大 和 川
大 和 川
所用で天王寺から出ている阪和線に乗り、何気なく外を眺めていると、大和川に差し掛かった。流れを見ているうちに、遠い日々のことが浮かんできた。
小学校のころ、私が通っていた大阪郊外の小学校には、体育館もプールもなかった。式典などは校庭で行うか、または近くの中学校の講堂を借りた。
困るのは夏の水泳の授業で、毎回中学のプールまで出向くわけにもいかず、市内を流れる大和川で水泳訓練をすることになった。三年のときだったと思う。
普段は川遊びを親に禁じられていて、近所の大きい子に川に連れて行って貰うことがあっても、泳げない私は水には入らなかった。
その年、水泳授業のおかげで私は「伏し浮き」ができるようになった。浮いたまま流れていると、まるで泳いでいるような気持になる。顔を上げると、先生が下流で真剣な表情で待ち受けていた。思ったよりも水は冷たくて、流れは速かった。
翌年は川での授業は行われず、その年だけであった。考えてみれば、いくら浅瀬であっても川は危険を伴う。引率し点呼する先生の方もさぞ大変だったのだろう。
大和川は近年汚れがひどくなり、水質汚染のワースト河川に名前が挙がることも多いらしいが、当時はまだ充分泳げたのである。
大和川は古代史にも登場する川で、上流では初瀬川と呼ばれていた。昔は難波津から奈良盆地まで水運があったらしい。
推古女帝のとき、遣隋使小野妹子を送ってきた隋使裴世清(はいせいせい)の一行十三人が、難波の港から大和川を舟でさかのぼり、飛鳥まで行ったと伝えられている。
「飾船(かざりぶね)三十艘を出して、使節を難波津に迎え、また飾騎(かざりうま)七十五匹を遣わして、大和の海石榴市(つばいち)に迎えた」ことが日本書紀の記述にみえる。
大和川は下流域で度々氾濫を繰り返したので、江戸時代に大規模な付け替え工事を行い、今の柏原市の辺りで、それまで北流していた流れの向きを変えて、現在のようになった。
今から十数年前にもなるが、私たち一家が長岡京市に引っ越してきたとき、近くに小泉川が流れ、青々とした田んぼが広がっているのをみて、小学生時代を思い出し、懐かしさがこみ上げてきた。
子どもたちが小さい頃には、一緒に小泉川へ行き、おたまじゃくしやフナを探した。岸で草花を摘み、夕涼みにも行った。ザリガニや小さなカメを見つけて、持ち帰ったこともある。
小泉川は私の中では、子どものときの大和川と、一本の川に重なってみえることがある。
(2004・8・11)