一伊勢 志摩 原風景への旅一
伊雑宮(志摩一宮) 天の岩戸
一伊勢 志摩 原風景への旅一
伊雑宮(志摩一宮) 天の岩戸
伊雑宮(天の岩戸 おうむ岩 御神田)
天の岩戸(水穴 風穴)
志摩磯部に泊り、早朝の路線バスでまず天の岩戸へと向かう。バス停からすぐ山中の長い参道に入り、水源になっている神路湖を左手に見ながら歩いてゆく。時折鶯が鳴く山道の途中に、恵利原のオオシマザクラという桜の大木もあり(もう葉桜)、徒歩二十分で天の岩戸に着いた。静かな山の中に禊の滝場やお社があり、小さな石鳥居の奧には洞窟が口をあけ、そこからこんこんと水が流れ出ている。爽やかな水音が耳に心地よく響くここは「恵利原の水穴」というそうだ。洞窟の入口は人が通れるくらい、奧はかなり深いそうである。山の冷気が漂い、修行のお滝場などもあることから、神仏習合の雰囲気も感じられた。
洞窟内から湧き出る水量は豊かで名水という。竹筒で引かれており、手際よく水をポリタンクに受けている方にうかがうと、定期的に車で汲みにきておられるそうだ。伊勢からも道路が通じており、訪れる人には便利になっているのだった。水を手に受けてみるととても冷たい。
洞窟に近寄ると、ひんやりとした風が奧から吹いていた。これまで天の岩戸といわれる所を何箇所か訪ねてきたが(高千穂、天香具山、京都大江町、戸隠、伊勢二見など)同じ天の岩戸という名ではあっても、立地は川辺、山麓、山中、海辺、と異なり、景観の雰囲気も規模も違っている。天上での、天照大神の岩戸隠れや岩戸開きの神話が、各地でそれぞれに解釈され再現されるためであろう。
山を登った所には風穴があるというので、さらに勾配の急な山道を上っていった。約十五分で山中の岩山の斜面の風穴に着く。さっきの風穴よりは狭く、しめ縄が張ってあった。訪れる人がひとしきり続いていたが、とだえると辺りには静寂が広がってゆく。野鳥の声が木々の間からこだまのように響き、ぽっかりと開いた黒い風穴からは、ゆるく冷風が降りてきて見えない渦を巻き、やがて四方に拡散してゆくようだった。しばらくそこで時を過ごしてから山道を降りた。
おうむ岩
磯部方面へ向かうバスに乗り、おうむ岩を訪れる。最寄りのバス停で降り、地元の人に道を教わり、舗装道路ではあるが徒歩で四十分以上かかって、ようやく山上のおうむ岩に着いた。
見上げるほど大きな一枚岩があり、その前に古いお社が建っている。「聞き場」があり、五十メートル下方に「語り場」がある。語り場でなにか言うと、岩にはね返ってまるで岩が話しているかのように聞こえるのだとか。
同行の夫と石段を行き来して交代し、何度か試してみる。語り場には拍子木も置いてあり、声を出すのが恥ずかしい人はこれを打つらしい。確かに山彦のように、人の声がちょっと違う感じに聞こえてくる。私は耳がよくないので、うまく表現できないが、夫によれば、拍子木の音は高く響きすぎてよくないが、人の肉声のほうは柔らかくふわっと上から降ってくるように響いてきた、ということであった。
古代ではこういう現象は神秘ととらえられたことであろう。聞き場は神託を聞く場であったのかもしれないと思う。今はほとんど訪れる人もなく寂しい場所になっている。
傍らの階段からおうむ岩展望台へと上ってみる。磯部の集落や田園風景が一望でき、これから向かう伊雑宮の森も見渡せた。ここで菓子パンとくだものとお茶の昼食をとってしばらく休憩、山を降りてゆく。途中、傍らの山林から、がさがさと何か小動物らしいものの動く気配が・・・・目を凝らすといたちであった。動きはとてもすばやく、じきに茂みに姿を消した。
伊雑宮
伊雑(いざわ)宮の森を目指し、田に舞い降りるコサギを見ながら農道を歩いて、鳥居前に着いた。志摩一宮であるが、雰囲気は伊勢内宮の別宮である。参道を進むとじきに神明造の社殿に出る。ここは天照大神の遥宮(とおのみや)と呼ばれ、祭神は天照大御神御魂。
「倭姫命世記」の鎮座伝承では、倭姫命が御贄地を定めるため志摩を巡幸した際、夜昼なく鳥が高く鳴くのを怪しんで人を遣わすと、伊雑の葦原に稲が生え、白い鶴が穂をくわえて鳴いていた。稲を伊佐波登美神(いざわとみのかみ)に抜かせて大神に献上し、宮を建てたことが起源であるという。
伊雑宮は中世には戦乱に巻き込まれ、荒れはてたらしい。
源平合戦の折には、熊野衆に襲撃されて社殿が破壊され神宝を奪われ、さらに後の時代になると、九鬼氏に広大な神田(磯部地区の神田は四千二百石という)を奪われ、やがてそれらの神田は鳥羽藩の領地となってゆく。神職らは神領回復をはかって江戸へ上訴を試みるが、鳥羽藩に阻止され、神官五十余人が捕らえられて神島に流された。
その後も上訴を続けるが失敗し、内宮・外宮より伊雑宮が尊いことを強く主張しはじめるものの(伊雑宮は最も古い宮で天照大神を祀り、内宮は瓊瓊杵命、外宮は月読神を祀るとした)内宮・外宮の反発を買い、三宮本家争いの末、朝廷の決裁で「伊雑宮は内宮の別宮」と定められた。納得できない神職らは将軍家綱に直訴するが、神人四十七人が伊勢志摩から追放処分となる。
この後神人らは、神道家や儒学者、僧らに依頼し、伊雑宮が内宮外宮に比して優位であることを記した書物「大成経」(伊雑宮を本宮としている)を刊行、知識人の間に広めていくが、幕府は偽書と断定、本を発禁とし、版木を破壊、関係者は流刑・追放となった。
伊雑宮はその歴史をみるかぎり、敗北し続けたお宮なのであった。伊雑宮の祭神は、「延喜式」「皇太神宮儀式帳」では天照大神御魂、中世以降からは伊射波登美神、玉柱屋姫の二柱とされ、また外宮神職だった出口延経(江戸時代の人)によれば、伊雑宮の祭神は伊勢津彦であるという。明治からは再び天照大神御魂となった。
伊雑宮は志摩一宮というが、たたずまいは完全に伊勢別宮のものであった。また所管社(所属社)の佐美長(さみなが)神社には、地主神が祀られているそうである。鳥羽市にも(鳥羽藩が造営したとされる)志摩一宮を称する伊射波神社があるというが、交通不便なところにあるため、未見である。
伊雑宮の境内には、樹齢七百年という古木が多く、ねじれた木、風変わりなかたちをした木が目につく。印象に残る神木は、勾玉池の側に立つ、根元が丸くふくらんだ特異なかたちの楠であった。近寄って眺めるが、こういう異様な木は今までに見たことがなく、畏れさえ感じた。
この木は長く生きたから、ここで起きたさまざまな出来事を見てきたのに違いない。見なかったとしても、境内のほかの木から伝え聞いたことだろう。兵が押し寄せて神人が殺され、神宝が持ち去られ、広大な神田が奪われ鳥羽藩のものになっていったこと、神職たちの訴えが届かず、争いの果てに多くの神人が縄打たれ引かれてゆき、ここへは二度と戻らなかったこと。この木はここで繰り返された戦い、神と人の係わり、お宮の変遷をじっと見つめてきたのだろう。木のそばにたたずむと、何かしらそういう思いにとらわれて沈んでしまうのであった。
伊雑宮を出て、隣接する御神田(おみた)へ行ってみた。毎年六月二十四日には、お田植祭りが行われるという。笛や太鼓の音に乗って、可愛い早乙女さんたちが並んで植えるという。田植えの前に長い青竹を立て、その先につけた「太一」と墨書された大うちわごと田んぼに倒し、男たちが争ってちぎり取り、家に持ち帰ってお供えするという神事が行われるという。この祭りの日、海から七本のサメが川をさかのぼってお参りに来るという言い伝えや、安乗の海底に鳥居があり、伊雑の宮に通じているという伝承もあり、伊雑宮が古から太陽や星、海の信仰と深いつながりがあったことが感じられる。
祭りの日には賑わうのであろうが、今はひっそりとしている。眼前には磯部町ののどかな田園風景が開け、正面に立つ鳥居の奧には、御料田が広がっていた・・・・。