一日向 神話の旅一
槵觸(くしふる)神社 荒立宮 高千穂神社 天岩戸神社
一日向 神話の旅一
槵觸(くしふる)神社 荒立宮 高千穂神社 天岩戸神社
くしふる神社
天孫降臨の伝承地、宮崎県西臼杵郡の高千穂を訪れることにした。梅原猛著「天皇家のふるさと 日向を行く」を読み、一度行ってみたいと思っていた。高千穂の古社を訪ね、高千穂峡散策や夜神楽見学も予定している。
神戸の六甲アイランドから大分港までフェリーに乗った。夕刻の出帆である。日が落ちるにつれ六甲の山並みが次第に影絵のようになっていく。途切れずに続く町の灯を眺めていると、暗い海上に光のアーチが見えてきた。
ライトアップされた明石海峡大橋であった。この橋はパール・ブリッジという愛称を持つそうだが、そんな言い方は聞いたことがなく、地元では普通に明石大橋と言っている。点灯されるのは夏が青色、冬は赤だそうだが、季節や曜日、時間によって色はさまざまに工夫され、虹のように見える時もあるとか。今日はどんな風なのかと見ると、頭上の灯は青白く光り、岸に近い方は赤であった。闇の中に光の弧が浮かび上がり、だんだん近づいてくる。とても迫力がある。いわば海上に張りめぐらされた発光し続ける巨大なしめ縄とも見え、その下を船はくぐり抜けるのである。
翌朝早朝、大分港に着いた。大分から延岡まではJRの特急に乗り、バスに乗り換えて高千穂に向かう。つくづく遠いと感じる。五ケ瀬川に沿ってバスは集落を縫いながら上っていった。神武天皇の兄の名は五瀬命であるが、関係があるのだろうかと川を見ながら考えていた。車窓からはほとんど人の姿を見かけない。峡谷の水はどこまでも青く澄み、ところどころ白く泡立ちながら渦を巻いている。
高千穂のビジネスホテルに荷物を置いた。自転車を借りて、地図を見ながらくしふる神社の坂を上っていく。漢字では槵觸神社と書くが、難しい字である。くしふる峯は天孫降臨の伝承地。降臨地には二つの説があり、今回は行かないが霧島連峰の高千穂峰も有力で、どちらがそうなのか決着はついていないという。記紀にはこのようにある。
日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰(たけ)に天降(あも)りましき。
(古事記)
日向の襲(そ)の高千穂峯に天降(あまくだ)ります・・・・ (日本書紀)
くしふる峯の石段を上っていくと、中腹にくしふる神社があった。主祭神は、火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)で、ほかに天孫降臨に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)など武神たちの名がいかめしく連なっている。高千穂町にはここ以外に、二上山降臨説もあるという。
ほのににぎの尊・・・・日向の高千穂の二上の峰に天降りましし時・・・・(日向国風土記 逸文)
どうも複数の候補地があるということらしい。
記紀には、高天原から神々が雲を分けて山に降りてきたように記述されている。その高天原の所在地であるが、天空説、海外説、国内説(大和説、九州説)などさまざまあり、どこと特定はされていない。天空説は空想上のこととしても、天孫の一族はいったいどこからやって来て、どこに居を定めたのか、今も謎に包まれている。
くしふる峯は古くからの聖地で山がご神体とされ、お社はなかったそうで、山の中腹に社殿が造営されたのは十六世紀になってからという。杉の木立に包まれた静かなたたずまいのお社である。ひと気もなくて、時折山から鳥の囀りが聞こえてくる。山道を抜けていく社殿脇の「探鳥路」と表示のある道へ入って散策してみたかったが、自転車を鳥居下に置いた都合があるのであきらめる。
石段下の左手には「天の真名井」とあったので小道を降りていった。天孫降臨の折、この地に水がなかったので、天から水の種を移したと伝承されている。神代川の横に樹齢千三百年というケヤキの大木があり、根元に水が湧き出ていた。落ち葉もごみもなくきれいにお掃除されていて、水は透き通っていた。由緒や名があるといっても、こういう戸外の古い井戸や泉は汚れやすいものなのだが、ここはよく手入れされているのに感心した。
荒立宮
そのあとは荒立宮(あらたてぐう)へと自転車を回した。一の鳥居からは再びゆるやかな上り坂である。
祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)。記紀によれば、天孫降臨の際、天と地の分かれ道に立ちふさがった国津神があった。その荒々しい容貌を見て神々はみなおそれたので、天孫が天鈿女に対し次のように命じた。
「汝(いまし)は手弱女(たおやめ)なれども、い向かふ神と面(おも)勝つ神なり。往きて問ふべし」
(お前は女であるが出会った神に向き合って勝つ神である。行って誰であるかを問え)
一人進み出た天鈿女は、国つ神に問いかけて猿田彦という名を聞き出した。(古代では知らない人に自分の名はなかなか明かさない)そして猿田彦は天孫の道案内として仕えることになり、天鈿女は猿田彦の妻となった。のちに二人は伊勢に行くが、猿田彦は海で比良夫貝に手を挟まれて溺れ死ぬ。天鈿女はその名をあらわした所縁によって猿田彦の名を負い、神事に従事する猿女君(さるめのきみ)の祖神となった。
高千穂での伝承によると、猿田彦命はここの土地神とのことだった。以前出雲の佐太神社に行ったときのことであるが、宮司さんが佐太神社の祭神は猿田彦大神(土地神である佐太大神)と言っておられたのを思い出した。佐太大神についてちょっと説明すると、出雲の加賀の潜戸(くけど)という神秘的な洞窟で生まれた出雲の土地神である。書紀には出雲を舞台地として猿田彦命が登場するこんな記述もあるので、少し引用してみよう。(文中ふなとの神とは猿田彦神のことと注にある)。
大己貴神(おおなむち)神、「吾は去りて幽(かくれたる)事を治めむ」とまうす。すなわち岐(ふなと)の神を二柱の神に薦めて曰さく、「是、まさに我に代りてつかえ奉るべし。・・・・故、経津主(ふつぬし)の神、岐神を以て郷(くに)の導きとしてめぐりありきつつたひらぐ。従はぬ者有るをば、すなわちまたころす。まつろふ者をばまた褒む。(日本書紀)
(おおなむちの神は、自分はしりぞいて幽界の神事を受け持ちましょう、と言って、ふなとの神(猿田彦神)を自分の代わりとして道案内に差し出した。天孫側の神がふなとの神を伴っておおなむちの国を巡って討伐した折、従わない者は殺され、服従した者は優遇された)
天孫族は移り住むに当り、先住民との間で、平和的に事が運んだ場合も、そうでない場合もあったようである。
伊勢内宮の近くに猿田彦神社があったのも思い出した。そこでは天鈿女命もともに祀られていた(ただし鈿女社のほうは新しかったが)。書紀には猿田彦神が伊勢出身であるかのようにとれる記述があり、天鈿女命が乞われて送っていったとある。
我をあらはしつるは、汝なり。故、汝、我を送りて到りませ。・・・・つひに先のちぎりの如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穂のくしふるの峯に到します。其の猨田彦の神は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に到る。すなわち天鈿女命、猨田彦の神の所乞(こわし)のまにまに遂にあひ送る。(日本書紀)
猿田彦神は謎の多い神とされている。出身地からしてまちまちなのである。後の時代になると、道案内をしたことから道祖神と同一視され、村の入り口などで素朴に刻まれた夫婦神の形で祀られる。厄災の侵入を防ぐ神、道開きの神、旅人の安全を護る神となり、さらに時代が下ると「さる」のつながりから庚申信仰の神ともなった。
たくさんの猿田彦神が各地でさまざまに祀られていることになる。その元となる古の猿田彦神がどこの地で生れたのかはわからない。けれども天孫の一族がどこか遠い所から旅をしてきて、集団で未知の土地に入ろうとしたとき、いきなり武力を行使するのでなければ、まず土地の人間を手なづけて道案内をさせ、相手が降伏するよう説得や交渉、懐柔、威嚇などさまざまな手段も用い、戦闘に至るまで段階を踏んだであろう。
記紀を読むと、あたかも出雲から猿田彦一人が天孫族を高千穂まで案内し、さらに伊勢まで行ったようにもとれる。そしてそうであったかもしれないけれど、普通に考えれば広範囲にわたる道案内は、一人ではとても務まらなかったであろう。猿田彦神もまた天孫の行く各地において、その地域の地理や事情に通暁した、部下となる複数の猿田彦たちを必要としたはずである。猿田彦とは天孫族の行く先々の土地で、そういう案内役を担った国津神たちを指す名であったとも考えられる。
国譲りは各地で起きた出来事で、それをまとめる形にして一本化し、記紀に載せたとみる説もあるようだ。そうなると猿田彦も複数いたことになり、その有能な代表者の名として猿田彦大神があるのではないだろうか・・・・。
そして天鈿女命もまた同様で、神話の表舞台に現れて、そういう名で記述される一人のすぐれた舞い手の背後には、呪術的な舞によって祭祀に従事していた複数の巫女、年若い鈿女たちが控えていたことが想像できる。
荒立宮は素朴で小さなお社であるが、背後に山があり、木立の緑がすがすがしく感じられるお宮であった。境内には梅原猛氏の名を刻んだ真新しい石碑があった。(関西の古社では本居宣長の碑が建っていることがあるが、梅原氏はここでは本居宣長なみであった)
荒立宮のいわれは、猿田彦命と天鈿女命の結婚の際、山の樹木を伐り出して急きょ二人の住まいがここに建てられたことによるという。神社の祭礼などでは猿田彦の容貌は天狗、天鈿女はお多福、おかめの面で象徴されることがある。鼻が高く目が大きく彫りの深い縄文系の顔立ちの国津神と、色白で目が細く優しい顔立ちの弥生系の天津神。荒木を使った急ごしらえの新居に二人は暮らしたという。
高千穂神社
夜神楽を見にいった。高千穂神社では観光用に毎夜神楽が行われる。大きなホテルからは送迎バスも出るそうだが、私のところからはバス便がなかったので、コンビニの簡単なもので夕食を済ませ、暗い夜道を二十分ほどかけて歩いていった。坂を下り暗がりに明かりの点る高千穂神社に着くとほっとした。祭りの夜ほどの華やぎはないものの、闇の中の灯を頼りに石段を上っていく。神楽殿は社殿の横にあった。
高千穂神社の主祭神は、天孫降臨三代の神々と、神武天皇の兄の三毛入野命(みけいりののみこと、三毛沼命とも)とその妻子神。高千穂ではここが一番中心となる神社という。
神武には三人の兄があった。彼ら四兄弟は天孫降臨した火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)から数えて四代目に当る。瓊瓊杵尊の子が彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦)、その子が鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、さらにその子が神武たち四兄弟である。この地に天下った火瓊瓊杵尊ら高天原系の神々は、その後次第に勢力を拡張していって、神武たちの世代になるともう南九州まで支配していたらしく、彼らはやがて大和に進出しようと計画するまでになっていく。
長兄の五瀬命に率いられた神武たち四兄弟の軍団は、南九州を出発し、海路東征の旅に出たが、五瀬命は河内での初戦、日下の戦いで毒矢を肘に受けて傷が悪化、紀の国で亡くなって竃山(かまやま)に葬られた。次兄の稲飯命(いなひのみこと)は暴風で熊野の海に沈み、三毛入野命も「波の秀(ほ)を踏みて常世郷(とこよのくに)にいでましぬ」と書紀にあり、残った末弟の神武が大和に向かって軍を進めていくことになる。
三毛入野命は、記紀によると、海で亡くなったとされているが、高千穂の伝承によれば、生きて故郷に戻ってきたという。三毛入野命が帰り着いたとき、天孫族の留守の間に高千穂では土着民の鬼八(きはち)という者が勢力を盛り返し、民を支配していた。三毛入野命は激しい戦の末にこれを討伐、蘇りを封じるために鬼八の遺体を三つにして埋め、それぞれに塚を築いたという。(東征途上、紀の国平定の折、名草戸辺も、同様の方法で葬られている)。
三毛入野命の帰還の理由については、海上で神武たちの船とはぐれたという説、長兄の死後、後継争いに敗れたという説(梅原氏説)、神武軍と一緒に大和入りを果たした後に帰還したという説などがある。(地元では大和入の後とされている)。
早めに神楽殿に着いたので、一番前に座ることができた。畳敷きの大広間に舞台がしつらえられ、中央には二間四方の四隅に柱を立て、しめ縄をかけ、上部に彫り物(えりもの)という白い和紙の切り絵が隙間なく張り巡らせてある。十二支や月日、吉祥文字など縁起物をかたどった図柄であった。
高千穂神楽は天照大神が弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)を避けて岩戸に隠れたとき、天鈿女命が岩戸の前で舞ったのが起源とされ、村人が今日に至るまでその故事を神楽の形で継承しているのである。
神楽は代表的な舞が四番演じられた。
「手力雄」(たぢからお)「鈿女」(うずめ)「戸取」(ととり)の三番は、岩戸神話の流れに沿ったものであった。まず田力雄命が岩戸の所在を探してつきとめ、次に鈿女命がしずしずと舞ったあと、田力雄命が再び出てきて、勇猛なしぐさで岩戸を開いて大神を引き出し喜びの舞をする、という展開である。
天鈿女の舞は記紀では「胸乳掻き出で、裳の紐をほとに押し垂りき」と官能的であるが、ここでの舞いは露出のしぐさなど全然なく、実に静かで優雅なものであった。ただ四番目の神楽「御神躰」だけは雰囲気が違っていて、伊弉諾、伊弉冉の両神が二人で酒つくりにいそしみ、酔った風で客席に乱入して笑いを取り、舞台に戻って滑稽で卑猥な所作も混ぜながら夫婦円満になるというものであった。
奏でられる笛と太鼓の音色に乗って、村人は神話に登場する神の姿を懸命に舞っていた。舞台で神の衣装と面を着けて立った瞬間、その人はもう神なのであろう。年齢はよくわからないが、演者はすべて男性、高千穂の人たちの伝統芸能への誇りや強い思い入れが感じられる一時間であった。
帰り道、大通りをそれると道が急に暗くなった。道路の向こうにはしんとした闇が濃く広がっている。ふと古を思った。高千穂の各村では民家に神楽の座を設け(神楽宿という)、冬の間夜を徹して三十三番の神楽の舞が奉納されるという。神楽が盛んな土地柄らしい。今晩見せてもらったのはそのうちの代表的なものであるが、短い時間ながらも神楽の持つ雰囲気、力強さやその古代性の一端に触れることができて興味深かった。
天岩戸神社 西本宮
翌日は天岩戸神社へ行った。町の中心部から起伏のある七キロほどの距離をバスに乗る。坂道を降りるにつれて、みごとな棚田の風景が現れた。畔には点々と彼岸花が咲いている。稲穂の黄と花の赤の対比が美しく、実りの秋の情景をうっとり眺めているうちに神社に着いた。駐車場には岩を頭上に持ち上げる手力雄命(たぢからおのみこと)の像が立ち、人が近づくとセンサーで神楽の笛が鳴り出すのであった。天岩戸神社は西本宮、東本宮があるが、まず西本宮へと向かう。
祭神は大日孁尊(おおひるめのみこと)である。
申し出ると神職が説明、案内をするとあったので、お願いすることにした。まず神木についての説明を聞く。
西本宮の本殿脇には招霊木(おがたまのき)があり、それは見上げるような大木であった。早春に白い花をつけ、実は紅色で、実のつき方は巫女の持つ鈴に似た形という。天鈿女命はヒカゲノカズラをたすきにかけ、オガタマノキの枝(記紀では笹の枝、茅纏の矛とも)を手に舞ったという。以前京都知恩院の近くの神社の庭で、ヒカゲノカズラが群生しているのを見たことがあった。緑のつるがよく伸びて見事なので感心して眺めていたら、通りかかった社務所の方が、親切に少し引き抜いてくださった。大切に持ち帰り庭に植えたのだが、土が合わなかったのか根付かず残念であった。そんなことも思い出しながら、オガタマノキを見上げていた。
すでにはじけて落ちたのか、地面に黒い種子らしいものが散らばっている。巫女鈴のようだという実のつき方を観察しようと思ったのだが、木が高い上に葉が多く、柵で囲まれているのでよく見えなかった。葉は榊に似ていて細長くつやがある。ここの神社の神木にふさわしい木と思うが、こんな巨木に育つのは珍しい。(記憶では亀岡の出雲大神宮にもたしかこの大木があった)
西本宮に社殿はあるが本殿はなく、ご神体は川向こうの山の岩戸であるということだった。天照大神が隠れられたという岩戸である。社殿の裏へ回り、岩戸川を隔てて天の岩戸を遠望する。撮影は禁止であった。川向こう一帯は人が近づくことのない聖域で、山の中腹に洞窟があるというが、樹木に深く覆われており、その位置ははっきり確認できない。
神職の説明は二十分ほどで、高天原神話は天の神々の話として語られているが、地上の出来事や人々の姿が投影されたものであって、記紀に出てくる神々とは、古にこの世に生きた人のことである、と見解を述べられたのが印象的であった。
天安河原
岩戸川の上流に向かって歩いていく。岩の間を流れる清流を見ながら五百メートルほどさかのぼると、天安河原(あめのやすのかわ、あまのやすがわら)に着いた。仰慕窟(ぎょうぼがいわや)という大きな洞窟がある。周囲の山の緑が美しく、川の流れは速くてところどころ白く渦を巻き、河原には荒削りの大岩が転がっている。洞窟の奥には思兼命(おもひかねのみこと)を祀る神社があった。窟には隙間なく小石が積まれ壮観である。うまく積めると願いが叶うのだそうだ。
天照大神が岩戸に隠れたとき、思兼命ら神々は安河原に集まって相談をした。太陽を呼び戻す呪術として「常世(とこよ)の長泣鳥(ながなきどり)を集(つど)えて鳴かしめて」、つまり世界が暗いので、鶏を集めて鳴かせた。
立派な鏡や勾玉を作らせ、鹿の肩骨を焼いて占いをした。天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝詞をあげて儀式を行い、香具山の榊の木を掘りとってきて、枝に鏡や玉や幣を結びつけて飾り立て、天鈿女命が舞い、手力雄命が大岩を開けて、天照大神がようやく岩から引き出され、この世に光が戻ってくる。
この神話の解釈としては、日食説、冬至の後衰えた太陽が光を取り戻すことの象徴、それと火山の噴火説などがある。この地域に限定した方向で考えるなら、阿蘇山の噴火爆発による現象ということになる。
天の岩戸と呼ばれるところは、福知山市大江町、奈良県橿原市、長野県戸隠など各地にある(ほかには伊勢、滋賀、沖縄、三重などにも)。福知山の大江町の岩は大きく形も印象的だが川があまりにもか細く、奈良県の天香具山山麓では、岩戸が竹藪に埋没していた。戸隠の大岩は、高千穂から手力雄命の投げた岩の一部が空を飛んできて、落下したように伝承されている。
記紀に語られる岩戸の世界が、全国に何箇所も存在するというのは、考えてみれば何か妙な気もする。伝説の聖地を人々が各地で再現し、祭祀の対象としたのであろう。今まで見た岩戸の中では高千穂が一番大がかりであり、天真名井、岩戸、神楽、安河原、香具山までも揃っていて、また神社側の熱の入れ方も力が籠っているようであった。
天岩戸神社 東本宮
東本宮に向かう。西本宮から十分ほど歩き、岩戸川を渡った山側にある。入り口には天鈿女命の像があって、近づくと像が動き出し回転するので、この仕掛けを知らないとぎくっとする。面白いので何度も近寄ってうずめさんに回ってもらった。
東本宮には、岩戸から出られた天照大神が祀られている。
西本宮の賑わいに比べるとひっそりした雰囲気のお宮である。石段を上っていく。両側は深い杉の木立で、社殿の裏には大杉の根元から神水がこんこんと湧き出ていた。汲んで手を浸してみるととても冷たかった。観光バスのツアーの人たちは、時間の都合で西本宮と安河原だけを見て帰るので、ここまでは足を延ばさないという。
涼しい風がゆるく通り抜けて、木立がかすかに揺れている。山では少しずつ紅葉がはじまり、時が移ろっていくのだろう。神社の下を流れゆく岩戸川のせせらぎのほかは、何の音も聞こえない。このような静謐な空間にいると、心が安らぐようであった。
高千穂峡
バスで町まで引き返し、高千穂峡へと徒歩で向かう。急坂を降りていくと、道路脇に玉垂の滝があった。先日の台風による豪雨と一昨日の雨のせいか水量が多く、溢れんばかりに水がなだれ落ち、道路も水浸しで迫力ある眺めになっていた。
ボート乗り場は水に浸かっていて休業であった。見どころの真名井の滝はごうごうと勢いよく水が落ちていて、近づくと怖いほどである。対岸に広がる絶壁の柱状節理は大きく岩に垂直に太い線を刻み、下を見れば峡谷の青い水は底のないような深さをたたえて流れていく。人の手の及ばない大自然の力に畏怖を感じた。淵にたたずんで水面を覗き込むと、ふっと引き込まれそうになり、生と隣り合う死の世界を思った。この上なく美しい情景の中に、戦慄するような怖いものもまた潜んでいるのであった。
川に沿ってずっと上流まで歩いていくと、折れ曲がった狭い水路を激しく泡立ちながら水が奔っていく。間近に見る生き物のような水の勢いにただ圧倒されていた。
高千穂を発つ日、バスの時間まで少し余裕があったので、もう一度荒立宮を訪れた。町の通りを歩いていくと、表札に興梠(こうろぎ)さんという姓が多いのに気づく。古の神祭りに関わった神呂木家から来ている名で、由緒があるのだそうだ。
早朝の荒立宮は清浄感に満ちていた。緑の匂い立つような裏山にふっと登りたくなって歩きかけたが、バスの時間のことを思って引き返す。誘いかけられるような魅力的な山道であった。代りにくしふる神社へと続く山道へと入る。
二十躰王宮(にじゅったいおうのみや)が見えてくる。天孫降臨に従った随身たちの宮跡という。荒立宮とはそう離れてはいない。猿田彦は決意して道案内として天孫側についたのだろうが、彼の出身の国津神の集落にはもう戻りにくかったであろう。天孫側からみれば、猿田彦を集落から切り離して常に監視下に置き、あるいは懐柔し、使役するためには、新しい住居と妻も与える必要があったかと思われる。
二十躰宮跡を過ぎると宮地嶽社が見えてきた。森の中に立つ祠であった。進んでいくとほどなくくしふる神社の社殿の屋根が見えてくる。昨日行きたくて断念した探鳥路を今日は荒立宮の方から歩いたのであった。
神社の石段を下りて、高天原遥拝所への山道を登っていく。杉の木立に包まれた森である。遥拝所は小高い位置にあり、鳥居をくぐると正面に石祠が一つあるだけの静かな空間であった。ここはもう忘れ去られたかつての聖地なのだろう。生い茂った樹木の間から青い空が見え隠れし、ちぎれ雲がひとつふたつ流れていく。森の中にぽつんと鎮座する石祠をしばらく見つめていた。風が通り抜けていく。静けさに満ちたどこか寂寥感の漂う場所であった。鳥の声を聞きつつ、風に揺れる梢を見上げる。古の神々はここに立って何を思ったのであろう。
帰途につく。バスの窓から高千穂に広がる棚田の風景を眺めていた。
風土記の記述によると、
空が暗く昼夜の区別がつかなかったとき、土蜘蛛の大鉗(おおはし)小鉗(おはし)が瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に、
「稲の千穂を抜きて籾(もみ)とし、四方(よも)に投げ散らしたまはば、必ずや開晴(あか)ることを得む」
と勧めたので、みことがそのようにすると、光が差し空が晴れて日も月も照り輝いた。
「後の人、改めて智舗(ちほ)となづけり」(日向国風土記 逸文)
つまりこの逸話が高千穂の地名の起源となっているらしい。土着の民が天孫に教えたという四方に籾をまく呪術は、今も各地に残る餅まき神事に変形して、その形をとどめているそうだ。
バスが山間部に入ると、窓からは杉の木が林立する光景が見られた。緑の杉の木はどれも天に向かって直立し、遠くから見るとまるで巨大な稲穂が寄り集まっているかのようであった。