一古の海人族の社一
筥崎宮(筑前一宮) 住吉神社(筑前一宮)
宮地嶽神社 宮地嶽古墳 奥の院
一古の海人族の社一
筥崎宮(筑前一宮) 住吉神社(筑前一宮)
宮地嶽神社 宮地嶽古墳 奥の院
1 住吉神社
筑前一宮は筥崎宮と住吉神社の二社あり、どちらも一宮とされる古社である。住吉神社の方を先に訪れることにした。JR博多駅から徒歩十分あまり、社叢は町の賑わいの中にある。南門から入ったが表参道でないのに気づき、摂社天津神社のほうへと回り、改めて西門から入り直すことにした。
由緒によれば、博多の住吉神社は全国で二千を超える住吉神社の始原の社で、祭神は住吉三神。すなわち底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うはつつのおのかみ)の三神である。海上航海の守護神で、主として九州を拠点とする住吉海人族の奉じる海の神であった。神出現の謂れは海の禊(みそぎ)にかかわっている。
伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)は、火の神の迦具土(かぐつち)神を産んで亡くなった妻の伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)を黄泉の国に追ってゆくが、妻との約束を守らず、火を灯して変わり果てた妻の姿を見たため怒りを買い、黄泉醜女(よもつしこめ)の軍に追われる。追跡をかわし黄泉比良坂(よもつひらさか)で追ってきた妻と応酬の後、離別して地上に帰り着いた。伊弉諾大神は冥界で受けた身の穢れを祓うため、海にもぐって禊祓(みそぎはらえ)を行うが、その折の禊の泡から生まれたのが住吉三神であった。
・・・・伊耶那岐(いざなぎ)の命(みこと)は黄泉の国からおかえりになって「わたしは随分いやな汚い国に行ったことだった。禊(みそぎ)をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波伎原(あはきはら)においでになって禊をなさいました。・・・・水底でお洗いになった時に現れた神は、底津綿津美(そこつわたつみ)の神と底筒(そこつつ)の男(お)の命、海中でお洗いになった時に現れた神は、中津綿津美(なかつわたつみ)の神と中筒(なかつつ)の男(お)の命、水面でお洗いになった時に現れた神は、上津綿津美(うはつわたつみ)の神と上筒(うはつつ)の男(お)の命です。この御三方の綿津美の神は安曇(あずみ)氏の祖先神です。また底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命の御三方は、住吉神社の三座の神様であります。(古事記 現代語訳)
綿津美の三神、筒の男の三神と表記名は変えてあるが、同一の神であるという。筒の男三神を祀ったのが住吉族で、綿津美三神のほうを祀ったのが安曇氏、ともに古代の有力な海人族であった。これら三神は航海の守護神とされ、(住吉神社ホームページによると)神名に入っている「つつ」には星の意味があるという。つつとは星の古語で、夕星(ゆうづつ)という言葉にもある通りである。
住吉三神は、オリオン三星を神格化したものという説がある。冬に夜空を見上げればとりわけオリオンが美しい。オリオンは古には、唐鋤(からすき、農具)の星、また三つ星様とも呼ばれ敬われていたという。古の航海の夜、海から上ってきて暗い天空に輝き、船を導く星の神として、三つ星様が海人族に崇められたのは、ごく自然なことであったろう。
つつの意味には諸説あるので紹介しておこう。海人族には船を守ってくれる船玉様の信仰があり、それぞれの船の帆柱の中央部分には、建造時に女性の髪、ひとがた、五穀などを入れた筒をご神体として安置し、船の守りとしていたという。船玉神は住吉三神の荒御魂で、神名のつつはこのご神体を指しているという説である。そのほかにも全国津々浦々という言葉があるように、筒の男とは津の男、津の神(港の神)という説もあるという。つつの解釈をめぐっては諸説あるようだが、個人的にはオリオン三ツ星説に心惹かれる。
住吉三神を祀る社は全国にあるが、多くは海辺、水辺に位置しており、水との深い繋がりを感じさせる。古の海人族が九州から船を進ませて移動し、神を奉じて枝分かれし各地に移り住んでいった痕跡であろうか。
大阪の住吉大社、(摂津一宮 住吉大社の項参照)下関の住吉神社、博多の住吉神社が日本三大住吉といわれている。住吉大社(大阪)も住吉神社(下関)も、その創建伝承は神功皇后の外征と結びつく。川村二郎著「日本廻国記一宮巡歴」によれば、日本書紀では住吉神は長門で荒魂が祀られ、摂津では和魂が祀られたが、九州筑前の住吉神社については言及がなく、海を生活の場とする人々が、土地の守護霊として崇めていた辺地の神、いわば地神的な存在が、大きい名を負うことになったのではないか、とみておられる。
西門前の道路を隔てた池のほとりの摂社、天津神社にたたずんだ。石祠があり、喧騒の中でそこだけひっそりとした感じが漂い、伊弉諾(いざなぎ)大神が祀られている。石祠の近くにはたくさんの鳩が群れていた。前述したように、伝承ではここが伊弉諾大神の禊の海辺、三神出現の地ということになる。古地図を見ると、往古の社は博多湾に流れ込む那珂川河口の近くに位置しており、この辺りは岬になっていたようだ。かつては波の打ち寄せる浜辺だったのであろう。伊弉諾神の禊の地はほかにも候補地がいくつかあるようで判然としないが(宮崎、淡路島周辺、徳島説も)、ここもその一つということになるのだろうか。
池は車が多く行き交う道路に面しており、天竜池(汐入池)というそうだ。昔は海に面しもっと神域が広かったのかもしれないが、諸事情により狭められてしまったかのような印象である。辺りを見まわすが古の地形を想像できず、海岸線が遠のいてしまった現代の情景から古の日をしのぶのは困難であった。
天竜池と西門鳥居は、表参道として繋がっていたはずだが、今は分断され、道路に隔てられている。鳥居をくぐって参道に入ると、すがすがしい緑の樹木に包まれ、頭上から軽やかな鳥のさえずりが降ってきた。真正面に赤く塗られた住吉造の格式ある社殿がのぞまれ、朝の爽やかな空気の中に、荘重な雰囲気が漂っているのはさすがである。社殿に近づくと神社の方々が並び、ちょうど祝詞の奏上がはじまったところであった。
・・・・いざなぎの大神 筑紫の日向の橘の小戸のあはぎ原に 禊ぎ祓へ給ひしときに 成りませる祓戸の大神たち もろもろの禍事(まがこと)罪けがれ あらむをば 祓ひたまひ清めたまふことを・・・・(祓詞)
・・・・残る罪はあらじと 祓ひたまひ清めたまふことを 高山短山(ひきやま)の末より さくなだりに落ちたぎつ 速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津比売(せおりつひめ)といふ神 大海原に持ちいでなむ かく持ち出でいなば 荒潮(あらしほ)の潮の八潮道(やしほぢ)の 八潮道(やしほじ)の潮の八百会に坐す 速開都比売(はやあきつひめ)といふ神、持ちかか呑みてむ
かくかか呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)といふ神 根の国底の国に気吹き放ちてむ
かく気吹き放ちてば 根の国底の国に坐す 速佐須良比売(はやさすらひめ)といふ神 持ちさすらひ失ひてむ・・・・(大祓詞)
(残っている罪がないようにと、 天津神、国津神が祓い清められることを、山の麓から激しく流れ落ちる急流の瀬におられる瀬織津姫という神が、罪を大海原に持ち出す。そして次に潮が激しく集って渦巻く中におられる速開都姫という神が、罪を呑み込む。次に気吹戸におられる気吹戸主という神が、罪を受け取って根の国に吹き放ち、それを根の国におられる速佐須良姫という神が受け取ってさすらい、消滅させてくださる)
人が犯すもろもろの罪や穢れは河川に流され、次々に神によって海の中からさらに底へと運ばれてゆき、やがて世界の深い果てで消滅してゆくのだという。人が身に負った罪や穢れが、最終的に消えてなくなってしまう、という考え方には救済がある。
谷川健一氏の説によれば、海中で罪や穢れを飲み込んで気吹戸主の所まで運んでゆく速開都比売(はやあきつひめ)を、蛇体の神としておられる。(「古代海人の世界」)そうなるとこの場面に登場するほかの姫神たち、川を下る瀬織津姫や、気吹戸主から罪穢れを受け取って海底をさすらい、やがて消滅させてくれるという速佐須良姫もまた、蛇体の神々なのであろうか(川の蛇、海蛇、などの水中生物を神格化したものとも思えるけれど)。谷川氏の説を読んでいると、気吹戸主は、海中で鳴門の渦潮のような大渦を起している主のような存在として想起され、激しく渦巻く潮流を神格化したのでは、とも考えられてくるのだった・・・・。
勝手な思いに耽っているうちに祝詞は終了していた。十月中旬の朝の爽やかな空気の中、ここで聞かせていただく祓詞、大祓詞には格別のものが感じられ、しばししみじみと聞き入っていた。境内を歩いてみると、社殿の左手には磐座があり、見たところ古墳の一部かとも思われるが詳細はわからない。裏手の稲荷社から回り込んでいくと、恵比須神を祀るお社があり、そこが先ほど入った南門であった。
2 筥崎八幡宮
地下鉄で移動し、筥崎八幡宮へと向かう。地上に出て海辺を見ると、博多湾を背景に小さな赤い鳥居が立ち、青い海の色が映えているのが印象的であった。近づいてみたくなって、社殿とは逆方向になるが、海へと歩きはじめた。美しい浜辺に降り、白い砂浜を散策できるのでは、と内心期待したのだが、道路を渡った地点でフェンスに行く手を遮られてしまい、脇道を探している時間もなかったので、それ以上進むことを諦めた。フェンス越しに青い波の輝きと鮮やかな朱色の鳥居を眺めて、もとの道へと引き返す。
筥崎八幡宮は、石清水八幡宮(京都)、宇佐八幡宮(大分)とともに日本三大八幡宮のひとつという。重量感のある石造りの大鳥居をくぐった。石鳥居は何となくむっくりとしたかたち、振り返れば長い参道は海まで一直線に伸びている。鳩がたくさん群れており、持参したパンの耳をちぎって与える人もいた。鳩は八幡宮でよく見かける鳥、八幡神には所縁のある鳥である。(このことは豊前一宮 宇佐神宮の項にも書いている)
有名な「敵国降伏」の扁額のかかった楼門を見上げる。楷書体で力強く書かれ、これは醍醐天皇のご宸筆であるとか。元寇の際には亀山天皇も納められたそうである。
祭神は応神天皇とその母の神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)。武神の八幡神は応神天皇と同一視されている。少し記紀の世界を見てみよう。
・・・・熊襲を平定するため、仲哀天皇と后の神功皇后は筑紫の香椎(かしひ)の宮におられた。天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さには)をつとめた神降ろしの場で皇后が神がかりし、神を祀って軍を進めれば、西方の宝の国、新羅を得るだろうと託宣があった。そのとき皇后に懸かった神は天照大神、住吉三神らであった。しかし天皇は疑いを持ち神託を信じなかったため、にわかに崩御された。そのとき皇后はすでに身ごもっていたが、神々を信奉し住吉族、安曇族、宗像族ら各地の海人族からなる軍団を率いて海を渡り、戦で勝利をおさめた。皇后は帰り着いて筑紫の宇美で御子(応神天皇)を無事に出産し、戦功のあった住吉海人族らに対し、褒賞として住吉社などを各地に建立しつつ、大和を目指して帰還した・・・・。(古事記、日本書紀神功紀)
筥崎宮の祭神は、土地の神ではなく、応神天皇とその母で外征に勝利した神功皇后であった。海に向かって建てられた社の向き、楼門に揚げられた「敵国降伏」の扁額は、来襲する敵を睨み返しているかのようである。そして社号の筥崎宮とは、皇后出産の折の胞衣(えな)を箱に入れて地におさめたという伝承に由来するという。武勇の神とされる応神天皇、勝運めざましいその母であるから、特別な呪力がこもっているとされたのであろうか。境内には筥松と呼ばれる神木の松があり、玉垣で囲ってあった。
社の創建に関しては諸説あるようだが、(神社ホームページによると)古録では醍醐天皇のときの造営と説明されている。元宮は古には別地にあったとされ(大分八幡宮)神託により当地に遷座したとのことである。社殿は元寇の折に襲われて焼失、また戦乱時にも被害に遭って荒廃し、現存する楼門、本殿は十六世紀に再建されたものという。
「敵国降伏」というものものしい四文字が示しているとおり、ここは海上安全、国家鎮護の祈願のための社であった。外敵による国家危急の折には、日夜ここで真剣な祈りが捧げられたことであろう。けれども今は幸いにも平和な時代、授業なのか中学生が大勢来て境内の木陰に思い思いに座り込み、楼門や鳥居の写生を続けているのであった。
3 宮地嶽神社・宮地嶽古墳・奥の院
JR福間駅で下車し、路線バスで宮地嶽神社へと向かう。バス停から神社を目指して土産物店の並ぶ参道を歩きはじめると、ほどなく石段下へ。境内からは社の後方にある宮地岳・在自山の優美な稜線がのぞまれた。(神社ホームページによれば)山頂には宮地嶽神社の古社があるという。神功皇后が新羅との戦の折ここに滞在、山頂に祭壇を設け、大海原を臨んで天神地祇を祀り、戦勝祈願の後、船出されたのだとか。霊験があって外征は大勝利をおさめた。その由来により宮地嶽神社は開運、勝運の社として広く信仰を集めているそうである。
主祭神は息長足比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。配祀として勝村大神、勝頼大神、聞いたことのない名であるが、神功皇后に随伴した将という。渡韓の折に協力し戦功のあった地元海人族の将を祀っているのであろうか。
社殿にたたずむと、重さ五トンという巨大な大注連縄に驚かされる。出雲大社の大注連縄をしのぐそうで、捻った部分はたいそう太く厚みがある。全国一という大太鼓、大鈴も奉納されていて、その大きさに圧倒されつつ、社の右手から山道へと進んで、奥の宮八社へと向かう。道すがら豪華な本殿が垣間見え、その屋根は秋の陽ざしを受けて金色にまばゆく輝いていた。
山の中腹に祠が八社あり、七福神、三宝荒神、稲荷神、地蔵尊などが祀られていて、順に参拝できるようになっている。道は整備されていて、次の祠がもう見えているくらいなので、ゆっくり巡ってもそう時間はかからない。八社の中で特に有名なのが、お不動様を祀る不動神社であった。横穴式古墳の石室の中に、不動明王が祀られている。古墳の建造時期は六世紀末から七世紀初にかけてのものとされ、円墳で直径三十四メートル、石室の長さは二十二メートルとかなり大きい。
江戸時代(十八世紀)になって、山崩れにより古墳がはじめて口をあけ、村人や修験者を驚かせたという。人々は畏怖してここにお不動様を祀り、現在に至っている。それまで古墳の存在は知られておらず、このときになって古墳の全容が明らかになったという。多くの副葬品が出土し、壷鐙(つぼあぶみ、馬具)、ガラス板(装身具の材料)、玉、太刀の装具、透し彫り金銅製の冠などが見つかったそうである。それらは国宝に指定され博物館に収蔵されているという。
古墳の被葬者が誰かということについては、豪華な副葬品、古墳の規模からみて、この地方を支配した宗像一族の長ではないか、といわれている。胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん、むなかたの表記は何通りも)説が有力のようである。胸形君徳善とは、天武天皇の妃になって高市皇子を生んだ尼子娘(あまこのいらつめ)の父親であった。けれども古墳の被葬者は宗像一族ではなく、筑紫君磐井の末裔との説もあって定かではない。
古墳には謎があるようだが、被葬者の霊を鎮めるため、かつて筑紫舞が古墳で舞われていたそうである。男性による勇壮な跳躍の舞だそうで、現在は宮地嶽神社の社頭で、神職らによる舞が、祭礼の折に奉納されるとのことであった。
奥の宮八社の山道は特に急勾配ということはなく、順路の途中には登山道の入口があって、健脚の方は、そのまま進めば山の頂上へも行けるようである。
宮地嶽古墳は、その登山道口の近くにあり、不動神社の拝殿の奥が古墳の羨道、石室へとつながっている。古墳の入口が神社になっており、古墳の内部は濡れたような黒っぽい岩肌で、全体に湿潤な感じである。暗い奥に灯りがともっていて重い空気が漂い、古代の闇を思わせるどこか幻想的な雰囲気の中、無言のままたたずんで閉じられた前方空間を見つめた。羨道の長さは大変長いそうであるが、奥までの立ち入りはできないので、玄室がどうなっているのかはわからない。見える範囲では、羨道内部は想像していたよりも暗く感じられ、密室にいるという圧迫感は強いようであった。発掘調査がすでに終わっていることは頭ではわかっているが、今なおこの奥に死者の魂がひっそりと瞑りつづけているのでは、という思いが起きてくる。その瞑りをさまさないように、物音を立てないよう息を詰め、闇に閉ざされた岩屋の向こうをそっとうかがいつつ拝したのであった。
お社巡りを終え、宮地嶽神社へ戻ってきて木陰で休憩した。見上げると社の後方の山のかたちが秀麗である。時折風が吹き降ろしてくるのが心地よく、秋の色が深まれば、境内の樹木も奥の院の木立も、紅葉が美しいのであろうと思われた。帰途なにげなく石段上でたたずむと、海岸まで一直線に太い線を引いたように力強く参道が延びている。眺めていると、まるで心の中に一本線がすっと刻まれていくかのような感覚が起きるのだった。