一山陰の一宮一
物部神社(石見一宮) 石見銀山 鞆ケ浦港
一山陰の一宮一
物部神社(石見一宮) 石見銀山 鞆ケ浦港
石見一宮 物部神社
大田市で一泊し、翌朝バスで南下して、石見一宮の物部(もののべ)神社を訪ねた。物部氏は、大和朝廷の中で大伴氏と並び、軍事を司る古代氏族であったが、六世紀後半に蘇我氏との抗争に破れ、物部守屋が本拠地の河内渋川で戦死すると没落、歴史の主流から姿を消していった。その物部氏の祖、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)を祀る神社がここである。
物部氏の職掌は軍事、刑罰とされるが、本来は呪術、祈祷、神事などを行う氏族であった。物部の「もの」とは精霊、霊魂を意味し、これらとの霊的な交流、神託、占い、まじないに長けた氏族であったという。
静かな町並みを歩き、大きな木の鳥居をくぐって境内に入ると、側面に四つの勾玉が装飾された珍しい手水舎が目についた。これは含金石で砂金を含んでいるという。さすがに金属精錬に係わりがあったという物部氏の手水石、と納得し感心しながら見ていると、龍吐水の溜まる所も勾玉の形に彫りくぼめてあった。計五つの勾玉、こんな風に勾玉づくしなのは、やはり古から物部氏が携わってきた呪術に関連するのだろう。
奧へ進むと大きな社殿がありその威容に圧倒される。背後には神体山の八百(やお)山が迫り、樹木の緑は深く濃い。社殿は県下では出雲大社に次ぐ規模で、春日造のお社では全国一という。武人の物部氏にふさわしく、華麗ではないが勇壮で重厚な社殿が営まれていた。
祭神は宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)、物部氏の祖神という。
記紀によれば、父親の饒速日命(にぎはやひのみこと)は神武天皇よりも先に大和の哮峰(いかるがのみね)に天降り、土地の首長、長髄彦(ながすねひこ)の妹、御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って、宇摩志麻遅命を生んだ。
神武軍が大和に攻め入ったとき、対峙した長髄彦は使いを送り「昔、天神の御子は天の磐船で天降り、自分の妹を娶って子もなしている。天神の子はなぜ二人もいるのか」と神武に問いただした。饒速日の天羽羽矢(あめのははや)と歩鞆(かちゆき)を見せられた神武は、それを天神のしるしとして「まことなりけり」と認め、天神の子は多くあるとして、自分の持つ天神のしるしの天羽羽矢と歩鞆を長髄彦に見せている。
結局饒速日は長髄彦を殺し、(あるいは長髄彦は自ら死を選んだとも考えられる)一族を率いて宇摩志麻遅とともに神武に帰順し、以後天皇に仕えて軍事を司る物部氏の祖となっていった。大和に先立つ日下(くさか)の初戦において、神武軍を迎え撃った長髄彦軍は優勢で、神武の兄の五瀬命を毒矢で負傷させ、死なせていたから、神武が決して長髄彦を許さないことを、知っていたからであろう。
記紀とは別の伝承もあるので記しておく。
先代旧事本紀では、饒速日命による降臨が語られる。一族の人々とともに天の磐船に乗り、十種神宝を携えた饒速日命は、大和哮峰に降り立ち、土地の豪族の長、長髄彦の妹を娶った。けれども饒速日は、子どもが生まれる前に死んでしまったというのである。男女両方の赤子の名を考え、前もって妻に言い置いていたとされる。(この後、一族の男が饒速日を名乗って統治したという伝承もあるが)長髄彦は饒速日を主君とし、仕えていたという。おそらくは甥にあたる宇摩志麻遅が成長するまでの間、長髄彦が実質的な庇護者でもあったのだろう。
(これとは別に、宇摩志麻遅を饒速日と同一視する説もあるようだが)饒速日と宇摩志麻遅は、侵攻してきた神武軍の勢いを見て、長髄彦を討ち、その功績をもって神武に帰順したとされる。もしそうなら、いくら氏族存亡の瀬戸際にあったとはいえ、身近な肉親を裏切ったかたちになったことで、おそらく一族や身内人々の非難と怨嗟を生んだであろうことが想像される。
神武が大和を平定後、畝傍橿原の宮で即位したとき、宇摩志麻遅は神楯を立てて斎き祀ったという。また父から授かった十種神宝を天皇に奉って、鎮魂(たまふり)の呪術を行ったとされる。この儀式が以後宮中における鎮魂祭の始まりになったという。この場合の鎮魂とは、死者を慰霊することではなく、衰えかけた人の魂を揺すぶり活力を与える呪法のことであるという。
ちなみに十種の神宝とは、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるがえしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちがえしのたま)、蛇比礼(へみのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)。何やら神秘的な品々のようであるが、これらを揺り動かしたり、唱えごとをしたりすると、呪力を発揮するのだそうである。
神宝の内訳をみると、鏡二面、剣一振り、玉四果、領巾三枚である。鏡、剣、玉と揃えば、それらは言うまでもなく王権の象徴といわれるものであった。本来なら宇摩志麻遅自身がこれらを保有し、大和の王として君臨するべき人であったのだ。ところが侵攻した神武軍に屈して、王権象徴の品々を神武に渡してしまうのである。帰順し傘下に入ることでしか、一族が生き延びる道がなかったからであろう。
苦渋の選択をせざるを得なかった宇摩志麻遅だが、その後の道のりも決して平坦ではなかったようだ。物部神社由緒によれば、宇摩志麻遅は勅命を受けて神剣を賜い、物部の兵を率いて、賊徒平定の任務のために遠国へと旅立っていく。そして異母兄の天香山命(あめのかごやまのみこと)も同様に勅命を受け、この兄弟は大和を離れてゆく。
身分も力もある旧勢力の兄弟が、そのまま大和にとどまっていれば、政権側から見れば新たな脅威となる可能性があっただろう。賊徒討伐の勅を授けて、大和から遠ざける意味もあったかもしれない。
兄は越の国を平定後、開拓英雄神として祀られ、弟の方もまた石見の国の開拓英雄神として当社に祭祀されている。(経路は不明だが)大和から越まで陸路で行くのなら尾張、美濃へと続くのだろうが、海路なら若狭へ出て越の国へということになる。従わない人々を平定しつつ、遠征を続けていったとされる。兄弟はともに二度と大和に戻ることなく、それぞれの旅先で生涯を終えた。これは形を変えた追放だったのだろうか。天香山命は越の国に留まり、土地を開拓し統治、そこで命を終え、現在も越の国(越後)の弥彦神社(一宮)の祭神として祀られている。
当社社伝によれば、兄弟はともに物部の軍を率いて、尾張、美濃、越の国を平定し、兄は越の国にとどまったが、弟の宇摩志麻遅命の軍旅は終わらず、さらに進んで播磨、丹波、そして石見へと入っていったとされる。石見の地でも戦いはあったようで、複数の賊徒を平定後、鶴降(つるぶ)山で国見を行ったという。国見をするという行為は、その地域を支配し、領有するという意味を持つ。為政者による支配領域の確認であろう。そして八百山が大和の天香具山に似ていたことから、八百山山麓に住居を定めたとされる。物部神社の背後の山が八百山である。宇摩志麻遅命は石見から先へはもう進まず、この地で生涯を終え、墓所も背後の八百山山中に築かれているという。
樹木の緑が美しい八百山を見上げる。低くなだらかな山並みのたたずまいは、どこか大和の天香具山にも通じるものが感じられる。大和に戻ることなくこの地で過ごした宇摩志麻遅命は、社の近くを流れゆく川辺を歩みつつ、八百山を眺め、故郷の山河を偲んだのだろうか。宇摩志麻遅の旅は、勅命による遠征ではあったが、また帰還を許されない旅であったとも考えられ、物部の名を冠する荘厳な社の前にたたずみ、背後に広がる八百山の姿を仰ぎみるとき、そこには何がしかの哀しみも感じられるのであった。
石見銀山
バスで世界遺産の石見銀山跡へと向かう。朝のバスはほとんど乗客がなく、銀山の見どころを紹介するスライド映像が、見る人の少ないまま車内に流されていく。運転手さんがそれでも丁寧に補足の説明をしてくださる。やがてバスは終点の大森に着いたが、ここもひと気のない静かな町並みであった。
五年前、石見銀山跡が世界遺産に登録されたとき、地元は大歓迎であったが、その一方で環境悪化を心配する声も上がり、対策として車の乗り入れ制限が行われたそうである。ところが銀山は一時観光客で溢れたものの、思ったほど客足は続かず、今はその賑わいも去って、訪れる人は年々減ってきているそうだ。
大森町並み地区を歩いてみると、道も溝もきれいに掃除され、住民の人たちはにこやかでとても優しい。お家の軒先の竹筒には野の花がいけられ、さりげない気遣いが感じられる。猫が寝そべるレトロな店先を眺めるのも楽しいし、昔のガラス戸や格子、濡れ縁がそのまま残してあるのもいい。古い民具が飾りに置いてあって、町並みに溶け込んでいるのも好印象なのだが、通りの飲食店の多くは閉まり、かろうじて開いているみやげ物店にも客の姿はなく、いいにくいがわずか登録五年にして、すでにさびれた観光地の持つ雰囲気が漂っているのだった。
中央にあたる銀山公園の観光案内所に行くと、ボランティアガイドさんの説明を受けながら銀山跡を巡るコースがあるというので、お願いすることにした。
最初は三人で歩き始めた。説明していただくのも申し訳ないように感じていたが、無料のツアーと知って途中から加わる人もあり、遊歩道を歩く間に、人数は少しずつ増えていった。緑の多い静かな山の中の道を、川沿いに列になって進んでいると、遠足気分である。流れは澄んでいて、十センチほどの小魚が群れて泳いでいるのが見える。ハヤ(ウグイ)というそうで細長い魚である。ここは鉱山であったのに川も公害が少なく、豊かな自然が残されていることが高評価につながり、世界遺産に登録されたということであった。
石見銀山は鎌倉時代にはすでに発見されていたが、本格的に開発されたのは十六世紀で、博多の商人が海上から光る山を見たのがきっかけという。大内氏と尼子氏の間で銀山を巡って争奪戦が繰り返され、その後、毛利氏、豊臣氏、徳川氏の手へと移っていった。戦いの際に山城が築かれたので、今も城跡が残っているそうである。
掘り出された銀鉱石は、かなめ石を用いて細かく砕き、鉛などの溶剤を加えて合金を作り、それを灰吹き床で溶解、銀と鉛を吹き分けたそうである。この灰吹法という高度な精錬技術が導入されるようになると、銀の産出量は飛躍的に伸び、海外に輸出することができるまでになった。江戸時代には交易で世界にその名が知られ(佐摩村の名からソーマ銀と呼ばれた)、当時世界全体の銀の三分の一にも達したといわれている。
けれども石見銀山は徐々に産出が減っていき、やがて江戸後期には終焉期を迎えてしまう。明治に入って大阪の藤田組が銅採掘を試みるが、銅価格暴落などのため休山、撤退した。
初代奉行の大久保長安の墓所へと案内される。銀山開発に功績があった人だが、その死後に蓄財疑惑が起こり、七人の子どもたちは断罪されたという。評価が分かれている人のようだが、ガイドさんはこの人の不正はなかったとみているようだ。次に藤田組の跡地へと向かう。城壁のようにもみえる廃墟は清水谷精錬所と呼ばれ、山の斜面に、何層もの石垣が段々畑状に積み上げられ、独特の景観をなしていた。
薄暗い龍源寺間歩(まぶ)の中に入ってみる。間歩とは坑道のことで、石見銀山には空気抜きもふくめると五百を越える坑道が点在していたという。龍源寺間歩は通り抜けができる唯一の間歩で、全長六〇〇メートルのうち約三分の一が公開されている。途中には横道へ掘りかけて止めた坑道が何箇所も見られ、人の体がやっと入るくらいの狭さなのに驚く。ノミを使って掘り進める作業は困難を極めたことであろう。さざえの殻に油を入れて灯火にしたという。地下から湧き上がる水の排水には、長い竹筒を継いだものを工夫して用いたそうだ。坑内に充満する粉塵を吸い込むために坑夫の寿命は短く、平均三十歳くらいであったという。たいへんな重労働だったのだ。ただ佐渡鉱山と異なり、刑罰として働かせたわけではなく、坑夫の収入は多くて贅沢もできたという。最盛期にはこの周辺で二十万人が暮らしていたとも。
吉岡出雲(役人)や安原備中(山師)も、銀山開発に功績があったそうである。はじめて聞く人名なので、山道で説明に耳を傾けていると、先頭の人が蛇を見つけて立ち止まった。ガイドさんが棒で追い払ってくれたのでほっとしたが、十分後、行く手にまた小さい赤い蛇が。今度はマムシであった。再び棒に巻きつけて川に捨ててくれる。そういえばここまで来る道で、マムシ注意の立て札を何回も目にしていたのだった。そして大森地区へと帰る道で、三匹目の死んだ蛇に遭遇。自然が豊かだといということは、こういうことだったのだ。一回の散策で三匹も見るのはあまりにも多すぎ、何となく意気消沈した。この後はもう民家の庭先の水道ホースにもどきっと反応する始末であった。
バス停近くで可愛い猫さんたちに出会って心が和んだ。お母さん猫と子どもたち。上手に道路を渡っていくが、事故に遭いませんように、と祈るような気持ちで見ていた。
鞆ケ浦港
石見銀山で産出した銅は、六・五キロの山道を抜けて、鞆ケ浦から積み出されていったという。牛馬を使って運ばれたのであろう(馬路という地名が残っている)。銀山を支えた鞆ケ浦港、その東にある鳴き砂で知られる琴ケ浜を訪ねてみることにした。
JR馬路駅から集落の中を歩いて、海岸に降りてみると、波が砕け散る琴ケ浜の青い海が広がっている。さっそく白い砂の上をこするようにすり足で歩いてみると、きゅっきゅっと砂が鳴るので面白い。よく鳴る場所と鳴らない所があった。
鳴き砂の浜は、日本中でももう数箇所しかないそうである。砂に石英が多くふくまれていると、このような音が出るのだという。ほかに砂粒が揃っていることや、浜がきれいなことが条件であるという。
波打ち際に打ち上げられた海草を観察したり、珍しい貝殻を探したりしてしばらく遊んだ。海岸はきれいである。この景観を保つため、きっと地元の方々がごみや漂着物の除去をするなど、努力されておられるのだろう。以前、京都府網野町の琴引浜へ行ったことがあったが(そこも鳴き砂で知られる)鳴き砂の音色はここと同じで、懐かしい。
海を眺めながら鞆ケ浦に向かって歩いていった。昼食は一軒しかない海辺の食堂「鞆の銀蔵(かねぐら)」で。名物のご飯は、ぼべ貝を炊き込んだ「ぼべ飯」という郷土料理で、テレビで紹介されたこともあるそうだ。潮の香りのする炊き込みご飯である。ぼべ貝とは岩にくっついている巻貝(カサガイ)で、この辺りの海岸では普通に見られるものという。新鮮なアジとイカのお刺身、海草の煮物、お味噌汁にはニナ貝と亀の手という変った形の貝が入っていた。
歴史に詳しい食堂のご主人のお話によると、鞆ケ浦の沖で、博多の商人が光る山を見たことが銀山開発につながり、商人はそのお礼にと鞆ケ浦の鵜島に神社を寄進したという。それとは別に古くからえびす様の石も祀られていて、昔は石を海岸から社へと上げてお祀りし、それをまた海岸へ返していたそうだが、今はずっとお社に安置しているそうだ。
おいしくご飯をいただき、お店を出て鞆ケ浦港へと向かった。徒歩十分ほどである。銀の積み出しで昔は賑わった港だが、今はひっそりとした静かなリアス式の入り江である。少し歩いて波に洗われる岩の間を覗き込むと、岩にはフジツボやぼべ貝などがくっついていた。前方にある鵜島という小島がちょうど波除けになっており、湾には船の係留に適した岩もあって、その背後は崖になっている。地形を眺めていると天然の良港であることが納得できた。
鵜島へは橋が架かっていた。渡りきると石段につながり、それを上ると小さなお社がある。厳島神社とあり、商人が寄進したという謂れが書いてあった。裏にまわってみると確かに丸い石が祀られていて、その石は固定されてあった。
この港は初期には鉱石積出しに使われたが、集落には水が少なかったことから、その後積み出しは温泉津(ゆのつ)港へと移っていったという。ここは一度繁栄し、そしてさびれていったのである。岩礁で釣りをする人の姿が見えるほかは、打ち寄せる荒い波の音だけが響く小島であった。