古代史の風景(7) 阿 武 山
古代史の風景(7) 阿 武 山
茨木市には、藤原鎌足の古廟があり、隣接する高槻市には、鎌足の墓ではないかといわれている阿武山古墳がある。今回はこの2箇所の地を訪れてみた。
茨木市安威の古廟は、小高い丘にあり、正面には古墳の石室の入口がある。古くから鎌足の墓所と言い伝えられてきた。けれども近年の調査によると、この古墳は6世紀中頃のものらしく、鎌足の没した時期とは100年ほど差があり、鎌足とは無関係とされている。
かつてここを藤原鎌足の古跡だと信じた人が、後世に伝えたいと考え、碑を建てたらしい。「大職冠鎌足公古廟」と刻まれた古い石碑が、今もその人の思いを象徴するかのように、丘の斜面に建っている。
藤原鎌足は、もとは中臣鎌足といった。蹴鞠の場で中大兄皇子に近づいて、親交を結んだといわれている。大化の改新の中心的な人物であり、以後も皇子に信頼され、近江令を編纂するなど、政治の場で活躍した重臣であった。
日本書紀などによると、晩年、天智天皇らと狩をした折に、鎌足は落馬して怪我を負ったという。山科の自宅で療養を続けたが、次第に重篤になっていった。長年の功績により、「大職冠と藤原姓」を天智天皇から授けられたが、その翌日に56歳で没した。
鎌足は質素な葬儀を望んでいた、といわれている。墓所は摂津の三島郡にあったとされ、後に大和の談山神社に移されたといわれていたのだが・・・・。
昭和初期に、高槻市の阿武山で、工事中に古墳が偶然発見された。玉や剣を持つ人物が発掘されて「貴人の墓」として話題を集めたようだが、調査後に埋め戻されてしまった。
ところが近年になって、当時のX線写真が何枚か見つかった。詳しく分析すると、埋葬人物は60歳ぐらいの男性で、骨折が原因となって病死したことが新たにわかった。棺の内部には、青ガラス玉製の玉枕、冠帽の縫い取りに用いたらしい金糸、錦の痕跡が見られたことなどから、現在ではその人物は、ほぼ藤原鎌足と推定されている。
標高214メートルの阿武山への道は、高槻市側からと茨木市側があるが、後者から登ってみた。山中の道は行きかう人もなく雑草が深く生い茂り、稲荷の祠の辺りでは、分かれ道もあって迷いやすい。防災研究所の塔を目印に歩いて、ようやく古墳に辿り着いた。
見回すと周辺は公園風によく整備されており、墓室の表示板が、林の中で簡潔にその位置を示している。山の地形を利用して築かれた古墳のようだ。しばらくそこに佇んでいた。
鎌足は明日香の大原の里で生まれ育ったが、この摂津の地に住んでいた時期もあったという。
夕暮れが近くなり、眼下には静かな町並みが広がっている。ぽつぽつと点り始めた遠い街の灯を見ていると、阿武山に葬られた古代の武人の長い眠りと、その生涯のさまざまな場面が、想起されるのだった。
(2006・10・15)