高良大社 (筑後一宮) 高樹神社
高良大社 (筑後一宮) 高樹神社
筑後国一の宮高良(こうら)大社は久留米市の東方、高良山(標高三一二メートル)山腹にある。JR久留米駅のホームで電車を待っていると、頭と羽が青く腹部が柿色のきれいな鳥がベンチ近くに飛来したので、そっと観察する。イソヒヨドリかと思う。人なつこい感じでしばらくこちらを見ていて飛び立った。筑後川が近いので水辺に棲んでいるらしい。
車窓から風景を眺めていると、高良山は耳納山地の西端に位置しており、山並みは緩く連なって緑が広がり、旅人の目を楽しませてくれる。最寄りの久留米大学駅で降り、地図を見ながら山の方向に向かって歩き始めるが、この日はあいにく気温三十度超えの予報であった。大社まで歩くと一時間はかかるらしい。御井町の一の鳥居前まで進んだものの、あまりの暑さに歩くのを断念、タクシーに乗って高良大社へ。
高良大社は、古くは高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)神社と称した。祭神は高良玉垂命、八幡大神、住吉大神の三柱。
高良玉垂命は、通説では武内宿禰(神功皇后を補佐し新羅遠征に貢献した忠臣)のこととされているが、ほかにも綿津見神説、景行天皇説、水沼祖神説、高麗の神など諸説あって判然とせず、その正体は謎に包まれている。
伝承によると、神功皇后の外征の折、皇后の求めに応じて高良の神が顕現し、潮の満ち干を司る潮満珠、潮干珠を自在に操って戦いを勝利に導いたのだという。玉垂の名の由来となっているそうである。
風土記によると、景行天皇が「筑紫の国御井の郡(こほり)高羅の行宮(かりみや)に御(いでまし)て」とあり、「高羅山に就(つ)きて梶山となして船を造り備えて」などと記述してあることから、当地が景行天皇巡幸の際滞在された地であろうとされている。これらの記事が景行天皇祭神説の根拠となっているらしい。
水沼祖神というのは、おそらく土地神のことであろうし、高麗の神というのは渡来神を意味すると思われる。玉垂命という祭神の名に、多くの異なる名があげられているのは、この地を支配した氏族、政権の交替による神の入れ替わり、祭神の重なり、祭祀の変遷などの事情によるものであろう。
高良大社では長く高良玉垂命の名で祭祀されている。そこには本来ここを領した山の神、先住民の神、土地固有の神、支配者氏族の守護神、渡来神、など多くの祭神の名が重なっているのではと思われる。神が神の上に重ねられてゆくのである。古層をめくればさらに古い神も顕れてくるであろうし、古へ時をさかのぼればさかのぼるほど、先住民の古い地霊も顔を覗かせるに違いない。名があがっている多くの祭神名(十を超える)は、各時代にここへやって来て地域を支配し、去っていったかつての支配者たちの浮沈の姿を彷彿とさせる。
ここは地形からもわかるように交通、軍事において古来要衝の地であった。境内から眺めると眼下には筑後川が滔々と流れゆき、豊かな緑の平野が広がっている。山麓は軍事拠点にふさわしい地、時の政権はここに着目し、ここを掌握しようとしたことであろう。高良とはそういう地であった。
侵攻してきた新勢力と土地の旧勢力との拮抗、対立、衝突、和睦、服属など、長い年月の間にはさまざまな出来事が起きたかと思われる。祭神とされる神名の多さ、その神霊にまつわる解明できない謎は、当地で起きた抗争の歴史、その痕跡を暗に物語っているのかもしれない。時を経るうちに人々の記憶から少しずつ遠ざかっていったであろうが、神は消滅してしまうわけではない。今なお多くの神霊が高良山に鎮まっているのかもしれないが、何はともあれ高良大社ではそれら神々の名を個別にせず、高良玉垂命の名で祭祀されているようである。
お社の創建は、由緒によれば履中天皇元年ということであるが、それ以前にも祭祀は行われていたと考えるのが自然であろう。現在社殿、建物は長期修理中のためシートがかかっており、落ち着かない気分のまま参拝を終える。壮麗と聞いていた社殿が拝観できないのは残念であった。
境内には「八葉石碑残欠」という列石の一部があった。神籠石(こうごいし)と呼ばれる石積みで神域を囲んだそうである。石の傍らには大楠が枝を広げてそびえ立ち、見上げると風格ある立派なご神木であった。本殿から少し右手に奥宮へ至る参道があったので入ってみることにした。山へ入る道は二本あって、一本は尾根道なので険しいといい、もう一本が歩きやすい参道という。
参道は木立に包まれた穏やかな道であった。野鳥の囀りに耳を傾けながら二十分も歩くと小さな鳥居が見えてきた。奥宮(水分神社)であった。
清水が湧き出ていて、汲むととても冷たくて心地よい。奥宮はこの霊泉を祀ったのであろう。奥の壇には墓石のような形の石塔が一基あり、これが武内宿禰の廟とされるものかもしれないと思った。
伝説的な長寿の老臣である武内宿禰であるが、記紀を読むと、この人の名が出てくるところでは、皇軍を率いて賊徒を平定、討伐、鎮圧するなど戦に関する場面が多いのが特徴である。戦前は紙幣にも使われたそうで、イメージは白い髭の老人、その墓所として有名なのは、終焉の地とされる因幡一宮宇倍神社境内の「双履の石」であろうか。神功皇后の近侍で武人として名高く、また神降ろしの場で審神者(さにわ)を務めるなど霊的な人でもあったようなので、各地の神社で祀られているのだと思われる。
奥宮でしばらく休憩したが、通り抜ける風が涼しくて何ともすがすがしく、頭上の梢からホトトギスがしきりに鳴くのを聞いていると、時を忘れるようであった。鶯とホトトギスの鳴き声はよく間違うのだけれど、ここでははっきりとホトトギスのものと聞き分けられた。姿を見たいと思って枝に目を凝らすが、見つけられなかった。
時間と体力があれば山頂まで行きたいと思うけれども、休憩の後、下山することにした。霊泉はここから管を通して、ずっと大社の境内まで引かれているようにみえた。その細いハイプの先を目で辿りつつ山道を下ってゆくと、途中で管がふっと千切れ、地表に剥き出しのまま放置されていた。
高良大社まで戻ってきた。往路は仕方なく車を利用したが、帰路は石段の続く参道を降り、駅までゆっくりと歩くことにする。石の階(きざはし)は二の鳥居までずっと続いてゆくが、自然石を積んだものなので、不揃いで少々歩きにくい。けれども自動車道が三の鳥居へ通じるまでは、参詣の人は皆この長い石段の道を往復したのであろう。平地にあるお社なら誰でも気軽にお参りできただろうが、ここは体力を要する神社なのであった。
下ってゆく石段の途中に「馬蹄石」と呼ばれる玉垣で囲った神石が見られた。これは高良の神の鎮座伝承の岩で、馬の足形というそうである。神籠石といわれている。この神籠石は、境内の列石の八葉石とは異なる由来のもので、神降臨の謂れを持つ聖石であった。表面に出ている部分は窪みのある小さなものだが、地中には深く埋まっているらしい。
そこを離れて少し下った参道脇には別の列石があった。説明によると、列石は先の馬蹄石を起点とし、ぐるりと神域を取り囲むように大きな馬蹄形を描いて築かれているそうで、その最後の列石がここということであった。山城の石組部分で、防護のためともいわれているが、結界の意味も合わせ持つ呪的なもののようである。
さらに下ってゆくと二の鳥居に出た。鳥居の横に摂社の高樹神社とあったので、訪ねてみることにする。社殿は小高い位置にあり、御手洗池と遠く市街地を見おろすような布置になっている。
祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)。別名高木の神、高良山の地主神で高牟礼の神とも。古縁起によれば、高良山は古くは高牟礼山といわれたそうで、高木の神は地主神として山上に鎮座していたが、高良玉垂の神に一夜の宿を乞われて貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界としたため山上に戻れず、ここに鎮座するに至ったということであった。
新来の神が来て旧来の神の地を抑え、そこに鎮座する例は、ここだけに限らない。普通一宮といえば、地域の守護霊や地霊、土地固有の神を祀っていると思いがちだが、中央政権の神や新たな支配者が主祭神とされている場合もしばしばあり、力関係を考える上で興味深い。祭祀が体制の維持と結びつき、切り離せないものであったからだろう。神の鎮座に関し、この高樹神社と似たような逸話伝承があるのを思い出したので、伊豆一宮三嶋大社の例を紹介してみよう。
三嶋大社の祭神大山祇神(おおやまつみのかみ)は、伊予の大三島から伊豆へ勧請された神であった。下田の白浜海岸に祀られた後、白浜から三島の現在地に遷座したのだが、その際三島の土地神である若宮八幡に対し、藁一束分の土地を譲ってほしい、と頼んだ。若宮八幡神が承諾すると、大山祇神は藁を解いて結び合わせて長くし、広大な土地を領有してしまったという。その後若宮八幡は伊豆二宮とされたが、その折に抗議の意をこめて、大山祇神の社に背を向けたとされる。・・・・
ともに新旧の神の間に、何らかの軋轢があったことが予想できる逸話である。旧来の神は、新来の神にその座を譲ることを余儀なくされるが、滅ぼされてしまうわけではなく、旧の神霊はその力を弱められ、新しい神に従属させられるという形をとっている、という共通点がみられる。
ここ高樹神社もたぶんそういうことなのであろう。高木の神がいつの時代に山上に鎮座していたのか、また結界の神籠石がいつ神域に設けられたのかは、定かではないそうである。改めて高樹神社の佇まいを眺める。左手は山の斜面になっている。拝殿と本殿があるが、拝殿の鈴の緒はぼろぼろ、鳥居のしめ縄は傷んで外れかけ、境内の雑草は伸び放題であった。落魄の神のお社の印象である。お参りしようとするが、拝殿の戸は閉ざされており、小さな節穴に目を当てるか、左下の戸の隙間から屈んで覗くしかない。身を屈め板戸の四角い隙間からそっと本殿を見つめる。拝殿は暗いが、前方には明るい午後の陽射しが差し込んでおり、一対の狛犬と奥の本殿が望まれた。辺りはひっそりとしている。そこにはどことなくうら寂しい気配の漂う空間が広がっていた。