三島由紀夫
「軽王子と衣通姫」(新潮文庫)
三島由紀夫
「軽王子と衣通姫」(新潮文庫)
古事記と日本書紀に、同母兄妹による禁断の恋の物語が載っている。允恭天皇の皇太子軽之太子(かるのみこ)と妹の軽皇女(かるのひめ)の逸話である。後で触れるが、三島由紀夫の「軽王子と衣通姫」(新潮文庫「殉教」に収録)は、この逸話をもとにした作品である。
古では異母兄妹の婚姻は許されていたが、同母の場合は禁じられていた。古事記によると、軽太子は同母妹と通じたために人心が離れ、弟王との皇位争いに敗れて伊予に流罪、後を追ってきた妹とともに命を絶ったという。それは允恭天皇崩御後の出来事とされ、歌物語になっている。一方書紀のほうでは、父帝の在世中に兄妹相姦が発覚、皇女のほうが先に伊予に流され、軽太子は弟の穴穂皇子(後の安康天皇)との皇位争いに敗れ、臣下の家で自殺(一説では伊予に流刑)と記述されている。
伊予の伝承では、軽皇女は松山市の郊外、姫原の斯多那岐(したなき)宮に在って薨じ、背後の森に埋葬されたという。一方軽太子のほうは、嵐で舟が旧川之江市(四国中央市)浜田に漂着、その地に建てられた行宮に暮らして薨去、東宮山古墳に葬られ、太子を祀る神社も建立されたとのことである。
通説では兄と妹は伊予の地で再会し、心中した、ということになっているのだが。伊予の伝承によると、二人はどうも別々に命を終えたかのようである。二人が詠んだ歌も紹介しつつ、松山市姫原の軽之(かるの)神社と比翼塚を訪れ、この物語について考えてみたいと思う。
松山市の姫原バス停に降り立った。山に向かって坂道を上ってゆく。季節は春、眩しい陽射しの中、時折心地よい風が吹き抜けてゆく。住宅が続き、庭先にとりどりの草花が咲き乱れる静かな小道であった。近くには姫山小学校があり、背後には緑の山並みが広がっている。姫原、姫山というこれらの地名は、みな軽皇女が古にこの地に住んだことに由来するという。しばらく歩くうちに、姫池が見えてきた。池の横の土手に小さなお社があり、それが目ざす軽之神社であった。
祭神は木梨軽之太子(きなしかるのみこ)、軽皇女(かるのひめ)。由緒書きを読むと、お社は斯多那岐(したなき)宮とも姫原宮とも称え、背後の山を軽の山というのも皇女の御名によるそうである。皇女が斯多那岐宮に在って、その地で薨じられたので後の森に葬り、古塚と称した。石塔が現存し、その傍らに軽之太子の墓を並べ、霊社を建て、後に当社にご分霊した、ということであった。
普通に読めば、皇女はここに住み、亡くなられて森に埋葬された、と読みとれる。このお社も、後の時代の人が慰霊のために建てた、と考えるのが自然であろう。なお姫池がいつつくられたか、古からあったかどうかは不明とのことである。
調べてみると、木梨軽太子の墳墓は、四国中央市妻鳥にある、東宮山古墳とされている。伊予に流刑となった太子は嵐で川之江に漂着し、村人が清浄な山林を切り開いて行宮を建てた。太子はそこに住まわれて、後に薨去されたようである。漂着地を東宮石、衣を洗った川を契川、皇女の面影を映して偲んだ池を恋の池と呼ぶそうで、ゆかりの地名が残っているという。明治二十七年、土地の人により東宮山古墳が発掘され、石棺、副葬品も見つかったが、宮内庁が管理し、現在は陵墓参考地となっているそうである。なお、石棺は大小二基あったといい、大きい方が太子、もう一つが皇女という説もあるという。
松山市内に残る別の伝承として、客王神社(下伊台町)がある。由緒によると往古、斯多那岐宮より軽皇女が来て創建したとされ、主祭神は応神天皇、神功皇后、そして木梨軽皇子と伝わるそうである。
この伝承によれば、皇女があたかも太子の死後、その慰霊のためにお社を建てたかのように推測できる。太子の死を知らされた皇女は、太子のために、社を建立することを思い立ち、祖先神を主祭神とし、そこに軽太子の霊も、配祀としてお祀りしたのであろうか。
姫池の土手にある軽之神社は、こぢんまりとした村の鎮守社という印象であった。海はここから数キロ先にあるが、往古は海岸線がもっと近かったかもしれない。
お社の周辺では氏子のかたが数人、草刈りの奉仕をしておられた。四月末に祭礼があるのでその準備らしい。ご祭神二柱の霊を慰める春祭りが近づいているのだった。当日は巫女舞なども行われるそうである。
姫池を眺める。鈍色によどんだ水面を見つめていると、人影を感じたのか、亀が浮かび上ってきた。続いて鯉も姿を見せる。餌になるようなパンでも持っていれば、と思うが、リュックの中には何もない。動きを眺めているうちに、亀も鯉も姿を消してゆき、辺りには静寂が広がっていった。草刈りのおじさんに道を訊き、山道を進んで比翼塚を訪ねる。
数分進むと、小道の右手に小さな池があり、その左手前には、みごとな桜の大木があった。そこが比翼塚で、室町時代頃につくられたとのことである。石段を上ると、左手に二基の石塔、右手に歌碑があった。
軽皇女が葬られたとされる古塚の跡である。元は土盛りをした円墳であったかもしれない。皇女への配慮から、後世の人が太子の霊と並べてお祀りしたのであろう。皇族の墓所としてみるには少々簡素、皇女はいったんここに埋葬され、後に遺骸あるいは遺品などが東宮山古墳に運ばれ、合葬された可能性もあるかと思われる。
壇の周辺はきれいに清掃され、樒が手向けられていた。どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。桜の花はすでに散っていたが、新緑の枝がさやさやと揺れ、太い桜の幹は捻じれ合うように根を下ろし、比翼塚にふさわしいかたちとなっている。歌碑には歌が刻んであった。
軽太子の歌
天(あま)飛ぶ鳥も使いそ 鶴(たづ)が音(ね)の聞こえむ時は 吾(あ)が名問はさね
(空を飛ぶ鳥も使いです。鶴の声が聞こえる折は、私のことを尋ねなさい)
軽皇女の歌
君が行きけ長くなりぬ 山たづの迎へを行かむ 待つには待たじ
(おいで遊ばしてから日数が多くなりました。お迎えに参りましょう。お待ちしてはおりますまい)
山たづとは、植物のニワトコ(庭常)のこと、葉が対生しているので「迎え」の枕詞とされる。この歌に因んで、石塔の背後にはニワトコが植えられていた。大切にお世話する地元のかたの優しい気持ちが感じられる。近寄って苗を眺めると、確かに特徴のある左右対称の葉のかたちであった。なおこの皇女の歌は、万葉集にも載っている(万葉集 巻二)。
少し古事記の世界をみてみよう。
允恭天皇と后の忍坂(おしさか)大中津姫の間には五男四女があり、長男の木梨軽の王は皇太子であった。妹の軽の大郎女(おおいらつめ)は美しく、その身の光が衣を通して出るほどであったので、衣通(そとほ)しの郎女とも呼ばれた。軽の太子が皇位を継ぐはずであったが、同母妹の軽の大郎女と通じ合い、ことが露見すると群臣や民の心が離れ、弟の穴穂王へと傾いていった。
天皇の崩御後、皇位を兄弟が争い、軽の太子は大前小前宿禰の家に逃げ入って、銅の軽箭(矢)を造って戦に備えた。穴穂王も穴穂箭(矢)を造って軍を起こし、宿禰の家を取り囲んだ。宿禰は戦を避けようと双方を説得し、太子を捕えて穴穂王(後の安康天皇)に差し出した。軽の太子は「伊予の湯に流(はな)ちまつりき」つまり伊予に流刑となり、それを知った軽の大郎女も、軽の王を慕って後を追い伊予に渡った。太子は軽の郎女を思う歌を残し「すなはち共にみづから死せたまひき」、二人は一緒に亡くなられた。(古事記)
日本書紀の方もみてみよう。
允恭天皇の御代、夏にお膳の羹(あつもの)の汁が凍るということがあった。怪しまれて占うと、軽太子と同母妹の軽皇女の相姦がわかった。皇太子を罰することは難しいので、皇女を伊予に流した。天皇の崩御後、皇太子は相姦のことがあったので、群臣、民が離反し穴穂皇子の側についた。それぞれ軽矢と穴穂矢を準備して、戦に備えた。皇太子は宮を出て、物部大前宿禰の家に逃げ込んだので、穴穂皇子は兵士たちに家を囲ませた。宿禰は門前に出て穴穂皇子をなだめ、宿禰に説得された軽太子はその家で自殺された。一説には伊予の国に流しまつったという。(日本書紀 允恭紀 安康紀)
古事記と日本書紀では少々内容が異なっているが、そういう場合は、古事記のほうが古いかたちという。兄弟で皇位を争ったことは共通している。古事記では、敗れた軽太子が先に伊予に流罪となり、妹が追ってゆき、ともに死んだ、とある。書紀では妹が先に伊予に流され、その後皇位争いで軽太子が自殺、あるいは伊予に流されたことになっている。
允恭天皇の皇后は忍坂大中津姫、二人の間には五男四女の皇子皇女があった。これは皇后一人が生んだとするには多いようなので、ほかの妃の子も含まれていると考えるのが自然であろう。允恭天皇には皇后のほかに、もう一人有力な妃があった。皇后の妹の弟姫である。妹は絶世の美女で、衣を通して身の光が出るほどであったので、衣通姫と呼ばれたという。天皇の寵が深かったので皇后は嫉妬し、妹を天皇から遠ざけようとした。そのため天皇は茅渟の宮(泉佐野市)に弟姫を移し、遊猟と称して度々大和から通った。
その弟姫に子があった、とは記紀には記述されていないが、軽皇女も衣通姫と呼ばれる美女だった、ということから推して、軽皇女の生母はおそらく弟姫のほうであろう。母の称え名をその身にまとわせることによって、皇女は美しい生母の生き写しであったと、暗示しているのではないだろうか。
それと、往時はまだきちんとした采女貢上制度はなかったかもしれないが、宮に仕える侍女、召使のうちには天皇の子を身ごもり、身分の低さから妃にはなれず、名も残らなかったものの、生まれた子は皇后の子として、皇子女の数のうちに入れられるなど、九人の子の生母は、複数だった可能性もないではない。
では軽太子の生母は誰であろう。同母兄妹の悲恋、とあまりに言い慣わされていることからすれば、生母もまた弟姫なのであろうか。可能性としては大いに考えられるが。
その場合、嫉妬深く気の強い皇后が、競合する弟姫の生んだ子を、皇太子にするのを果たして納得したであろうか、という疑問が起きる。皇太子とは次期の天皇、皇后なら必ず自分の生んだ子に皇位を継がせることを、切望するであろう。皇太子は自殺、あるいは流罪となったので、結果としては、皇后の子である穴穂王(安康天皇)が皇位についている。
軽太子は皇后の生んだ嫡男なのか、弟姫の子なのか。どちらとも言い難いと思うが、書紀では、兄妹相姦が発覚した際に「皇太子は罰することが難しいので、皇女を伊予に流した」とあり、これはかなり違和感のある記述である。こうした場合、誰しも思うことであろうが、普通は男のほうが、重い罪になるはずなのだが・・・・。
「古事記伝」を当たってみると、本居宣長もここは合点がゆかなかったのか、相姦の罪だから、男のほうが重いはず、とした上で、歌の趣からしても、流されたのは皇女ではなく太子で、弟との皇位争いに敗れた結果であって、すでに露見していた相姦のせいではないが、ことさらに相姦を取り上げ問題視して流した、とみている。(古事記伝)
書紀で、軽太子が相姦によって罰せられず、そして皇女のみが流された、と不自然な記述が続くのは、もしかすればそこに皇后の意志が働いていたからだとも考えられる。皇后は軽太子の愛を得たのが、よりによって軽皇女だったのが我慢ならなかったのではないか。二人の関係を知ったとき、ただちにどこか遠くへ皇女を追放したかったのに違いない。とりあえず大和の宮から皇女を遠ざけた可能性もあり、そのような皇后の怒りが反映された表現のようにも思われる。もし二人が婚姻して太子が皇位を継げば、自分と張り合った弟姫の娘が、後の天皇となる子を産む可能性が高く、そういう未来を皇后は受け入れることができなかったのかもしれない。
通説では、皇后の御子たちによる同母兄妹の恋愛、ということなので、それをここで否定するものではないが、二人の生母の可能性を推測するなら、ともに皇后、ともに弟姫、片方が皇后、片方が弟姫、などの組み合わせが考えられる。同母ではなく、婚姻が許されている異母兄妹の可能性もあった、ということである。
再び古事記に戻ろう。
二人が通じた折の太子の歌
笹葉に うつや霰(あられ)の たしだしに 率(い)寝てむ後は 人は離(か)ゆとも
(笹の葉に霰が音を立てる。そのように確かに共寝できたなら、その後はたとえ別離となってもしかたがない)
歌物語の歌は、もともと民謡であったもの、はやり歌、歌垣で歌われた歌、なども入っている場合があるという。異性を誘うような歌、それに応えるような歌、恋愛を賛美するような内容の歌も、必ずしも本人が詠んだとは限らず、話の展開上、登場人物の心情を仮託するものとして、俗謡などが取り込まれ、話を進行させてゆく、というかたちになっているらしい。
どのように鑑賞してもよいと思うが、古事記では、しいてこの恋愛を咎め立てするようには描かれておらず、むしろ死によって閉じられる恋愛の純粋さ、敗れて流された者の悲哀が表現されている、という印象を受ける。
太子が捕らわれた折の歌
天飛ぶ軽の嬢子(おとめ) いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の下泣きに泣く
(空を飛ぶ雁、その軽の乙女よ、あまり泣くと、人が気づくだろう。波佐山の鳩のように、そっと忍び泣きなさい)
もしこの歌の通りだとすれば、この時点で恋愛は伏せられており、発覚していないようにも思われる。皇位争いと兄妹の恋愛は別々に起きたことで、関連があったのかどうか、という疑問も起きるが、記述の中では、この二つの出来事は縒り合され、絡み合ったものとされているようである。ただ軽皇女は美女だったとされているので、太子の流刑の後、ほかの皇族や皇子たちからも妻どいされる可能性があり、太子は今後の皇女の身の上を案じたのだと考えられる。
軽太子が流される折に詠んだ歌
大君を 島に放(はぶ)らば 船余り い帰り来むぞ 吾が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 吾が妻をゆめ
(私を島に放逐したら、余分にある船に乗って帰って来よう。私の畳はしっかりと護っていてくれ。言葉でこそ畳というのだが、私の妻を護っていてくれというのだ)
敗者の悔しさ、残した妻の安全への危惧が感じられる。加えて、一度は敗れても、必ず力をつけて盛り返し、私は都に戻るのだ、というような強い意志も読みとれる。政権側からみれば、かなり物騒な内容の歌であろう。可能性としていうのなら、太子は流刑になった地で土地の豪族を味方につけて兵力を蓄え、いつか大和に返り咲く、というような復活劇も考えられないわけではない。穴穂王(安康天皇)としては、もしそんな動きがあることを察知すれば、ただちに伊予へ刺客を送り込んだであろうけれど。
太子の最後の歌
隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に ま杙を打ち 斎杙には 鏡を掛け ま杙には ま玉を掛け ま玉なす 吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妻 ありといはばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ
(隠れ国の泊瀬の川の、上流の瀬には清らかな柱を立て、下流の瀬には立派な柱を立て、清らかな柱には鏡を掛け、立派な柱には玉を掛け、その美しい玉のように大事に思っているいとしい妹、鏡のように清らかないとしい妻、そのような人が故郷にいるというのなら、家にも行き、故郷を懐かしみもするだろうものを)
この歌は万葉集にも載っている(巻十三)。玉や鏡、杙は儀式に使われる呪物とされる。初瀬川上流は、今も澄んだ美しい流れであるが、辞世ともとれるこの歌の泊瀬(初瀬)は、山々に囲まれた谷間の葬地を想い起こさせる。黄泉の国にも通じるという死の色の濃い地名が詠み込まれ、この歌が喚起するものは、寂しい死の世界のようである。この歌の後は「かく歌ひて、すなはち共にみづから死せたまひき」と記されて、古事記の逸話は閉じられる。一方書記では、伊予に流された皇女について、その後の記述は何もなく、太子は物部大前宿禰の家で自殺(一説には伊予に流罪)とのみ記されている。
二人は一緒に死んだのか、それとも離れた地で別々に死を迎えたのか。あまりにも遠い古の出来事なので知りようもないが、伊予の伝承をみる限りでは、一緒に暮らして、ともに死んだ、という感じではない。でも一度も会えないまま、別々に亡くなったというのでは、あまりに気の毒なので、できることなら嵐で漂着した太子と、後を追って来た(あるいは追放された)皇女とは、無事に川之江で再会がかない、たとえ短期間であっても二人はともに過ごしたのだ、と思いたいが。
それでも、二人に自由勝手な振る舞いは長くは許されず、別離の日は来たであろうけれど。皇女は、再び舟に乗せられて川之江の浜辺を離れ、松山まで運ばれ、三津の浜に降り、山麓に営まれた姫原の宮で、一人過ごすことになったのかもしれないと思う。
大和での二人の相姦が重い罪とされたのであるから、伊予の地でともに住むことが、公に許されることはなかった、と考えるのが普通であろう。仮にも同情心からそういうことを黙認し、二人の間に皇子たちが誕生すれば、その存在が将来、政権を脅かす一因にもなりかねない。姫原と川之江は直線距離にして約百キロ、陸路の往来もあっただろうが、往時の交通は海路も盛んであったはず、舟で二、三日程度というところではなかったろうか。大和側はそれとなく太子の動向を監視していたかもしれない。政権側からみれば、軽太子が伊予で力をつけ、再び攻め上ってくるような事態を憂慮していたとも考えられる。
一方大和では、軽太子を排除した穴穂皇子が皇位についたが(安康天皇)、その治世は三年とごく短かった。安康天皇は、河内にいた叔父の大日下王を、根臣の讒言によって滅ぼし、その妻を奪って自分の后にしてしまう。そして神聖な神床で后と昼寝をし、寝物語で妻の連れ子の眉輪王子が成長して事実を知れば、将来自分を憎むだろう、という懸念を口にしたのだった。床下で遊んでいて一部始終を聞いた七歳の眉輪王子は、天皇が寝入るのを待って刺殺し、父の仇を討った。
混乱の中で素早く対応し、競争相手となる兄弟を殺し、頭角を現した大長谷皇子は、軍を率いて眉輪王と庇護者の葛城氏を滅ぼし、その一方で従兄弟の皇族男子も殺し、皇位に就いた(雄略天皇)。・・・・
俄かには信じられないような凄まじい内容が次々に記述され、史実として読むのか、物語として読むのか、考え込んでしまうが、古事記によると、安康天皇が奪い取って后にした女性の名は、長田の大郎女といい、系譜では安康天皇の同母の姉に当たる(書紀では履中天皇皇女、中蒂姫、と別人の名になっている)。読みようによっては、同母のきょうだいの相姦とは、実は安康天皇のほうだったのではないか、ということにもなってきかねない。
真相はわからない。ただ軽太子が、伊予から大和に帰還する機会がもしあったとすれば、安康天皇が幼い眉輪王に刺殺され、大和が大混乱に陥った、まさにその時期であったろう。軽太子を流刑にしたその当人が殺されてしまったのであるから、軽太子にとっては捲土重来、この機に乗じて一気に大和に攻め上がることも、あるいは可能だったかもしれない。
ただ皇子たちは単独で戦うわけではない。実戦の際に戦力となったのは、その皇子に仕え、皇子を常に支えていた氏族の軍事力であったかと思われる。皇位争いで軽太子が頼ったのは物部大前(小前)宿禰であったが、この人は信頼に応えず裏切って太子を見捨てたようにも見受けられる。
眉輪王の変で大和が混乱した折、もし伊予から軽太子が打って出ようとした場合も、太子復活の鍵を握ったのは、氏族の動向、その協力の可否であったろう。支援し、擁立する氏族の力なくして、挙兵はありえなかったと思う。けれどもどの氏族が味方するにしても、その障壁となったのは軽皇女ではなかったろうか。太子が軽皇女を諦めるとは考えられず、妻として大和に連れ帰ろうとするであろう。大和では忍坂の皇太后は夫の死後も依然勢力を保っていたはずで、発言力もあり、政権を古くから支えていた氏族たちも、皇太后の意向を無視できなかったかと思われる。皇太后が認めず遠ざけようとした軽皇女の存在が、やはり問題になったのでは、とも推測できる。軽太子には皇位継承復活の機会もあったかと考えられ、もしかすれば密かにその準備の声かけもあったかもしれないが、太子はそういう選択をしなかったのではないかと思う・・・・。
長々と述べたが、これらは単なる勝手な推測、空想に過ぎない。軽の兄妹の物語はいわゆる貴種流離譚、これは若く美しい貴人たちのさすらいと死の物語であり、太子が大和から伊予へと追放されてゆくとき、その先に予感されたものは、生ではなく死であったろう。皇女も後を追って大和を離れたときから、死に向かって漕ぎゆく旅だとどこかで感じていたのではないかと思う。古事記を読んでいると、伊予で命を絶ったという軽太子と軽皇女の姿からは、静かな諦めに似た決意と哀しみが伝わってくる。
三島由紀夫が記紀の「衣通姫伝説」を題材にして「軽王子と衣通姫」という短編小説を書いており、新潮文庫「殉教」に収録されている。三島二十二歳のときの作という。ただ作中では登場人物の設定は変えてあって、同母兄妹の禁断の愛ではなく、太子の恋の相手は、忍坂中津姫の妹姫(衣通姫)のほうである。父帝が皇后の嫉妬から遠くに置いて通ったとされる寵妃、つまり甥(軽太子)と叔母(皇后の妹姫)の恋愛という設定になっている。
同母妹にしなかったのは、三島には美津子という仲の良い妹があって十七歳で亡くなっており、その記憶がまだ新しかったため、題材として扱うのを避けたともいわれている。そういう事情であれば、書きにくかったかもしれないが、兄妹の恋愛というテーマは、三島にとっては大切だったので封印しておき、温存して別作品で、という構想を持ったのではないだろうか。のちに「音楽」という作品でかたちを変え、兄と妹の恋愛が描かれている。
「軽王子と衣通姫」 あらすじ
先帝の陵に詣でようとした皇后は、夜の森で怪しい火を見る。それは先帝の寵姫で、皇后の妹、衣通姫であった。伊予に流された軽太子のもとへ向かうので、先帝の霊に別れを告げに来たのだった。過去のいきさつを超えて姉妹はしみじみと語り合う。
伊予で衣通姫は太子と無事に再会を果たすが、太子は愛に溺れる日々を過ごし、それまで持っていた叛乱の意志も喪失し、しだいに臣下の信頼を失っていく。姫の入来をはじめ瑞兆とみて喜び、挙兵の日を夢見て仕えていた忠臣石木の臣も、二人の狂おしい愛に疑問を感じるようになる。石木の臣はついに衣通姫に死を勧め、姫はそれに従った。姫の死を見て絶望した太子も、後を追って剣で命を絶ってしまう。石木の臣は予定通りに軍を起こすが、海上で迎え撃った穴穂皇子の軍に敗れてしまう。美しい御子たちは若くしてみまかったが、皇后は九十歳の長寿をもって生き続けた。・・・・
作品の冒頭は、夜の陵墓で皇后と妹姫が久しぶりに出合う場面で、揺れる松明に照らし出される暗い森の情景が古代的に描かれており、強い印象を受ける。衣通姫伝説をもとにふくらませた作品であり、伊予が舞台とはいうものの、具体的な地名に依っているわけでもなく、全体に時空を超越した古めかしい雰囲気が醸し出されていて、文体は幻想味を帯びてゆく。純粋な愛が極まったときには、死への願望が募り、高まった愛の行き着く先にあるものは、死でしかない、という畏れにも似た感覚、世界観が耽美的に語られてゆくのである。
発表当時、この作品は文壇的には評価を得られなかったそうである。けれども、実はこういう古代的な作品を三島は心の底で好んでいて、強い愛着をもって、描き出したのではないだろうかと思う。三島は自死する前に自選集を編んでいたが、その中の一遍にこの作品が選ばれているそうである。古代を舞台にして、記紀に広く題材を探し、もっと多くの作品が書かれなかったものだろうか、と残念に思う。・・・・
再び今回の旅の日々に話を戻すことにする。実は広島の呉から旅を始め、松山へと移動していったのである。呉市では平清盛が一日で開削したといわれる「音戸の瀬戸」を訪ねて、丘の上を散策した。その海峡は潮の流れが速いため、一日で開削を終えなければならなかったが、清盛が金の扇で沈む夕日を招いて呼び戻し、工事が無事に完成したという伝説で知られている。航行安全のための工事であったそうだが、これはいわゆる「日招き長者」の型に分類される話らしい。
各地に残る〇〇長者の伝説では、扇で日を招き返して強引に田植えを終了させた長者の田は荒れ、その後没落してしまう。日招きの理由が、時間を支配しようとする長者の傲慢さであった場合は、罰を受けて没落するというのである。清盛の場合はどうであったろうか。扇をかざし持って立つ清盛像が遠望された。銅像を造るくらいだから清盛の霊能を称えているのかもしれないとも思ったが、時間の都合もあり、近づいてまでは見なかった。
バスで丘の途中まで行き、小高い地点にたたずんでしばらく海上を眺めた。眼下には青く澄んだ海の色が広がっている。古もきっとこうだったかと思われ、印象に残る情景であった。小道には藤やつつじの花が咲き乱れ、海からの風も爽やかであった。
呉港から松山港へと渡っていった。高速船に乗れば一時間程度で着くのである。松山市では軽之神社のほか、湯の神を祀る湯神社を訪れた。また道後温泉本館北側にある蘇りの「玉の石」も拝見した。少彦名神命が息を吹き返され、踏んで立ち上ったという謂れを持つ霊石である。せっかくなので「坊ちゃんの湯」で知られる本館に入り、霊(たま)の湯、神の湯の両方を体験した。
お湯は無色透明で、神の湯は銭湯のように広く、霊の湯は意外に狭い。三階の個室では、天目台に載ったお茶とお団子のサービスもついており「坊ちゃんの部屋」も見学した。三階への急階段の上り降りは慣れないと怖いが、随所で明治の古い建物の雰囲気を味わうことができて興味深かった。お湯もよかったけれど、霊の湯に関しては、女湯より男湯のほうが見ごたえのあるしつらえのようであった。
市内では「子規記念博物館」「坂の上の雲ミュージアム」「萬翠荘」を見学し、松山市内を縫って走る路面電車に乗ってあちこち移動した。座席で揺られていると、どこか懐かしい気分になり郷愁を覚えた。また街角で方向がわからず、地図を広げて考えていると、わざわざ自転車から降りて道を教えて下さるかたもいて、松山の皆さんは親切であった。
帰途は、JR松山駅から「特急しおかぜ」で岡山まで戻った。時間の都合もあり、軽太子が眠るとされる東宮山古墳は訪れなかった。ただこの古墳のことは気になっていたので、あらかじめ地図で位置関係を確認しておいた。車窓から眺めていると、川之江の辺りは海が近くのぞまれ、平野部は狭くて背後には山が連なっている。太子の乗った舟は、どの浜辺に漂着したのだろう、と思いつつ窓の外を眺めていた。激しい風雨にさらされ続け、見知らぬ地に舟が着いたときの太子の絶望を思う。
川之江駅からは、ずっと山側に目を凝らしていた。駅を出てほどなく、それらしい白い鳥居と石段、石垣が目に入り、ああこれだな、と思いつつ見つめた。それも束の間のことで、列車はしだいに速度を上げ、走り去る夕暮れの風景の中に、古墳も美しい川之江の海辺も消えていった。