一三上山登山一
御上神社 奥宮磐座 銅鐸博物館
一三上山登山一
御上神社 奥宮磐座 銅鐸博物館
御上神社
近江富士と呼ばれている三上山(みかみやま)は標高432メートル、男山と女山の二つの峰を持つ。山頂は男山のほうで、頂上には磐座と奥宮がある。近江富士の名の通り、秀麗な三角錐の形をしている。俵藤太のムカデ退治の伝説でも知られている山である。JRの車窓から三上山はよく見えるし、その形が印象的なので、旅行などで野洲のあたりを通るたび、一度上ってみたいものだと思いつつ眺めていた。
今日は山麓の御上(みかみ)神社に詣でたあと、表参道から登山し、山頂奥宮を経て公園側に降り、野洲銅鐸博物館を見学する予定である。
午前中のJR野洲駅は閑散としていた。駅前からのバス便もないようなので、御上神社まで歩くことにする。あまり人通りもなくて、のどかである。まず山麓に寄ってから山に沿うように国道を進んでいく。四十分ぐらい歩くと、それらしい神社の森が見えてきた。御上神社である。
参道を行くと立派な楼門が現れた。神社の門とは見えず、どんな由緒を持つ寺院かと思われる堂々とした構えである。門をくぐると、実に雰囲気のある美しい社殿が目の前にあった。拝殿、本殿、摂社、どれも古くて華やかな趣が感じられる。よく見ると細部にまで凝った装飾が施されており、神仏習合の様相が感じられる社である。境内を歩いていくと、右手の建物から笛の音が聞こえてきた。どうもお神楽の練習をしているらしく、繰り返し静かで緩やかな旋律が流れてくる。なんとも優雅な気分を味わえたひとときであった。
御上神社の祭神は天津彦根神の子で、天之御影(あめのみかげ)大神。この神は天目一箇神(あまのまひとつのかみ)と同一視されている。天照大神の孫に当り、刀鍛治の祖神という。鍛治には火と水が必要なことから、火、水を司る神でもあるという。
古語拾遺によれば、天照大神の岩戸隠れのとき、刀剣、鐸などを作ったのが天目一箇神であったという。
・・・・天目一箇神をして、くさぐさの刀(たち)・斧また鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ。其の物既に備わりて、天香山の五百箇(いほつ)の眞賢木(まさかき)を掘りて上枝には玉を懸け、中枝には鏡を懸け・・・・・・・ 天鈿女命(あめのうずめのみこと)・・・・竹葉(ささば)おけの木の葉を以手草とし、手に鐸(さなき)着けたる矛を持ちて、石窟(いはや)の前にうけふね覆(ふ)せ・・・・ (古語拾遺)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にしていた、矛に着けられていたのが、天目一箇神が作った鐸(さなき)であったという。鐸とは、小型の銅鐸のようなものを想像すればいいのだろうか。矛の上部に取り付けられていたと考えられる。天鈿女が神がかりして舞ったとき、矛を揺り動かすたび、鐸は周囲に鳴り響いたことだろう。(よく博物館などでは銅鐸のレプリカが吊り下げてあり、自由に鳴らせるようになっているが、高く澄んだ鐘の音色がする)。
神社の由緒では、孝霊天皇のとき、三上山山頂に神が降臨したので、三上祝が祀ったのが起源だそうである。古事記の開化天皇の項には、皇子日子坐(ひこいます)の王の記述の中に天之御影大神の名がみえる。
・・・・また近つ淡海(あふみ)の御上(みかみ)の祝(はふり)がもちいつく、天の御影の神が女、息長(おきなが)の水依比売に娶ひて、生みませる子、丹波の比古多多須美知能宇斯(ひこたたすみちのうし)の王・・・・ (古事記)
日子座王は、崇神天皇のとき、四道将軍の一人として丹波に派遣され、丹波地方を制圧した人である。その日子坐王が、三上山の天之御影大神を祀る神職の娘と婚姻して生んだ子は、丹波の王、いわゆる丹波道主王である。
神体山の三上山は、神社の背後にそびえており、すっきりとした山容が望まれる。この神社の本殿の裏扉は祭礼の折には開かれて、三上山山頂から下る神霊をこの社に迎えるそうである。今の社殿は鎌倉時代のものであるという。そういえば狛犬までも古色蒼然としていて迫力があり、本殿は国宝、拝殿、楼門も重文ということであった。
三上山
参拝のあと、道路を渡ると、昭和天皇の大嘗祭の折の「昭和悠紀斉田跡」という表示があった。亀卜によって三上山山麓が選ばれたといい、ここでとれたお米が式典に用いられたという。今も特別な場所とされているようであった。
回り込んで登山口を探すと、民家に挟まれた石段があった。柵を自分であけて入り、また閉めておくようになっている。猪対策であろう。(実は私の住んでいる市でも、猪は夜間出没する。たとえば深夜、どーんとガレージのフェンスの辺りで物音がする。猪が体当たりをした音で、勝手口からこらっと家人が一喝すると、カツカツとひづめの音を立てて逃げていくのである。また朝起きると、うっかり玄関の外に置いてあった鉢植えのニチニチ草が花も葉も食べつくされており、がっくりするのである。夜中にごみステーションをうろついては、「落しもの」で道路を汚すなど、すこし山から離れている住宅街であるにもかかわらず、何かとよくない痕跡を残してくれる。ここのようにすぐ後ろが山という集落であれば、さぞかし被害が、と思いつつしっかり柵を閉めた)。
石段を登っていく。上がりきったところに、妙見堂跡があった。わずかに脇の建物が残っているが、既に朽ち果てていた。敷地にはお堂のあった位置を思わせる石積みと灯籠がぽつんと立っていて、なんとも侘しい情景であった。
山道を進むと「割り岩」と呼ばれる大きな磐座があった。真ん中が縦にきれいに割れていて、鎖もつけてあり、かろうじて人が潜り抜けられる幅である。リュックごとそっと通ることができた。距離は十メートルほどであるが、奥宮へ参拝に向かう際には、この岩の間を通り抜けることに何かの意味がある、そういう感じがするちょっとした異空間であった。リュックが大きくて岩を通るのを避けたい人や、体型が太目で通行が無理な人のために、脇にちゃんと迂回路もつけてあった。
山頂奥宮の社に着いた。そこはもう巨大な磐盤の上であった。眺望は開けていて、遠くのほうは霞んでいたが、眼下には御上神社や野洲の町並みがはっきり見えている。社の正面には特別な磐座があった。
よく神社の由緒などにある言葉だが、「山上に神が御降臨」とは具体的にどういうことを指すのだろうか。さっきの御上神社の由緒のときにもあった「三上山山頂に天之御影神が降臨された」という現象のことである。いくつか考えられる状況を勝手に想像してみることにする。
一、 神職者の夢見により、あるいは巫女が神がかりして、山頂で祭祀をするように、とお告げがあった。
二、 古来、稲妻や落雷などの自然現象が神威の現れとみなされることから、(そういえば古語では影は光のことであるし、天の御影の神という名も、雷光、あるいは鍛治のときに散る火花を意味しているのかも知れないなどと思う)あるときちょうどこの山頂の高い木に落雷があったので、山頂でお祀りした。
三、 山上の磐座の上で、子蛇が誕生するなどの不思議なできごとがあった(奈良春日大社の若宮神社の由緒の例など)。
四、もともと先住民の聖地として崇められており、山頂の磐座は神の座であった。
考えながら巨大な磐座を見ていた。ここは古代では神聖な祭祀場であったのだろう。でもその磐座は大きくて平らでちょうど人が腰かけやすい高さになっていたため、先着の登山者が既に坐ってお弁当を食べているのだった。
なるべく磐座から遠い位置に坐ろうと思うのだが、なにしろそこら中巨大岩盤なので地面が少なく、そのうち気にしていられなくなって、それでもなるべく一番離れた岩の端に行って坐り、昼食をとることにした。今日はコンビニが見つけられなかったので、お弁当ではなく、下の集落の食料品店の店先にあった「焼きたて手造りパン」とお茶であった。くるみパン、チョコレートパン、野菜入りロールパン、ふわふわでどれも美味であった。
食べていると蜂が一匹飛んできて、くるくると辺りを旋回する。スズメバチではなかったので少し安心したが、その動きをずっと注視していた。蜂は他の昆虫が飛んでくると、怒って追い出すのである。盛んに攻撃するので、蝶もトンボも蜂の威嚇で追い払われていく。どうも縄張り意識があるらしい。近くには蜜のあるような花もないし、こういう山頂の空間でいったい何をしているのだろうかと思うのだが、蜂はある領域を自分で決めていて、そこに一切の昆虫をよせつけまいと孤軍奮闘しているのである。面白い習性だなあと思ってしばらく観察していた。
三上山にまつわる伝説、俵藤太の話にも少し触れてみよう。
朱雀天皇の時代、田原藤太秀郷という剛の者がいた。あるとき瀬田の唐橋の上に、大蛇が現れて横たわっており、それを見て誰も通ることができなかったが、藤太は少しも恐れずそのまま蛇を踏みつけて通った。
その夜、大蛇は若い娘の姿になって藤太を訪れて、藤太の勇気を称え、自分は琵琶湖に住む竜神の一族であるが、三上山を七巻き半している大ムカデに悩まされているので退治してほしい、と頼んだ。
藤太は承諾し、先祖から伝わる刀剣と弓矢を持って三上山にやって来た。現れた大ムカデに向かって矢を射るが、二度失敗した。それで意を決し三番目の矢には鏃に唾を塗り、八幡大菩薩に祈願して射ると、みごとに命中して大ムカデを倒すことができた。竜神は喜んで、お礼として決して減らない米俵と、使ってもなくならない反物などをくれた。それで藤太は名を俵藤太に変えたというのである。
この話は何を語っているのだろうか。三上山を七巻き半のムカデというのも、すごい長さだけれど、気になるのは、唾を使った矢で射ると妖物が退治できたということである。昔から怪我をしたら、傷口には唾をつけると早くなおる、とか、狐や狸は人の眉毛の数をかぞえてからだますので、数えられないように眉に唾をつけるといい(眉唾)などという。おまじないとしての唾には、大ムカデのような魔物までも倒す力がある、ということなのだろうか。唾液にこもる不思議な力、古代の呪術めいたものを感じさせる俵藤太の伝説である。
銅鐸博物館
公園側に下山する。周囲には花もなく、ただ潅木の茂みと木立の続く道を黙々と降りていく。標識がわかりづらくて、歩いていてあまり楽しみのない山道であった。
バス道に出ると、道を隔てて大きな公園施設があるらしく、家族連れの姿が目立つようになった。それは自然公園のようであった。銅鐸博物館までは、バスに乗るほどの距離でもないようなので、そのまま道に沿って歩いていくと、博物館が見えてきた。銅鐸の博物館として有名であるが、正式には野洲町立歴史民俗資料館というそうである。
立派な建物である。入り口では、小学生の女の子たちが座り込んで、紐のついた舞いキリで「火起こし体験」をしていた。道具を貸し出してくれるのだろう。縄文のキリもみ式は発火に時間もかかるし難しそうだが、舞いキリ式なら比較的楽にできるのではないだろうか。ほかに勾玉作りの体験もできるそうだ。あらかじめ紐通しの小穴を開けておいた滑石の角をやすりでこすり磨いて作るらしい。
館内では、銅鐸作りの説明ビデオや、最大、最小、最古という銅鐸の展示もあった。銅鐸は本物ばかりではなくて、複製も混ざっている。大きさはさまざまあって大きいものは一メートル以上、人や動植物が線刻されたもの、また手のひらに載るような小さい銅鐸もあった。小銅鐸は牛馬の首につける鈴のような感じで、前述した天一箇神が作ったという天鈿女命の矛につけた鐸(さなき)にふさわしいとも考えられ、あの文中に出てくる鐸とは、こういう類のものであったのかもしれないと思った。
ここの中心展示物は、大岩山銅鐸である。
野洲では明治の頃、大岩山で子供が偶然銅鐸を見つけたことをきっかけに、十数個もの大型銅鐸が発掘されたのだが、惜しいことにその後散逸、一部は海外などにも流出してしまい、現在ここにあるのは複製であるという。
昭和三十年代になって、再び大岩山の工事現場から十数個の大型銅鐸が発見されて、話題となった。明治のときのような散逸を繰り返さないため、学者の先生が中心になって懸命に奔走し、その努力の甲斐あって、ここに実物を集め展示してあるということであった。
その銅鐸群を見て回る。ガラスのケースの中でひっそりと古の青銅の銅鐸は鎮座していた。これほど多くの立派な銅鐸が山中に埋まっていたということは、この地域が弥生のある時期強大な銅鐸文化圏であったということで、銅鐸は神の依り代、あるいは神そのものでもあったのだろう。この地域にいた人たちは、何らかの理由で銅鐸を山中に運び、土中に並べ深く埋めていったのだ。
埋めた理由としては、
一、土中保管(次の祭りのときまで土中に保管)
二、境界埋納(集落の入り口などに魔物の侵入を防ぐ呪物として)
三、隠匿(戦争、政権交代など)
四、廃棄(天災、集落の統合、信仰の変遷)
五、神への贈与(豊穣祈願の祭祀品として)
など諸説ある。何はともあれ、銅鐸は時代を経ていくうちに地上から全く姿を消してしまい、やがて長い時が流れた。
銅鐸の謎について考え始めると、きりがないのでここでは触れないが、いろいろなことを思いながら、銅鐸にしっかりと刻みこまれた力強い直線や連続する文様、(個人的には流水紋に心惹かれる)生き生きとした動きのある人の姿や動植物、狩猟や農具と思われるもののかたちを見て歩き、時を過ごした。
博物館からは駅までのバスがあったので、帰途についた。野洲の駅は来たときと同じようにやはりひっそりしている。車窓から山に目を向けると、三上山は秀麗な形にそびえ立ち、やがて小さくなっていく。見えなくなってしまうまで山を見つめていた。