幻 の 杉
幻 の 杉
縄文杉を見に、鹿児島から船に乗り、屋久島へ旅をしたことがあった。
深い森の中を歩いていると、苔むした大きな古代杉の切り株に出会った。
大正のころ、米国人ウィルソン博士が発見した、根回り三十三メートル、樹齢三千年を超えるという「ウィルソン株」である。
中に入ってみると、八畳敷ぐらいの空洞になっており、木魂神社という小さな祠があった。地面からは澄み切った水が湧き出ている。雨の多い森なのに根も腐らず、切り株の中に泉を持つ不思議さに打たれた。
説明文によれば「この杉は一五八六年、切り倒されて京都に運ばれ、方広寺の柱として使われた。楠川村の牧五郎七と同僚七人がやぐらを組み、斧で切り倒した」とある。
古来このような大樹は神にも等しいとみなされてきたに違いない。命令とはいえ、村人たちは斧を入れる瞬間、どんな気持ちになったことだろう。
このことに興味を感じたので、後日京都に出た折に、東山にある方広寺を訪ねてみることにした。
巨大な石垣に囲まれたお寺の正面には、豊臣秀吉を祀る社があり、左手には鐘楼がある。ここにはかつて方広寺大仏殿という建物があった。
秀吉が大仏の造営を思い立ち、十年の歳月をかけて、一五九六年に完成させたのである。それは金箔を置いた十九メートルの木造大仏で、奈良の大仏より三メートルも大きかったと伝えられている。
大仏造営が始まったちょうどその年に、屋久島から切り出されたあの杉の木は、大仏殿の柱として使われたのではないだろうか。
年表を見ると、完成直後の大仏は、伏見の大地震であっけなく壊れ、その二年後に秀吉自身が病死、さらに数年後、大仏殿が炎上、という思いがけない出来事が次々起きていた。
屋久杉の柱も、おそらくこのときに燃え落ちてしまったものかと思われる・・・・。
家康の勧めで淀君と秀頼母子は、大仏の再建に取り掛かった。そのとき寺に大鐘も鋳造されたのだが、銘文中の「国家安康・君臣豊楽」の文字が徳川家を呪詛するものと曲解され、やがてそれを口実に、豊臣家は徳川氏によって滅ぼされてしまうのである。
秀吉の造った仏像は既にない。淀君と秀頼が再建した大仏も、一六六二年に起きた地震で倒壊し、以後信徒の手で、小規模の大仏が二度作られてはいるものの、いずれも焼失。つまりこの地に計四度も大仏が造営されたのだが、それらはすべて失われているのである。
屋久島の杉を使ったという壮大な建物を思い描きつつ、境内を歩いてみた。今は鐘楼と小堂だけが残っている。往時をしのばせる大きな風鐸と鉄輪が、歴史の一場面を提示するかのように、片隅に置かれてあるのが印象的であった。
(2005.1.12)