玉前神社 (上総一宮)
玉前神社 (上総一宮)
玉前神社
洲崎神社、安房神社を訪れた後、内房線から外房線に乗り継いでいると、窓の外はだんだん暗くなっていき、心細くなる。上総一宮駅に降りたときには、もうすっかり日は沈み、商店街には夜の気配が立ち込めていた。いくら自分の都合とはいえ、(遠方に住んでいるので、はたして今後来る機会があるかどうかわからず)こんな夜間の参拝ははじめてで、神様にも申し訳ないと思いつつ駅前にたたずんだ。
商店のシャツターを閉めている人に神社への道を訊くと、案外近いとわかってほっとする。十分ほど歩いていくと鳥居が見えてきた。玉前(たまさき)神社は、住宅や商店との距離が非常に近い町中の神社であった。
道路際に鳥居が立ち、立て続けに三基の鳥居をくぐるともう社殿であった。修理中ということで社殿はシートに覆われ、どこへお参りしてよいのかわからない。神霊をおさめてあるという仮殿を探すが、当然鍵がかかっており外から手を合わせた。
社殿は漆で黒く塗られた珍しいお社と聞いていたが、夜の闇の色に溶け込んで黒はさらに重なり、背後の樹木が影絵のようになって揺れ、もう黒一色の世界である。これがもし深い森の中であればおそろしかったであろう。町の中というのがありがたく、街灯に照らし出された町の賑わいも間近にあり、人の生活の気配が濃く感じられるのがあたたかく安心とも思えるのであった。
由緒によると、創建の時期に関しては、永禄年間の戦火により社殿、宝物、文書を失ったため不詳とのことである。(一説には景行天皇の御代とも)「延喜式」には明神大社として記載があるそうだ。
川村二郎著「日本廻国記一宮巡歴」によると、祭神は社伝では玉依姫命(神武天皇の母)とされるが、古記録によれば「玉埼(たまさき)神」、一宮記では「前玉命(さきたまのみこと)」また江戸期の記録では「ご神体は黒い玉である」とも記されているそうだ。鎌倉時代の「古今著聞集」にはこんな話がみられるという。
・・・・平安の後期の頃、上総一宮の神のお告げとして、自分は妊娠してもう三年経つが、良い時代だからいよいよ子を産むことにする。お告げを聞いた者が海辺に出てみると、美しい玉が一つあった。これこそ若宮のご正体に違いないと人々は信じた・・・・。
玉にまつわる伝承がいくつかみられ、祭神に関しても諸説あるようだ。一宮は土地神が祭祀される場合が多いので、ここも本来は土地にゆかりのある神霊を祀り、「玉前の神」として鎮めていたかと思われる。それにしても江戸期にはご神体が黒い玉とは・・・・黒曜石とか碁石のような黒石を思い浮かべてしまうが、社殿が黒い色で塗られていることと何か関係があるのだろうか・・・・。
この地域には古から続く玉の信仰があって、九十九里浜は古名を玉の浦といったそうである。そのいわれは海から美しい玉、石が上ることがあり、人々はこれらに霊力をみて、光り輝く神として祀ってきたという(寄石信仰)。たとえば大あわびの中からめったにないようなみごとな真珠が見つかったとき、個人では所有せず社に献じられたのであろう。
「日本書紀」安閑天皇の項に、上総国と真珠献納にまつわる話が載っているので引用してみよう。
・・・・安閑天皇元年の夏、内膳臣大麻呂(かしわでのおみおおまろ)が勅命を受け、使者を遣わして珠(真珠)を上総の伊甚(いじみ、現在の夷隅、いすみ市)に求めさせた。伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)らは京(みやこ)に参上するのが遅く、期限を過ぎても進上しなかった。大麻呂はたいそう怒って、国造らを捕縛してその理由を尋問した。国造の稚子直(わくごのあたい)らは恐懼(きょうく)して、後宮の寝殿に逃げかくれた。春日皇后は、逃げ込んできたことをご存じなくて、驚いて転倒され、たいそう恥ずかしい思いをされた。稚子直らは、真珠を奉らなかった罪と、後宮に乱入した二つの罪によって重い罪科に処せられた。それで謹んで、ひたすら皇后のために、伊甚屯倉(いじみのみやけ)を献上して、乱入の罪を贖(あがな)いたいと請うた。そこで伊甚の屯倉(みやけ)を定めた。今、分けて郡(こおり)とし上総国(かみつふさのくに)に属させた。(日本書紀 現代語訳より)
この話は伊甚から真珠の進上ができなかったので(書紀には単に珠とあり、注をみると真珠と説明されている)贖いとして土地を献じたという、伊甚に屯倉(天皇、朝廷の直轄領)が定められた起源を説明する内容だが、もう少し背景もみてみたい。この例だけではなく、さらに古い時代から中央政権が地方に対しさまざまな神宝、宝物、土地の産物の進上を命じることは多くあった。
伊甚の場合は安閑天皇の時代なので、だいたい六世紀前半とみていいのだろうか。大和政権の支配が強まり、地方にも浸透していく時期である。多くの屯倉が定められていき、書紀安閑天皇の項でも、新たに各地で設定された屯倉の名が列挙されている。
地方産物の奉献は、中央への従属の証でもあり、進上しない場合は不服従とみなされたのであろう。珠の献上を伊甚国造に命じているが、単に地方産物としての真珠だったのか、それとも神として社に祀られているような特別な玉(たとえば変わったかたちの珍しい真珠や大真珠など神宝、ご神体としての玉)の献上を命じたのか、書紀にはそこまで詳しく書かれていないので、どちらなのかはわからない。
仮に前者であるとしよう。伊甚の海ではあわびがよくとれ、真珠の産地として知られていたので、大和から献上を命じてきたのだろう。でも国造が捕縛されるという重大な事態になるまで、なぜ地方産物が献上できなかったのだろうかという疑問が残る。
後者の場合を考えてみよう。玉には古来霊力があるとされてきた。貴人が玉を連ねたものを首や手や足に巻いたのは、装飾もあるだろうが、玉の持つ霊力で悪霊や魔の侵入を防ぐという意味もあったそうである。伊甚ですぐれた真珠が海から上がり、神として社に祀られているというような噂が広まり、大和側がこれに関心を持ったということが考えられる。
神秘的なものには霊力が宿っているという考え方から、中央政権はしばしば地方に対し、神宝や宝物の献納を命じた。ものに宿る霊力は、その所有者に霊力が付加されるので、各地の神々や神宝、国魂のこもった神体、宝物などは大和に運ばれ、歴代の天皇のもとに集められたようである。神宝献納の例を日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇の項から二例ほどみてみよう。
・・・・崇神天皇のとき、天皇の使者が出雲を訪れた。天皇が出雲の神宮にある神宝を見たいとおっしゃるので、大和に差し出すように、という命令であった。神宝を管理している兄は筑紫へ行って留守であったが、おそれた弟は神宝を使者に献上してしまう。戻ってきた兄はそれを知ると「数日待つべきであった。なぜたやすく神宝を渡したのか」と怒り、日を経ても感情がおさまらず、弟を川に呼び出して殺害した。そのいきさつが大和に伝わると、天皇は兵を出雲に差し向け、兄とその勢力を滅ぼしてしまった。出雲の人たちは大和をおそれるようになり、しばらくの間は出雲の神を祭祀することをやめてしまった。(このときの神宝は鏡と玉だったという説がある。出雲は玉の産地として知られていた)。
この出雲の神はその後、神がかりをする家の小児にとり憑いて、水底に沈んでいる出雲の石や鏡を神秘的な宝とたたえる不思議な歌のかたちで託宣し、何らかの神意を告げてその霊威をあらわした。家の人は皇太子に申し上げた。天皇は皇太子から歌のことを聞かれ(遠方に持ち運ばれた出雲の神や、神宝を奪われた出雲人の思いなどをおもんばかられて)、命じて出雲の神、鏡の祭祀(鏡を出雲へ返却したという説もある)をおさせになった。(日本書紀 崇神記)
・・・・垂仁天皇のときのことである。新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)が但馬にもたらした宝物が、土地の人たちに敬われ神宝となっていることを聞かれた天皇が、それらを見たいとおっしゃって、神宝献上を天日槍の子孫である清彦に命じられた。その神宝とは、羽太(はふと)の玉、足高の玉、赤石の玉、日の鏡、熊のひもろぎ一具、それと出石(いずし)という名の小刀であった。
清彦は献上の七品を携え大和へ来るが、神宝の中で刀子だけはどうしても渡せないと思い、衣の中に隠して参上した。天皇は刀子に気づかれず、清彦をねぎらいお酒を賜った。その折に刀子があらわれてしまい、問われて隠しきれず清彦は刀子を献上、神宝はすべて宮殿の神府(みくら)に納められた。その後、神府を開くと刀子だけが消えていた。清彦にただすと、「夕べにはいったん自分の所に帰ってきて、翌朝には消えてしまいました」と返答した。不思議なことに、刀子はひとりでに移動したようであった。天皇はもうそれ以上は追及されなかった。刀子は後になってひとりでに淡路島に逃れていった。淡路島の人々は刀子を見て神と思い、祠を立ててお祀りしたという。(日本書紀 垂仁記)
寄り道したが、話を伊甚の真珠献上に戻すことにする。勝手な推測でいうのだが、伊甚ではみごとな真珠が光り輝く神として、人々に崇められていたのであろう。そのため大和から献上を命じられたが、その珠を奉れば自分たちの神を失うし、土地の祭祀権を差し出すことにもひとしい。神を召し上げられれば、住民の心の拠り所も喪失してしまう。伊甚側は献上をためらううち期限が過ぎてしまい、国造が捕縛されて糾問という事態に至る。でも結局このことによって伊甚側は罰せられ、屯倉(みやけ)が設定され、伊甚は直轄領とされてしまうのである。
允恭天皇の項にも、大真珠にまつわる話が載っているので紹介してみよう。
・・・・允恭天皇のとき、天皇は淡路島に遊猟された。鹿や猪など獲物はたくさんいるのにまったく獲れない。占うと、島の神(いざなぎ神のことか)の祟りで、赤石(明石)の海底に大真珠があるのでそれを神に奉れ、との仰せであった。あちこちの海人(あま)を集めて探らせたが深くて海底に達することができなかった。しかしすぐれた海人(あま)の男狭磯(をさし)という者が潜り、海底で光っている大あわびがある、と報告した。ふたたび潜ってそれを取り、あわびを抱いて浮かび上がるものの力尽き息絶えた。縄で測ると海底までの深さは六十尋あった。あわびの腹を割くと桃の実ほどの真珠があり、島の神にお供えし狩をされると、多くの獣を得ることができた。天皇は男狭磯が海で死んだことを悲しまれ手厚く葬られた。その墓は今なお残っている。(日本書紀 允恭記)
この赤石の海の場合はかなり大きな真珠だったようである。以後はおそらくそのまま神宝として島の社に祀られたのであろう。
話を元へ戻すことにする。前述の出雲、但馬、伊甚の三例の献納逸話を比較してみると、出雲と但馬の場合ははっきり神宝と記述されており、天皇に召し上げられても霊威をあらわし、そのとどまる場所をみずから定めていくという展開になっている。神宝は天皇の命にも屈することなく、超自然的な力を顕わすのである。土地の神は本来ゆかりの地に鎮まるものであり、その神の意思に沿うかどうかわからないのにもかかわらず、動かすのも問題であるけれども、大和へ遷した結果、神はまるで抗議するかのように不思議な力を発揮したため、逸話として残ったのだとも考えられる。
伊甚の場合は、単に珠とあるのみで神宝とは記述されておらず、また霊威が起きたとも記されていない。(霊威が語られなかったからといって、神に力がなかったわけではないだろうけれど)。もし神霊の宿る珠が天皇に献納されていたなら、あるいはそこで何らかの不思議を起こし、みずからの霊力を人々に提示してみせたかもしれないとも思うが・・・・。
(真珠に関して余談であるが、以前奈良の正倉院展で古代の真珠を見たことがあった。光明皇后のお品が展示されており、その装飾品の中に真珠があった。千三百年の時を経てもその輝きは失われず、ガラスケースの中できわだって存在感を示し、心惹かれたのでしばらく見とれていた。真珠はだいたい小粒で大きさが揃えてあったが、まん丸い玉ばかりでなく、細長いものやかたちが少し変っているものも多くあって、天然真珠の特徴をよく示していた・・・・)。
年代の点から考えてみることにする。神宝の霊威が起きたという崇神天皇(第十代)垂仁天皇(第十一代)の時代といえば、だいたい三世紀半ばから後半とみていいだろうか。そのときから安閑天皇(第二十七代)の時代、六世紀前半まで、約三百年が経過しているのである。
時が流れるうち、地方神の霊威を語り、その神秘に視点を置くような神話的な大王の世界は、書紀の中からも遠ざかっていったとみていいのではないだろうか。少しずつ神秘性が薄れていくにつれ、人々の意識の中には、実務的で具体性を持つ政治とのかかわりが関心を持たれるようになり、そういう事例が、時代が進むほどに日本書紀にも多く記述されるようになっていく。
土地に鎮まる神は、土地で崇敬され、常に人々の心に寄り添っている。玉前神社はいま町中にあって海岸から二キロも隔たっているが、このお社も、かつては海辺に営まれていたのであろう。いま玉前神社の社殿の周囲には「はだしの道」が設けられていて、靴を脱ぎ裸足になってお参りする人もおられるそうだ。どことなく古代的な風習を思わせる。かつてお社が浜辺にあったことの名残でもあるのだろうか。
(また余談になるが、以前琵琶湖岸の菅浦へ行ったとき、集落の須賀神社が石段下からは土足厳禁だったので、素足で参拝した記憶がある。古代からの慣わしということであった。冷たい石段を踏みしめて上っていると、古が感じられ印象深かった・・・・)。
嵐の後、砂浜に打ち上げられた美しい玉を神とみなし、アワビの中からみごとな真珠があらわれたとき、その輝きに神を感じる・・・・。波打ち際できらきらと輝く珍しい玉や石を手にしたとき、それを海の彼方からの幸運をもたらしてくれる来訪神と信じ、丁寧にお祀りしてきた古の海辺の人たちの信仰、その心を社頭にたたずんでふと思うのであった。
神社を後にして駅前まで戻っていった。明かりの点る一軒の食堂に入り、定食を頼んだ。この日最後の客であったらしく、店内はテレビの音が聞こえてくるほかはひっそりしていた。でも運ばれてきたご飯もお味噌汁も小魚のてんぷらも熱々で、今日一日の疲労が回復していくようであった。帰りがけにお店のおばさんが、茹でた落花生をプラスチックの袋に入れて手渡してくださった。なんでもこの時期にしかないもので、珍しいものなのだとか。何度もお礼を言って頂く。さっそく帰りの電車の中で、殻を剥いて味わってみると、塩茹でしてあり、豆はほどよく柔らかい食感、紫がかった色をしており香ばしかった。