一古代出雲紀行一
熊野大社(出雲一宮) 神魂神社 八重垣神社
須我神社 須佐神社
一古代出雲紀行一
熊野大社(出雲一宮) 神魂神社 八重垣神社
須我神社 須佐神社
出雲一宮 熊野大社
今回は出雲の古社を訪ねる旅である。岡山から「特急やくも」に乗り換えて松江に着いたのは昼頃であった。三日間電車バス乗り放題というチケットを駅前で買い求め、路線バスで熊野大社に向かう。
市街地を抜けていくにつれ、なだらかな山並みや山間部の集落が現れる。途中乗り換えて熊野大社前で下車すると、そこには静かな雰囲気をたたえた参道と古社があった。
狛犬は「出雲型構え獅子」である。お尻が高く上がって躍動感がある。宍道湖周辺で取れる来待石を用いたもので、この形は出雲や日本海側の社に多いという。獲物に飛びかかる直前の姿勢を表わしているのだろう。近畿の神社では前足を揃えて坐っている狛犬が多いので珍しいものと映る。
出雲には一宮は二社あり、普通出雲一宮としては出雲大社のほうが有名であるが、ここ熊野大社も一宮である。かつてこの地域が信仰の中心だった時代があったが、出雲大社の方に移っていったということなのだろう。参詣人で賑わう出雲大社との差は明らかで、両者の隆盛衰微がうかがえる。
主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。ひっそりと山間に鎮座する、忘れられたようなお社である。大社造の社殿は近年の改築らしくまだ新しいものの風格もあり、境内も広々としているだけに、無人の境内が寂しく感じられる。ここは紀伊の熊野本宮大社の分社とみなされることが多いらしい。同じ熊野という名から混同が起きるのだろう。もっとも熊野大神は出雲から紀伊に勧請されたという説もあるようだが・・・・。
熊野の「くま」は「神」や「隈」を指す言葉で、神々の坐す奥まった地をいうそうだ。籠もるという意味もあるという。薄暗い山中の樹木が生い茂っているさまが想像できる。出雲も紀伊もそれぞれに固有の熊野神を祀ってきた、とする説のほうが妥当のようである。
社殿の左手には鑽火殿(きりびでん)と呼ばれる萱葺き屋根、室内の壁は檜で覆われている建物があって、これはよく本などに写真が紹介されている。外観は質素でこの上なく素朴な造りと見えた。ここは聖なる火がつくられるという場所で、神職二人が向かい合って坐り、火鑽の臼(うす)と火鑽の杵(きね)でもって火を起こす神事が今も行われているそうだ。一本の棒と溝をつけた一枚の板を使い、錐をもむようにして行うその古代の火起こしの方法は、素戔嗚尊が伝えたものという。この熊野大社は日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)というそうである。
火起こしに関しては「亀太夫神事」という変わった行事もあるそうだ。年に一度、出雲大社から古伝新嘗祭に使うため、この神社に臼と杵を借りに来るのだという。その折にお礼として出雲からお餅を持参してくる慣わしだが、熊野側の亀太夫という神職が、餅の大きさや形が悪いといって毎回あれこれと難癖をつけるという。出雲側は黙ってそれを聞き、道具を借りて帰るのだそうだ。
信仰は時の政治の権力、その変遷とも結びついてきたのだろう。二つの神社の関係がどのようなものであったのか、両者間の軋轢がしのばれる行事である。
神社の前をきれいな川が流れていた。意宇(おう)川である。かかっている橋は八雲橋という。神南備山が近くにあるはずと思うが、どの山がそれに当るのかバス停の位置からではよくわからない。やがてバスがやって来たので乗り込んだ。意宇川の清らかな流れに沿ってバスは同じ道を引き返していく。
神魂神社
神魂(かもす)神社に向かう。神坐(かみいま)すという言葉が訛ったものという。風土記の丘の近くでバスを降り、畔に鮮やかな彼岸花が咲き揃っている道を、地図を見ながら歩いていく。やがて鳥居と緩やかな石段が見えてきた。
その石段を上がると道は二手に分かれ、更に急勾配の石段が現れる。自然石を利用した石積みで、少々上がりにくいがゆっくりと足を運ぶ。上がりきると、そこには古色蒼然としたお社があって、その神さびた雰囲気に身が引き締まる思いがした。社殿は室町時代のもので国宝という。建物は現在の出雲大社よりも古く、その雛形ともいえる構造になっているそうだ。
本殿に近づくと目の前の三宝にお供えものがしてある。新聞紙を折ってきちんと敷いた上に何か黒いものが一束載せてあって・・・・女性の髪の毛に見えてぎくっとたが、よく見るとそれはホンダワラという海草であった。
以前佐太神社に行ったとき、社殿の脇の木の柵に地面に届くほどの長い海草(ホンダワラ)が何本か掛けてあって、横に竹筒も置いてあり、(何かのおまじないかとそのとき思った)ちょうど雨が降っていたので海草が濡れそぼり、やはり一見して垂らした長い女性の黒髪に見えたことも思い出した。(後で聞くと潮草といって、家に不幸があった折など、忌明けの祓いに用いるものということであった)
目の前の三宝に載った物を改めて観察する。ホンダワラはヒジキやアラメに似た黒い色で、間にプチプチとした実のようなものがついている。乾燥してきているので塩を吹いているが、ひと束の稲穂とも見えてくる。お供え物としての意味合いも稲穂に似ていることからなのだと頭ではわかるが、どうしても女性の髪の毛と見てしまった第一印象がぬぐえず、珍しいものとして眺めたのだった。
祭神は伊弉冉大神(いざなみおおかみ)、伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)。創祀は古く、天穂日命が邸内において大国主命(大己貴命)を祀ったのが起源とされる。天穂日命は当地に釜で天下ったという伝承があるそうだ。それにしても釜とは、変わった伝えである。天の磐船、などという言葉にもあるように、堅固な乗り物を意味するのだろうか・・・・。
古層をめくると古い神が立ち現れてくるのはここに限ったことではないだろう。神社は出雲国造家の住居跡で、国造家が祭祀を行う斎場であったともいわれる。背後の山には巨大磐座もあるという。
天穂日命は国譲りに際して、皇祖から選ばれて任務を帯び、最初に葦原中つ国に天下ってきた神とされるが、逆に大国主命に心服し、三年間復奏しなかったという。(「出雲国造神賀詞」では、天穂日命はきちんと務めを果たしたように記述されている)
古事記の記述を見てみよう。
・・・・この葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国とことよさしたまへる国なり・・・・いずれの神をか使はして言(こと)むけなむ。・・・・神たち議(はか)りて白(まお)さく「天の菩比(ほひ)の神、これ遣はすべし」とまおしき。かれ天の菩比の神を遣はししかば、大国主の神に媚びつきて、三年に至るまで復奏(かえりごと)まをさざりき。 (古事記)
(なお兵庫県の六甲山カンツリーハウス内の丘の頂にも、天穂日命の降臨伝承があり、大きな丸い磐座、神籬、ストーンサークルなどが現存し、不思議な空間をかたづくっている。天穂日命を祀る芦屋神社の奥宮と伝承され、天穂日命はその頂に降臨したとも、そこで神を祀り祭祀を行った後に、任務のため出雲へ向かったともいわれている。出雲への経路はよくわからないが、おそらく山越えで行ったのであろう)
記紀によれば、次に天若日子(あめのわかひこ)が天より下されるが、大国主の娘下照姫を妻にした天若日子も八年間復奏せず、天からの使いの雉を矢で射たため、その報いとして天上から呪術の返し矢を受けて死んでしまう。なお天稚彦(あめのわかひこ)が、従者の天探女(あめのさぐめ)とともに天の磐舟で降り立ったのは、(出雲ではなく)難波の高津であるという伝承もある。(摂津国風土記逸文、万葉集による)
国譲りの話に戻ろう。遂に経津主神(ふつぬしのかみ)、建御雷神(たけみかずちのかみ)ら武神が出雲に下ってきて、稲佐の浜に降り立ち、武力で大国主命に国譲りを迫った。大国主命は息子に命運を託すが、二人の息子のうち事代主命(ことしろぬしの命)は美保の海で天の逆手を打って水死、また建御名方命(たけみなかたのみこと)は諏訪に敗走して降伏し(建御名方の話は古事記のみにみえる)、頼みの綱を失った大国主命は現世の政事は皇孫に譲り、自分は幽界の神事のみを受け持つことを承諾し、宮殿を建ててもらって退き、自分の国を明け渡すのである。
書紀によれば、
・・・・其の宮を造る制(のり)は、柱は高く太し。板は広く厚くせむ。又御田つくらむ。又汝が往来(かよ)ひて海(わたつみ)に遊ぶ具(そなへ)の為には、高橋、浮橋及び天鳥船、亦造らむ・・・・。又汝が祭祀(まつり)を主(つかさど)らむは、天穂日命(あまのほひのみこと)、是なり」とのたまふ。 (日本書紀 神代下)
とある。大己貴命(おおなむちのみこと)は国を譲った後、自分の代わりとして道案内に岐神(ふなとのかみ、猿田彦神)を、経津主神(ふつぬしのかみ)に差し出して退き「躬(み)に八坂瓊(やさかに)を被(お)ひて長(とこしえ)に隠れましき」つまり体に大きく立派な玉をつけて、亡くなられたというのである。敗者として死を賜ったということであろうか。
天穂日命がその後の出雲祭祀を掌り、天穂日命の息子である武日照命(たけひなてる、たけひなとりのみこと)は出雲国造の祖となっていく。また天穂日命の子孫には、野見宿禰(出雲の勇士として相撲で大和の当麻蹴速を打ち負かした)がおり、垂仁天皇に仕えて陵墓に人馬の埴輪を立てることを考案、土師の祖となった。
大社造りの本殿を眺めた後、摂社を見て回る。貴布禰(きふね)両稲荷社、荒神社、蛭子社、秋葉社、どんな祠にも古の風格や気品が感じられ、境内には静謐かつ厳かで清浄な雰囲気が漂っている。ここの神紋は丸の中に有という文字であった。十月は全国の神様が出雲に行ってしまうので神無月というが、出雲では逆に神在月といい、また有という字は十と月を合わせたもので、十月には神様がおられるという意味らしい。
神在祭のある旧暦十月には多くの神々が出雲大社に参集するが、その折にここ神魂神社にも神々が集まり何日間か滞在される(神在祭)という。
そういうことを聞いてみれば、ここ大庭の里が古代出雲の中心地であったことと思い合わせ、神域とはこういう空間をいうのだと、境内に漂う静寂、その中にひそむただならぬものの気配、また出雲大社と対になっているという格の高さにも自然と納得がいくのだった。
八重垣神社
徒歩で八重垣神社に向かうことにする。はにわロードといってところどころに飾り物のユーモラスな埴輪が置いてある静かな道で、白い彼岸花やこぼれるように咲いている萩の花も見かけた。三十分ほど歩くと八重垣神社である。
入り口にある巨大な椿の木があって、近寄るとその生命力に圧倒された。夫婦椿というそうで、境内には二本の木が途中で絡み合って一つになった珍しい椿の巨木が二本あるという。それにしてもこのような連理の椿の大木は珍しい。土壌の関係なのか神秘なのか・・・・。
祭神は須佐之男命と稲田姫命。八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話で有名な神社である。天上から追放された須佐之男命は、出雲の斐伊川上流の鳥髪の地に降り立ち、そこで流れてきた箸により、上流に人が住んでいるのを知る。娘の稲田姫を前にして嘆く手名椎(てなずち)、足名椎(あしなずち)夫婦から、毎年やって来ては次々に娘を取っていく高志(こし)の八岐大蛇のことを聞き、娘を貰い受けることを条件に、濃い酒をたくさん醸すように夫婦に教える。大蛇に飲ませて酔いつぶし、剣で切り刻み、その八つ目の尾から宝剣を得て姉の天照大神に献上、須賀の地で稲田姫を妻にするという話である。
八つの頭と八つの尾、目は赤いほおずきのようで、身には杉や檜を負うという巨体を持ち、年ごとに人々を苦しめに来るという大蛇も、その正体がはたして何なのか、何を象徴しているのか、河の氾濫、越の国との闘争、製鉄との関連など諸説あって判然としない。
この神話は古代英雄の冒険譚であるし、出雲が舞台であるのにもかかわらず、出雲風土記には載っておらず、古事記と日本書紀には記述があるという点に特色がある。舞台地が出雲ではないという説もあるようだが、これを出雲古来の伝承とするならば、記紀編纂の折に中央が各地の神話を吸収合併し、自分たちのものとして書き換えていったことの反映とみればよいのだろうか。
須佐之男命も、追放に至る真の理由がはっきりとしない、謎めいた性格を持つ神である。記紀によれば、その髭が胸まで伸びるくらい長時間にわたって「啼きいさちき」、つまり泣きわめいたので、暴風のため山が枯れ、海が干上がったという被害の記述がある。加えて姉天照大神と心の清明さを証明する誓約(うけひ)の後、勝ちにまかせて暴走し、溝埋み、畔離ち、また服屋(はたや)の屋根から馬を投げ込むなどの乱暴をして、中にいた女性を傷つけ、あるいは死なせたために、天照大神の天岩戸隠れが起き、その諸々の騒動の罪を負って天上から追われたとされる。追放の情景を見てみよう。
・・・・髪を抜きて、その罪を贖(あか)はしむるに至る。またいはく其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。つひに逐降(かむやらひやら)ひき。
・・・・天上(あめ)に住むべからず。また葦原の中つ国にも居るべからず。急(すみやか)に底つ根の国にいね」といひて、すなはち共に逐降(やら)ひ去(や)りき。
時に霖(ながあめ)ふる。すさのをの尊、青草を結束(ゆ)ひて、笠蓑として、宿を衆神(もろかみたち)に乞ふ。衆神のいはく、「汝は是身のしわざけがらはしくして、やらひせめらるる者なり。いかにぞ宿を我に乞ふ」・・・・
風雨甚だふきふるといへども、留まり休むこと得ずして辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。(日本書紀 神代上)
天照大神の弟神でありながら、神やらひに追われた須佐之男命は、髪や手足の爪を抜かれた姿になって、追放と屈辱と流浪の悲しみを味わう。蓑と笠をつけ風雨の中をさまよい、神々に宿も断られ一人下っていく神の姿には、受難の苦しみや孤立感がよく表れていると思う。
この物語を受苦の試練と死と再生の物語とみるのならば、須佐之男はこの苦難の中で一度死に、地上に降り立った時には、新しく強い魂を持った存在として蘇るのである。死に等しい辛苦を自らの力で乗り越えた須佐之男は、その代償として何ものにも代えがたい強靭な精神を得たのであろうか。天上にいたときとは違い、まるで別人のように思慮に満ち勇敢に行動する性格の持ち主となって地上に復活してくる。そして多くのものも手に入れていく。敵を倒し、山あいの清浄な須賀の地に新しい宮を建て、稲田姫と共に住んで子をなすが、武勇だけでなく文学の才能にも秀で、「八雲立つ・・・・」と新妻を得た喜びを自然の中で高らかに歌い挙げ、和歌の祖ともいわれるようになるのである。
そしてこの八重垣神社のある佐久佐女(さぐさめ)の森は、稲田姫が大蛇の難を避けるために一時的に住んだとされている場所なのであった。
社殿の前に進むと、境内も社殿も明るい感じであった。社殿を覆いつくすような樹木が少なく、開けた空間に陽が差し込んでいる。境内はそう広くはなく、お掃除がよく行き届き清潔感があった。社殿の左右には稲田姫の両親である手名椎、足名椎のお社もある。
ここは縁結びの神社で、近年はパワースポットとしても有名なので女性のお参りが多く、ふだん神社に足を向けないようなタイプの若い人たちで賑わっていた。彼女たちは社務所で水占いの紙を買い求めると、境内奧の森にある佐久佐女の池を目指していく。
社殿の左手に進むと佐久佐女の森である。樹木が生い茂って濃い影を作り、森に一歩入ると、ふっと周囲が薄暗くなり空気がひんやりと変化したのがわかる。ほどなく奥まったところに池が見えてきた。水占いの紙を手にした女性たちが真剣な表情で手を合わせ、しゃがんで紙を水の上に浮かべそっと百円玉を置いている。
置いた紙が早く沈むほど縁が近いのだそうだ。紙が遠くに行けば遠くの人と、近くで沈むと近くの人と結ばれるそうである。あっという間に沈んでいく人もいるが、中にはいくら待っても沈みそうにない人もいて、途方にくれた表情で見つめている。池には赤黒いイモリがいてときどき水面を走り、紙を揺らしていく。用紙には濡れると吉の方角を書いた文字も浮かび上がるしかけで、さまざまな思いが胸に交錯するらしい水占いの池であった。
池の上には稲田姫を祀る祠があり、横の小高くなった所には、八重垣をかたどったと思われる石の玉垣が八本あり、大きな杉の木を取り囲むようにしつらえてあった。八重垣とは家屋の周囲にめぐらす垣で、大垣、中垣、万垣、西垣、北垣、袖垣・・・・とそれぞれ名称があるそうである。
ここは須佐之男命と稲田姫を描いた絵があることでも有名なのだが、(教科書などによく載っている)何となく気が向かなくて拝観はしなかった。
最後にもう一度お参りしてから帰ろうと思い、社殿左手にある手名椎社に手を合わせた。これは稲田姫の母親である。次に社殿の裏手に回り込み、父親の足名椎社にお参りしていると、祠の横からするすると長いものが・・・・本殿に戻ったが、さすがにここはおろちの国なのだと妙に納得したのであった。
須我神社
翌日は須我神社を目指した。須佐之男命が宮を建て稲田姫と住んだという地である。昨日とは別系統の路線バスで移動していく。朝から雲が厚かったが雨が落ち始め、バスの窓からは煙るような山並みが見え隠れする。雲南市に入るとほどなく、霧に包まれた水墨画のような光景が現れた。
須賀でバスを降りると目的の須我神社はすぐ近くであった。村の鎮守社という雰囲気で、社務所では集落の女性たちの集まりがあったらしく、賑やかに談笑する声が聞こえてくる。
祭神は須佐之男命と稲田姫、その御子神、稲田姫の両親。稲田姫は大蛇退治のときはまだ幼かったとする説もあるそうだ(一書にいはく・・・・)。
神社の入口には日本初之宮と刻んだ碑があった。須佐之男命は大蛇退治の後、住むのにふさわしい地を探し、ここ須賀に宮を建てたとされる。当初宮のあったのはここからもう少し山(八雲山)に入った地点ということであった。
参拝の後、空を見ると、時折雨足が強くなってきている。しかたなくお堂の濡れ縁に坐ってしばらく雨宿りすることにした。このまま次のバスで帰るのがいいのだろうか、それともせっかく来たのだからもう少し周辺を歩いてみようかと迷い始める・・・・。
そのうち雨が小降りになってきた。そうなると帰るのが惜しくなり、奥宮にあるという磐座まで上ってみることにした。
社務所の人に道を教わり、神社を出て村道を歩いていく。奥宮まで三十分はかかるらしい。舗装された山道ではあるが、分岐が何度もあって部外者にはちょっとわかりにくい。ふと見ると前方路上に白い紐のようなものが・・・・それは車に轢かれて横たわる蛇であった。昨日の八重垣神社に続いて・・・・我慢して見ないようにして足早に通り過ぎる。
その後道が細かく分かれていたため方角を見失い、農家の人に尋ねてようやく正しい道に出た。よく見れば分かれ道に表示板と地図もちゃんとあったが、実はそこへ至るまでに早くも道を取り違えたのである。
次第に上り坂になった。もう靴もズボンも情けないほどずぶ濡れである。こんな雨の中を行くのを怪しまれたのか、猛烈に犬に吠えられてしまう。そこを過ぎると人家が減り、杉や檜の林の中を進むことになる。
ようやく奧宮に入る登山道が見つかった。八雲山である。ここは和歌発祥の地ということで道端には歌碑がいくつも建っていた。さまざまな人がこの地を訪れその思いを歌にしているのだ。出雲、八雲、須佐之男命、稲田姫、・・・・地名、人名、風土を詠み込んだ作品群が展示され、想いを託した歌碑、句碑が山道の行く手に文芸道しるべとなって現れる。最初は立ち止まって丁寧に読み鑑賞していたが、なにしろ数が多いので全部は無理である。碑は全部で六十基ほどあるという。
途中神泉坂根水というみそぎ場があった。細い谷水が流れ落ちており、水は大層冷たい。そこから更に上っていくと急傾斜の長い石段が現れた。前方には大きな磐座の一部が見えている。この位置から見えるということはかなり大きいようだ。
石段下は山の斜面で少し開けた空間になっている。須佐之男命の造った須賀宮というのはここにあったのかもしれないと思う。
・・・・かれここを以ちてその速須佐の男の命、宮造作(つく)るべき地(ところ)を出雲の国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして、詔(の)りたまはく、「吾此地(ここ)に来て、吾が御心清浄(須瓦斯が)し」と詔りたまひて、其地に宮作りてましましき。かれ其の地をば今に須賀といふ。(古事記)
須佐之男命は宮を造る地を求めて出雲の国をあちこち行かれたが、ここに来て「心持ちが清清(すがすがしい)」と仰って、そこに宮殿を造られたというのである。
幸い頭上の樹々の枝が厚く重なり合っているので、雨はさほど当らず気にならなくなった。ようやく石段を上がりきると、そこには想像を絶する巨大磐座が三体鎮座していて、その大きさと質感に圧倒される。
磐座は大中小とあり、大きいものは数メートル、夫婦神とその御子神を祀るという。敬意を表して磐座に礼拝、疲れたのでその横に座り込んでしばらく休憩する。
あたりは樹木に包まれたほとんど緑一色の世界である。雨に濡れた緑は色を深め、間にほんの僅か紅葉のはじまった葉が彩りを添えている。静寂の中に枝を打つ雨音だけが響く清らかな八雲山の森であった。
山を降りる。元の道に降りていくにつれ、雨は依然止まないものの空が明るくなってきていた。さっきは雨が強かったので景色を見る余裕もなかったが、今眺めると徐々に雲が切れ、視界が開けていくのがわかる。それとともに何重にも重なった山並みが現れる。その間から濃く薄く白い霧が湧き、刷毛ではいたようにたなびいていく。山々は霞に包まれ谷から霧が立ち上っては白く流れていく・・・・。幽玄な光景に言葉もなくその場にたたずんでいた。
・・・・この大神初め須賀の地に宮作らしし時に、其地(そこ)より雲立ち騰(あがり)き。ここに御歌よみしたまひき。その歌、
や雲立つ 出雲八重垣 妻隠(つまごみ)に
八重垣作る その八重垣を (古事記)
須佐之男命の古歌そのままの情景が広がっていたのだった。須賀の地を雨の日に歩いたからこそ、出会えた「八雲立つ」出雲の山々の情景だった。山々にかかる雲と霧の織りなす美しさ、大自然への畏敬、その感動の中から日本の和歌が生み出されていったのだ。そのことに改めて気づかされるとともに、またとないこのような出会いに感謝し、山と霧の情景を心に刻みつつ、道を下っていった。
松江に戻り、続いて出雲市に移動していくが、ここも雨であった。出雲といえばなんといっても出雲大社であるが(以前佐太神社と加賀の潜戸を訪れた際に、出雲大社は参拝していたが)、折悪しく「平成の御遷宮」の改修工事中で、それは平成二十五年までかかるという。シートを掛けられ人の出入りも制限されており、どうしようかと迷ったが、ここまで来て出雲大社を外すのも、と思ったので、夕刻になっていたが参拝した。案の定本殿も摂社も板で覆われ、中からはしきりに物音が響いてきて落ち着かない。神様もこの騒音をずっと辛抱されているのだろうか。本殿はもちろん裏の素鵞の社も参拝はできず、神楽殿、仮殿に一礼したのみで引き返したのだった。
須佐神社
翌日はこの旅の最終地である須佐神社を目指した。昨日とは打って変わって晴天である。須佐へは出雲市からバスで四十分ほどの距離になる。市街地を抜け神戸(かんど)川沿いの道を進むと、途中立久恵(たちくえ)峡という景勝地があり、奇岩怪石の連なる山と清流を窓から楽しんで眺めた。
須佐に着くと、パワースポット旅行らしい若い人たちが数人降りる。皆須佐神社を目指すらしく、ここでは相乗りタクシーが普通ということで、二人連れの娘さんと組んでタクシーに乗った。(会社名はスサノオタクシーであった)神社までは須佐川沿いに約3キロで、個人的にはタクシーで神社前に乗りつけるというのは一番避けたい方法だけれど、歩くと小一時間かかるというし、帰りのバス便のことを考えると、極端に本数が少ないのでやむを得ない。車内でのお嬢さんたちの話によると、全国パワースポットの中で、須佐神社は最強と本で紹介され人気なのだという。
須佐神社は山に囲まれた静かな谷あいの地にあった。社のすぐ横をさらさらと素鵝川が流れ、周辺には民家と田畑が広がり、空にはのどかに赤とんぼが舞っている。神社入口には須佐大宮とあった。ここは須佐之男命の終焉の地、その神霊の鎮まる地とされている。
祭神は須佐之男命、稲田姫、その御子神、稲田姫の両親である。今回の出雲の旅では熊野大社をはじめ八重垣神社、須我神社、そして須佐神社と須佐之男命に所縁のある社を多く巡ったことになる。当然のことながら出雲の多くの神社は大己貴命や須佐之男命とは縁が深い。記紀によれば、大己貴は須佐之男の子、あるいは六世の孫とも・・・・。
須佐之男命は謎を秘めた神である。天照大神の弟という神格を持つとされるが、その名からみれば須佐の男、須佐の地の首長という意味である。一方で渡来人という説もあり、製鉄との関連をいう説あり、またもっと後の時代になると、神仏習合の結果、須佐之男は牛頭天王、つまり恐ろしい疫病神として各地の祇園社にも祀られるようになる。(蘇民将来の逸話)
京都祇園の八坂神社の常に人で溢れる華やかさ、祇園祭のあの激しいエネルギーが渦巻く熱狂空間に比べると、同じ須佐之男命を祀るという社でありながら、この須佐の社はまた何という静寂に満ちた世界なのだろう。
天上の神々が凶暴さに畏怖したというほどの荒ぶる神、暴風の神、また人々をなぎ倒す威力のある疫病の神・・・・須佐之男の持つ荒々しさはここには全く感じられない。
あるとしたら、ここには既に何かを成し遂げて退き、本拠地に鎮まるべくして鎮まったかとも思われる、老いた神の醸し出す静かな感傷であろうか。自然と芥川龍之介の短編「老いたる素戔鳴尊(すさのを)」の作品世界を思い浮かべ、ここに重ねていた。
社殿は重い存在感のある大社造りである。裏の大杉と摂社を見て境内を隈なく歩き回り、境内を出て周辺も歩いてみたが、目の前に現れるのは、どこかで見たような懐かしい鎮守の森の情景であり、遠い記憶の底に横たわる原風景のような、日本の片田舎の一場面なのであった。そして境内に戻ると、樹木越しにふっと差し込んでくる陽光の柔らかさと、この里に穏やかに流れているものの持つ優しさに、いっとき心が和む思いがするのであった。
須佐の地はまるで谷間の隠れ里のような雰囲気を呈している。川が流れ地形は山に囲まれた天然の要塞、古代にはここを巡っての攻防戦も余儀なくされたかと思われる。
・・・・須佐(すさ)の郷(さと)。神須佐能袁(かみすさのを)の命、詔(の)りたまひしく「この国(くに)は、小(ちさ)き国なれども国処(くにどころ)なり。故(か)れ、我が御名(みな)は、木石(きいし)には着(つ)けじ。」と詔りたまひて、すなはち己(おの)が命(みこと)の御魂(みたま)を鎮(しづ)め置き給(たま)ひき。(出雲国風土記 飯石の郡)
須佐之男命は「この地域は小さい国ではあるが、国として住みよい所である。だから私の名はつまらぬ木や石にはつけるまい」と仰った、というのである。
ここは須佐之男命の終焉の地とされる。須佐之男は若い日々に、天上の世界では神々と相容れず波乱の末に追放されたが、降り立った地上では大蛇を倒して英雄となり、地域の王となって統治、年老いてここでその生を終えたのだろうか。
その神霊が今も鎮まるという社殿の上座に向かって挨拶し、もう一度境内を巡って、今回の旅を閉じることにした。