一菟原乙女の伝説一
西求女塚古墳 処女塚古墳 東求女塚古墳
一菟原乙女の伝説一
西求女塚古墳 処女塚古墳 東求女塚古墳
万葉集には田辺福麻呂(さきまろ)、高橋虫麻呂、大伴家持の三人の歌人によって、菟原乙女の歌が詠まれている。若者二人に思いを寄せられて悩み、死を選んだ乙女への哀悼歌である。万葉歌を道しるべに伝説の地を歩き、神戸市にある三つの古墳を訪れることにした。まずは伝説のあらすじから。
・・・・蘆屋(あしのや)の地に、八歳の頃からずっと籠もっていた菟原(うなひ)乙女がいた。多くの男が求婚するが、中でも地元の菟原壮士(うなひおとこ)と隣国の茅渟壮士(ちぬおとこ)が競い合い、武器を手に、水をも火をも辞さない覚悟でもって真剣に争った。乙女は決めることができず、悩んだ末に入水した。夢でそれを知った茅渟壮士が後を追って死に、残った菟原壮士も二人の死を知ると、後れたことを悔しがって、続いて死んでいった。悲しんだ親族は乙女の墓を造り、その左右に二人の若者の墓を造って、この悲劇は後々まで語り継がれていった・・・・。
菟原乙女の墓とされているのは、神戸市東灘区にある処女塚(おとめづか)古墳である。この処女塚から二キロ東にある東求女塚(ひがしもとめづか)古墳(跡)が他郷の茅渟壮士の墓とされ、処女塚古墳から西二キロにある西求女塚(にしもとめづか)古墳が、地元の菟原壮士の墓ということになっている。三つの古墳はほぼ一直線上に並び、海岸線沿いに等間隔に並んでいる(まるでオリオンの三つ星のように)。海岸線は現在とは異なり、往時の塚はもっと海岸寄りにあったとされる。
万葉集での舞台地は蘆屋とあり、注にも芦屋市付近となっているが、乙女の墓に該当するものは芦屋市には見当たらないようである。芦屋市内には親王塚古墳(豪族の墓という説も)があるが、阿保親王の塚と伝承されていて、宮内庁が管理している。ほかにも複数の古墳はあるものの、菟原処女と若者たちの塚と伝承されるものはない。
西求女塚古墳
阪神電車を利用して、まず最も西にある西求女塚古墳(神戸市灘区)を訪れた。西灘駅で降り、東に数分歩くと、緑の樹木に覆われた細長い丘が見えてきて、これが菟原壮士の塚とされる西求女塚古墳であった。
全長九十八メートル、六甲山麓では最大の前方後円墳という。三世紀後半の築造と推定され、三角縁神獣鏡が出土したことでも知られている。軸は東西方向、処女塚のほうを向いている。説明文によれば、伝説の菟原壮士の墓として歌にも詠まれているが、往時の水上交通に影響を持った豪族の墓、と考えられているそうである。
古墳上には緑の芝が敷きつめられて数箇所にベンチが置かれている。遊具もあって、整備された遺跡公園になっているが、人影はなくひっそりしていた。木陰に座っていると、頭上の木々から蝉の声が降ってきて、涼しい風が通り抜けてゆく。海岸までは数百メートルの距離と思うが、樹木や建物にさえぎられて海はよく見えない。
伝説が万葉集でどのように歌われたのか、高橋虫麻呂の長歌と反歌をみてみよう。
菟原娘子(うなひをとめ)が墓を見る歌
蘆屋(あしのや)の 菟原乙女(うなひをとめ)の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣をなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼(ぬ)の 下延(したは)へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族(うがら)どち い行き集ひ 長き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓(をとこはか) このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆえよし)聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭(ね)泣きつるかも
反歌
蘆屋(あしのや)の菟原娘子(うなひおとめ)の奥城(おくつき)を行き来と見れば哭(ね)のみし泣かゆ
蘆の上の木の枝(え)靡けり聞きしごと茅渟壮士(ちぬをとこ)にし寄りにけらしも(万葉集 高橋虫麻呂)
命を絶ってしまった乙女へ捧げられた哀悼の歌である。思いを籠めて歌い上げてゆくうちに、感情が徐々に高まり、熱が入っていくようである。流れるように続く歌の調べには、自ら発する言葉によって不幸な霊を宥め、鎮めようとする響きが感じられる。反歌の内容から推測すると、その時代には、乙女は他郷の茅渟壮士のほうに惹かれていたという伝承があったらしい。
万葉の時代には、非業の死を遂げた人の祟りをおそれ、葬地を通過するときには、慰霊の歌を作って捧げる風習があったという。状況によっては地霊を称え、ものを誉める場合もあったとも。高橋虫麻呂もまた旅人として当地を訪れたとき、乙女の霊を慰めるために歌を作ったのであろう。自らの旅の安全を願ってのことであっただろうが、儀礼やしきたりにとどまらない、作者の真っ直ぐでひたむきな心情が伝わってくる。
古墳上を歩いてみる。たしかに古の若者の墓にしては大きすぎる規模のようである。豪族の墓、という説明文を読んだ後では、なおさら伝説を偲びにくい雰囲気である。けれども住宅街の中にあるにもかかわらず、年月を経てなお古墳の輪郭が残されていること、この古墳がずっと大切に守られてきたことが感じられるのだった。
処女塚古墳
阪神電車で東に戻り、石屋川駅で降り、伝説の主人公である菟原(うなひ)乙女を葬ったとされる処女塚(おとめづか)古墳(神戸市東灘区)を訪れた。駅から南西方向に約十分歩くと、小さな丘が見えてくる。交差点の角には交番があるが、交番は古墳を一部削って食い込んだかたちになっており、それだけでなく古墳周囲の封土もぎりぎりまで削り取られ、すぐ際まで住宅や道路が迫っていた。道路からいきなり斜面となり古墳に上るようになっており、歩いてみると芝や植込み、石段で整えられているが、整備されすぎていて古墳の雰囲気は感じられず、全体のかたちも把握しにくいようである。
処女塚古墳は全長七十メートルの前方後円墳、軸は南北方向で、築造時期は四世紀後半、ここもまた西求女塚古墳と同様、豪族の墓と考えられたようである。伝説の乙女の塚が、ここなのかはどうかはわからないけれども、歌に詠まれていき、高橋虫麻呂も田辺福麻呂も、実際に塚を訪れたとみられている。
すぐ横を絶えず車が行き交う現代の情景の中にいると、往時を偲びにくいけれども、古墳の木陰にしばらく佇んでみた。(説明板には、湊川の戦で敗れた新田義貞を逃がすため、小山田高家がここで討ち死した、とも記してあった。ずっと後の時代には、この古墳は戦場になったのである)。
古墳には田辺福麻呂(さきまろ)の歌碑(反歌)があったので、福麻呂の長歌と反歌も紹介しておこう。なお茅渟壮士は、信太壮士(しのだをとこ)、小竹田壮士とも表記される。信太は地名で、和泉の国の辺りとされている。
蘆屋(あしのや)の処女(をとめ)が墓を過ぐる時に作る歌
いにしへの ますら壮士(をとこ)の 相競ひ 妻どひしけむ 蘆屋の 菟原娘子の 奥城(おくつき)を 我が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲ひにせむと 玉桙(たまほこ)の 道の辺近く 岩構へ 造れる塚を 天雲の そくへの極み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭(ね)にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子らが 奥城ところ 我れさへに 見れば悲しも いにしへ思へば
反歌
いにしへの小竹田壮士(しのだをとこ)の妻どひし菟原娘子(うなひをとめ)の奥つ城(き)ぞこれ
語り継ぐからにもここだ恋しきを直目(ただめ)に見けむいにしへ壮士(をとこ) (万葉集 田辺福麻呂)
乙女が死に、それを知った男二人も後を追って逝ってしまった、というのは、珍しい成り行きである。恋愛の当事者が三人とも死んでしまうというのは、なかなか起きにくいことであろう。万葉集にはほかに桜児(さくらこ)や縵児(かづらこ)など同様の乙女の逸話が載っている。桜児も縵児も、二人の男に求婚され板ばさみになって悩み、死んでしまうが、残された男たちは、哀悼の歌は詠んでも、乙女を追って死んだようではない。男たちは悲嘆を乗り越え生きていったのであろう。
菟原処女の伝説の内容について少し考えてみよう。乙女が八歳の頃からずっと籠もっていた、ということから推測すると、神に仕える巫女のような人であったとするのが自然かもしれない。この説は以前からあったらしく、このような乙女と巫女の姿は容易に重ねられるであろう。人目に触れないように身を清めて育てられ、やがては神に仕えることを務めとするように定められていたかもしれない乙女。神の嫁となるべき特別な素質の人であったというなら、普通の男の妻になって生きるような道は、はじめから閉ざされていたかもしれない。若者に出会って、神と人の間で心が揺れ動いてしまった乙女は、好きになった若者の妻どいについ応じてしまったが、その罪を償うためには死ぬしかない、と思いつめたのであろうか。
また仁徳天皇の御代に、本住吉神社(神戸市東灘区、祭神は住吉三神)が、大阪市住吉区の住吉大社へ遷ったとみる説(本居宣長 古事記伝)があるのだが、この遷座を菟原処女の伝説と絡める考え方もあるようだ。その場合も乙女を巫女とするらしい。
本住吉神社の創祀起源は古く、神功皇后の御代とされている。神功皇后は三韓征伐の帰途、仲哀天皇の皇子、香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王の反乱計画を知って紀淡海峡へと迂回するが、大和を目前にして船が進まなくなったので、務古の水門(武庫川河口)に入り、占いで神意をうかがった。託宣によって廣田の地に天照大神の荒御魂を祀り(廣田神社)、長田に事代主神を祀り(長田神社)、生田に稚日女(わかひるめ)命を祀り(生田神社)、さらに住吉三神を大津渟中倉長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀ると、海はしずまり、二皇子の反乱も武内宿禰の軍によって制圧することができた。
その大津渟中倉長峡という地の候補として、前述の本住吉神社(神戸市)と住吉大社(大阪市住吉区)の二説がある。通説では住吉大社の方とされることが多いけれども、本居宣長は本住吉神社とみており、菟原の住吉としている。地元神戸においても本居宣長説は支持されていて、菟原とみる説が根強いようである。
神社、祭神の移動というのは、奉戴してきた氏族、地域の人々にとって、大きな出来事であったかと思われる。遷座に至った事情は詳らかではないが、(海上交通支配、水利権などが絡んでいたとも考えられるが)、地元菟原で住吉神を崇敬してきた村の人々には、神にこのままとどまってほしいという思いがあったのではないだろうか。遷座が近づくにつれ、遷座先からも頻繁に関係者が訪れるようになったことであろうが、そのような人や物の行き来、往還が何らかの軋轢を生み、この伝説の背景になったとも推測できる。
乙女が巫女であったとするのなら、またこうも考えられるだろう。乙女は二人(人であるが、あるいは神に憑依されたような人、神の化身に見えたかもしれない)に求婚されて悩んだというが、内心では他郷から来た若者のほうに心が傾いていたとしても、彼女自身は選ぶことができなかったかもしれない。巫女は自ら仕える存在を選ぶのではなく、神のほうが巫女を選ぶものだからである。
東求女塚古墳
再び阪神電車に乗り住吉駅に降りた。東求女塚跡(神戸市東灘区)を探しつつ東へと歩いてゆくと、ほどなく求女塚東公園に出た。実はここにかつては東求女塚古墳があったのだが、阪神電車敷設の際に墳丘が削り取られてしまい、古墳はすでに姿を消しているのであった。古墳のあった場所は均されて、西側は幼稚園になり、残りは公園に整備されて、まるで墓標のように石碑だけが立ち、そこには伝説のことにも触れてあった。
東求女塚古墳は全長八十メートル、前方後円墳で築造時期は四世紀後半、軸は東西方向で処女塚のほうを向いていたという。三角縁神獣鏡なども出土しており、やはりここも豪族の墓と考えられていたそうである。
公園のベンチに坐り、眩しい陽ざしの中で、古墳の跡地をしばらく眺めていた。もしその名すら失ってしまえば、この伝説も人々の記憶から遠ざかり忘れられていくのであろうが、公園にわずかにその名をとどめている。しかし古墳を思わせるものは見当たらず、もう過去の幻となっている空間であった。ここがいちばん破壊は早かったようである。よそ者の墓という伝承があったため、後世に残さねばならない大切なものとは考えられていなかったのであろうか。
ここが他郷の若者の墓であったかどうかはわからない。豪族の墓、という説明文を読めばなおさらである。おそらく処女塚と若者たちの塚は、当初は別の地にひっそりと営まれたが、ささやかなものだったので、年月の流れるうちにいつしか崩壊、やがて消滅してしまったのであろう。けれども伝説だけは時を超え、場所を変えて語り継がれ、別の三箇所の塚がこの話の内容に適うものとして、仮託されてゆき、定着したと考えるほかない。
大伴家持の長歌と反歌をあげておこう。大伴家持は実際には当地を訪れていないそうで、おそらくは奈良の邸宅内において、想像上で歌を詠んだらしい。
処女墓の歌に追ひて同(こた)ふる
いにしへに ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 茅渟壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻どひしける 娘子らが 聞けば悲しき 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛りすら ますらをの 言(こと)いたはしみ 父母に 申し別れて 家離(いへざか)り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥城(おくつき)を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) しか刺しけらし 生ひて靡けり
反歌
娘子(をとめ)らが後の標(しるし)と黄楊小櫛生ひ変わり生ひて靡きけらしも (万葉集 大伴家持)
菟原処女の伝説がどのくらい時代を遡るものかはわからないけれども、これらの万葉歌は、後世の文芸にも影響を与えたようである。この伝説をもとにした作品がいくつかあるので紹介しておこう。
平安時代につくられた「大和物語」の「生田川」では次のような展開になっている。
摂津の男と和泉の男が摂津の乙女を求めて争った。二人の若者は年齢、容姿、人柄がまったく同じであった。思いの勝っているほうに決めようとしても決められない。訪ねてくるときも同じなら、贈り物も同じ、思いの深さも差がないのであった。
乙女は生田川のほとりに平張(ひらばり、仮屋)を建てて住んでいた。娘の親が二人の若者をそこに呼んで「この川に浮かぶ水鳥を弓で射てください。射当てたほうに娘を差し上げましょう」と約束した。二人が同時に水鳥を射たところ、一人は頭を、もう一人は尾を射当てた。どちらを勝ちとすることもできず乙女は悩み、「住みわびぬわが身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり」と歌を詠んで川に身を投げてしまった。若者二人も続いて飛び込み、一人は女の足をとらえ、もう一人は手をとらえて三人とも死んでいった。
親は川から亡骸を引き上げ嘆きつつ葬った。男の親たちも来て女の墓の側に埋葬しようとしたが、摂津の男の親が、他郷の者であることを理由に拒み妨害したので、和泉の男の親は船で和泉の土を運んできて埋葬した・・・・。(大和物語 生田川)
舞台地は万葉集での蘆屋から、生田川へと移っている。旧生田川は六甲山麓の布引の滝から流れ出て、加納町を通り海へ注いでいたとされる。往古の流路はわからないけれども、先に訪れた西求女塚公園よりも西を流れゆく川であった。
舞台地の変更に加え、乙女を中心に展開する男二人の行動が徹底して奇妙な対称をなしていることが強調され、反復されてゆく。(普通の人ではないような、どこか神性を帯びているとでもいうのだろうか)そして乙女の死後も二人が争い続け、さらに親族がその遺志を引き継ぐかたちで、墓を営む際にも争った、という点が、万葉歌の世界とは少々異なっている。
このような結末では、死すらも何の解決にもならず、あの世でも男たちはきっと激しく争うだろうし、永劫にわたり決着がつかないのだ、と読み手はそれとなくおそろしい予感を強いられる。
三人の均衡の関係を誰も破ることができないことが、このような悲劇を生んでゆくのだが、その不可思議な均衡が、何の根拠をもってそうなるのかという点には、作者は触れていないので、読み手には謎と映る。
やはり乙女は普通の少女でなく、前述したように巫女的な資質の人であったのだろうか。そう考えれば、なにか目に見えない神の恣意による霊的な力が働いたために、男たちも乙女も翻弄されていったのだと、想像できなくもない。あるいは男二人は若者の姿をとってはいるが、彼ら自身が神の表象、または神霊を背負う若者たちだったとも考えられる。
神は神だけでは成り立たず、良い祀り手を必要とするものであろう。そうなるとこの話は、若者たちに託された神同士の争奪戦、神が巫女を巡って争う話とも読むこともできるのだが・・・・。
乙女は命を絶ってしまったので現実にはどちらのものともならなかったのだが、勝敗をいうとしたら、片方の男の夢にだけ乙女が現れているので(万葉歌、高橋虫麻呂)、勝者は他郷から来た茅渟壮士のほうということになる。
若者が神を象徴する存在か、または神の資格を持つ人であり、神の代理として行動している、という仮定のもとで考えるなら、摂津の男は地主神、あるいは地霊が憑依した存在であり、同様に和泉の男は、和泉の地の神霊が憑依した存在、ということになるだろう。
摂津の男は在来の神であり、和泉の男は客人神で来訪神ということになる。一般に遠方から寄り来るものの方が、より神秘性をまとっているように感じられるだろうから、乙女は海の彼方から訪れた「客人(まれびと)」のほうに惹かれてしまった、というとらえ方もできるだろうか。
あまりそちらのほうへ空想を進ませると、折口信夫の「水の女」の世界に入ってしまいそうであるが・・・・。折口風に考えるなら「水辺で身を清め、機を織りながら神の来臨を待つ聖なる乙女」が菟原処女の本質ということになる。
さらに後の時代になると、この題材は能に取り上げられ「求塚」と題して演じられるようになってゆく。
一人の旅の僧が生田で若菜を摘む乙女たちに出会うと、その乙女の一人が僧を塚へと導いて、謂れを語りはじめる。若者二人に求婚された菟名日(うなひ)処女は悩み、生田川の鴛鴦(おしどり)を二人に射させて決めようとするが、矢は同時に翼を射抜いたので、乙女は川に身を投げてしまった。乙女は塚に葬られ、男たちは塚の前で互いに刺し違えて死んでいった。僧にいきさつを語った女は、乙女の亡霊であった。
乙女は番(つがい)の鳥の片方の命を奪い、若者二人を死に至らしめた罪によって地獄に堕ち、男たちから左右に手を引っ張られ、鴛鴦に頭をついばまれ、獄卒に鞭で追い立てられるなど絶え間ない苦しみを味わっており、その苦患のさまを再現して僧に訴える。僧が読経で弔ってあげても成仏はできず、乙女の霊は暗闇の求塚へと消えていくのだった。・・・・
実に重苦しい内容で、これまであまり上演されなかったというのもうなずける。これでは観ているほうも気が沈み、落ち込んでしまいそうである。乙女に多くの罪を押しつけすぎだし、残酷である。この話から仏教色を取り除けば、もともとは、水辺で神祀りをする少女の話であったかと思われるのに、因果応報の要素が組み込まれてゆくと、ここまで変容し、暗い内容になってしまうことに驚かされてしまう。仏教的な説話として演じられるようになった背景には、その時代の宗教観が反映されているのであろうが、どこにも救済がない展開と結末になっている。
森鴎外がこの菟原乙女の伝説を題材にして、戯曲「生田川」を書いている。一幕の作品である。
内容は、二人の男が鴨を土産に女のもとを訪れて、母親から水鳥を射た者に娘を与えると言われ、二人が試みると同時に翼に当ててしまい、それを知った乙女は、ひそかに死を決意して家を出、川へゆくという展開である。鴎外の作品の中では、知名度が高いとは言いかねるけれども、少し引用してみよう。
處女 唯(ただ)わたくしには久しい間、極(き)まらないでいた事が、そんなに急に極まるのが、恐ろしいやうでございますの。それにあの大きな鵠(くぐひ)を、今朝ふいと見た時から、何だか気に掛かっていたのに、あれが射られて極まるといふのも、おそろしいやうでございますの。
・・・・中略・・・・
處女 いいえ、おっ母(か)さん。あの鵠(くぐひ)が死にましたので、今日わたくしの身の上がどうにか極まらなくてはならないやうに思はれますの。人間の小さい智恵で、どうしやうの、かうしやうとの、色々に思ひましたのも、夜が明けて見れば、燈火(ともしび)の小さい明りがあるかないか、知れないやうなものですわ。・・・・
後半で乙女の死がそれとなく暗示され、この後は突如現れた托鉢の僧による難解な読経(唯識論)が続いてゆき、母親の短いせりふの後、幕が閉じられる。物語がはじまったかと思うと妙にあっさりと終わってしまうので、作品の背景もよくわからず、物足りないという印象を受ける。とくに唐突にはじまる読経の場面には違和感があり、よく理解できない。作者にとってはここが重要な部分だったのかもしれないが。
鴎外が、関連地を実際に訪れて古墳を見たかどうかはわからない。戯曲を書くに当たっては文献や資料を調べたことではあろうが、一幕ということもあり、伝説を巧みに作品化しているとは、言いがたいであろう・・・・。
古の伝説の世界を求め、三つの古墳を巡ってみた。どの古墳も、発掘調査では豪族の墓と考えられる、と説明してあり、菟原処女の伝説には触れてあるものの、伝説と墳墓との関係を婉曲に否定するかたちになっていた。それは訪れる前から予想していたことであったが、それでも現代の風景の中に、なおかすかに息づいている古代の物語の一端に触れることができて、興味深かった。
この話の原型には、身を清めて家に籠もり、いつか神のような男が訪れるのを心待ちにする、可憐な乙女の姿があるだろう。そして伝説の乙女の原像には、折口のいう「海浜や海に通じる川の淵に湯河板挙(ゆかわたな)を造り、そこに住んで潔斎し、機を織りつつ、訪(おとな)う神を待ち続ける古の巫女や、村の神女」の姿があるのだと思われる・・・・。
万葉集から三人の歌人の長歌と反歌を引用したが、高橋虫麻呂の長歌がいちばん心に訴えかける力があるように感じられた。どうしようもなく死を選んでしまった乙女と二人の若者。もっと生きてみたかったであろうに・・・・という作者の思いが伝わってくるようである。
古墳はどれも、六甲山の緑の山並が臨まれる場所に営まれていた。長い年月の間にいつしか海岸線は遠のいてしまい、墳丘上に佇んでみても、潮風の匂いは感じられなかったが、万葉集を手がかりに三つの古墳を訪ね歩き、古の伝説、遠い物語の世界を改めて思った一日であった。