アーサー・C・クラーク
「地球幼年期の終わり」(創元推理文庫)
アーサー・C・クラーク
「地球幼年期の終わり」(創元推理文庫)
今年の三月にアーサー・C・クラークの訃報が伝えられた。もう九十歳を超えていたという。SF小説の巨匠といわれている人で、その代表作はスタンリー・キューブリックの映画で知られる「2001年宇宙の旅」やSFの古典ともいわれる「地球幼年期の終わり」など。イギリス人であるが、スリランカの風土に惹かれて移り住み、晩年までその地で創作を続けていた。
評判になった映画「2001年宇宙の旅」は、70年代後半に、その当時住んでいた東京で見た。初公開は60年代というから、私が見たのはリバイバル上映のほうで、SFものに人気が高まっていたころであった。続編「2010年宇宙の旅」とともに、このシリーズは後にテレビでも放映されてすっかり馴染みのあるものになった。見比べてみると、前者のほうがすばらしいことはいうまでもない。
「2001年宇宙の・・・・」を映画館の大スクリーンで初めて見たときのことはよく覚えている。モノリスという謎の物体が人類を進化させ、やがて宇宙の旅に導き、船内でコンピュータが突如反乱を起こして乗組員が次々殺されるが、船長は旅を続けて一人木星に到達するという内容であった。
「ツァラトゥストラはかく語りき」の壮大な音楽に乗って始まった場面に、え、これ「猿の惑星」なの、とびっくりしたが、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」につながって流れていく展開にすっかり魅了された。画面に引き寄せられ、見終わってからもいろいろ考えさせられた。全体に抽象的で、せりふが省略されているのか、何の説明もないまま画面が突如切り替わっていく。新鮮といえば新鮮であったが、結末が特にシュールで謎めいており、考えてもよくわからなかったので、もっと中身について知りたいと思い、本屋に行って「2001年宇宙の旅」を買い求めた記憶がある。
クラークの短編をもとにこの映画が作られ、映画がヒットし、原作者によるノベライズも出たという経緯であったが、映像を先に見たため、どうしてもその印象を強く引きずりながら「2001年宇宙・・」を読み進むことになった。心が映像から離れないのである。宇宙空間の画像はきれいで茫洋とした広がりがある。しかもそこには深い虚無感が漂っていて、深淵を覗き込むような感覚が忘れがたかった。
「スペース オデュッセイ」と実にいい原題であるのに、「2001年宇宙の旅」という味気ないタイトルがつけられているのを残念に思いつつ、読んでいった覚えがある。謎のモノリスや最後の場面のスターチャイルドにしても、言葉でどう表現を尽くしたとしても、映像が一瞬で与えた視覚的な衝撃には遠く及ばないだろう。
小説は映画と違う設定になっていて、たとえば漆黒のモノリスが月面から飛んでいく先も、映画では木星であったが、小説では土星であるなど、食い違いもみられた。
「2001年・・・・」を読んでみて、科学的知識に精通した淀みのない滑らかな文章こそが、クラークの文体の強みであるのだと改めて思った。そこには神や人間に対する思索と、深い問いかけが随所に忍ばせてあり、SF小説という枠を超え、行間から訴えかけてくるものがある。読み手はそのつど立ち止まり、少なからず考え込むのである。
「決して姿を現さない高度な地球外生命体が、宇宙のかなたから常に地球を見守っている」というクラーク独特の視点が、メッセージ性をもって読み手の心を揺さぶってくるからだった。
訃報記事を読んで、家にあるクラークの本を探してみた。
「2001年宇宙の旅」「2061年宇宙の旅」「地球幼年期の終わり」「イルカの島」の四冊があった。どれも文庫本で、今回取り上げる「地球幼年期の終わり」は東京創元社版、沼沢洽治(ぬまさわこうじ)訳であった。
裏の見返しに鉛筆書きで120円という値段があり、更にそれが値引きされて80円となっている。表紙カバーは傷んだのかあるいは最初からなかったのか見当たらず、どんなデザインの絵だったのか不明である。これをどこの古本屋で手に入れたのか、もう思い出せない。
最近では光文社から新訳も出ていると聞く。第一部が宇宙開発の米ソ競争を背景にしているため、今の時代に合うように作者が書き直し、改訂版として出したのだという。それを手に入れて新旧を比較して読めばよかったかとも思うが、ここでは愛着のある旧来版のほうを使用した。ちなみに旧版ではタイトルに「地球」がついているが、現在発売中の本はすべて原題通り「幼年期の終わり」である。
訳者が違えば訳語も異なるだろうし、また改定版であれば、もっと読みやすくなっているのだろう。たとえば宇宙から飛来して、地球を支配管理下に置く高度な生物「オーバーロード」の訳し方にしても、沼沢訳では「上主」である。馴染みのない言葉なので今回読み直していて、私はつい「主上」と読み違え、主上、まるで「十二国記」の世界みたい、などと思いつつページを繰る始末であった。
それでは最近の訳は、どうなっているのかと気になって、検索で覗き見したところによると、さすがに上主というのはなくて「上帝」、また「最高君主」とかいろいろ工夫が凝らされているようであった。ちなみに「オーバーロード」を更に超える存在として「オーバーマインド」も登場するのだが、沼沢訳では「主上心」と訳されている。
訳については、細かいことをいえば、もっといろいろあるだろう。しかし廉価80円で、これほど愛着を持って読み返した古本も滅多になく、色あせところどころ染みもついているがお気に入りの本の一つになっている。
「地球幼年期の終わり」 あらすじ
ニューヨークの上空と世界の大都市に、宇宙から巨大な銀色の円盤状の船団が現れて静止する。姿を見せない「上主」たちを代表して、カレレンと名乗る声が地球に呼びかけてくる。地球からミサイルを発射しても巨船は何ともなく、攻撃を無視して、高度な生物である上主カレレンは、淡々と国連事務総長のストルムグレンを通して、戦争の愚や人種差別の撤廃、世界連邦結成を呼びかけ、地上の反対派を排していく。
力や知識のあまりの差に圧倒され、やがて地球は上主の管理下に入り、地上にかつてなかった人類の平和や統一、安定がもたらされていく。交渉に当るうちに、ストレムグレンは姿を見せないカレレンに対して、親近感を抱くようになる。五十年後に人前にその姿を見せるとカレレンは約束し、ストレムグリンは任務を終える最後になってその姿を垣間見るが、見たものについては固く沈黙を守った。
五十年後、現れた上主たちは二本の角と翼ととげの尾を持つ悪魔の姿だった。けれども地上の人々はありのままにそれを受け入れる。上主の管理によって地球上からは犯罪も消え、生活は進化して便利になり、芸術は衰退、葛藤も闘争もなくなり、国家も消滅し、宗教も純化された仏教(禅のことか)を除いて他は瓦解していた。
友人のパーティに出たジョージとジーンのカップルは、そこで行われた交霊術に参加し、ジョージは初めてみた心霊現象に感心する。大学生ジャンは、上主たちの故郷の星の位置について尋ね、霊から啓示を受ける。
ジャンは機会を得て鯨の模型に潜りこみ、上主たちの星に密航し、上主の故郷の星を探ろうと試み、地球を後にした。
ジョージとジーンは芸術家たちの島に移り住み、ジェフとジェニファーの二人の子供を育てていく。ジェフは海岸で津波に呑まれそうになったとき、上主の声に導かれて逃げ、難を逃れた。ジョージは上主に感謝の気持ちを抱くが、以後ジェフは不思議な宇宙空間世界の夢を頻繁に見るようになる。
子供たちは、次第に進化をとげていき、やがて親との意思の疎通を拒み、上主とのみは精神的に感応するが、情緒や感情を排した別人種に変貌していく。親は戸惑うが、そういう子供たちを多く出現させることこそが、地球における上主たちの目的であり計画であった。
ジョージは上主から説明を受けて驚愕するが、さらに上主たちを支配する何ものかが宇宙にあり、上主たちは単に下僕に過ぎないのだとも聞かされる。
子供たちの「変身」は地上に満ち、子供たちの心を奪い取られて、親は未来への希望をなくし、人類は終末に向かい始める。そんな折カレレンが人類に最後の演説をする。
「上主が地球に派遣されたのは、更に上に立つ〈主上心〉によってなされたことであり、地球上に生み出された新人種の知能の成熟を見守り、時が来たら新人種を地球から隔離することにあった。自分たちは近く彼らを連れ去っていく。自分たちはただの道具であり、命じられるまま色んな星の初期文明世界に赴き、成長へと導くことを繰り返してきた。上主には未来もなく、精神の進化はすでに止まり、何も生まない。その意味で私たちは皆さんを羨む」
ジョージとジーンの子供たちは呼びかけに応じて去っていった。島はその後火山活動により消滅した。
一方ジャンは船内で発見されて、密航がばれたが、咎められることはなく、竜骨座にある彼らの星に降り立ち、見聞することを許される。ジャンは博物館で展示される地球の文明の産物の数々を眼にし、動き変化する山や逆に上っていく溶岩流、巨大な渦を巻く煙の輪・・・・・・など想像を絶する未知の光景に出会ったのち、次の船で地球に送り返される。
ジャンは宇宙の旅で数ヶ月を過ごしたが、地球上にはその間何十年もの年月が流れていた。帰り着いた地球ではすでに人類は姿を消し、異様で不気味な子供たちの集団だけが存在していた。彼らは全体で一つの生命体となり、やがて主上心に吸収されていくのだと、上主ラシャベラクはジャンに説明する。
上主が地球に来たのは、宇宙船できた今回が初めてであり、過去に訪れたことは一度もなく、人類が悪魔として見知っていたあの恐ろしい姿は、実は未来の記憶であったのだと、ジャンは聞かされる。最後の人間になったジャンは、終末が近づいたことを知り一人ピアノを弾いて過ごす。ラシャベラクは宇宙船で去っていき、ジャンはとどまって地球の最期を見つめていた。
燃える一本の円柱に変わって、子供たちは主上心と合体のために旅立っていき、光や色の模様で話しかける視覚言語が、上主たちの伝達手段であったことをジャンは知る。
ジャンが見ている世界は急速に空ろなものとなり、周囲の山、自然、建物の一切が透き通り、溶けて、やがて内部から爆発が起こり、火と光の激震とともに地球は跡形もなくなった。・・・・
1953年の作品。実に面白くて優れた作品だが、映画化は困難であったらしい。人類を導き地球を管理支配していく上主が、恐怖と悪のシンボルである悪魔の外観を持つという設定がまず、キリスト教圏の人々にとって不快であり、納得できない点であったのだという。
第一部の終わりで、ストレムグレンが上主の姿を垣間見て、恐ろしい悪魔の外観をしていると知ったとき、彼らはかつて地球にやって来て、人類にその姿を見られたことがあり、その記憶が神話伝説となって残っていたのだと、ストレムグレンは考える。読者にもいったんはそう思わせておくのだが、この伏線は第三部で上主ラシャベラクの「記憶は過去のものでなく、未来のものだった」という言葉によって見事に覆されていく。人類の終末に立ち会う悪魔の姿を、過去の人々(宗教家や神秘体験者など)は未来に起きる出来事として、予見していたというのだ。
またイギリスがかつて植民地を支配したときに、振りかざしたような理屈でもって、今度は逆に全世界が、上主によって管理支配されていくという辺りは皮肉たっぷりに描かれている。カレレンは自分の任務について、
「ぼくは一介の公務員に過ぎないのだ。自分が立案に関係してもいない植民政策を、ただ実行しようと努力しているだけでね」
といい、上主に対して抵抗する地球上の人々は、
「十九世紀のインド人インテリが、英国統治に対して抱いた感情と似たようなもの」
を感じ、カレレンたちに強く反発するのである。
人類を導く上主が悪魔の姿であるにもかかわらず、やがて人々はそれを心に受け入れて、親しんでいく。上主たちには滅亡も進化もない。永遠性は与えられているものの、彼ら自身は、「主上心」の命令によって、チェスの駒のように動かされるだけの召使に過ぎない、と上主たちは折りに触れ自嘲的に人々に語りかける。地上の支配者とみえた者が、実は「主上心」に使役される下僕、奉仕者であったという皮肉。
上主たち自身は、何ものをも生み出すわけでなく、地球人のように生死を繰り返さない。生の中に何かを得て慈しみ、ともに生き、また手にしたものをすべて失っていく運命であったとしても、一度も何も持たないよりは、そのほうがはるかにいい。生命や、形あるものを生み出す人類を羨やむ、と上主は感慨と哀感を込め、演説の最後にその心情を述べるのである。
小説の細部にまでわたって工夫された逆転や対比、背理や置換の発想、価値観の反転などに作者の確かな目と手腕が感じられる。現実を何度もひっくり返し、時空を自在に操作してみせるSF手法の斬新さででもあろうか。
また地球の終末描写にはそのスケールにおいて驚かされるものがあり、随所に神秘思想が漂っているのも彩りとなっていて興味深い。
大都市の上空に異星人の巨大な円盤が現れて空を覆いつくし、人類に恐怖を与えて混乱させるという第一部の場面は、映画「インディペンデンス・デー」の冒頭に使われたので、この作品もまた有名になった。また怪異な外観を持つ異星人と少年が、不思議な形で交流し、少年が命を救われるというアイデアは、「E・T」において抜群の効果を挙げた。
地球外生命体と人類が出会い、触れ合うという映画は多く作られているが、はっきりとこの作者のものとわかる場面、あるいはその影響下にあると思われる作品は数多いと思われる。
日本では三嶋由紀夫のSF的手法の作品「美しい星」が挙げられるだろう。三嶋作品の中では、SF色が濃いこのようなタッチのものは珍しいと思う。「空飛ぶ円盤」などという言葉もどこか懐かしく響くし、昭和三十年代の風俗、時代が反映されていて、面白く読める作品である。
宇宙からの飛行物体を目撃して心に啓示を受け、自分たちが別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家の物語であるが、がんを病みながらも人類を守ろうとする家長の重一郎と、逆に早く人類を滅ぼしたほうがいいと考える同じく宇宙人である羽黒助教授との間で長い論争が行われ、羽黒が、
「お前は『終末』の商人で、そのつかの間の商いのために地球へやってきた宇宙の漂泊者に違いない」
などという辺りを読んでいると、たとえば「終末」や「宇宙の漂泊者」という言葉にクラークが作品中で用いた言葉が重なってくる。重一郎と羽黒の対論という設定も、ジャンとラシャベラクが滅びゆく地球を前に、延々と対話を続ける場面に通じていく。三嶋はクラークの作品からさまざまなインスピレーションや刺激を受け、それらを自作に生かす工夫をしたことがうかがわれて興味深い。
また聖書の詩篇、ヨハネ黙示録における終末の描写と「地球幼年期の終わり」の結びつきについて指摘する人も多いだろう。黙示録に描かれる恐怖に満ちた終末世界の情景は、宗教的雰囲気に包まれた漠としたものであると思うが、クラークの生き生きした筆を通して、一段と真実味を増した近未来世界の光景に置き換えられた。聖書の難解な人類終末図が、わかりやすく読者に向かって絵解きされたのである。地球上において、あるいは将来起きるかもしれないと思わせる情景描写や、気のきいたエピソードとなって作品中にうまく積み重ねられたと思う。
人類にいつか終末が訪れる、という思想は、各国にさまざまな神話伝説として存在する。実は聖書よりも古く、古代ヒンズー教にその起源があるのだという。
ヒンズー教の世界観では、この世界は四つの時期(ユガ)に分けられており、世界は生成と消滅を繰り返すといわれる。現在は第四期、最後の暗黒のカリ・ユガに当り、やがて人々の心は堕落し、悪徳が満ちた地球は神の火と大洪水によって滅び去り、原初の混沌、カオスに戻るのだという。
クラークはこういう宇宙観をとらえてヒントの一つとし、それを作品の核となして膨らませ、作中で独自の展開を試みたのかもしれない。
ジャンがパーティの夜、一人テラスに出て、上主たちの宇宙船が遠く竜骨座の方角に消えていくのを見つめる場面がある。ジャンの長い孤独な旅が始まっていくことを読者に暗示し、予感もさせる印象的な場面だが、模型に潜んだギリシャ兵のトロイの木馬の話、また鯨に飲み込まれて助かった聖書のヨナの逸話を下敷きにして、古典的な伝説をうまく宇宙空間に蘇らせていく。聖書のヨナの話にしても、神話伝説の類が人類の「未来の記憶」であったと後で明かされることにより、ジャンのした旅と重なって、後半になってその意味が読者に見えてくる仕掛けになっている。
読んでいけば同様の趣向はいくつもあるのだろう。壮大な宇宙を背景にした作品の構造の大きさ、その枠の広がり、神とは何か、人の絆とは、また真に生きるとは・・問いかけの深さにはただ圧倒されるばかりである。
クラークの作品では、今回は取り上げなかったが、「イルカの島」も心に残る作品である。孤独な境涯の少年が、密航したホバークラフトから事故で海に投げ出され、漂ううちイルカの群れに助けられてある島に運ばれる。そこで居場所を見出した少年と島の人々とイルカの交流が、大自然の中で丁寧に描かれていく。
島のイルカ研究所の所長はイルカ語を話し、イルカのほうも人間の言葉を理解していて、折々に心が通い合っていく。海辺の生活が活写され、サンゴ礁や泳ぐイルカの表情が眼に浮かぶようで、自然描写が美しい。
近未来という設定なのだが、現実にもう人とイルカとの間にゆるぎない信頼関係が築かれていて、意思の疎通や会話も普通にできるかのような錯覚に陥ってしまう。ジャンルとしては児童文学、ジュビナイルSFに分類されるのだろうが、読んでいるうちに青く澄んだ海が目の前に広がり、心が伸びやかになっていくようで、好きな作品である。
引用 参照
「イルカの島」アーサー・C・クラーク 小野田和子訳 創元SF文庫
「美しい星」 三嶋由紀夫 新潮文庫