一磐長姫の社一 (いわながひめのやしろ)
貴船神社 中宮結社 磐長姫神社(兵庫)
一磐長姫の社一 (いわながひめのやしろ)
貴船神社 中宮結社 磐長姫神社(兵庫)
大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、美人の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る神社は、富士山本宮浅間大社をはじめ全国に多いが、その姉の磐長姫(いわながひめ)を祀る社は少ない。これまで訪れた神社の中でも、磐長姫を祭神とするのは、京都貴船中宮の結社(ゆいのやしろ)、伊予大山祇神社の境外社の阿奈波神社、尼崎市の磐長姫神社くらいしか思い浮かばない。
記紀によれば、姉妹は天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)に嫁ぐが、美しい妹はとどめられ三人の息子を産むのに(末の子は神武天皇の祖父となる)、醜い姉は送り返された。そのため父の大山祇神(あるいは磐長姫)が呪詛し、天皇や人の寿命が短くはかないものになったというのである。
この姉妹に関しては、実は四人姉妹であったという説、また磐長姫は別名を木花知流姫(このはなちるひめ)といい、須佐之男命の子、八島士奴美(やしまじぬみ)神と婚姻して、男子をもうけたという説、また木花咲耶姫と木花知流姫を、同一人物とみる説など諸説ある。今回はゆかりの社を訪ねつつ、記紀が語る神話の世界を考えてみることにする。
真夏の陽ざしが降り注ぐ日、久しぶりに京都の貴船神社を訪れた。叡山電鉄出町柳のホームに行くと、鞍馬行きの電車が発車するところ、次の電車を待っていると、入ってきたのは人気のパノラマ電車「きらら号」であった。これは一時間に一本くらいしか運行がなく、できれば乗ってみたいと思っていたので幸運を喜ぶ。
座席は感じの良い紫の色調で、左側は一列座席、右側には窓向きにソファ型の席が配置されている。坐り心地のよいソファでくつろぎつつ風景を眺めた。一乗寺、修学院、宝ヶ池・・・・市街地から離れ、二軒茶屋、市原の辺りまで進むと、周囲に緑が増してきて目に染みるようである。山中の木々の間を走りぬけてゆくので、車内は涼しく感じられる。記憶に残るひと昔前の叡山電車は、古びた市電のようなおもむきで、夏は窓を全開していても暑くてたまらなかったが・・・・。その後、ここに来るたびに車両はきれいになっており、今はこのような快適な観光電車、しみじみと時の流れを感じる。
やがて青空を背景に、すっと美しい円錐型の山が前方に見えてきた。これは神の坐す神奈備山だろうかと目を凝らして見つめる。地図で確認すると鞍馬山であった。
三十分ほどで貴船口に着き、大半の乗客とともに降りる。皆さんそれぞれ貴船散策や、川床料理のお店にゆかれるようである。ほどなく市バスが来たので乗り込み、貴船川に沿ってさかのぼっていった。バスは、道で手を上げて合図する人を見つけると、停車する。バス停以外でも乗せてくれるのである。さやさやと流れゆく川面を眺めていると、ものの数分で貴船神社の下まで運ばれていった。
貴船神社本宮は山の急斜面にあり、参道を見上げると、赤い灯籠の列と石段がつくる情景が、なんともゆかしくてきれいである。ゆっくりと石段を上りつつ見ると、石垣の隙間のあちこちに双葉葵がみずみずしい葉を茂らせていた。大きい葉と小さい葉が対になった可愛らしい長めのハート型、手を伸ばしそっと触れてみる。
葵は古語では「あふひ」、ひは霊を意味し、神様の霊威に出合う、との意から、上賀茂神社、下鴨神社の神紋として用いられ、かつて貴船神社が賀茂社の摂社であった関連から、ここ貴船神社の神紋にもなっている。
「義経の森を歩く 鞍馬から貴船へ」の項でも書いて重複するが、境内のご神木の桂の古木は根が密生していて、エネルギーが満ちている感じである。昔鞍馬山中に隕石が落下したという伝承があるそうだが、(魔王殿の磐座群?)はたしてその影響なのかどうか、この森の樹木にはほかとは異なった植生がみられるように思う。
貴船神社の祭神は、水を司るという高おかみの神。おかみは、雨かんむりに口三つ、その下に龍、難しい字である。ここは賀茂川の上流、水源に当り、社殿の前にいると下方を流れ落ちる川水の音がすがすがしく耳に響き、右手奧には電車から見えた印象的なかたちの山が遠望できる。
ここはまた絵馬発祥の地でもあった。雨乞いには黒馬を、止雨には白馬(のちには赤馬も)を奉納、古代では生きた馬を神に捧げたが、後には木の板に描いた馬に代っていく。また本殿前には水占いの霊泉があり、おみくじを水に浸すと文字が浮かび上がってくる。真剣な表情で読む女性の姿が目立った。文字は乾くにつれ薄くなって消えていくが、水に浸せばまた現れる。
本殿裏に回ってみると、一段高くなった所にひっそりと磐座がひとつあり、注連縄で結界されてあった。ここからさらに深い山中には、古の鏡岩(折り重なった大岩が室になっている)があるというが、禁足地になっていて一般人は近づけない。
本宮を出て、さらに上流へと向かう。今日は散策の人たちや行きかう車が多い。以前来たときは初冬で、この道にほとんど人影がなかったのを思い出す。
奧宮に着いた。境内は静かで、山が近いので樹木の緑が迫り、野鳥の声も間近に聞こえてきて、木陰に坐ると心が安らいでくる清浄空間である。
祭神は闇(くら)おかみの神。貴船神社の説明では、高おかみの神と同じであるという。一説には、二神はともに水神であるが、高おかみ神は山の尾根にあって降雨を司り、闇おかみ神は深い谷にあって雷雨を司るとされる。闇おかみ神は荒ぶる神なので、農業神として祈るのは高おかみのほうであるとか。そのことを反映するのかどうかはわからないが、本宮は山の斜面を登った小高い位置、奧宮のほうは貴船川の流れのすぐ近くに社殿がある。
奧宮境内には小石で封じて船を隠したといわれる船形石があり、創始伝承をうかがわせる。反正天皇のとき、水源で水神を祀るため、難波から黄船に乗った玉依姫が、淀川、加茂川とさかのぼってここに至り、水の湧き出す龍穴の上に社を定めたのが起源という。
玉依姫の船が黄色に塗られていたというのは、防腐効果や魔よけのためでもあったろう。少し下流で川が分かれているのだが、楫(かじ)取がたくみに舟をあやつって貴船川のほうに船を導いたとも。この船形石には古色蒼然とした雰囲気が感じられ、ほかの神社には見られないもので、よく周りの風景に馴染んでいた。これがあることで境内に古の重みもつけ加えられている。
奧宮社殿が新しくなっていた。お社を新しくすることによって、神様の霊威も増すそうだが、個人的には古いお社のたたずまいが好きである。
本宮でもらった神社社報によれば、この六月一日に遷座したばかりという。人目に触れてはならない神聖な龍穴が奧宮社殿の下にあるため、解体修理をはじめる際には、まず社殿を隣の権地(ごんち)へ曳き移し、龍穴に白の覆いをかけて工事を行い、完成した社殿を元へ戻したという。
開始時と終了時には「附曳(ふびき)神事」が、百五十年ぶりに古式そのままに行われたそうだ。本殿を動かすとき、しゃべってはならない掟なので、神職はじめ氏子さんや関係者全員が(拝観者も含めて)榊の葉を口にくわえ、沈黙の中、紅白に捩った曳き綱を白装束の人たちで静かに引いたという。
そして伝承の龍穴は確かに存在したが、分厚い壁土のようなもので蓋がされていて、内部の様子はわからなかったそうだ。探ってみることもはばかられたようである。水はすでに枯れてしまったのか、それともまだ深い所で湧出しているのか、今も神秘のままである。
奧宮の横を流れる川岸には石段が刻んであった。かつて舟を寄せたという名残であろうか、あるいは神事の際、禊に使う場所なのかもしれない。水辺に降りてみると、貴船川の流れは澄みきって冷たく、手を浸すと気分がすがすがしくなった。少し下流には砂地が広がっていたので、そこへも寄ってみる。水際に坐って透き通った流れを見つめた。横にいた若い女性が靴を脱ぎ、足先を流れに浸しているのが心地よさそうなので、同じようにしてみる。たちまちしびれるような冷たさが伝わり、暑さも一気に引いていった。五分以上浸けていると、氷水のように感じられて痛いような感覚であった。
中宮結社
本宮と奧宮の中ほどに結社(ゆいのやしろ)がある。石段を上っていくと、ここも社殿が新しくなっており、社の周囲も開けていて記憶にある雰囲気とは異なっていた。以前はもっとひっそりとした森の中に立つ古い祠、という感じであった。
結社の祭神は磐長姫命。縁結びの神として知られ、和泉式部が心変わりした夫との復縁を願い、叶ったとされる。和泉式部の歌碑があって、式部の歌に対し貴船明神が慰めの歌を返したと伝えられる。以前はすすきなど細長い草をちぎり、神前に結んで祈ったそうだ。青人草という言葉もあるように、人を草になぞらえ祈願したのであろう。今皆がそれをすると、付近の草が抜かれてなくなってしまうため、草の絵が描かれた緑の結び文を本宮で売っており、それをここで結ぶようになっている。
磐長姫にまつわる記紀の世界を少し見てみよう。天孫の御子の命が短くなったことの起源を語る話は、このような場面からはじまる。
・・・・ここに番邇邇芸(ほのににぎ)の命、笠沙の御前(みさき)に、麗(かほよ)き美人(をとめ)に偶(あ)ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく「大山津見の神の女、名は神阿多津比売(かむあたつひめ)またの名は木(こ)の花の佐久夜(さくや)比売とまおす。・・・・また「汝が兄弟(はらから)ありや」と問ひたまへば「我が姉石長比売(いはながひめ)あり」とまおしたまひき。・・・・「吾、汝に目合(まぐはひ)せむと思ふは、いかに」とのりたまへば、「僕(あ)はえ白さじ。父大山津見の神ぞ白さむ」かれその父の神に乞ひに遭はししときに、いたく歓喜(よろこ)びて、その姉石長比売を副えて、百取の机代の物を持たしめて奉出(たてまだ)しき・・・・。
(古事記)
天からくだった邇邇芸(ににぎ)の命は、笠沙の岬で美しい乙女、木花佐久夜比売(このはなさくやひめ)を見そめ、名前や兄弟の有無を尋ねる。求婚するが、父の大山津見がお答えしますと言ったので、父親に会って、妻に貰い受けようとする。大山津見神は喜んで姉の石長(いわなが)比売をそえて、たくさんの献上物とともに奉った。・・・・
ところが天孫は、姉のほうは醜かったので畏れて返し、妹のみを留めて妻にされた。それを知った大山津見神が申し送ったことは、「私が二人を並べて奉ったわけは、石長比売を娶られると、天孫の御子の命は、石のように堅実においでになるであろうし、木花佐久夜比売を娶られると、木の花のように栄えるであろう、と誓言をたてたのでした。しかし石長比売を返されたので、天の神の御子のご寿命は、木の花のようにもろくなるでしょう」・・・・。
佐久夜比売はみごもったことを天孫に告げるが、国津神の子ではないかと疑われてしまう。比売は出産に当り、もし国津神の子であれば、生む時に無事では済まないでしょう、と言って戸口のない家を作って入り、粘土で塗りふさいで、家に火をつけて生んだ。
火が盛んになったとき、火照命(ほでりのみこと、海幸彦)が生まれ、これは隼人(はやと)の祖先で、次に火須勢理命(ほすせりのみこと)が生まれ、次に火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)が生まれた。・・・・
また日本書紀、一書(第六)には、出会いの場面が、このように記述されている。
・・・・天孫、また問ひてのたまはく、「其(か)の秀(さき)起(た)つる浪穂(なみほ)の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に、機(はた)織る少女(をとめ)は是(これ)誰(た)が子女(むすめ)ぞ」(日本書紀)
天孫が問うて言われるには「あの波頭の立っている波の上に、八尋殿を建てて、手に巻いた玉も触れ合ってころころと音が鳴るほど、よく機を織っている少女たちは誰の娘か」
ここでは、姉妹は人里から離れた水辺の機屋で、神の衣を織りながら訪れる神を待ち、やがて神の子を生むとされる、棚機津女(たなばたつめ)のように表現されている。姉妹が、巫女を思わせる少女たちに描かれているのが、興味深い。
姉妹は、神または神のような人が現れるのを待っていたのだろう。見そめられて天孫に嫁ぎ、妹は受け入れられるが、姉は返される。書紀では、父親ではなく姉の呪詛により、天孫の御子や人の命が短くなったとされている。
・・・・磐長姫、大きに恥じて詛(とこ)ひていはく・・・・故、生むらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花の如(あまひ)に移(ち)り落ちなむ」・・・・。
・・・・磐長姫、唾(つば)き泣(いさ)ちていはく「うつしき蒼生(あおひとくさ)は、木の花の如(あまひ)に、しばらくうつろひて、衰去(おとろへ)なむ。(日本書紀)
磐長姫は、激しい怒りでもって呪うのである。
「生まれる御子は、必ず木の花のようにはかなく散ってしまうでしょう」
「この世に生きている青人草は、木の花のごとくしばらくうつろって衰えてしまうでしょう」と。
ここ貴船の森に磐長姫の社が定まった時期は、はっきりしないそうである。和泉式部が参詣したというのであるから、平安時代にはすでにあったことになるが・・・・。天孫に拒否され屈辱を味わった磐長姫は、いつからかこの森の中に鎮座し、その哀しみから縁結びの神となって、今もここに来る人々の切ない祈りを見つめ続けるのである。
ずいぶん以前のことになるが、愛媛県大三島の大山祇神社に行ったことがあった。源義経、頼朝はじめ名のある武将が奉納した鎧や兜、武具などを所蔵、展示しているので有名な神社である。主祭神は大山祇神で、境内には娘の木花咲耶姫とその御子神たちが祀られていたが、磐長姫の社は見当たらなかった。そして磐長姫に関する異伝が、土地に伝わっているのを知った。
記紀では、天孫と磐長姫との婚姻は行われず、すぐに送り返されたかのようであったが、大三島での伝承によれば続きがあり、磐長姫は天孫の御子を島で生んでいた。波の打ち寄せる岬の渚に産屋を建てお産をしたというのである。その産屋のあとは阿奈波(あなば)神社という大山神祇神社の境外社になっていて、今も子授けと婦人病の神(いわゆる淡島様信仰が生じたらしい)として磐長姫が祀られていた。
それでは磐長姫の生んだ子はどうなったのだろう。御子と認められて天孫に引き取られたのか、それとも母子ともども、そのままになったのだろうか。おそらくは、後者のほうだったのではないか。境外社には御子宮神社もあり、磐長姫の生んだ御子を祀っていると思われたが、詳細はわからなかった。
舞台地が笠沙の岬(九州)であるはずの姉妹の神話が、伊予の大三島で具体的な話の展開となって語り伝えられていることに、いつまでも消えずに残る物語の力を感じた。磐長姫が誇り高い女性だったのなら、このような扱いは受け入れがたく、なかなか納得できなかったのではないだろうか。
子ども生みましたのに・・・・。磐長姫はそういって、潮風の中でうらみ嘆いたかもしれない。悔しさと寂しさ、その思いが今も漂うような大三島の伝承であった。
兵庫県にも、単独で磐長姫を祀る神社が一箇所だけあるので記しておく。阪急武庫之荘駅から西へ十分ほど歩き、マンションや小公園、住宅に囲まれた一角に、磐長姫神社が鎮座している。阪急神戸線の踏み切りに近いので、通り過ぎる電車の窓からも、南面しているこの神社をちらっと眺めることができる。ただ鎮座にまつわる逸話や特別な伝承は見当たらないようで、ここに磐長姫の社が建てられたのは、同市内にある貴布禰神社との関連からとされているようである。
黄船に乗った玉依姫が、瀬戸内海からここを通過して難波に向かう際、この辺りにも立ち寄ったらしい、という伝承から貴布禰神社が建立され(現在の海岸線はもっと南にあるが)、農業神として降雨の高おかみの神が祀られたようである。おそらくそれに付随して、磐長姫も祀られるようになったのだと思われる。
磐長姫神社を訪ねていった夏の日の午後、境内では油蝉がしきりに鳴いていた。狛犬が大小二対置いてあり、小さいほうは旧社のときのものらしく、向かい合って社殿横の右手、樹木の下に寄せてあった。より地面に近い位置にあるため、近寄って眺めると、実に強そうな独特の表情で、作られた時代(安政三年の銘があった)を感じさせる迫力ある狛犬であった。街中なので境内も広くはなく大きな社ではないが、傍らに銀杏の樹があって涼しげな緑陰を作り出し、地域の人々の身近にあって、親しまれている社という印象を受けた。
先にこの姉妹に関して諸説あることは述べたが、それについても少し考察してみよう。
磐長姫は別名を木花知流姫(このはなちるひめ)ともいわれ、父神や妹とともに祀られることはあっても、木花知流姫の神名で単独に祭神とする神社はないそうである。散る、うつろい衰えるという負の部分を担う名なので、忌まれるのであろう。その名はわずかに古事記、須佐之男命の系譜の中にのみ見ることができる。
・・・・八島士奴美(やしまじぬみ)の神、大山津見(おおやまつみ)の神の女、名は木の花知流比売(ちるひめ)に娶(あ)ひて生みませる子、布波能母遅久奴須奴(ふはのもじくぬすぬ)の神。(古事記)
木花知流姫(とてもきれいな名である)は、須佐之男命の子である八島士奴美神と婚姻して、上述の長い読みづらい名を持つ男神をもうけたとされる。たったこれだけの短い記述なので、この資料のみでは磐長姫と同一視してよいのか、別の姉妹なのかはわからない。
木花咲耶姫と木花知流姫、桜の花が咲き、散っていく、と対になっている名であることから、二人が姉妹であるとも、また一人の女神の両面をあらわすという説も生じている。
もし二人を同一人物と考えるのなら、この姫神は、類いまれな美と醜の両方を、ひとつに合わせ持った顔立ちであったのではないかとも思われる。たとえば目、眉、鼻はすぐれて美しいのに、口元が・・・・というような。あるいは顔の片側が美しくて、片方が醜いというような・・・・。
顔の上下、あるいは左右に、美と醜がくっきり分かれて顕れている、そのような珍しい顔立ちの女性は、また古代ではきわめて霊力が強いとされていたのではないだろうか。神に特別に選ばれ聖なる刻印を与えられた、つまり聖別のしるしを持つ存在だった、とも考えられるのである。古では身体の欠損や障害は、それゆえに神職者の資格でもあったという説を思い出す。
大山祇神が娘たちを天孫に献じたとき、そういうことも考慮にあったのかもしれない。つまり霊力のすぐれた娘を天孫に奉ったのであろう。単に容貌の劣った女性が嫁いできたように、天孫のほうでは感じたのかもしれないが、信仰が異なり、習俗も文化も異なる異族間の婚姻の難しさの一端を、この説話は語っているように思うのである。
宮崎県西都市には、磐長姫を祀る銀鏡(しろみ)神社があるそうだ。由緒によれば、天孫から送り返された磐長姫が、鏡を見てその容貌の醜さを知り、鏡を遠くに放り投げたところ、木の枝に掛かって白く輝いたという。この鏡を神体として祀ったのが銀鏡神社であるという。
哀しみと怒りの漂う伝承であるが、姉妹が同一者であったという視点でみれば、若いときにはその美貌をめでられた女性も、時を重ねていつしか老いの身となり、老醜を映し出した鏡を投げ捨てたという風にとれないでもない。美はうつろっていくのである。
木花咲耶姫という名は明るく華やいでいるが、磐長姫の名は厳しく冷たい響きにも感じられる。この対照的な二つの名が象徴するものは、生の美しい輝きと、それに隣り合う暗い死の世界、でもあろうか。地上の儚い美を司る女神と冥界に住まう女神。それらが別々の存在ではなく、同一のものであるという認識に立てば、また木花咲耶姫、磐長姫は一人の女神の中にある美と醜、あるいは光と影、表と裏、生と死などを暗示するともいえるだろう。
日本神話は、ギリシャ神話と類似点があるといわれ、中国神話とも接点があり、またスキタイ神話とも構造類似があるといわれている。そしてポリネシアやミクロネシア、インドネシアなどの神話と重なる部分も顕著なのだそうだ。
たとえば山幸彦の話(兄の海幸彦から借りた釣り針を失って海底に探しに行き、そこで海神の娘と結婚、帰るときもらった二種の玉を操り、兄を支配する)は南洋の伝承と類似し、人の命が短い理由を語る説話は、インドネシアのスラウエシに伝わる「始祖である男女が、神の贈り物である石を断り、食べもののバナナを選んだので、人間は永遠の命を得られずに、バナナのようにはかないものとなった」という説話と似通っているそうである。学者はこれを「バナナ型神話」と命名し、人の短命の起源を語るものとしている。
バナナ型神話の物語は、日本に伝わってきて、土地に伝わる固有の説話と結びつき、変化していったのであろう。そしてこの説話の原型となったのは、強い霊力を持つ国津神の乙女が、天孫にいったんは妃として召し上げられたものの、気に入られず送り返された、というような伝承ではなかったろうか。後になって南方系神話から流れ込んだ短命呪詛の部分が取り込まれていき、付会して現在のようなかたちになっていったのではないかと思われる。
奧宮まで往復し、結社に寄ったあと本宮へと戻ってきた。歩き回って時間もたったので、遅い昼食と休憩を兼ね、石段下山側の鳥居茶屋で「鮎茶漬け」をいただく。これは鮎を柔らかく炊いたものが三匹載せてあって、わさびと山椒と刻み海苔が添えられ、ほかに鯉の洗いと山菜(きのこ)の和え物の小鉢がついていた。鮎は半分ほど普通に食べて、あと熱いお茶でお茶漬けに。なかなか美味であった。
帰途につくことにする。行きは神社下までバスに乗ったが、帰りは貴船口まで川沿いにゆっくりと歩いて戻っていった。川筋に祠を見かけたので立ち寄ると、梅宮社とあった。木花咲耶姫が祀られている可愛いお社であった。
貴船川の流れを見ながら下っていくと、和泉式部ゆかりの大きな「蛍岩」が見えてきた。貴船結社にあった和泉式部の歌は、式部が参詣の折、貴船川に群れ飛ぶ蛍を見て、夫に去られたうつろな心象風景を詠んだといわれている。
もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれいずる玉かとぞみる(和泉式部)
立ち止まって蛍岩を眺めると、実に立派な磐座である。普通の石や岩と、こういう注連縄の張られるような磐座は、どこでどう区別するのだろうか。折口信夫はこのように言っているが。
・・・・石の中に神霊の宿るといふ信仰は、沢山あります。その宿ってゐるのを見抜くのは、巫祝の力なのです。・・・・
・・・・なぜ、いしとか、いはとかいふか・・・・二つ共、同じ意味ではありません。結論を申すと、いはは、籠る所といふ事らしいのです。・・・・ともかく魂が籠ってゐる場合、いしを、いはと言ふと、かういう風に見当をつけておきます。 (「石に出で入るもの」 折口信夫全集より)
ただの石にはないが、特別な磐座には、目に見えない力が内在するということだろうか。蛍岩を通り過ぎ、さらに道を下っていく。ようやく貴船口の駅舎が見えてきて、ひと息ついた。緑濃い貴船の山野に別れを告げ、叡電で夕暮れの京都市内へと戻っていく。
今日は特別暑い日であったらしく、河原町を歩くと、通りにはまだ昼間の熱気が残っていて、風もなく蒸し暑かった。帰宅してテレビを見ていると、京都の最高気温が今年最高の三十七度であったことが報じられていた。