野上弥生子
「秀吉と利休」(新潮文庫)
野上弥生子
「秀吉と利休」(新潮文庫)
野上弥生子は明治十八年、大分県臼杵生まれの人である。九十九歳という長寿で没したが、晩年に至っても旺盛な文学活動を続けたことで知られている。
「秀吉と利休」は女流文学賞を受けた作品だが、実に作者七十九歳のときの受賞、というからそのパワーに驚いてしまう。
若いころから夫を通じて夏目漱石、寺田寅彦、芥川龍之介らと交流があり、文学への関心は人一倍強かったようだ。二十八歳のとき翻訳「ギリシャ・ローマ神話」を出している。
「ギリシャ・ローマ神話」は同様のタイトルで、その後他の作家の方もいろいろ工夫して翻訳されており、いわば複数の書き手の競作の形にもなっていると思うが、私は中でも野上さんの文章が好きで、ひもとく度に彼女の紡ぎ出す世界に引き込まれてしまう。丁寧で細部にまで神経の行き届いた、作者の性格がそのまま表れたような気品のある文体なのである。
創作への情熱と、家庭の主婦としての葛藤もあったに違いないと思われるが、三人の子を育て、家庭生活を大切にしたので、本格的な創作、文筆活動は五十歳を過ぎてからスタート、やがて次々と大作を発表、文化勲章受章まで登り詰めるという、恐るべき大器晩成、努力型の人であった。
文学に対する変わらない真摯な姿勢、その意志の強さ、持続力、集中力、とりわけ端正な文章と緻密な構成、深い人間洞察には感心させられる。今回は代表作といわれる、重厚な長編歴史小説「秀吉と利休」をみてみることにしよう。
「秀吉と利休」 あらすじ
利休(千宗易)は堺の商家の出で、若いときから茶の湯を学んで秀でており、四十代のころ信長に仕え、その茶頭として重用された。信長が本能寺の変で亡くなった後は、秀吉の茶頭を務めることになる。秀吉はほぼ十歳下であった。
利休は秀吉の依頼で幾つもの茶室を建てていく。一切の余分なものを取り払った簡素な二畳の茶室、待庵。意表をつく組み立て式の黄金の茶室。
また秀吉のために聚楽第で多くの茶会を行い、茶の湯の指導をする師弟関係が築かれていくが、一方政治に関しても意見を言い、相談に乗るような間柄であった。
利休の一の弟子、山上宗二は秀吉と対立して、北条氏に身を寄せていたが、秀吉の小田原討伐の際に、密かに抜けてきて師の利休のもとを訪れる。利休のとりなしで秀吉に面会するが、宗二は秀吉の怒りを買い、その場で惨殺されてしまう。
秀吉に重用される利休には敵も多かった。あるとき利休が宴席でふと漏らした「唐御陣が明智討ちのようにいけばでしょうが」の言葉を、日ごろ利休の存在を快く思っていなかった石田光成は、朝鮮出兵に反対する傲慢な意見として、これを咎めだての材料にと考える。
大徳寺三門に、親友の僧、古渓の発案で利休像を置いたことも、不遜であると非難された。
楼門修復に利休が尽力し、資金を寄付したので、寺側の謝意の木像だったのだが、怒った秀吉は利休に堺での蟄居を言い渡す。秀吉に侘びを入れて、復帰する機会を無視する利休に、秀吉は苛立ち、遂に切腹を申し付ける。利休の首は獄門にかけられて市中に晒され、木像も引き降ろされて磔刑となった。・・・・
多重視点の、かなり重い文体である。内容も重たい話なので、決して読みやすい作品ではないが、いろいろなことを考えさせられるという点で、深いものを持っている。
通常多重視点を使って書くと、読者には異なった人物の目が与えられて、そこから作品世界を見られるので読みやすくなるものであるが、この作品は逆に登場人物の複雑な心理が、多くの歴史的事象と絡み合って、心理描写が錯綜し、屈折し、読み進む上で非常に努力を強いられる。
利休、秀吉の二大主要人物の他に石田三成、古渓(和尚)、秀吉の弟秀長、大政所、北政所、山上宗二、利休の妻りき、紀三郎、ちか、など多くの登場人物(創作人物を含む)があり、作者の筆はどの人にも万遍なく愛情が注がれていて、おろそかでなく非常に丁寧である。
そこには手抜きもなければ省略もない。せっかく登場させるからには、という訳だろうか、できうる限りの目配りと配慮で、どの人物も最大限に作品中に生かされ続けようとする。
そのため膨大な資料を駆使し、エピソード満載ということになってしまい、結局作品はこの分量を抱え込んで、膨張し続けていったのだろう。おそらくは作者としては割愛するに忍びない個々の愛着ある場面を、網羅していった結果であると思われる。
印象的な場面は幾つもあるが、とりわけ利休一の弟子であった山上宗二が、秀吉の怒りを買って、見せしめのようにむごい殺され方をする場面は衝撃的である。それは作品中に重苦しい伏線となっており、利休の心に不吉な影を落とし、やがて最後の切腹の場面へと繋がっていく。読み手の心の中にも不安な予感、恐怖感を共有させていく、効果的で巧みな構成であると思う。
利休の死の原因には諸説あって、自分の木像を三門に置いた不遜行為がよくいわれるが、朝鮮出兵に反対したからという説、茶頭としての慢心説、娘を側室に差し出さなかったからという説、茶席である人物の毒殺を命じられたが断ったからという説や、秀吉に対する毒殺未遂説まであるそうだ。
その死の真相が分からず、いろいろな説が出るのも、秀吉に信頼が厚かった側近の突然の切腹、木像の磔刑という処罰の形があまりにも異常であったからだろう。
今東光の小説「お吟さま」では側室説が採用されている。利休の娘が秀吉の側室にと望まれたが、利休がそれを拒否したことによる悲劇、というある意味では分かりやすい話になっていて、物語はまた別の様相を帯びている。
利休は二度結婚していて、先妻の娘は三人あったようだが、当時の彼女たちの年齢をみてみると、皆若くはなく既婚で子もあり、そのうちの一人(末娘)は寡婦であったそうだ。
「秀吉と利休」では、利休の娘の側室の話は一切絡まない。そういう話とはまた別の、違う角度から試みた作品なのである。
秀吉は、機を見るに敏ではあったが、成り上がり者で、真の芸術など何一つ解さない現実的な絶対権力者として描かれる。
それに対して、利休は内心で反発しながらも恭順の姿勢をとり、茶道を深化させる一方で、冷静に時代を眺める目を併せ持った知的人物として描かれている。
主点は利休の心の描写にあり、いってみれば心の底で軽蔑している相手に、日々屈服しつつ生きていかなければならなかった一人の人間の、苦衷の内面が、豊富なエピソードとともに綴られていくのである。
トラブルが起きる晩年までは、利休はうまく時流に乗って、生き抜いていくしたたかさも持っていたようで、そのことも作品中に織り込まれている。そして秀吉と利休の対立、というテーマは、この作品では、政治家と芸術家の相克、対立という構図で捉えられている。
作品ではさまざまに揺れ動くその心理的葛藤が中心に据えられている。石田三成ら、側近の嫉妬や反発や策謀に翻弄された結果、自らの矜持ゆえに悲劇的な死を選び取っていく、という経緯が「唐御陣・・・・」の言葉が発端となったという作者の創作で、具体的に説明され、気を許してうっかり吐いた言葉が独り歩きをしていく恐ろしさが如実に描かれる。
秀吉に頭を下げ、非を認め、皆の前で謝罪さえすれば、また元の茶頭に復帰できるとわかっているのに、最後までそれをしなかった利休の意地というか、誇りの高さが、秀吉の中の強固な意地と正面からぶつかり、潰れていくさまは、むしろ淡々とした調子で描写されている。
利休があくまで自己を貫くのなら、もうその先に予想されるものは宗二と同じ死しかなかったはずであったからだろう・・・・。
利休の家は豪商ではなかったが、堺で魚、海産物を扱う中程度の商家であった。
信長が堺を制圧しようとした折、堺の人々は初め結束して信長に抵抗しようとしたらしい。それが話し合いで決着していったのは、双方のさまざまな利害関係によるものであった。
茶の湯をたしなみ、堺の裕福な貿易商人でもあった今井宗久、津田宗及たちは、宗易(利休)とともに、信長に茶頭として召抱えられていく。
信長は仕舞、小鼓をよくし、茶の湯にも通暁、その膝下で茶頭を務めていた彼らは、信任されて次第に高い地位を得ていった。派手好みの信長は、安土城内に黄金ずくめの茶室を作らせもした。
茶の湯は当時の武士のたしなみであったが、単なる文化的な趣味の範囲を超え、小さな密室である茶席では、武器弾薬を扱う堺の貿易商人たちとの商談が行われ、さまざまな軍事、政治の情報交換の場としての意味も合わせ持つようになっていった。茶道政治といわれる所以である。
信長は大名たちを集めて盛んに茶会を開き、その一方では、茶道具を収集することにも熱心で、戦乱で散逸していた天下の名器といわれる室町時代の茶道具類を買い取って手元に置き、褒賞として家臣に与えることもした。このような茶道の隆盛につれ、武将たちは信長に倣って茶会を開くことを望み、優れた茶器を手に入れたがったが、信長は並みの武将には茶会を開くことを許さなかったという。
本能寺での信長の横死後、信長に仕えていた茶頭たちは、そのまま引き続き秀吉に仕えることになった。信長の茶の湯による政治的文化政策はもうしっかり根付いていて、それを切り離したり否定したりすることは、最早できなかったのだろう。
信長が生きていた頃、利休のほうが秀吉よりも身分は上であった。本能寺の後、秀吉の時代になったが、天下人の秀吉といえども、茶の湯の世界では、利休が師匠であり、秀吉は弟子の立場である。その辺りは、秀吉は複雑な心境であったかもしれない。
利休はじめ宗久や宗二など、信長に仕えた茶頭たちは、二人の主君を比較し、皆口には出さなかったが、内心できっとその差を絶えず思ったに違いない。性格的には恐ろしい面を持つカリスマ君主ではあったろうが、どこか洗練された鋭い感覚の持ち主であった信長、そういう信長の茶の湯に対し、秀吉のそれはおそらくはかなり劣るものであったことは充分想像できる。
秀吉は信長のようになりたかったかもしれない。信長がしたように自分も大坂城に黄金の茶室を作らせ、人々を驚嘆させた。得意だったことだろう。黄金の茶室を組み立て式にし、持ち運び可能としたのは秀吉の新しいアイデアだったろうが、金の茶室という思い切った発想自体は、本来信長のものであった。
秀吉はまた信長のように能も稽古した。けれども能も茶の湯もうわべには真似できても、なぞれることには限界があり、真の上達に至るにはほど遠いものがあったろう。秀吉は信長という理想のモデルに自分を近づけようとし、単に模倣したに過ぎないともいえる。
秀吉は事あるごとに信長と比べられ、蔑まれる自分を感じていたはずである。悔しかっただろうことは想像がつく。
この作品中にはあまりはっきりとした形では出てこないが、目に見えない、信長という強大で魅力的で、決して乗り越えられない壁のような存在が、秀吉と利休の間には重く介在していたことは当然考えられるし、秀吉の苛立ちや怒り、意地悪さ、猜疑心に含まれる感情には、信長の姿が絶えずちらつき影を落とし、信長を超えられない焦燥感があったこと、また秀吉の芸術的なものに対する憧れや劣等感をもっと強調すれば、この作品は更に理解されやすくなったのではないだろうか、と思うのだがどうだろうか。
秀吉は大坂城を居城としたが、大坂城を築城するまでは、明智光秀を破った山崎合戦の地、天王山の山頂に山崎城を築いて、一時期そこで政治をとっていた。
今は山崎城の遺構は何もなく(土塁、石垣も見られない)僅かに礎石らしいものが幾つか山頂に残っているが、何の整備もされていないので、ハイキング客が弁当を広げてごみを散らかすだけの場所となっている。そこにかつて秀吉の山城があったということは、地元でももう忘れられかけているようだ。
山崎城があった頃、利休は秀吉に命じられて、天王山の山麓にある妙喜庵の中に、小さな茶室を建てた。これが今に残る有名な待庵である。当時は秀吉の来客のもてなし、密談、商談など、さまざまに茶室は用いられたことだろう。
JR山崎駅前に今も妙喜庵跡が残っている。妙喜庵は室町時代の連歌師、俳人である山崎宗鑑の庵であった。
そこに利休の待庵というシンプルなたった二畳の茶室が、今も当時のままに保存されている。それは拝観もできるのだが、一ヶ月前に葉書で申し込まないとならないので、思いついて出かけて行って、その場ですぐ見せてもらうことはできない。ただ近くの阪急大山崎駅前にある、大山崎町資料館にはレプリカがあり、こちらのほうは随時見学できる。
私は以前この複製された茶室のほうを見学したことがあった。それは実に簡素極まりない空間であった。
照明を落とした一隅に原寸大の茶室が拵えてある。にじり口の正面に床があり、左手に炉。床の間の壁は黒っぽい土壁。本当に質素な無の空間である。ほとんど虚無的な感じのする、でもここで真に豊かなものが生み出され、それを心に感じる人のみが、味わうことが可能な、そういう精神的な空間なのである。
利休は禅の世界にも深く入っていたとよくいわれるが、確かにこの虚無に近い空間をみていると、禅の何らかの影響下にある空間と考えても差し支えないだろう、という気持ちになる。
質素な中にもてなしの心と気持ちを尽くそうとする精神、利休のいう草庵路地の侘び茶の世界が、金ぴかの黄金茶室と方向を逆にすることについての作者の考察はどうだろうか。その点をみてみたい。「秀吉と利休」ではこのように表現されている。
「・・・・妙喜庵内の待庵によって、いっぽう無にまで圧しつくした美の創造に悦びを見出したに劣らない意欲を、他方黄金の茶座敷にもそそいだまでであった。火焔に消滅したことで、いっそ活き活きと眼に残る安土の七重の天守閣、それの再現にほかならぬ大坂城のけんらん、華麗が象徴する限りなく豊満で、過剰な、美の時代感覚を、畳三ひらの黄金の空間に横溢させてみようとした試みでもあった。
はなはだしく異質なる建物も、それ故に別種のものではなく、利休の利休らしい独創が、たまたま極の両端に表現されただけで、その意味からは、二つは一つのものに過ぎなかった。同時に黄金の茶室で金の茶道具を用いつつも、待庵の侘び茶を味わうに変わらず、その粗ら壁をまえにして座っても、百畳敷きの大広間で、永徳、山楽の障壁画の間にあるに等しく、溌剌とおおらかな美意識に浸りえないならば、結句はそれを枯れかじけさせた侘び数奇にも、徹することはできないはずだ、と利休は考えたかった・・」。
長く引用してしまったが、利休は「茶湯とて別事ではなく、ただ湯を沸かして飲むまで」と言い切り、素朴な日常の生活用品である竹筒や、魚を入れるびく、手籠などに、山野に咲く草花を、それも一日でしおれる可憐な花を、何ら技巧を加えず「花は野にあるやうに」生けることをよしとしていた。
侘び茶の世界に生き、やがて権力の前に呑み込まれていくそのような利休の葛藤と逡巡と覚悟の姿勢を、作者は手探りしつつ、作品中に描いては削りまた描いて、あたかも彫刻刀で丹念に刻みつけていくのに似た文体で、しっかりと書き進めるのである。
七十代後半に達して、それまで溜めた思いを一気に溢れさせるかのような作者の筆の勢い、そのエネルギーに、読み手は最初から最後のページまで、ずっと圧倒され続けるだろう。