一熊野を歩く一
花窟神社 産田神社 阿須賀神社
熊野三所大神社 飛瀧神社
一熊野を歩く一
花窟神社 産田神社 阿須賀神社
熊野三所大神社 飛瀧神社
1 花の窟(いわや)神社 産田(うぶた)神社
天地が分かれた後、天つ神の命により国を生成するため、伊弉諾尊(いざなぎのみこ と)は妻神の伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天浮橋に立った。矛で海中を掻き回 すと、潮の滴りが固まっておのごろ島ができたので、夫婦神はそこに降り立った。そして淡 路島をはじめとして伊予、隠岐、佐渡、筑紫、壱岐、大八州(おおやしま)などの島を次々 と生み、日本の国土をかたづくっていった(国生み)。国を生み終えると、今度は海や川の 神、風や木、山野の神など多くの神々を生んでゆくが、火の神軻遇突智(かぐつち)を産 んだとき、伊弉冉尊はほとを灼(や)かれて亡くなった。その苦しみの中から水神みづは のめ、土神埴山(はにやま)姫などが生まれ出た。妻神を失った伊弉諾尊は怒りのあまり、妻の死の原因となったその子を長い剣で斬り殺したという。すると滴る血からも磐裂神(いわさくのかみ)、根裂神(ねさくのかみ)などの神々が化成した。
「伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火の神を生む時に、灼(や)かれて神退去(かむさ)りましぬ。紀伊の国の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる」(日本書紀)
また古事記によると、伊弉冉尊は「出雲の国と伯耆の国との境の比婆(ひば)の山に葬(おさ)めまつりき」とあり、葬送の地は異なっている。これ以外にも伊弉冉尊の葬地と伝わる地は広島県、島根県などに存在するという。
因みにいうと、夫神伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の墓所は淡路一宮とされている。「伊 弉諾尊(いざなぎのみこと)、幽宮(かくれのみや)を淡路の州(くに)につくりて、寂然 宮(かくれのみや)を淡路の州(くに)に構(つく)りて、寂然(しづか)に長く隠れましき」(日本書紀)
それにしても伊弉冉尊と軻遇突智尊、哀しい伝承を持つ逸話である。この母と子の霊が 祀られているという三重県熊野市の花の窟(いわや)神社と、産所であり葬地ともされている産田(うぶた)神社を訪れることにした。
花の窟神社
熊野市駅前で電動自転車を借り、海岸沿いにある花の窟(いわや)神社へと向かう。途中に獅子岩と名づけられた岩があり、地図にも載っているので立ち寄って眺めた。砂浜に降りてみると、角度により鳥や恐竜のようにも見えて面白い。
国道をさらに進んでゆくと、程なく神域に聳える大きな一枚岩が見えてきた。岩の上か ら海岸に向かって、巨大なしめ縄が視界を横切るように渡されている。中ほどには梯 子のように編まれ飾りの花をつけた縄が三本垂らされ、空中で風に揺れている。
これは「三流の幡」(みながれのはた)と呼ばれるもので、巨大な空中あやとりのような印象。伊弉諾尊が妻を訪ねて黄泉の国に降りた際、そこで受けた穢れを祓う禊から生まれたとされる天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三神を表すという。
「土俗(くにひと)此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以て祭 る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る」(日本書紀)
花の窟神社と名づけられた謂れは、花をお供えすることに因むという。二月と十月の年二回、 しめ縄を取り換える「お綱掛け神事」が行われ、古式を今も伝えている。
大岩のある山上から七里御浜へと、全長一七〇メートルにも及ぶ長い縄を引き渡し、多くの人が参加してこれを引くそうで、その際、参加者は縄をまたぐことが禁じられているとか。縄は境内の高い柱に懸けられ、さらにその端は道路に面した松の樹の根元に結びつけられている。
巨大磐座としめ縄、飾り幡(はた)は、この道路側の位置からだと両方がよく眺められた。縄の先の花はすでに枯れていて、何の花だったのか定かではない。扇を結びつけた縄も左右に一本ずつ吊るされた珍しいかたち、長さ十メートルという縄の飾り幡も、いわば布のない旗、これらはみな初めて目にするものであった。秋の風が通り抜けてゆく。澄み切った青い空を背景に揺れる縄の動きから目が離せず、しばらく佇んで眺めていた。
鳥居の横に自転車を止め、緑の木々に包まれた静かな参道を磐座に近づいてゆく。
祭神は伊弉冉尊と軻遇突智尊。花の窟神社は御陵とも墓所ともいわれている。
高さ四十五メートルの白い巨岩が眼前に聳え立ち、その正面には玉垣で囲われ白石を敷 き詰めた拝所が設けられている。創建時期は不詳とのこと。社殿はなく巨大な磐座がご神体である。ほと穴と名づけられた窪みが見える。磐座にはほかにも大小の穴がたくさんあいていて、浜から拾ってきた丸い白石(祈願石であろうか)が供えられ、今も続く古の信仰のかたちが感じられた。
巨岩を仰げば、圧倒的な迫力である。これだけの規模の岩は珍しい。海辺の洞窟は古には埋葬にも使われたというが、影も感じられず、全体に白っぽく乾いた色なので磐座の持つ重苦しさや暗さも軽減されているように思われる。近づいてみると、岩の隙間には一円玉などの硬貨も挟まれて供えてあった。
子の軻遇突智尊は母の尊と向き合うようにひっそりと祀られている。同様に白石で囲っ た拝所が設けられており、磐座は高さ十二ートル、王子の岩というそうである。
岩は湿潤で黒っぽい色調をしており、どちらかといえば寂しい印象を受ける。こちらの方が墓所としてのある雰囲気を備えているように思う。何かしら哀しみの漂う空間とも感じられた。
鳥居の近くには本居宣長の歌碑があった。宣長は各地の寺社や旧跡を訪れた際に、多く の歌を詠んでいるようで、社の境内などではよく宣長の歌碑を見かける。西行並みの扱いになっているらしい。
紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ 本居宣長
産田神社
花の窟神社を出て産田(うぶた)神社へと自転車を走らせる。西の方向へ約一・三キロ、静かな住宅地とのどかな田園風景の中を進んでゆくと、社の森が近づいてきた。自転車を止め参道へと入る。
主祭神は伊弉冉尊、軻遇突智尊。後の時代になると、母子神に加えて夫神の伊弉諾尊も祀られている。創建は崇神天皇の御代とのこと。天皇の夢見により、熊野本宮へ遷座したとの伝承もある。
因みにいうと、熊野本宮大社では、旧社地大斎原へ向かう道の途中に本宮の末社として産田(うぶた)社があり、伊弉冉尊の荒御魂が祀られている。本宮大社と産田神社との係わりや、その位置づけがうかがわれる。
産田神社という社号は、ここが伊弉冉尊の産所であったことによるという。産屋(うぶや)が建てられていたのであろうか。ここで亡くなられた、ということらしい。
社殿に近づくと、驚いたことに門は斜めに歪み、右手のご神木が折れて屋根を直撃していた。本来は端正な神明造の社殿なのであろうが、鰹木はずれてしまい、木は倒れ掛かかったまま、幹は無残に裂けている。予想もしなかったひどい光景に驚愕して思わず立ち尽くした。
一か月ほど前に台風二十四号が襲来したのを思い出す。よほどの強風だったのだろう、その被害の様相を目の当たりにして、言葉もなかった。神様も大変な災難に遭われて・・・・それにしても早くこの倒木を撤去できないものだろうか。
しばらく惨状を眺めていたが、気を取り直して参拝する。見まわすと拝所は白石が敷き詰められていて、土足禁止とあるので靴を脱いだ。(後で気がついたが、履き替え用のわらじが手前の棚に置いてあった)一足ごとに踏みしめる冷たい石の感触、たしか以前訪れたことのある近江の菅浦のお社(須賀神社・淳仁天皇陵とされる)も土足禁止であった。靴を脱いでそうやって神前に進んでゆく感覚は、どこか古代的で個人的には好もしい。
古代の祭祀の場である神籬(ひもろぎ)跡とされる聖所が本殿の左右にあるという。神霊を招き降ろしたとされる場である。近づいてゆくと、左側は平たい長方形の石組みが確認できたが、右側は倒木の真下で危険なので近寄れなかった。後で外側の道からそっと見ると、まさにその神籬部分に立木がにょきっと出ていて石組みのかたちはすでに崩れており、これを古のひもろぎというのも・・・・という状態になっていた。
二か所の神社を訪れたが、お綱掛け神事で知られる花の窟神社の方は、もう有名観光地といってよいのであろう。地元のかただけでなく、バスツアーの団体客も次々訪れるし、神社前には小ぎれいなお店もあって賑わっていた。けれどもここ産田神社はひっそりと静まり返り、観光客の姿はなかった。そして聞こえるのは時折頭上の樹々の間から降って来る小鳥の囀りのみであった。
この後は自転車を回して、海岸にある「鬼ケ城」を訪ねて海食洞を眺めた。波の浸食で岩が削られ景勝地となっている。奇岩怪石が続く道には手すりつきの階段が刻まれており、観光客も多かったが、歩けるのは「千畳敷」までで、その先は崩落のためか通行禁止になっていた。まばゆく輝く熊野灘の青い海の色が印象的で、不思議な形状の岩の連なり、その奇観に目を見張ったことであった。
その後は、熊野古道の松本峠に向かい、入口の階段下に自転車を止め、薄暗い石畳の道を峠まで上ってみた。木立の緑もしっとりとして湿潤な森の佇まい、峠道は静かな雰囲気が漂い、心が洗われるような古道であった。昔の旅人たちも大社を目指してここを歩いていたのだろうと、往時の参詣の様子が偲ばれる。峠に着くとひっそりとお地蔵さまが祀られていた。手を合わせ、そこからあずま屋へ向かう小道を進むと、急に視界が開けて眼下は雄大な海であった。なだらかな海岸線と箱庭のような市街地を眺めつつしばらく過ごし、同じ道を引き返していった。
2 阿須賀(あすか)神社
新宮に来たので、まず速玉大社にお参りした。その後、熊野川の堤防に出て景色を楽しみながら海に向かって歩いていった。熊野川の流れは青くてゆったりしている。周りの風景に広がりが感じられ、吹き抜ける秋の風も爽やかであった。やがて道がとぎれると、町の中へ降りて阿須賀神社への道を探して進んだ。地図を見ていると、以前訪れた神倉神社へも行きたくなったが、今回は時間の都合で割愛した。(速玉大社、神倉神社に関しては「熊野三山」の項に書いている)
新宮駅から徒歩十分のところに蓬莱山と阿須賀神社があった。蓬莱山は小さな丸いお椀のような神奈備の山で、古には海に浮かぶ島であったという。今は蓬莱山と阿須賀神社は熊野川の河口に位置しており、速玉大社の境外摂社となっている。かつてこのお社は熊野阿須賀王子社として人々の参詣が盛んであったらしい。海岸線も今とは異なっていたことだろう。往時は鳥居際に波が打ち寄せる海辺の古社、という雰囲気だったのかもしれない。
青い幟が何本もはためく参道を進むと、真正面に丹塗りのお社があり、背後には蓬莱山(標高四十八メートル)。これは信仰のお山なので、おそらく禁足地かと思われる。植生は豊富という感じ、見たところ登り口などはないようである。
主祭神は事解男神(ことさかおのかみ、本地は大威徳明王)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、別名は伊弉諾尊)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、別名は伊弉冉尊)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ、別名は素戔嗚尊)。
祭祀伝承は古く、創建は孝昭天皇の御代ともいわれる。主祭神の事解男神は、あまり表には出ない神といい、日本書紀にも一度だけその名が登場する神で、絶縁の神とされている。伊弉諾尊が死んだ妻を求めて黄泉の国を訪ねた際、約束を破って火を点し、変わり果てた妻の姿を見てしまったことから言い争い、やがて別離となるが、その両神の関係を掃う神が事解男神であるという。
熊野の神様には名前がいくつもあって、時代が下っていくにつれ、神道、仏教、修験道との習合により、名の称え方も変わっていくので、神名を記すたびに混乱しそうになってしまう。けれども本来は古に土地固有の神や自然神を祀ったというかたちがまずあって、時代を経て祭祀者、祭祀権が推移していくうちに立派な社殿も建てられるようになり、その信仰の形態も変容していったということであろう。
伝承によると、熊野の三柱の神々(速玉大神、夫須美大神、家津美御子大神)はまず神倉神社に降臨したそうである。後にここ阿須賀の森に顕現されたそうで、夫婦神は森にとどまられたが、その後、子神は神社北の貴祢谷に遷座し鎮座されたとか。さらにその後、崇神天皇の御代に、子神(家津美御子大神、別名素戔嗚尊)が熊野本宮へ、また景行天皇の御代に、速玉大神、夫須美大神の夫婦神(別名は伊弉諾尊、伊弉冉尊)が新宮速玉大社に遷られたと伝えられているそうである。
古層をめくっていくと、信仰は古色を帯びて立ち顕れる。神倉神社のゴトビキ岩を仰げば、岩自体が男神として崇められたのであろうとわかるし、花の窟の巨岩もまた女神としての特徴を持っている。自然の偉大な造形に接して、古の人々は畏怖したことであろう。今も神体岩の前に佇めば、その感覚は納得できる。また巨岩だけでなく樹木や滝や泉などもまた畏敬や信仰の対象となったであろうことは、熊野の森を歩けば実感できるのである。
阿須賀神社境内には稲荷神社と徐福の宮(石祠)があった。伝承によると、秦の始皇帝の時代、皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて法士徐福が童男童女三千人を率いて船出し、熊野に上陸したという。それは今でいう政治亡命であったのだろうか。船団は嵐や風向きで散らばってしまったらしく、日本各地(佐賀、京都府、鹿児島など)に徐福渡来伝説が残るという。先進技術を持ち、優れた武器を備え、また五穀の種を携えてきた異国の人々は、故国に帰らずそのまま熊野に住み着いて、造船、医術、農業などを伝えたといわれている。
また当神社境内からは弥生時代の遺跡(竪穴式住居跡)、土器なども見つかっているそうで、歴史の感じられる地なのであった。なお神武天皇の軍が登ったという「天の磐盾(いわたて)」は神倉山のこととされ、この辺りは神武軍が上陸し滞在した所縁の地ともいわれているそうだ。
御軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至る。すなはち名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(ころ)す。遂に狭野(さの)を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に到り、すなはち天磐盾(あまのいはたて)に登る。(日本書紀)
神倉山のゴトビキ岩は、古より神降臨の磐座、聖地として先住民に敬われており、それ故に神武軍はそこを制覇したのであろう。山頂に達し磐座を前にして皇軍は領有を示す布を掲げるか旗などを立て、祭祀を行ったのではないだろうか(戦勝祈願)。古代では土地の祭祀権を手に入れることは、支配権の確立をも意味した。
境内のベンチで休憩していると、本殿横の稲荷社に烏がやってきて、水を飲んだり、盛んに草をつついて遊びはじめた。熊野では烏は大切にされているのに違いない。生息数も多いのではないだろうか。空を見上げると、鳶が円を描いて舞いピーヒョロローと鳴き声も降って来る。海にも山にも近く自然が豊かなのだと改めて感じた。
3 熊野三所大神社・丹敷戸畔石祠・補陀落山寺
那智駅から道路を渡ると、左手に石鳥居が見えていた。熊野三社大神社(くまのさんしょおおみわやしろ、浜の宮とも)で、駅からは数分の距離。古には「渚の森」が広がっていたそうで、境内に今も残る数本の樟の古木の佇まいが、今もわずかに森の面影をとどめている。駅舎は海の近くにあって、浜辺には波が打ち寄せ、昔は那智大社に上る前に、人々は海水に浸かり潮垢離をとって身を清めたという。禊の浜でもあったのだ。
熊野三社大神社の祭神は、家津美御子大神、夫須美大神、速玉大神の三神。社殿の周辺はひっそりと静まっていた。左右には摂社があり、三狐神(みけつかみ、食物神)と丹敷戸畔命(にしきとべのみこと、地主神)が祀られ、ともに石祠。丹敷戸畔とは、古の先住民の長(戸畔とは女性の首長をいう)。シャーマンのような人だったらしく、神武天皇の軍に滅ぼされたという。境内には神武天皇頓宮跡という石碑があった。
天皇独(すめらみことひとはしら)、皇子手研耳(みこたぎしみみ)と、軍(みいくさ)を師(ひき)ゐて進みて、熊野の荒阪津(あらさかのつ)亦(また)の名は丹敷浦(にしきのうら)に至ります。因(よ)りて丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅(ころ)す。(日本書紀)
丹敷というのは地名。「古代の朱」(松田壽男著 ちくま文芸文庫)によると、丹とは辰砂、朱砂を指すそうだ。往古より鉱物の採取は盛んに行われていて、水銀の原鉱である辰砂、朱砂は非常に価値あるものであった。水銀は岩の間からガスになって吹き出てくるが、そういう地の砂は実に美しい赤色に染まっているという。朱砂を「はそう」という空気穴を一つあけた丸い土器に入れ、蓋を密封して熱し、空気穴から中の蒸気を竹の管で水中に導くと、水銀が得られた。初期の段階では水銀蒸留の技術が未発達なので、もっぱら朱砂を採るのみであったらしい。水銀鉱脈は近畿でいえば吉野、高野山、桜井、宇陀などが有名で、伊勢や紀の国は多く産出している。丹のつく地名は土が赤色を帯びていることに由来し、にうつひめという丹の女神が守護神として信仰された。丹生(にう)は各地に多いが、鳰(にお)、仁保(にほ)、入(にう)などに転訛した地名も、丹の産地に関連するという。
朱砂は山から川へと流れによって削り降ろされ、川の窪みや河口、海辺に溜まり美しい赤色を呈したとも。血浦、血原など血や赤の字のつく地名も、丹にかかわるそうである。神武軍が滅ぼした宇陀の兄猾(えうかし)の記紀の逸話では「兄猾(えうかし)の血が流れてくるぶしまで染まったので、宇陀の血原という地名になった」と書紀にあるが、それは宇陀が古からの水銀産地であり赤土であったため、と氏はいわれる。丹の産地の記憶や痕跡は、地名起源説話となって記紀や風土記に残っているそうだ。
古代では水銀は、微量を服用すると若返ると信じられ、不老長寿の秘薬として珍重され、医薬品としても使われた。また朱砂は道具や器物、材木に塗ると防腐効果があり、縄文土器の文様や土偶にも用いられた。船材や建物の柱への塗布、貴人の埋葬や、鏡を磨いたり、祭祀の儀礼、呪いなどその用途も多様だったようだ。
山中で朱砂の露頭を見つけると人々は表面から採り、埋まっているものは井戸を掘って採掘していった。その井戸は赤く、溜まった水銀の粒で内部は幻想的に光を放ったそうである。湧水を排出しながら掘り進む技術がないので、底に水が湧くと井戸を放棄し、また次を探した。・・・・
このような記述を踏まえ、記紀の神武天皇東征の件(くだり)を読むとき「丹敷戸畔といふ者を誅(ころ)す」という部分は、ある意味を持って立ち上ってくるだろう。行軍を妨げる抵抗勢力を、ただ手当たり次第に倒していったということだけではないらしい。皇軍にはそれぞれの土地におもむき、そこを制覇する目的や理由があったかとも思われる。(丹敷という地もおそらく古には丹を産出していたのであろう)古の覇者は、水銀の採掘権も手に入れたかったのだろうか。神武軍が制していった地は、古の水銀産地とよく重なっている。
もしかすれば大和入りの後、丹を安定的に確保するため、その産地にも関心を抱いていたのかもしれない。各地の水銀産地には、それぞれ首長がおり、地域の支配者に採掘権があった。大和で政権を運営する上で、鉱物や地産物の定期的な貢納を受けるためにも、その土地の首長らと連携し、傘下に入れておくことは、重要なことであったろう。
神武軍は上陸するなり、戸畔と戦闘を始めたわけではなかったかもしれない。無用な戦いは避けたい、と普通は考えるであろう。あらかじめ仲介者や通訳を通して地元勢力と交渉や駆け引きをし、物資や人、資源の提供、協力や同盟の諾否を打診、説得したことであろう。相手が応じず、服属を拒み、要求も断り、話し合いが決裂したとき、戦闘に入ったかと想像する。
神武天皇が吉野で出会ったという「そこよりいでまししかば、尾ある人、井より出で来。その井光れり」「名を井光(いひか)といふ」・・・・と続く一連の表現にも、朱砂採掘がかかわっていると思われる。井戸が光っていたとは、松田氏の指摘によれば、朱砂採掘の縦穴の井戸、竪坑であり、磐を押し分けて出て来た尾のある人、という表現は、横坑での採掘の表現とみておられる。(尾とは作業用の尻当て布、鹿や熊の毛皮製の引敷、また命綱を指すという説もある、と聞いたことがある)。
このとき吉野の首長たちにも政治的な判断が生じたらしく、天皇は吉野で歓迎されたようである。大和からみれば、吉野は朱砂という重要な資源を抱える隣接地、その長らと親交を結び、良好な関係になっておくことは、必要だったのだろう。
話を戻すが、神武天皇が丹敷戸畔を殺したとき、天皇は長男とともに軍を率いて進んでいたとある。天皇の軍ははじめ兄弟四人で九州から船出し大和を目指した。日下に上陸し、長髄彦軍との初戦で長兄の五瀬命が矢傷を負い、迂回して海上を南下するうちに傷が悪化して亡くなった(竈山に御陵)。一行は紀国の名草邑で名草戸畔を殺し、さらに海岸沿いに南下するが、新宮の先で嵐に遭って難破、次兄二人は熊野の海に沈んでいった。兄の一人稲飯命は、自分の父祖は天つ神、母は海神なのにどうして、と嘆きつつ「乃(すなは)ち剣を抜きて海に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る」(日本書紀)とある。
これはつまり水死者の鎮魂のことについての表現だと思うのだが、鋤持ちの神とは撞木鮫(しゅもくざめ)のことで、この兄は母の国である異界に行って化身した、という風に解釈してもよいのだろうか。(なお、遭難説に加え、後継争いに敗れたという説、一人の兄は帰還したという説、などもある)
荒阪の津(亦の名は丹敷浦)で丹敷戸畔は殺されたというのだが、それがどこであるのかは、諸説あってよくわからないそうである。丹敷戸畔の墓とされるものは、この浜の宮の石祠以外にも、串本町の山中に石塔が存在するという。なお丹敷浦の候補地としては、熊野の二木島、新宮市三輪崎、那智勝浦(古名は丹敷浦)、浜の宮、串本の二色などが挙げられるそうだ。
この後、神武軍は、熊野の神の毒気に当たって倒れ、眠ってしまう。
「大きなる熊、髪(くさ、草)より出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波礼比古の命、にはかにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき」(古事記)
「神、毒気(あしきいき)を吐きて人物(ひと)ことごとくにをえぬ」(日本書紀)
武器では敵わなかった丹敷戸畔の残党たちが、別の方法によって抵抗を試みたのであろうか。先住民には毒性のある植物(大麻など)を使って煙を発生させ眠らせる、あるいは鉱物で有毒ガスを発生させる、などの奥の手があったのかもしれない。たとえば軍が野営しているとき、敵や野生動物の襲来を防ぐため、終夜火を焚いていたであろう。丈の高い草に身を隠し、闇に紛れてそっと近づき、焚火に毒草をくべることぐらいはできたのではないだろうか。
けれども熊野の高倉下(たかくらじ)という人が、夢見で一行の陥っている状況を知った。(普通に考えれば、おそらく救援を求める使者がやって来たのであろうけれど)
高倉下が夢の教えのままに庫(くら)を開くと、刺さった霊剣があったので、駆けつけて剣を天皇に献じると、天皇も軍も覚醒したという。
「すなはち覚め起ちて、長寝(い)しつるかも、と詔(の)りたまひき」(古事記)
霊異ある剣は、建御雷(たけみかづち)神が、自分が降りなくともこれがあれば、と地上に下した剣であったという。
勝手に空想を広げると、おそらく神武軍は、立ち込める有毒の煙を吸ううちに意識を失ってしまったが、天候が急変し、雷雨などがあって、それで正気づいたのであろう。建御雷神といういかにも雷を連想させる名が、それを物語っていると思われるし、「ふつのみたま」という剣のきらめきは、稲光りを象徴すると感じられる。そして高倉下という長はおそらくこの時点で決意し、物資とともに援軍を送ってきたのであろう。神武軍に協力し同盟する勢力がここで加わったのである。この後、さらに地理に長けた八咫烏(やたがらす)一族の協力による道案内で、神武一行は(その経路にも諸説あるようだが)宇陀へと進むのである。
丹敷戸畔の小さな石祠をしばらく眺めていた。この人については何もわからないし、丹敷戸畔という名が必ずしも固有名詞であるとは限らず、この石祠には複数の戸畔の霊が集約されて祀られているのかもしれず、謎めいてはいると思う。紀伊の名草邑で神武軍に殺された名草戸畔の場合は、霊が蘇って祟ったり、害をなすのを防ぐため亡骸を頭、胴、足に分断、別々の地に葬ったと地元では伝承され神社もあるが、丹敷戸畔はどうだったのであろうか。・・・・見まわすとお社は静かでほかに人の姿もなく、樹木の影が濃く落ちる石祠の周辺には寂寥感が漂うばかりであった。
補陀落山寺
隣接する補陀落山寺(ふだらくさんじ)に立ち寄ってみた。開祖は、仁徳天皇の御代に漂着したインド僧の裸形上人という。裸体にゆるく衣を巻きつけた、インドのサドウ(行者、聖者)のような人を連想すればいいのだろうか。はるか南に補陀落(観音浄土、ポータラカ)があるという信仰のもと、人々は小舟でここの浜辺から旅立ったそうである。計二十五人が補陀落渡海したと伝わっている。
復元された渡海船が境内に展示してあった。風変わりな船形の棺である。そして哀しい伝承も絡む柩であった。狭い屋形船になっていて、食料と水を持って中に人が入ると板戸に釘を打ち、二度と出られないよう固定したという。覚悟の上とはいえ、中の人はどんな思いでその釘の音を聞くのであろう。屋形の四方には赤く塗られた鳥居があり、死出の四門とした。信仰の儀礼、衆生の幸福を願う捨身行として僧侶が渡海したというが、あるとき途中で脱出した僧が沖の小島で見つかり、捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起きたので、以後は寺の住職の遺体が水葬されるというかたちになったそうである。
4 飛瀧神社・那智の滝・大門坂
勝浦駅前からバスに乗り、那智の滝前で降りた。緑の木立が続く石段の参道を下ってゆくと、やがて一筋の白い滝が正面に見えてくる。それとともに力強い水音も轟いてきて滝への期待が高まってくる。一歩ずつ滝に近づいてゆくのは心弾むひとときである。
飛瀧(ひろう)神社は、本殿はなく那智の滝をご神体としている。古い信仰のかたちであろう。熊野那智大社の別宮で、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。
社伝によれば、神武天皇の軍が、那智の海岸の丹敷浦に上陸した際、山中に白い光が輝くのを見て大滝を探り当て、大己貴神として祀った、という由来があるそうだ。おそらくはそれ以前から、先住民が敬っていた古の聖地であったろう、と推察される。新たにその土地を制覇した者が、土地の神を祀ることについての意味は、阿須賀神社のところですでに述べた。
滝にもっと近づくには、三〇〇円を納めると、お滝拝所へ進むことができる。左手に設けられた舞台のような位置から、落差一三三メートルの迫力ある滝を仰ぎ、その様相を身近に眺められるので、今回も上ってみることにした。以前来たときは、ちょうど雨の後で水量が多く、滝はごうごうと水音高く流れ落ちていて怖いようであったが、今日は三筋の流れも細目で、全体に白い裾を広げたようなとても優美な感じ、そのときの天候や水量によって受ける印象が違うのも興味深い。
風の吹きつける方向によって、岩を伝う滝水が左に寄ったり右に寄ったりして裾の方で流れが変わり、水が靡いていくので、その様子を飽きずに眺めていた。またセグロセキレイが飛んできて濡れた岩の周辺で遊んだり、アゲハチョウが草花の間でひらひら舞うのをしばらく観察して楽しんだ。
大滝を出てそのまま参詣道を上り、那智大社の方へと進んでいった。途中の道から振り返ると大滝が望まれる所があり、滝に斜めに薄く虹がかかっているのが見えて、きれいであった。
三重塔を経て熊野那智大社へと向かう。祭神は熊野夫須美大神。あいにく青岸渡寺も那智大社も修復工事中のため、シートで覆われており、そのせいかお参りの人は少ないようであった。前回来たときはまだ工事前で、美しい社殿が並んでいたと記憶する。「お清めの護摩木」を一本求めて、炎の中に納めた。仮拝所まで進んで社殿に手を合わせた後、参道を下ることにした。
石段を降りてゆく。四七三段あるという。立ち並ぶ土産物店も心なしか活気がない。前回は時間に余裕がなかったので、この階段を一気に登って苦しかったが、今日のようにゆっくり下るのは楽である。
そのまま大門坂を降りてゆくことにした。大門坂は杉並木と石畳の続く道で、熊野参詣の人々が歩いた古道である。昔熊野詣の女性たちは、市女笠をかぶり、薄い虫垂れの布で顔を隠し、笈と杖を持ち、足元はわらじ、色のついた衣ではなく白衣に身を包んだそうだ。そんな旅装束の女性たちがふっと杉の間から現れそうな感じのする、よく整備保存された石畳の道であった。
坂の中ほどに「唐斗石」(からといし)という長い石があった。これは祈願の石とされる。「かろうと」とは石室のことをいうようで、横たわる細長い石は、古い石棺の一部のような印象であった。また「十一文関跡」では、昔ここで通行料十一文を取ったとのことで、ちょうど偶然誰かが落としたような感じで、その位置に百円玉が一枚置かれてあった。
樹齢八〇〇年の杉の古木が門のように並んでいる夫婦杉を通過し、何か謂れのあるらしい鏡石(これも祈願の石という)を見て、赤い小さな橋を渡り、鳥居を抜けると、大門坂の古の異空間めいた雰囲気は掻き消え、古道は終わって、もうそこはバスや自家用車が行き交う現代の道路であった。