柳田國男
「遠野物語」(角川文庫)
柳田國男
「遠野物語」(角川文庫)
柳田国男(やなぎたくにお)は 明治八年、兵庫県神崎郡生まれの民俗学者、官僚。日本民俗学の創始者とされる。旧姓は松岡。父は医家、漢学者、国男は八人兄弟(三人は早逝)の六番目として生まれた。弟には国語学者の松岡静雄、日本画家の松岡映丘がいる。国男は十二歳で次兄とともに上京、茨城に住む長兄(医師)に引き取られた。一高入学後、文学界に抒情詩を発表し始め、次兄を通して森鴎外とも交流があった。帝大法科に入学後、友人と伊良湖崎に旅行し、浜に流れ着いた椰子の実を見た話が藤村の詩となり、後に著書「海上の道」へ繋がっていく。帝大卒業後は農商務省に入り、二十六歳で柳田家を継ぎ、後に柳田孝と結婚した。職務で各地を講演旅行する傍ら、地名、伝説に関心を持ち、聞き取りを続け、宮崎県椎葉村の猪狩りの伝承「後狩詞記」を自費出版(三十四歳)。これが柳田民俗学の出発点になったとされる。
自宅で郷土研究会を始め、機関誌「郷土研究」の発刊を四年続け、南方熊楠、折口信夫らと交流した。後には「民間伝承の会」を発展させ、「日本民俗学会」と改称(昭和二十四年)、その初代会長に就いた。「山の人生」「海南小記」「桃太郎の誕生」「蝸牛考」「妹の力」「巫女考」「日本の伝説」など著作は多い。貴族院書記官長、国際連盟委任統治委員、後に枢密顧問官も務め、晩年には文化勲章も受けた。
「遠野物語」は遠野出身の佐々木喜善から聞いた話をもとに加筆し、明治四十三年に自費出版された。同年に出した「石神問答」は、読者には難解であったが「遠野物語」は岩手県遠野近辺に伝わる民話、説話、伝承などで構成され、読み易かったようである。
きっかけは佐々木が友人の紹介で柳田を訪問、蒐集していた多くの話を語り、柳田がそれをもとに草稿をつくり、柳田自身も遠野を訪れて地名、人名などを確認、その折の体験も追加して稿を改め、一一九話を編集し出版した。佐々木からの聞き取りは複数回行われ、文学青年であった佐々木は泉鏡花に心酔しており、鏡石というペンネームも持っていたという。
「遠野物語」には、地名伝承、民俗、事件、民間信仰、臨死体験、天狗、神隠し、座敷わらし、おしらさま、河童、妖怪、狐狸、幽霊、異界、など怪異や霊異、奇談が多数集められている。簡潔で端正な文体でもって、淡々と事柄が記述され、独特の味わいがある、と今日では評価されているが、当時の文壇からは、道楽の産物と受け取られ「粗野を気取った贅沢」(田山花袋)などと評され、奇異な物語を集めただけとして、文芸的な評価はされなかったそうである。ただ当時十九歳の芥川龍之介は、読んで大変面白く感じたと、友人にこの本の感想を書き送ったという。
現在「遠野物語」は新潮文庫、岩波文庫、角川ソフィア文庫、集英社文庫など各社から出ており、青空文庫でも読めるが、今回は手持ちの角川文庫の旧版で読んでみた。遠野物語拾遺付き、折口信夫の初版解説、大藤時彦の解説、地図付きのものである。その中から何篇かを紹介してみよう。(原文は八話のみ引用)
寒戸の婆
松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の木の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり。三十年あまり過ぎたりしに、ある日親戚知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰って来さうな日なりといふ。(八話)
(訳)
松崎村の寒戸という所の民家で、若い娘が梨の木の下に草履を脱いだままいなくなった。三十年あまり過ぎて、親戚知人らがその家に集まっているところへ、非常に老いさらばえた女が帰って来た。人々が訊くと、皆に逢いたかったので帰って来た。でもまた行かなければ、と出ていってしまった。その日は風の激しく吹く日であった。それで遠野の人たちは、今でも風の日には、今日はさむとの婆が帰ってきそうな日だという。(八話)
座敷わらし
旧家の山口家には、童女の神が二人いると言い伝えられていた。ある日、村の男が橋のほとりで見なれない二人の娘に会い、尋ねると山口の所から来たといい、さらに訊くと、某村のある家に行くという。そこは今も豪農の家である。それからほどなくして山口家は主従二十幾人、七歳の女の子を残したのみで、茸の毒に当たって一日のうちに死に絶えた。山口家では、梨の木の周りに茸がたくさん生えたのを、食べるかどうか迷ったが、下男が水桶に茸と苧殻(をがら)を入れて掻き回してから食べると当たらない、といったので、そのようにした。当主の死後、生前に貸しがあった、約束があったと、人々が家財までも持ち去り、長者であった山口家は、滅んでしまった。七歳の女の子は外遊びをしていたため難を逃れたが、恵まれず寂しい一生を終えた。(一八、一九話)
おしらさま
ある村に貧しい百姓がいて、妻はなく美しい娘があった。一匹の馬を飼っていた。娘はこの馬を愛して厩舎で寝るようになり、ついに馬と夫婦になった。父はそれを知ってひそかに馬を連れ出して、桑の木に吊下げて殺した。娘は馬の首にすがって泣き悲しんだ。父は憎んで斧で馬の首を切り落とすと、たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇っていった。おしらさまというのは、このときより成った神である。その桑の枝で神の像を三体つくり、一体の神の行方はわからないが、姉神は山口の大同に、妹神は附馬牛村にあるという。(六九話)
おおかみ
草の長さ三寸あれば、狼は身を隠すという。草木の色の移り変わりにつれて体の毛の色も季節ごとに変るという。
境木峠と和山峠の間で駄賃馬を追う者は、よく狼に出会った。夜は危険なので馬方は十人ほど集合し、その引く馬も常に四、五十匹の数であった。あるとき二、三百ばかりの狼が後を追ってきた。その足音が山もとどろくほどで、あまりの恐ろしさに馬も人も一か所に集まり、周囲に火を焚いて狼を防ごうとした。けれども火を乗り越えて入って来るので、馬の綱を解いて張り回らせてみると、落とし穴の仕掛けででもあると疑ったのか、狼はそれより中へは飛び入らなくなり、遠くより取り囲んで夜の明けるまで吠えていた。
ある年、境木越に狩に行った人が、向こうの峰より何百とも知れない狼がこちらへ群れて走って来るのを見て、恐ろしさに樹の梢に上って身を隠していると、その下をおびただしい足音とともに走り過ぎ、北の方へ行った。その頃より遠野郷には狼は少なくなった。(三七、四〇、四一話)
山の不思議
白望(しろみ)の山に行って泊まると、深夜に辺りが薄明るくなることがあった。秋に茸を取りに山中に入る者がよく遭遇した。谷の方から大木を切り倒す音、歌の声などが聞こえてくる。五月に萱を刈りにゆくとき、遠く桐の花が咲き満ちる山が見える。紫の雲のたなびいているようである。けれどもどうしてもそこへ近づくことができない。(三三話)
小正月の夜、あるいは冬の満月の夜は雪女が出て遊ぶという。童子をたくさん引き連れて来るという。里の子どもは丘に行き、そり遊びに熱中して夜になることもあるが、十五日の夜にかぎり、雪女が出るから早く帰れと注意されるのはよくある。でも実際に雪女を見たという者は少ない。(一〇三話)
小国村の貧しい妻が、川沿いに蕗を取りに山へ行くと、立派な門の家があり、庭には紅白の花が咲き、牛馬も多くいるが、人影はなかった。玄関から入ると部屋には朱と黒のお椀がたくさんあり、火鉢に湯も沸いていたが、急に怖くなり逃げ帰ってしまった。人に話したが、誰も信じてくれない。ある日、妻が川で洗い物をしていると、川上から赤い椀が流れてきたのでこれを拾い、穀物を量るのに使うと、物が減ってゆかず、この家は富んだ。山中で出会う不思議な家を「まよひが」という。そこを訪ね当てた者は、何か一つ器などを持ち出すとよく、その人に授けるために、このような家を見せるのだという。この妻は無欲で何も取らなかったので、椀がみずから流れてきたということである。(六三話)
このような話が、炉端で語り部の老人が話すように続いてゆくのである。ただし方言は効果的に感じられる程度に抑えられ、文体は素朴さを残しつつ吟味推敲されており、文学的工夫を凝らした跡がみられる。佐々木の努力により採集された地方の民話群が、柳田の筆力によって新たな生命力を吹き込まれ、文芸的な語り口でもって再生されていったのであろう。佐々木も柳田も、若い頃文学を志していた一時期はあったようだが、二人とも別に職業を持ち、生計を立てていく道を選んだ。文筆で生きてゆくということは、なかなか容易なことではなかったのだろう。
「遠野物語」とは、素材の大半は佐々木が見つけてきて柳田に提供し、柳田が調理して仕上げ、読者に供した一皿、というところであろうか。これはやはり柳田の手によって文学的に高められた民話、伝承文学の一つの到達点かと思われる。
「遠野物語」には「狐狸に化かされる話」とか、家の柱や木の臭いで火事の予知ができる「芳公馬鹿」「顔の赤い河童の話」など不思議なものや、「狂った息子による母殺しの話」「里からさらわれていった女性たちの話」や「津波で亡くなった妻の幻に出会う夫の話」など、凄惨なものや哀切なものも収められている。そこで語られているのは、珍しい伝承、風変わりな話、事件の域にとどまらず、人の生活の細部、心の深い哀しみにもおよび、その題材は多岐に亘っている。
柳田国男について、折口信夫は、昭和二十一年の講演で、次のように述べたという。
・・・・一口に言へば、先生の学問は、「神」を目的としてゐる。日本の神の研究は、先生の学問の著手された最初の目的であり、其が又、今日において最明らかな対象として浮き上って見えるのです。(文芸読本「柳田國男」河出書房新社より)
折口は、柳田の意識の底にあるもの、志向するものの本質を「神」であると、特有の直感でそう見抜いたのであろう。折口自身も、独自の視点で「神」を見つめようとする姿勢の人であったと思う。
また三島由紀夫は「小説とは何か」の中で、「遠野物語」についてこのように述べている。
・・・・ただ単に、情感に裏付けられた紀行文としても、「遠野物語」の序文は、このやうな氏の文章力を証明する名文である。この序文のさりげない抒景は、「遠野物語」全篇の序として比類のないものであり、歴史から取り残された山間の一聚落に伝へられた、人間生活の恐怖の集大成である「遠野物語」は、その序文に描かれた風景をとほして読むときに、一種やるせない情緒を増すのである。(同上 三島由紀夫「小説とは何か」より)
「遠野物語」を「人間生活の恐怖の集大成である」と言いきったのは、三島らしい表現と思う。いわれてみれば、それに尽きるような気もするし、「遠野物語」で展開される凝縮された独特の文語体の語り口は、三島の好みにも合ったのであろう。
三島はまた二二話、佐々木家の通夜で、曾祖母の幽霊が現れる場面について、歩いてゆく霊が「裾にて炭取りにさはりしに、丸き炭取りなればくるくるとまはりたり」という表現に注目、超現実が現実を犯す一瞬を捉えており、認識世界が逆転して現実が震撼される、と激賞している。また十一話についても、非常に高い評価を与えている。これは「嫁と折り合いの悪い母を殺す倅(せがれ)の物語」であるが、この一篇を熟読玩味すれば、小説とはいかなるものかがわからう、とも述べている。
「遠野物語」出版当時はあまり評価されなかったそうだが、時代を経てゆくうちに、新たな評価が生まれ、学者や文学者によって文芸的な価値が認められていったことがわかる。ちなみに、三島が美しいと褒めている「遠野物語序文」の部分は、「天神の山には祭りありて獅子踊りあり。ここにのみは軽く塵たち、紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊りといふは、鹿の舞ひなり。・・・・笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひ児は走れどもなほ旅愁を如何(いかん)ともするあたはざりき」(同上「小説とは何か」より)である。
「遠野物語」は遠野の人々の民話伝承なので、当然のことだが山の話が中心で、海の民話は入っていない。たとえば波間に浮かぶように霊が現れて柄杓をねだり、渡すと海水を汲み入れて船が沈められる「船幽霊」などの話は語られないのである。ちなみにいうと、海でこのような霊が出たときの対策として、絶対に柄杓を渡さず、おびえずに気丈に振る舞っていると、怪しいものは消えてゆくそうである(四国での言い伝え)。
また山の怪異に関していうと、山道を歩く人に取り憑いて、急激な倦怠、飢餓感で一歩も動けなくするという「ヒダル神」の話も入っていない。地域性もあるのだろうが、西日本ではヒダル神に憑かれる話は、割によくある山の不思議現象とされている。人が日常的に感じるようなだるさ、空腹とは違い、ぞっとするような独特の異様な感覚に襲われ、突然乗っ取られたように体の自由が利かなくなるので、変だとわかる。これに遭ったときは、飴でも何でもよいからとにかく食べ物を口に入れ、ヒダルの神様にも、と唱えて祈り、何か供えると金縛り感から早く回復するという。ヒダル神は山で死んだ旅人、修験者の霊ともいわれている。
四国では、特に弘法大師(空海、お大師さん)の霊異に関する逸話、伝説が多いようである。筆者の知っている一例をあげると・・・・ある家で子どもが高い熱を出して寝込んでいた。するとその子がふらふらと立ち上がって台所へ行き、何かしようとする。母親は驚いて止めようとしたが、父親がその様子をみて、したいようにさせてみよう、といった。子どもは米びつから米を一握りつかむと玄関へ出ていき、空中で手を開いた。米はざーと音を立てて地面にこぼれたが、子どもは納得して部屋に戻り休んだ。それから熱が下がって回復した。親が後で訊くと、「笠をかぶって杖を持ったお遍路さんが来たので、お米を持っていった。お椀でちゃんと受けてくれた」といった。親は、それはきっとお大師さんが助けにきてくれたのだ、と感謝した。そのとき家族には何も見えなかったけれど、子どもの目にはお大師さんの姿が映っていたらしい・・・・。
(船幽霊と、お遍路さんの話は、四国出身の母から以前聞いたのを、思い出したものである。何かの参考にでも、と思ったのでここに記しておく。ひと昔前は、このような話が、親の世代から聞けたのであるが・・・・)
「遠野物語拾遺」(「遠野物語」に収録されている)についてもみておこう。これについては、冒頭部分の「再版覚え書き」でこの本に収められた経緯が述べられている。それによると柳田は「遠野物語」の続編を出そうと考え、佐々木から新たにその素材となる原稿を預かっていた。けれどもあまりに分量が多く、思うように筆が進まなかった。そうして手元に保管している間に、佐々木が待ちきれずに自分で昔話集「聴耳草紙」を出してしまった。その中には柳田が預かっているものとの重複もあり、先に発表されてしまったので、柳田は気持ちが削がれ、遅れがちであった筆がさらに続かなくなった。
ところが昭和八年、佐々木が四十六歳という若さで急死してしまった。それで昭和十年「遠野物語」の再版に当たり、せっかく故人が集めた資料の散逸が懸念されるので、重複分を除いて収めることにした。同資料で柳田の書き改めた分が半分、残りは故人の筆になるものを整理して加えることにした・・・・といういきさつなのであった。
「遠野物語拾遺」は、故人への手向けの意味も持つ作品群なのであった。佐々木が農村を訪ね苦労して聞き取りを重ね、蒐集して遺した作品、柳田の加筆分も半数は含んでいるので、双方の作品が混ざり合った合作であろうが、それでも「拾遺」は佐々木喜善の遺作、追悼として読むのがいいような気もする。
その数二九九編、「遠野物語」よりもはるかに多く、口語体の文なので、読み易い。たしかにその素材には、生々しい迫力が感じられるし、ある意味ではそこで語られる内容は「遠野物語」よりも 濃密で怖い。それはやはり生の材料のみが持つ、素朴な力なのであろう。ただ読み手は先に「遠野物語」のほうを読んでいるので、どうしてもその味わいや印象を引きずってしまい、厳選された完成品を読んでいるという気持ちが起きない。「遠野物語」のあの緊張感を伴う引き締まった文語体とは、雰囲気も異なっており、「拾遺」のほうは逸話を集めた素材集、作品になる前の作品群と感じてしまうのは否めないのであった。
柳田国男は、晩年になってから請われて神戸新聞に随筆を長期連載している(昭和三十三年)。それは「故郷七十年」として一冊の本にまとめられた。もう高齢になっていたので口述筆記だったそうである。柳田自身は少年時に故郷を出て以来、長く帰らなかったようだが、幼い日々を過ごした辻川の地に深い愛着を持ち、鮮やかに色んな情景を記憶していて、しみじみと思い浮かべては、往時を懐かしんでいる様子が感じられる。柳田に興味のあるかたは、自叙伝、回想記として読めば、その生い立ちや家族、学生生活、交友関係などがよく理解されるだろう。「遠野物語」のときには、柳田は佐々木から話を聞いて本にしたが、晩年には今度は聞き取られる側に回り、それが紙面掲載後、まとめられて本となったのである。
本の中で柳田は、自分の生家が実は裕福ではなく、家も小さく狭かったと率直に述べている。長兄の結婚がわずか一年で破綻したのも、嫁姑不仲の問題もあったが、大家族の上に部屋が少なく、二世帯が暮らすにはとうてい無理だったゆえの悲劇だった、と当時のことを回想している・・・・。
この連載は二百回にもおよび、その四年後に柳田は福崎町名誉市民となった。そして柳田は昭和三十七年、東京の自宅において八十八歳で没した。