一紀伊 元伊勢紀行一
日前・国懸神宮(紀伊一宮)伊太祁曽神社(紀伊一宮) 名草浜宮 竈山神社
一紀伊 元伊勢紀行一
日前・国懸神宮(紀伊一宮)伊太祁曽神社(紀伊一宮) 名草浜宮 竈山神社
今回は紀伊の元伊勢、浜宮から名草山の中腹にある紀三井寺へ回り、紀州東照宮を見た後、紀伊一宮、日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮を経て、伊太祁曽(いたきそ)神社にも行ってみたいと思っていた。ところが、南海和歌山駅でぼんやりしていて階段を一段踏み外し、右足首を捻ってしまった。歩くたびに痛い。でもせっかく来たのに、何も見ないまま駅頭から引き返すのも残念なので、我慢しつつ路線バスに乗り込んだ。
名草浜宮
紀三井寺の少し先の毛見(けみ)で降りて、名草浜宮の社を求めて探し歩く。
すぐに目的の社が見つかることが多いのだが、道を取り違えたらしくわからない。そのうちに海岸まで出てしまい、防波堤から目の前に広がる海をしばらく眺めていた。通りかかった人に尋ねて、ようやく探し当てた浜宮は、海岸近くの山蔭に、それこそひっそりと隠れるようにあった。
崇神天皇皇女、豊鋤入姫(とよすきいりひめ)が名草浜宮で天照大神を祀ったことは、記紀の記述には見られず、「倭姫命世記」の中にのみ記されている。
・・・・五十一年甲戌、木乃国奈久佐浜宮に遷りたまひ、三年を積(ふ)るの間斎き奉る。 (倭姫命世記)
神社の由来には、豊鋤入姫が、天照大神の御霊代を奉載してここに遷座、三年間祀ったことが記されている。
日本書紀によると、天照大神は、はじめ崇神天皇の宮殿内で、倭大国魂神とともに祀られていたが、あまりに霊威が強く、
「然(しこう)して其の神のみ勢を畏りて、ともに住みたまふに安からず」
ということになったので、二神とも宮内から出して、別の地でそれぞれ皇女が奉仕して祀ることになった。天照大神は笠縫で豊鋤入姫が祀り、倭大国魂神のほうは渟名城入姫(ぬなきいりひめ)が穴師で祀るが、渟名城入姫は髪が抜け落ち、体が痩せ衰えてお祀りができなかったとある。
倭姫命世記によれば、豊鋤入姫は大和笠縫邑で天照大神を祀っていたが、やがて神体の神鏡を携えて笠縫を出て、丹波の吉佐宮へ行き、四年間そこで天照大神を奉戴する。それから大和へ戻って八年奉載、その後紀伊の名草浜宮へ行って三年、そこから吉備の名方浜へと赴いて四年、大和へ帰って二年、と各地を巡った後に、姪の倭姫と務めを交替する。倭姫は神鏡を奉じる土地を求めて各地を経て伊勢に行き、やがて伊勢神宮を創設することになる。
豊鋤入姫も倭姫も、軍団とともにそれらの土地に赴いたと考えられる。崇神紀には、各地に四道将軍が派遣されたこと(北陸、東海、吉備、丹波)、各地が順次大和の勢力圏に入っていったことが記述されている。
・・・・因(よ)りて詔(みことのり)してのたまはく「若(も)し教(のり)を受けざる者あらば、すなわち兵(いくさ)を挙げて伐(う)て」
(日本書紀 崇神紀)
この時代、特別な霊力を持つ皇女は、巫女としての役割を担って(祭祀、神事、敵への呪詛、神託や占いなど)、親族の将軍(いくさのきみ)たちの率いる軍に同行したのではないかといわれている。皇女の語る夢見や神のお告げは、軍事作戦にも影響したかもしれない。
そのことはさておき、崇神天皇の時代、大和の勢力は伸張し、各地に及んでいった。
豊鋤入姫がこの紀伊の名草の地に入った時、それに先んじてここにはすでに天懸(あめかかす)・国懸(くにかかす)という二神が祀られていたという。
伝承によると、神武東征の折、日前・国懸をかたどった神宝の鏡と矛は、神武の軍と分かれた天道根命(あめのみちねのみこと、紀氏の祖)が加太浦に遷し、木本、さらに名草の毛見へと遷して、琴ノ浦の海上にある岩に祀っていたのだという。豊鋤入姫がそれを陸に遷して、浜宮で天照大神とともに奉斎した。
天照大神は浜宮で先の二神と同居する形になり、後になって、天懸・国懸の二神は、名草浜宮から離れて和歌山市内の秋月に遷座したという。
浜宮は山がすぐ近くに迫っていた。その社殿は海を向いておらず、崖に寄せるように造られていた。ここは海に近く風雨の被害なども受けやすい所なので、配慮して社殿を設けたのかもしれない。青い敷石が印象的な境内は人影もなく静かであった。
神社の入り口には滑らかな丸石が何個も置いてあって、祀られていた。浜に流れ着いた中で形の美しいものを選り出したのだろうか。
折口信夫の「石に出で入るもの」の中の一節に「暴風雨の一夜の中に、忽然として海岸に石が現れる。・・・・神像(かむかた)石の信仰の古い一形で、神がこの世に出てくる一つの形です」などとあったのを思い出した。この地に石の信仰があったことがうかがえる数個の丸石であった。
浜宮の祭神は天照大神、日前・国懸大神である。初代の祀り手、豊鋤入姫を祀る祠もあった。由緒によると、ここ浜宮は、足神さまとも呼ばれているそうだ。ちょうど足を痛めていたこともあって、神妙に社殿に手を合わせ、後日足神さまの謂れについても調べることにした。
記紀によると、神武東征の折に、この地で戦闘があり、名草の首長であった名草戸辺(なぐさとべ)とよばれる女性が神武軍によって殺されたことが記述されている。霊的な力を持つシャーマンのような人であったらしい。この後、熊野に入った神武軍は、同様に丹敷戸畔(にしきとべ)も殺したとある。
・・・・軍(みいくさ)名草邑(なくさのむら)に至る。則(すなわ)ち名草戸畔(とべ)といふ者をころす。 (日本書紀 神武紀)
名草戸辺の体は切り刻まれて、別々の地に埋葬されたという。霊の蘇りを封じる呪術であろうか。
その頭部はおこうべさん(宇賀部神社)、胴体はおはらさん(杉尾神社)、脚部はあし神さん(千種神社)として祀られ、地元では今も敬われているそうだ。霊は分かつことができるので、ここ浜宮にも足神さまの霊が、祀られているのであろう。
神武東征時の地元民との戦闘の伝承が、今もこの土地にしっかり息づき、人々がそれを心のうちに受け継いでいることに驚かされる。ついでに言うと、神武軍はこの毛見の近くの船尾というところから上陸し、名草戸辺を討ったと伝えられている。軍団はいったん海上に退却するように見せて陸地の人々を安心させ、毛見を行き過ぎてから上陸したということであった・・・・。
皇女豊鋤入姫が三年にわたって海辺で天照大神を祀っていたという伝承から、この浜宮の社は「元伊勢」といわれている。古代の海はどんな様子だったのかわからないが、渚は今の位置よりもっと社の近くまで迫っていたのかもしれない。波の音が間近に聞こえる浜辺の宮で、皇女は日々太陽を迎え、夕陽を送って祭祀を行ったのだろうか。それを想像すると、寂しいようなそして厳しい情景が浮かんでくる。
海岸線はどの辺りだろうと、お社を出て散策しながら海の方向に目を向けると、現代の風景は、海上に突き出す形で圧倒されるほど巨大な橋がそこに架かっているのだった。古代の情景を求めて歩いているときに、何かしらあまりそぐわないものを目にしたという気もする。何本もぴんと張られた鋼索の、並んだ鉄線が人工的な造形をなし大空をよぎっている。そしてその先の沖合には、和歌山マリーナシティと呼ばれる広大な遊戯施設の人口島が忽然と出現しているのだった。
バスで少し戻り、紀三井寺で降りて、足を引きずりながら石段をゆっくりと上がっていく。西国二番の札所である。ここは名草山の中腹にあり、古代ではこの名草山の下まで波が打ち寄せており、名草の地名の起源も「渚」であるという。湿原地帯であったかもしれない。おそらくこの山麓一帯で、神武軍と土地の名草軍との凄絶な戦いがあったのだろうと思われる。
札所のお寺も静かであった。お参りして境内から海を眺めると、あいにく空は霞んでおり、空も海も明るく冴え渡った情景ではなかったが、市街地の向こうには和歌浦の海が広がっている。しばらく古の海に思いを馳せていた。
この後、バスで和歌浦の紀州東照宮に向かう。参道は、何という石なのだろうか、青い石が敷き詰められていて美しい。ここの特産らしく、浜宮でも紀三井寺でも青石は使われていたが、ここほど多くはなかった。さまざまな青石の模様を見ながら歩いていくと、その先には百段を越える石段があり、見上げて思わず気がひるむが、足を庇いつつゆっくりと上がっていく。朱塗りの楼門をくぐると、立派な本殿が現れた。ここは西の日光といわれるだけあって社殿は重厚であり、風の吹き抜ける境内から眺める和歌浦の景色に言葉もなく見入っていた。
バスで和歌山駅まで戻る。この後は日前・国懸神宮へと回る予定だったが、薬局で買い求めたシップ剤を貼っても足首の痛みは去らず、あまり無理をしてはと思い、今日はここで引き返すことにした。日を改めて続きの社を巡ることにする。
紀伊一宮 日前・国懸神宮
和歌山駅にやってきた。今度は慎重に階段を下りていく。今日は日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮、伊太祁曽(いたきそ)神社、竃山(かまやま)神社を巡ることにする。三社巡りである。まずバスで秋月まで移動し、秋月の交差点を渡ると、日前・国懸神宮はすぐ目の前であった。
日前・国懸神宮の創建は、垂仁天皇の十六年、前述の名草浜宮からこの地に遷座したという。そのときここ秋月の地にはすでに伊太祁曽神社があったが、伊太祁曽の神は別の地に遷座を余儀なくされたという。つまり新来の神が、旧来の神の座に遷ったのである。祀る神の交代とは、おそらくそのとき支配者が変わったか、あるいは施政者の宗教政策の変更など何らかの出来事が起きたことを意味するのであろう。民が征服されるとき、神もまた征服されていく。
参道は深く濃い緑と蝉の鳴き声に包まれていた。道は直線的で、途中で左右に分かれており、正面の道は結界が引かれて閉じられている。気になるが、正面奥が古の真の聖域なのかもしれない。古代にそこは元の社地であったとか、あるいはこの奥に神宝の鏡などが納められている建物があるとか、また神社には禁足地として古墳、墓所、御陵などがよくあるが、ここもそうなのだろうか。
立ち止まってしばらく結界を眺めていた。左へ行くと日前神宮、右へ行くと国懸神宮である。
この神社の読みは難しく、ひのくま・くにかかすとはなかなか読めない。地元では二社を「にちぜんぐう」と呼んでいる。二宮で一社、神体は鏡と矛(社伝では二つとも鏡であるという)、それも普通のものではなく、天照大神の天の岩戸隠れのときに、女神を誘い出すために岩戸の前に奉納した由緒のある品ということであった。
石凝姥命(いしこりどめのみこと)が最初に作った鏡は出来が良くなくて、二度目に作った鏡が岩戸の前に供えられたのだが、それは伊勢神宮におさめてあるということだった。ここに祀られているのは、最初のほうの鏡であるという。出来の悪かった試作品とでもいうべきものを、神宝としているわけだが、川村二郎氏の見解によれば、そのことは、伊勢に対する遠慮があるようにも見えるが、ここの鏡のほうが岩戸よりも早かった、つまり天照大神よりもさらに古く尊ばれていた日神だった、ということをも暗示しているという・・・・。
鏡の原像を探っていくことは、神の原像を探ることに繋がっていく。
普通二社が並んでいる場合、男神とその配偶の女神、あるいは母神とその御子神を祀っていると思うのが一般的である。ここの神体がそれぞれ鏡と矛であれば、鏡は女性、矛は男性の象徴とみるのだろうが、社伝には二社ともに鏡とある。
ここの鏡の由来に関する伝承はほかにもあって、日前の神は、土地の太陽神という説などもある。それらを合わせて考え出すと、辻褄が合わないところが出てきて、祭神に関して謎が深まっていくばかりなので、もうこれ以上鏡について深入りはせず、古の鏡も矛も、ともにここに祀られているのだ、と思うことにする。
境内には参道の道筋に沿って地主神などを祀る摂社がいくつかひっそりと並んでいた。たいていは古く傷んでいて、中にはひどく崩壊が進んでいる祠もあった。
左の日前宮のほうに向かう。祭神は日前大神。神体は日像(ひがた)の鏡である。石凝姥が作った最初の鏡、相殿には石凝姥命も祀られていた。鏡作りの女神である。姥という字からみると、老女だったのだろうか。
元の道へ戻って今度は右の国懸神宮のほうへと向かう。
祭神は国懸大神。社伝によれば、神体は日矛(ひぼこ)の鏡とある。相殿には天御影大神(あめのみかげのおおかみ)。それと天鈿女命(あめのうずめのみこと)の名もみえる。以前滋賀県の御上神社に行ったとき、祭神が天御影大神であったのを思い出した。
古語拾遺によれば、天御影大神とは天照大神の孫に当たり、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一視されており、刀鍛治の祖神という。岩戸隠れのとき、鉄で刀や、鐸(さなき)を作り、天鈿女命がそれを用い、「手に鐸(さなき)着けたる矛を持ちて」岩戸の前で舞ったとされている・・・・。
社殿は日前宮と同じ規模のもので、向きは同じで、間に結界空間が広がっているが、二つのお宮は同格らしく、並立していた。広い敷地、境内を覆っている原生林のような樹木の深さは、どことなく伊勢神宮の緑濃い森を思わせるものがあった。
伊太祁曾神社
ここからは二両連結の貴志川線に乗り、次の神社へと向かうことにする。
伊太祈曽の駅で降りて神社に向かう。ほどなく参道に立てられた神社の幟がたくさん見えてきた。風にはためいている幟には、どれも紀州一宮の字が染め抜いてある。こちらのほうが本来の紀伊一宮という思いが込められているのだろう。
鳥居をくぐり、池を眺めながら赤い手すりの太鼓橋を渡っていく。杉の神木は落雷で枯れたらしいが、残った根もとの幹のところは保存され、若木も傍らに育っていた。社殿に進んでいくと、各集落から奉納された今年の初穂が懸けられてある。さきほどのいかにも格式の高そうな広大な日前宮とくらべると、こちらの社の雰囲気や佇まいのほうが、古色が感じられて紀国一宮には似つかわしく好もしい。
伊太祁曽(いたきそ)神社は珍しい社号である。最初何と読むのかわからなかった。祭神は五十猛命(いたけるのみこと)で、有功(いさお)の神、大屋毘古命とも言うそうだ。妹の大屋津姫、都麻津姫命(つまつひめのみこと)とともに祀られている。
五十猛命は須佐之男命の子で、父とともに高天原を追放され、各種の木種を携えて地に下ったとされる。はじめ韓地に下りたが、父の命で大八州に渡り、妹たちとともに日本中に木を植えて回り、最後に紀の国に鎮まったとされる。
お社は元々秋月にあったが、国懸神に社地を明け渡し、山東の亥の森(ここから五百メートル南東)に遷り、さらに七一三年に現在地に遷ったという。
境内には、厄災よけの「木の俣くぐり」が設置してあった。前述の落雷で枯れたために伐採したという神杉の上部をくりぬき、古事記の記述にちなんで拵えたものという。
八十神の計略によって、二度も命を落としかけた大国主命が、母の勧めによって木国に逃れ、大屋毘古命がかくまって、木の俣をくぐらせ、追っ手の矢から逃れさせたという逸話によるそうだ。
・・・・ここに八十神見てまた欺きて、山に率て入りて、大樹を切り伏せ、ひめ矢をその木に打ち立て、その中に入らしめて、すなわちその氷目矢を打ち離してうち殺しき。ここにまたその御祖、哭きつつ求(ま)ぎしかば、その木をさきて、取り出で活して、その子に告りていはく、「汝ここにあらば、遂に八十神に滅(ころ)さえなむ」といひて、木の国の大屋毘古の神の御所(みもと)へ違え遣りたまひき。ここに八十神まぎ追ひいたりて、矢刺して乞ふときに、木の俣より漏(く)き逃がしていはく、「須佐の男の命のまします根の堅洲国にまい向きてば、かならずその大神議(はか)りたまひなむ」とのりたまひき。(古事記)
早速靴を脱いでそっと木の俣をくぐり抜ける。子供の頃、緊張しながら暗い東大寺の柱穴をくぐったことを思い出していた。ここの杉の木はまだ新しくてよく磨かれ、すがすがしい木の色と手触りであった。横には干支などを刻んだ面白い木の彫刻が並べてあった。
裏へ回って古い御井を見る。その後社を出て古墳へと回り、神社の周辺を少し歩いてから駅へと戻った。
竈山神社
再び貴志川線に乗り、竃山神社へと向かう。
竃山駅で下車、歩いていくと、右手に御陵らしいものが見え、回り込んでいくと、竃山神社があった。
神武天皇は東征時、大和を目指して白肩津に軍を進めるが、神武軍の上陸を阻んで日下で迎え撃った登美長脛彦(とみのながすねひこ)軍に敗北した。船団はいったん海上に退却し、上陸の機会をはかりつつ陸地に沿って南下していくが、その途中、日下で矢傷を受けていた神武の兄、五瀬命は傷が悪化して亡くなったという。
・・・・ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が病矢串(いたやぐし)を負はしき。・・・・紀の国の男(お)の水門(みなと)に到りまして、詔りたまはく、「賤奴(やっこ)が手を負いてや、命すぎなむ」と男建(おたけび)して崩(かむあが)りましき。かれその水門に名づけて男(お)の水門といふ。陵(みはか)は紀の国の竈山(かまやま)にあり。 (古事記)
五瀬命を葬り、祀ったのがこの竈山神社であるという。お社と御陵は近接しており、竈山といってもそう高い山ではなく丘のような感じで、季節は初冬、もう夕方に近づいていたせいか、御陵は鬱蒼と茂る黒い樹木の中にあって薄闇に包まれ、辺りは冷え冷えとした空気に包まれていた。
貴志川線 猫のたま駅長
再び和歌山市を訪れた。実は南海沿線のM町に夫の両親の墓があり、墓参の後、時間があれば、周辺に足を延ばしているのである。今日も墓前に手を合わせた後、南海電鉄で和歌山まで出ることにした。JR和歌山駅まではバスで行き、そこから貴志川線に乗って終点、貴志駅まで行ってみることにする。
貴志川線は、和歌山駅から貴志までを結ぶ約14キロの路線である。古くは沿線の三社参りに利用される電車であったが、近年は経営不振が続いて赤字線となっていた。利用者増対策として、自転車をそのまま車両に積み込めるようにして便宜をはかるなど、あれこれ知恵を絞っていたようだが、次第にその存続も危ぶまれるようになっていたらしい。数年前に、遂に南海電鉄から岡山の会社へと経営母体が変わり、それとともに一つの転機も訪れることになった。
当時終点の貴志駅の売店では三匹の猫が飼われ、利用客に親しまれていた。けれども経営陣が変わったことで猫たちは住み家を追い出されそうになり、それを案じた飼い主の売店のおばさんが駅を訪れた社長に直訴し、引き続き置いてもらえるようになったのだという。三匹のうちの一匹、三毛猫たまの人気が出たのはそれからである。
二〇〇七年には、たまは駅長に就任、特製の帽子をかぶって改札口の台で坐っている姿がテレビなどで報道されて有名になり、仕事をする猫として海外でも紹介された。なんでもフランスからドキュメンタリー映画(世界の働く動物を集めた)の撮影にきたそうだ。
今年度からは内装に工夫を凝らしたたま電車も運行するようになり、たまのバッジ、マグネットクリップなどの文具、キャラクターグッズや写真集も相次いで発売された。
まさに現代の「猫の恩返し」なのである。たまに会いにやってくる客が多く、貴志川線は利用客が大幅に増え、和歌山県も経済効果が増大し、たまは人気の福猫となった。
今から二年ぐらい前であったろうか、この沿線にあるいくつかの神社を訪ねた折、終点近くの伊太祈曽駅まで行ったのだが、そのときはたまのことは知らなかったので、そのまま帰ったのであった。今回は終点まで足をのばすことにする。
貴志川線はJR和歌山駅の構内から出ている。地元の特産品にちなんだいちご電車、趣向を凝らしたたま電車など面白い電車があるのだが、時刻表を見ると本数が少なく、時間の関係で行きは普通仕様の電車に乗った。
素通りしていくのも、と思い、日前宮駅で降りて日前・国懸神宮に寄ってお参りしていくことにする。再び駅に戻って貴志川線に揺られ、先へ進んでいった。緑が多く、のんびりとした田園風景の中を走っていくのであるが、ふと貴志川線は岡山の吉備線の雰囲気にどこか似通っていると思った。沿線に古社(吉備線には一宮の吉備津彦神社や吉備津神社などがある)があるのも共通している。
途中駅で、ちょうど向かい側のホームにたま電車が入ってきて停車した。若い外国人カップルが目ざとく見つけてホームに降り、盛んにカメラで写していた。この人たちもたまのファンらしい。
三十分ほどで終点貴志駅についた。思ったより小さな無人駅であった。乗客はほとんどがたま目当てのようで、「たまちゃーん、可愛ーい」と改札口に群がって大騒ぎであった。たまは騒ぎには馴れているのか、特別に拵えてもらったガラス張りの猫舎、つまり駅長室の中で長くなって昼寝中であった。
猫は全部で三匹と聞いていたが、中にいたのは二匹で、三毛猫のたまと赤茶トラのチビであった。お母さん猫のミーコは先月亡くなったのだそうだ。たまは駅長、他の二匹は助役と聞いていた。
たまはほとんど向きを変えることもなく、仲間のチビとともによく眠っていた。遊び道具のおもちゃやキャットタワー、棚、水入れ、敷物など至れり尽くせりのものに囲まれた空間であったが、絶えず大勢の人に見つめられて、関心を持たれているのが気の毒でもあった。名前を呼ばれると、気になるのか寝ていても反応して、耳がぴくりと動くのである。季節は夏の終わり、夏休み中であったので子供たちが多かった。ガラスを手で叩いてこちらを向かせようとする子、大声で呼びかける子、親のほうも携帯をかざす人、指でガラスをつつく人・・・・。
時折たまが思い出したように寝返りを打って伸びをするたびに、そのしぐさに見物人は大喜びであった。確かに肉球が可愛い。
ここへ猫を捨てていく人もいるらしく、壁には「ネコを捨てないでください」の張り紙があった。連れてきた犬を近づけたり、フラッシュをたいて猫をおびえさせる人もいるらしくて、それを禁止する張り紙もあった。もとは静かな駅であったのだろうが、今は電車が着くたびたま見物の人が押し寄せてくる。
売店の中は、たまグッズを買い求める客で賑わっていた。壁にはたまへの感謝状や、スーパー駅長に任命すると記した辞令などが何枚も額に入れて飾ってあった。どれも遊び心いっぱいの文面の賞状である。売店にはたまの成長を記録した写真ファイルも置いてあったので、ちょっと見せてもらった。それには赤ちゃんの頃のたまから、大きくなっていくたま親子の姿が折々に写されていて、飼い主のおばさんが愛情を込めて育てていたことがうかがえる内容になっていた。もともとおとなしい穏やかな性格の猫だったのだろうが、おばさんのおかげで猫の親子はずっと人を信頼しきって、安心して生きてきたのだろう。たまのお母さんがとても人なつこい猫だったようで、たまもその性格を受けついだらしい。それにしてもたまは重い服や帽子を着せられて、どうしてあんなにのんびりした表情で泰然とカメラに収まっていられるのだろう。
ここはたましかないので、お客もたまを見飽きると次々帰っていく。(粘ってたま電車を待っている人もいた)
帰り際にたまを見ると、やはりさっきとおなじ姿勢で眠っていた。こうやってみるとかなり大柄な猫である。残念ながら改札台の上に坐って愛嬌を振りまいている場面は見られず、見たのはほとんど無防備という感じの寝姿のみであった。たまはもう老齢に近く、十歳を過ぎたということであった。
(以前、うちでやはりたまという名の三毛猫を飼っていて、十三年生きていて家族同様であったが、晩年は動作が緩慢になり、ほとんど終日うつらうつらしていた。たまを見ていると、うちのたまの姿が重なり、元気だった頃の様子があれこれ浮かんできて懐かしく思い出された)。
廃線になるかと思われた貴志川線は、たま効果で一挙に活性化していった。なんとか猫を追い出さないでほしいと訴えた売店のおばさんの思い、その懇願に端を発したことだが、逆にその猫を駅長に任命してしまい、話題づくりを提供するという意表を突く発想が功を奏したということであろう。猫駅長のアイデアを思いついた人はかなりの商売上手とみた。
近年のたまの人気にあやかって、老朽化した貴志駅も近く猫の顔型の屋根のものに新調されるそうである。今度は全国初の猫の駅舎、完成時にはまた話題となるのに違いない。けれども肝心のたまはもう相当高齢になっている様子で、寿命もそのうちに尽きる日が来るのだろうし・・・・(ひょっとしたら代わりの猫も準備されているのかもしれないが、そのことを思うと寂しい気がする)。
ガラス越しに、眠っているたまに挨拶してから帰りの電車に乗り込んだ。
帰途は、やはり素通りができなくて、伊太祈曽駅で降り、伊太祁曽神社にお参りすることにした。この神社は二度目であるが、なぜか妙に郷愁が感じられる親しみやすい神社である。前回と同じくお参りの後、木の俣くぐりをしてから境内を歩いた。
伊太祈曽駅に戻ると、駅舎には、たまの絵が額に入れて飾られていた。写真から描き起こされたのだろうか、手間をかけたきれいな精密画であった。
ホームにたま電車が入ってきて、ここからはそれに乗ることができた。乗客は子供たちが多く、車内を眺め回して皆楽しそうであった。白い車体には、たくさんのたまのイラストがあり、内部は、たまで埋め尽くされていた。座席クッションはさまざまなポーズのたまプリント、車両の継ぎ目にはたまの暖簾、吊り輪は三毛にちなんで三色交互、ブラインドも細かい猫模様、たま専用の座席らしいサークルの足はむろん猫脚、アーチ型の背もたれの長い椅子の足も猫脚、書棚もあってたまの本が置いてあって、車内吊り広告は当然たまで、ランプは凝ったネコ型、床にも猫の足跡模様が点々と・・・・。
愉快な電車で、この電車に乗りたくてわざわざ遠くから訪れる人も多いという。猫好きの人にはきっと楽しいに違いなく、和歌山県の経済にたまは大きな貢献をしているのだと実感した。たまは現代の招き猫なのだった。
車内を歩いて、工夫の猫デザインを感心して眺めているうちに、時間が過ぎていき、気がつくと電車は和歌山駅の構内へと滑り込んでいくところだった。