一元伊勢紀行一
籠神社(丹後一宮) 大江山内宮 岩戸神社
一元伊勢紀行一
籠神社(丹後一宮) 大江山内宮 岩戸神社
天橋立
宝塚からJR山陰本線で福知山に出て、北近畿タンゴ鉄道に乗り換え、宮津を経て天橋立に着いた。特急を使わなかったため時間がかかり、数えてみると家を出てから計五度の乗換えであった。
天橋立の入り口には、「三人寄れば文殊の智恵」で有名な文殊菩薩を祀る智恩寺がある。ここは日本三文殊の一つで、三文殊とは、奈良桜井の安倍文殊院と、山形の亀岡文殊であるという。ここのお寺は塀できっちり囲っていないので、どこからでも出入りは自由の上、動物にも寛容なのか、境内にはさまざまな毛色の野良猫たちがたむろしており、猫好きの観光客の相手をしていた。こういうのは寺猫というのだろうか。
智恵が授かれますようにと手を合わせた後、境内を抜けて船着場の近くにある「知恵の輪灯篭」を見に行った。輪になった形がちょっと変わっている。海を背景にレンズなしの特大虫めがねが立ててあるという感じであった。
そのまま廻旋橋のほうに歩いていく。大きな船を通すために橋の中央部分が九十度回転する仕組みになっているが、昔はこれを人手で回したという。ちょうど船が来たところに行き合わせ、橋が回転し、また元へ戻る様子を見ることができた。
その橋を渡ると、道は天橋立へと続いていく。全長約3.6キロの砂嘴である。広々とした空間に立派な松林があり、潮の香と松の香が立ち込めて清々しく、歩いていくと左右には松林、右手には砂浜が広がり樹木の間から見える海はきらきらと輝いている。
久し振りに橋立の海に来て、文殊堂や廻旋橋や、松並木や青い海を見つめていると、中二のとき臨海学校でここに来て泳いだ記憶がよみがえってきて、懐かしさを覚えた。日本海の海は、見慣れた瀬戸内海の海と違って冷たく、色も深いように感じられた。
一キロの遠泳に挑戦し、海上で漂っていると、海岸線や遠くの風景が幻のように霞んで見え、なんときれいな場所なのだろうと思った。ただ泳いでいて困ったのは、時折くらげに襲われることで、ちくっと刺されるたび、逃れようともがいて海水を飲み込み、溺れるのではないかと恐怖にかられた。平泳ぎで掻く手のひらに、ぬるっとしたくらげのかさが触れるのが嫌であった。くらげはゆらゆらと群れになって来るようで、泳いでいる私たちの集団とぶつかるのである。
ようやく無事に泳ぎ終わって砂浜に上がると、長時間海に浸かっていたため、足がふらついたのを覚えている。熱いあめ湯をもらって一息ついたが、くらげに刺された跡を見ると、何箇所もみみず腫れになっていて、かゆくて痛く元へ戻るのに数日かかった。それ以後くらげは見るのも食べるのも苦手である。
その後家族旅行で天橋立に来たことがあったが、子供たちがまだ小さかったので、ケーブルで笠松公園に上がるのが精一杯で、籠(この)神社も真名井神社も成相寺も寄らずじまいであった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、松林の中に「磯清水」の表示があったので立ち寄ることにする。見ると木々の間には小さな井戸と歌碑があった。
橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし 和泉式部
この井戸からは、不思議なことに今も塩分の混じらない清水が湧き出ているという。古来旅人の憩いの場だったことであろう。名水のそばでしばらく休憩する。
和泉式部は、四十歳を過ぎてから再婚した夫、藤原保昌とともにその任国丹後に下っているが、たぶんその頃に詠まれた歌なのであろう。和泉式部は平安中期のすぐれた女流歌人。多くの恋愛によっても有名であるが、生涯に残した歌もまた多く、各地に歌碑がある。
もう少し進んでいくと今度は橋立明神の社があった。手を合わせて挨拶していく。左右に続いていく松並木の道はごみも落ちていなくて美しいが、台風で倒れて伐られてしまった大きな松があり、荒れているところもあった。
丹後一宮 籠神社
砂嘴を歩き終わり、船着場の道を進むと、丹後一宮の籠(この)神社であった。古くは吉佐宮(よざのみや)といったそうである。第十代崇神天皇のとき、皇女豊鋤入(とよすきいり)姫が大和笠縫邑(かさぬいむら)から来て、天照大神を祀ったといわれている。
豊鋤入姫は、それまで大和の三輪山麓宮殿内にあった天照大神の御霊代(みひしろ)を、大和国笠縫邑に移し、そこで祀っていた。霊威が強すぎるので、宮殿から出して笠縫に祀ったと書紀には記述されている。
・・・・天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭大国魂(やまとのおおくにたま)、二(ふたはしら)の神を、天皇(すめらみこと)の大殿(みあらか)の内に並(いはひ)祭る。然(しかう)して、其の神の勢ひを畏りて共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鋤入姫命に託(つ)けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。 (日本書紀)
大国魂神のほうは、渟名城(ぬなき)入姫に託されて、宮殿から離れた穴師邑で祭ることになった。ところが渟名城入姫は「髪落ち体痩(やすか)みて祭ること能(あた)わず」という状態になったと記述されている。
「倭姫命世記」という中世の神道書によれば、豊鋤入姫は、長く笠縫邑で天照大神を祭っていたが、その後さらに神霊を丹後の吉佐宮に移し、四年の間祀ったという。
・・・・皇女豊鋤入姫命をして斎(まつ)り奉らしむ。・・・・但波の吉佐宮に遷幸(みゆき)なりまして、四年を積(へ)斎き奉る。・・・・此の歳、豊受介(とようけ)神天降りまして御饗(みあへ)奉る。・・・・ (倭姫命世記)
丹後のあとは、大和に帰って八年、それから紀伊の名草浜宮に三年、吉備名方浜宮に四年、大和に戻って二年、と皇女の手によって大神は順次各地を移っていったと記述されている。
二度目に豊鋤入姫が大和に戻ったとき、長年の奉仕による老齢のためか「吾(あれ)日足りぬ」つまり、お務めはもう充分になりました、と告げて姪の倭姫と交代し、以後は倭姫が神霊を携えていくことになる。
豊鋤入姫の跡を継いだ垂仁天皇皇女倭姫は、その後大和を出て伊賀、近江、美濃、尾張、などの各地を巡り、神鏡と共に旅を続け、大和には戻ることなく、やがて伊勢の地にたどり着いて五十鈴川のほとりに宮を建て、それが後に伊勢内宮となっていく。
その天照大神の旅の出発点、大和から最初に神霊が移されたという地、それが丹後吉佐宮なのだという。伊勢以前に天照大神が祀られたことにより「元伊勢」と称えられるようになった。
豊鋤入姫と倭姫が天照大神を祭ったという各地のお社は「元伊勢」と呼ばれ、神は霊を分かちうるので、祀り手の皇女が去った後も、社に大神は祀り続けられた。ただあまりにも古のことであるので、比定地がはっきりしていないところも多く、伝承による候補地も含めると、元伊勢を称する各地の古社はかなりの数にのぼる。
吉佐宮の場合もそうで、所在地については定まっていないが、神社側がはっきりと元伊勢を主張する丹後一宮籠神社に次いで、大江山内宮もかなり有力視されており、どちらかはわからない。ほかに竹野神社という説もあるそうだ。
大鳥居をくぐり籠神社に参拝する。元伊勢であり、丹後一宮という格式の高さがうかがえる社であった。擬宝珠の玉の色が青や赤、黄、白と鮮やかである。
主祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)、相殿には天照大神、豊受大神などの名が見える。境内の庭には水琴窟が設置してあって、耳を当てると澄んだ音が地中から響いてきてなんともゆかしく涼しげな音が楽しめた。
眞名井神社
少し山側に歩き奥宮に参拝した。丹後の信仰の根源の深さを思わせる、眞名井神社である。主祭神は豊受大神(とようけおおかみ)で御饌(みけ)つ神、つまり食物の神とされる。大きな磐座があり、伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)、伊射奈美大神(いざなみおおかみ)が祀られている。伝承では雄略天皇のとき、天皇の夢見により、豊受大神は吉佐から伊勢に遷されたという。
霊水の湧く「眞名井の井戸」や磐座、お社が深い森の中にひっそりと鎮まっていた。ここから先は禁足地となっていて、おそらく山中にはもっと多くの磐座が点在しているのだと思われる。このあたりは昼間でも薄暗く、幽玄な地と感じられた。苔むした岩を間近で眺めていると、緑の樹木の枝の重なりからわずかに漏れてくる陽がちらちらとその上に踊り、遠く近く小鳥のさえずりが聞こえてくる。お参りの人も少なく静かな森であった。
豊鋤入姫にちなむ社か、または名を冠した祠などがあるだろうかと探してみたが、籠神社本殿のほうにも、この奥宮の方にも、見つからなかった。
天橋立の景観
リフトで笠松公園に上がる。橋立の景観をしばらく眺める。手すりがあったので、つかまりながら「股のぞき」も試してみる。海と陸がひっくり返った光景であるが、変な姿勢なので長くは見ていられない。元へ戻るとくるりと世界が反転し、今見たのは何だったのだろうと、一瞬思うのだった。
丹後国風土記逸文には、こういういわれが載っている。
・・・・先つ名をば天橋立といひ、後の名を久志浜といふ。然(しか)云ふは、国生みたまひし大神いざなぎの命、天に通行(かよ)はむとして椅(はし)を作り立てたまふ。故(かれ)、天椅立と云ふ。神の御寝(いね)ます間にたおれ伏しぬ。すなわちくしびますことを怪しみたまひき。故、久志備(くしび)の浜と云ふ・・・・(丹後国風土記逸文)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が天上の高天原と行き来しようとして橋(梯子)をかけられたので、天橋立というのである。ところが神が寝ておられる間に、そのはしごが倒れ伏してしまった。その神秘な力の発現を不思議に思われたので、それによって久志備の浜という。
笠松公園横手からもう少し石段を上がっていくと、そこに「股のぞき発祥の地」がある。大きな「傘松」と茶店が一軒。さっきより高度が上がったせいか、それとも観光客がいなかったせいか、そこは笠松公園よりはるかに雰囲気があり景観もすぐれていた。
それにしても不注意からか過失によるのか、神の梯子が倒れてしまい、天の世界との行き来ができなくなったというのである。二つの世界を繋いでいたものが失われ、天上界と人間界はそれきり断絶してしまったのだろうか。理由は何であれ一度絶たれてしまった関係はもう戻らず、異界への道がそのとき閉じられてしまったことを、この逸話は語っていると思われる。そこには関係が消滅していくことの寂しさや喪失感がある。また何かしら厳しいものがこの短い話には感じられるような気がする。
バスでさらに山道を上がり成相寺へと向かう。西国三十三所の第二十八番札所であった。本尊は聖観世音菩薩。お参りの人が時々来て手を合わせ、線香の煙が薄く流れていく。とても静かなお堂であった。見晴台のほうへ行くと、天橋立が眺められ、さっきよりさらに高度が上がったので、抜群の景観であった。帰りに何億円かを投じて建立したというきれいな凝った造りの木造五重塔を眺めてから、バスで下山した。
帰りは汽船で戻ることにした。さっき歩いた橋立の道を、テープで流れる説明を聞くともなく聞きながら眺めていた。途切れずに続いていく松林がやはり美しい。反対側の海側から俯瞰して描いた雪舟の大作「天橋立図」をずっと心に思い浮かべていた。
大江山内宮 皇大神社
駅へ戻る。ちょうど来た列車に間に合って、次の目的地、元伊勢のある北近畿タンゴ鉄道の「大江山内宮」へと向かった。ここも「元伊勢」伝承地である。
駅を降りて、道路をしばらく歩くと、山側に集落が見えてきた。集落を抜け、石段を上がっていくと、左右にはうっそうとした深い森が現れ、その途中に「真名井の井戸」があった。残念ながらこちらの泉には落ち葉が溜まり、水は黒くよどんでいる。さらに進むと「麻呂子(まろこ)親王お手植えの杉」などの苔むした古木が見られた。麻呂子親王は聖徳太子の弟に当る人で、土熊(つちぐま)、軽足(かるあし)など三人の賊を倒す祈願にここに杉を植えたという。また麻呂子親王は、二上山山麓の当麻寺の創建者という伝承もある。
石段を上がりきると、拝殿正面の鳥居は樹皮をつけたままの木が用いられた黒木鳥居になっており、古代風であった。周囲の森には神域にふさわしい清々しさがある。
ここは天照大神を主祭神として祀っている。
内宮社殿のたたずまい、境内の雰囲気など、伊勢神宮とどことなく感じは似通っており、伊勢神宮の縮小版という印象を受けた。伊勢神宮にあるものは、ここにも多くあるという。さすがに「元伊勢」というだけあって、境内は荘厳な感じに包まれており、森の樹木は深い。驚くほど多くの摂社が周囲にあった。神棚のような同じ大きさの祠がずらりと並んでいるのである。順に回ってみたが、ほとんど全国の神社を網羅していて、その数は百近くはあるのではないかと思われた。
内宮を離れ、道を辿っていくと、日室嶽遥拝所へ出た。日室岳は三角錐のきれいな整った形をしている。神体山である。夏至の日、太陽がこの山の頂上に沈むことで知られている。古代の人はそういう自然現象を見逃さず、神秘なこととして受けとめたのだろう。日室岳には磐座があるといい、古の太陽祭祀の場だったと思われる。ここの伝承では、天照大神を祀ったのは、豊鋤入姫ではなく倭姫であったという。
見上げると緑に覆われた山はすっきりとした稜線を描き出し空にそびえていた。しばらく眺めた後、岩戸神社へと向かう。
岩戸神社
岩戸神社はかなり谷底にある。道は下り坂になり、陽光が薄れ陰になった道をひたすら進む。最後は急な石段をひと息に降りていって、谷川のすぐ際まで歩いていく。この川は宮川というそうだ。遥拝所が設けてあり、産盥(うぶだらい)という岩を遥拝するようになっていた。浸食作用で表面に穴の開いた面白い形になっている。神が湯浴みをされたということでであろうか。その穴の大きさから見ると、神様は生まれたての赤ちゃんで、産湯を使う際の盥という印象である。あるいはそうではなくて、ここに溜まる水は特別神聖な水ということで、ひしゃく等ですくって身を清めるのに使ったのかもしれない、などと思う。他に奇怪な形のごろごろとした大きな岩や石が、自然の造形のまま無造作に谷に投げ出されており、谷川の水は少なく、全体に荒れ果てた感じを受ける場所であった。
右手の大岩の上には張り付くように祠があり、参拝者のために鎖が一本垂らしてあるが、滑りやすそうな急傾斜のためよじ登る自信がなく、下から仰ぐだけにする。
谷の奥に入ると、右手には伝説の天の岩戸とされる大岩が望まれた。その前の水は平らでほとんど動かない。そこは沈黙の岩戸世界で、岩は再び固く閉じられており、水は周囲の木々の緑を映して深緑色に染まっている。どことなく寂しい雰囲気が漂う奥まった場所であった。
・・・・弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴な振る舞いの数々によって、天照大神が岩戸に隠れてしまった。すると暗闇が続いて多くの災いが起きたので、困った神々が集まって智恵を出し合い、鶏を鳴かせるなどの呪術を行った。香具山の榊を伐ってきて立派な鏡や玉を掛けて飾り、その前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が伏せた桶を踏み鳴らして神がかりになって舞い、神々が哄笑して大神を岩から導き出す・・・・ここはそのような神話の場面の舞台であるという。
しゃがんでよく見ると、左手の岩に一箇所光の通る場所があり、向こう側の景色が透けて見えていた。(光線が光の矢となって水面を貫いたという、加賀の潜戸の情景をふと思い出した)。
天岩戸神社は高千穂、戸隠、香具山など、全国に何箇所かあって、その一つがここである。高千穂は知らないのだけれど、戸隠と香具山の岩戸神社は以前訪れたことがあった。戸隠のほうは緑に包まれた深い山中にあり、香具山のほうは、竹林の中の木漏れ陽の差し込む山麓の小社であった。
ここの岩戸神社は世間から忘れ去られたようなひっそりとした谷間にある。手入れされていないままの荒々しい自然がすぐ目の前にあり、訪れた人はここでむき出しの奇怪な岩の数々にいきなり対面するのであった。
神話から思い浮かんでくる場面はもう少し賑やかなのであるが、人ひとりおらず陽光も届きにくいようなこの谷底の岩の上に立ち、奇岩に囲まれ静止している暗い色の水を見つめていると、風景の持つ厳しさに心が圧迫されるのであった。
再び駅に戻り、電車を待っていると、日が傾いて駅舎を照らし出していた。この太陽が夏至の日にあの日室岳に沈むのだなと、考えていた。今日は二つの元伊勢伝承地を訪れたが、それぞれに特徴がある古社であった。橋立では奥宮の眞名井神社、大江山では岩戸神社が心に残った。今回は時間の関係で、豊受大神を祀る大江山外宮のほうは行けなかったが、また機会があれば訪れてみたい。