渡したというところが古典の型にはまっておらず、この時代を反映させている新しい表現と解するそうだ。
原文は擬古文なので読みにくい。なにしろ一葉は古文で日記をつづるような人なのである。「たけくらべ」は名作といわれるが、そこに使われている文体の古めかしさは、鑑賞する上での難点でもあろう。けれども、読みづらさを我慢して集中し、ページを繰っている間に、あるときからふっとそれが気にならなくなり、次第にその独特の言い回しや古い文体に、読み手のほうが慣らされてゆき、嵌まってしまう。そうなるとなにやら古風で魅力的な世界に浸っていくのが快いような感じが起き、この美しい文体に憑かれでもしたように酔わされてしまう。そういう風に人の心を魅了する何かの力が、一葉の描き出す世界にはあるということだろう。
各場面に少年少女の心理がたくみに投影されている。伝統的で古風な和歌の世界の類型かと見える前述の逸話も、そこを通り過ぎて読み進んでゆくうちに、紛れもない明治の遊郭の風俗やそこに暮らす人々の賑わいが活写され、祭りの宵の喧嘩や音曲の響きが文中から立ち上がってくるような気がしてくる。作品の中に生き生きとした庶民の世界が確かに存在しているという感じが起き、そこに漂う情緒や雰囲気を、五感を通して読み手に伝えてくる。舞台地になった吉原遊郭というのは、当時としてもかなり特殊な世界であったろうけれど、明治の色町の猥雑な雰囲気を再現してみせるその筆づかいの冴えには驚かされる。
「たけくらべ」で最もすぐれているのは、雨の日に、家の前で鼻緒が切れたらしい人を見て美登利が端切れをもって駆け出してゆくこの場面であろう。
・・・・見るに気の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子(がらす)ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母(かか)さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍(もど)かしきやうに、馳(は)せ出でて縁先の洋傘(こうもり)さすより早く、庭石の上を伝ふて急ぎ足に来たりぬ。
それと見るより美登利の顔は赤う成りて、どのやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸(どうき)の早くうつを、人の見るかと背後(うしろ)の見られて、恐る恐る門の侍(そば)へ寄れば、信如もふつと振返りて、これも無言に脇を流るる冷汗、跣足(はだし)に成りて逃げ出したき思ひなり。・・・・
・・・・庭なる美登利はさしのぞひて、ゑゑ不器用なあんな手つきしてどうなる物ぞ、紙縒(こより)は婆々縒(ばばより)、藁(わら)しべなんぞ前壷(まへつぼ)に抱かせたとて長もちのする事では無い、それそれ羽織の裾が地について泥になるはご存じ無いか、あれ傘が転がる、あれを畳んで立てかけて置けば好(よ)いにと一々鈍(もど)かしう歯がゆくは思へども、此処に裂(き)れが御座んす、此裂(これ)でおすげなされと呼かくる事もせず、これも立尽して降雨袖に侘(わび)しきを・・・・
・・・・又この間のやうに風引かうぞと呼立てられるに、はい今行(ゆき)ますと大きく言ひて、その声信如に聞えしを耻(はづ)かしく、胸はわくわくと上気して、・・・・さまざまの思案尽して、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出(いだ)せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに・・・・
・・・・思はく耻(はづ)かしと身をかへして、かたかたと飛石を伝ひゆくに、信如は今ぞ淋しう見かへれば紅(べに)入り友仙の雨にぬれて紅葉(もみぢ)の形(かた)のうるはしきが我が足ちかく散(ちり)ぼひたる、そぞろに床(ゆか)しき思ひは有れども、手に取あぐる事をもせず空(むな)しう眺めて憂き思ひあり。・・・・
・・・・思ひの止(とど)まる紅入(紅入り)の友仙は可憐(いじら)しき姿を空しく格子門の外にと止(とど)めぬ。・・・・
雨に打たれている赤い布切れが目の前に浮かんでくるような描写である。この場面は印象的で心に残り、一度読むといつまでも心から去っていかない。十代のとき「たけくらべ」を読んだのだが、この場面は特に鮮明なものとして記憶の底に刻みつけられた。今も「たけくらべ」というと思い出すのはこの場面である。思春期の初恋、少年少女の淡い恋愛感情が丁寧に表現されていて、その筆づかいは細部にまで行き届いた描写となって、読み手の心に響く。
田中優子氏の説によると、美登利のほうから好意のしるしとして、信如に差し出したものは、泥を拭ってあげた紅の絹ハンカチ、それと雨の日に格子から投げた友禅の端切れで、女性やその思いを象徴する赤い色が象徴として使われているという。
その一方で信如のほうから美登利に返したものは、頼まれて折って渡した花の枝と、最後の場面での格子に置かれた水仙の造花であった。お寺などではご本尊のお供えに常花(金属や木でできたお供えの蓮の花)が用いられるが、そのほか花会式などの儀礼に布や紙製の供花を使うことがあり、水仙の造花の贈り主は信如という暗示になっているようである。花の色は書かれていないが、ともに白っぽいものが使われたと考えれば、色の対比にもなっているそうである。
古典では、花のひと枝に結んだ和歌のやりとりをして、男と女が心を通わせ合ってゆくように、「たけくらべ」では、互いの気持ちや心を、歌ではないもののそれに準じるかたちで、ささやかな身近なものに託してやりとりするような場面を設定し、古典の物語の型を踏んでいるとのことである。こうした手法を一葉は古典から学びとり、作中に今風の工夫を凝らして再生してみたのであろうか。一葉は図書館で本を読む際、よく書き写したこともあったそうである。
遊郭の少女である美登利は、花魁大巻の妹であるが、色町で生まれ育ったわけではなかった。姉はいわゆる身売りをしたわけで、姉の成功により、紀州から父母に連れられて妹も上京してきたのである。紀州で姉を「鑑定(めきき)」した大黒屋の楼主の視線は、姉を買ったとき、おそらくその妹のほうにも注がれていたのであろう。美登利は父母とともに上京して大黒屋の寮に住み、両親もそれぞれ遊郭内でできる仕事を与えられている。大黒屋の主の意向によって、美登利は学校にも通わせてもらい、芸事の稽古に通い、お小遣いにも不自由せず、皆に可愛がられて贅沢に暮らしている。将来は姉のように店に出るためで、その運命はすでに決まっているのである。
姉の勤めの具体的な内容については、まだよく理解できず、あるいは知らされないまま、美登利は姉の繁盛を願って近くの稲荷社に日々お参りをしている。遊郭が身近な生活圏であるために、美登利はまだ子どもなのにこんな考え方をする。
・・・・我が姉(あね)さま三年の馴染(なじみ)に銀行の川様、兜町(かぶとてう)の米(よね)様もあり、議員の短小(ちい)様根曳(ねび)きして奥さまにと仰(おほ)せられしを、心意気気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが・・・・嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大巻の居ずば彼の楼(いへ)は闇(やみ)とかや・・・・我れ寮住居(ずまい)に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大巻、長吉風情(ふぜい)に負(ひ)けを取るべき身にもあらず・・・・
郷里の紀州にいた頃は質素な生活であったろうし、金銭感覚もまた異なっていたであろうが、故郷を離れた一家は、もう堅気の世界の住人ではない。両親は遊郭の中で職を得て、娘たち二人もすでに大黒屋の手の中にある。そこは派手で華やかなものに彩られてはいるが、遊び客が行き交う色と欲の渦巻く世界であった。周りの環境に影響を受けた美登利の価値観や尺度は、すでに遊里に生きる女たちの感覚になってしまっている。
・・・・かかる中にて朝夕(あさゆふ)を過ごせば、衣(きぬ)の白地(しらぢ)の紅(べに)に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕(こは)からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賎(いや)しき勤めとも思はねば・・・・
その美登利にも、やがて大人の世界に身を置かねばならない日が近づいてくる。美登利が初めて島田に髪を結い上げた日、三五郎と正太は美登利のことを噂する。
・・・・奇麗だねあの娘(こ)はと鼻を拭(ふき)つつ言へば、大巻さんより猶(なほ)美(い)いや、だけれどあの子も華魁(おいらん)に成るのでは可憐(かわい)さうだと下を向ひて正太の答ふるに、好いじゃあ無いか華魁になれば、己れは来年から際物屋(きわものや)に成ってお金をこしらへるがね、それを持って買ひに行くのだと頓馬(とんま)を現はすに、洒落(しゃら)くさい事を言ってゐらあそうすればお前はきつと振られるよ。・・・・
近所の男の子たちも、大人びてゆく美登利に心が騒ぐのである。美登利は島田に結ったこの日から急に元気をなくし、それまでの活発さが消えてしまうのだが、母親は「今に侠(おきゃん)の本性は現れまする。これは中休み」と一人子細ありげにほほ笑むのである。
美登利が急に塞ぎ込んでしまう原因として、従来は初潮説が有力であったという。初潮にしてはあまりにも美登利の反応が大げさなので、遊女として初めて客をとらされたという初店説(佐多稲子による)が出て、また遊女になるため病の有無を調べる検査を受けたという説などもあるそうだ。
一葉はその点についてはぼかしているので(あえて露骨なことは書かなかったとも考えられるが)、読み手が推測するしかない。いずれにしても大黒屋の楼主が年頃になってきた商品の美登利をいつまでも放っておくわけもなく、無邪気な少女のままでいることなど許されない、これから遊郭で「出世」して生き抜いてゆくであろう一人の美少女の姿が、一葉の流麗な筆の間から鮮明に浮かび上がってくるのである。
「日記」
一葉は日記を書き遺したが、妹には焼き捨てることを頼んでいたという。差し障りがあるため公表を望んでいなかったのであろう。交流した人たちの名も多く出ており、中には率直かつ辛辣な人物評も記してあった。日記は妹のくに子が保管し、後に文壇関係者に託された。実名が出ているため活字になるまでには曲折があり、刊行されたのは明治四十五年であったという。
いくら時を経たとはいうものの、一葉の意に反し、人の日記を覗くことについては後ろめたさがあり、申し訳ないこととも思うが・・・・。ひもといてみると一葉の苦悩や葛藤が身に染みるように感じられ、切なくなった。
一葉の日記帖は複数あり、「よもぎふ」「しのぶぐさ」「みづのうへ」などそれぞれに名前がついている。欠落もあり自分で破棄した部分もあるらしい。日付は明治二十四年春(十九歳)から明治二十九年秋(二十四歳)まで、病気が進行して体力が衰える直前まで、克明に日々のことが綴られていった。現代語訳「樋口一葉日記」(高橋和彦著)を参考にしつつ、順を追って日記を見てゆくことにしよう。
・・・・廿二日 晴。早朝より灸治(きうじ)に行(ゆき)、図書館へ行(ゆく)。弁当などして行(ゆき)て午後二時帰る。・・・・
・・・・いつ来たりてみるにも、男子(をのこ)はいと多かれど、女子(をなご)の閲覧する人大方一人もあらざるこそあやしけれ。・・・・
一葉は上野の図書館に通って多くの本を読み、また人からもよく書物を借りた。小説の題材を求めていたようでもある。
図書館で閲覧した本は「日本紀」「花月草紙」「月次消息」「太平記」「大和物語」「本朝文粋」など多様で、日本書紀のときは「神代の巻の解(げ)しがたきをしゐてとかんとすればあやしうねむくさへ成りぬ」と少々てこずったこともあったようだ。本を読むときはいつも「楼上婦人席に入る」。つまり二階の婦人席で、当時は一階の男子席で男に混ざって読むことは許されていなかったという。一葉は強い近視で持病の頭痛にも悩まされていたが、家でも本に親しみ、妹を相手に和歌の稽古も怠らず、勉強家であった。
・・・・快晴。午前清書、午後作文。「十八史略」及び「小学」を読む。・・・・
・・・・国子とともに数詠(かずよみ)をす。国子一首、おのれ十首の約束にて詠つるに、一題はおのれ一首かつ。次なるはおのれ三首まけぬ。勝負なしとてやみぬ。此の夜は更にねぶからず。十二時ふしぬ。・・・・
・・・・日没後、母君に「よしの拾遺」読みて聞かせ奉る。十一時計(ばかり)成けん、ふしぬ。
歌塾ではどうだったであろうか。千蔭流の書に秀で歌も上手かったが、皆から「ものつつみの君」(遠慮の君)といわれるほど控えめな存在であったようだ。経済的な引け目もあったに違いない。歌塾に内弟子として住み込み、実際には半ば女中のような扱いで働いていたという。雑用に追われて和歌の稽古もできず、また家の事情もあって、住み込みは半年ほどで解消、その後は塾の手伝いに通うようになり、師の宅から浴衣などの仕立物も引き受けて持ち帰り、妹と手分けして縫っては手間賃を得ていた。
・・・・師君(しのきみ)としばし物語りして、菓子など給はる。此次(このつぎ)の仕立物(したてもの)頼まる。・・・・
・・・・「又綿入を仕立てくれよ」とて一枚たのまる。・・・・
・・・・おのれは師の君のしたてもの今日よりはじむ。・・・・
・・・・日没前までに、師の君の仕立もの終わる。
・・・・点取題「対山待月」 甲
山のはの梢あかるく成にけり 今か出(いづ)らむ秋のよの月
おのれの成りければ賞給はる。・・・・
・・・・今日は来会者廿二名計(ばかり)成し。点取題「秋烟(あきけむり)」にて、小出君の乙はおのれ成しかば、短冊を給ふ。・・・・
塾では歌の題を与えられて皆で競作し、講師が甲乙点で順位をつけていった。甲は一位、最優秀賞であった。小出氏の選んだ二位に入ったので、ご褒美として短冊を頂いたのであろう。一葉は才能があったのか、歌会でもたびたび上位に入り塾では頭角を現していた。
師の歌子女史は、樋口一家の生活の窮乏を知っていたので、一葉のために晴れ着として新年の歌の会に着る紋付(表側のみ)を、早い目に歳暮として渡すなど心遣いをしてくれた。
・・・・師の君、「少しまてよ」とて止(とど)め給ひつ。小紋ちりめん三ツ紋付の引返し衣類(きもの)、表だけ給ふ。「これは歳暮に参らせんとしたるなれど、早き方都合もよかるべし。新年など何某(なにがし)くれがしの会に出るに紋付なくてもいかが」とて給ふ。かたじけなしなど中々なり。・・・・
一葉は、歌塾の梅見の会食の席でも、有名料亭のお膳を前にして、粗末な家に残してきた母や妹のことを思い浮かべ、母や妹に充分なお魚や肉も差し上げられないのに自分だけが、とご馳走を空しく意味のないものに思い、また心苦しく感じる人であった。
・・・・植半、八百松の塩梅も、我が為には何のものかは。母妹を幣屋(へいおく)に残して、一片の魚肉にも猶あかせ奉(たてまつ)らぬものを・・・・
歌子女史は、内心では一葉を養女にする心づもりもあったといわれている。あるとき女学校教師の職を斡旋しようとし、一葉母娘も教職と聞いて期待したが、実現には至らなかった(一葉に学歴がなかったためという)。また女史は一葉に歌塾を開くことを勧め、後には一葉に自分の歌塾「萩の舎」を継がせる話も持ちかけたようである。けれども塾を開くにはお金がかかるので一葉はためらったとされる。一葉の関心はすでに小説のほうに向いており、また歌塾という組織を内部からつぶさに見てきたことから、人間関係の複雑さや女同士の虚飾、追従(ついしょう)、嫉妬、中傷などに嫌気がさしており、師の求めには応じなかったともいわれている。
一葉が作家を志したのは、小説で家族を養いたいという切実な事情からであった。半井桃水に自作を見せては助言をもらっていたが、桃水は新聞記者、作家を兼ねている人で、その作風は通俗的であった。
一葉は桃水の家に通って身近に指導を受けるうち、好意を感じるようになったようである。桃水にとっても、一葉は初めての女弟子であった。なんとか一葉を作家にしてあげようと画策したようである。けれども二人の関係が取りざたされ、世間の噂になっていることを知って、一葉の心は傷つく。その噂の出所が桃水自身と聞いたからである。心配した師の歌子の忠告により、一葉は桃水との交際を絶った。
・・・・我はじめより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床(ゆか)しなど思ひつること、かけてもなかりき。・・・・口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし。此頃降りつづく雨の夕べなど、ふと有し閑居のさま、しどけなき打とけ姿など、そこともなくおもかげに浮びて、彼(か)の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし日雪の日の参会の時、手づから雑煮にて給はりしこと、「母様のみやげにし給へ」とて干魚の瓶漬送られしこと、我が参る度々に嬉しげにもてなして、「帰らん」といへば、「今しばししばし、君様(きみさま)と一夕(いっせき)の物語には積日の苦をも忘るゝものを、今三十分、廿五分」と時計打詠(うちなが)めながら引止められしこと、また我が為にとて雑誌の創立に及ばれしことなど、いへば更なり。・・・・師君の疑ひも、友のねたみも、かの人の交はりも、無かりし昔に何事かある・・・・。
一葉は桃水のことをどう思っていたのだろうか。ひそかに桃水を慕っていたといわれている。二人の間に男女の関係があったという説、なかったとする説の両方があり、真相はわからない。桃水自身は後に「一葉女史は恋を歌う人であって、実行し得る人ではない」と否定している。一葉の日記を手がかりにしようとしても、男女間のことは微妙なので推測の域を出ず、それにいつ誰の目に触れるかもしれない日記に、人は心の内を全部さらけ出したりはしないものであろうし・・・・。
交際を絶った後に、桃水自身から新著「胡沙ふく風」を贈られたときの、一葉の感想が興味深い。読んでみて、むろん良い部分は評価しているが、「桃水うしもとより文章粗にして、華麗と幽棲(いうせい)とを欠き給へり。又みづからも文に勉(つと)むる所なく、ひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり」と実に冷静な分析である。一葉は異性としては桃水に惹かれていたかもしれないが、それとは別に正確に桃水の力量と作品の価値を判断している。
桃水に師事していた間、一葉はまだ本来の筆力が出せなかったようだが、桃水との別離を経た後、あるときから作風がふっと変わり、何か目に見えない風をつかんだかのように作品に勢いがついてゆく。小説の基本を学びとり、模索するうちに、内面の苦しみを見つめるまなざしが培われ、それらが創作の原動力となったのであろうか。より水準の高いものを目指して努力したことがうかがえる。一葉は母と妹に楽をさせたいと願ってはいたが、一方ではあからさまな母親の嘆きや無理解にも苦しんでいた。加えて世間の冷ややかな目や、女であるために向けられる好奇の視線、なかなか減ってゆかない借金とも格闘しなければならず、質屋に通い、着物を売って米を買うような追いつめられた生活の中で、必死に孤独な創作を続けてゆくしかなかった。
(一葉の父親が官吏であった頃、漱石の父親と同じ職場であった関係から、一葉に夏目家との縁談の話が持ち上がったことがあったという。相手は漱石の兄に当たる人であったようだが、漱石だったという説も。もし実現していれば、一葉は漱石の兄嫁か、あるいは妻になっていて、その運命も変わっていったことであろう。けれどもこの話は不成立であった。その理由は、一葉の父親が上司である漱石の父親に対し、たびたび借金を申し込んでくることにあったという。樋口家はもうその頃から経済的に苦しかったのであろうか)
桃水と師弟の付き合いを絶ってからの一葉の思念は、ひたすら書くことへと向かっていったようである。二人は表向きの交際はしなかったが、それでも折々には交流があったようだ。桃水は大橋乙羽という文芸誌の編集者を一葉に紹介し、一葉が「にごりえ」「ゆく雲」などの佳作を発表する機会を作って助けたという。大橋夫妻は一葉と親しく交流し、大橋の妻は一葉から歌の手ほどきも受けるようになった。
文名は上がっても、一葉はいつも貧しさにあえいでいた。家で細々と歌や習字を教えてみてもそれは大した収入ではない。試みる小説の稿料もすぐに借金の返済で消えてゆき、生活苦は続いた。新しい原稿依頼の手紙が来ると、母親が早速それを担保にしてまた次の金を借りにゆくという始末であった。けれどもそういう辛苦の日々を味わったからこそ、作品には底辺に生きる人々の悲しみを深く見つめて描写する力が備わり、逆境にある人たちの切ない姿やその諦念、這い上がることのできない極貧の生活や、絶望的な心のありようが活写されていったのであろう。
「にごりえ」の娼妓、お力の虚無感、源七一家の悲惨、「十三夜」の人妻お関の諦念、「大つごもり」の奉公人、お峯の悲哀・・・・一葉が置かれた貧困や困窮、その葛藤の中から、心を打つ稀有の作品が生み出されていったようにも思われる。
一葉という筆名は、足のない達磨大師が蘆の葉の舟で揚子江を渡ったという伝説にちなみ、お足がない、のをお金がないことに掛けたのだということである。けれども日記を通して読んでみると、一葉の心の中に水に漂う小舟、流れてゆく舟のイメージはたびたび現われ、侘しい心象風景として使われている。特に達磨大師のことなど持ち出さなくてもよかったのではないだろうか。そんな自嘲的な駄洒落とは違う別の思いが託されているようにも感じられる。
・・・・十八といふとし父におくれけるより、なぎさの小舟(をぶね)波にただよひ初(そめ)て、覚束(おぼつか)なきよをうみ渡ること四とせあまりに成ぬ。・・・・
・・・・極みなき大海原に出(いで)にけり やらばや小舟(をぶね)波のまにまに・・・・
水に浮かぶ何の飾りもない簡素な舟、遠い彼方にある異世界を求めて、当てもなく青く澄んだ水の上を漂流してゆく寂しい舟、彼岸へと向かう一艘の舟、それこそが一葉自身の姿ではなかったろうかと思われてならない。
・・・・行水(ゆくみず)のうきなも何か木のは舟 ながるるまゝにまかせてをみん
「全集 樋口一葉 3 日記」(小学館)