一葛城古道を歩く一
一言主神社 長柄神社 高天彦神社
高鴨神社 風の森神社
一葛城古道を歩く一
一言主神社 長柄神社 高天彦神社
高鴨神社 風の森神社
一言主神社
以前葛城古道を歩いたときのこと、一言主神社を過ぎて極楽寺まで来ると、草の生い茂る細い山道があり、ついその道に踏み込んでしまった。思いのほか険しく荒れた道なので、この先どうなることかと思いつつ登ってゆくと、ふっと道が終わった。見回すと辺りは開けた感じの庭園、そこは橋本院というお寺の境内であった。
ひっそりと寒桜が咲きこぼれて風に揺れ、微かな香りが漂ってくる。山道からいきなり異次元の世界に入ったようで不思議な気持ちになり、しばらく桜を眺めていた。お寺を出ると、山の中腹には台地が広がっている。小さな集落が営まれ、冬枯れの棚田の畔には枯れた薄の穂がそよぎ「史跡 高天原」の碑が立っていた。
高天原の所在地については天上説、海外説、国内説(各地にある)など諸説あり、天上説はともかくとして、江戸時代までは、葛城のこの台地が高天原であると広く信じられていたそうである。
佇んで背後の山並や風景を眺め、石碑を見ていると、高天というここの地名がなんとなく腑に落ちてきて、妙に納得した気持ちになった。うまくいえないが、高天、高天原という地名に籠もる目に見えない力、というようなものが感じられたのである。
そのときは集落内の高天彦(たかまひこ)神社を訪れた後、先住民の土蜘蛛の人たちを葬ったという蜘蛛窟に寄り、別の広い車道があったので高鴨神社へと下り、最後に風の森神社を訪ねて、路線バスで帰途についた。
別の季節に葛城古道を散策した折は、櫛羅(くじら)の辻の、鴨山口神社から六地蔵へ、そして九品寺へと向かった。ちなみに櫛羅は旧名を供尸羅(くじら)といい、尸とは屍の意、ものすごい地名であるが、領主永井氏がこの不吉な二字を櫛の字に変えたということであった。このときは九品寺境内の千体石仏群を見て、一言主神社を訪ね、古い家並を見ながら長柄神社へ、そして高鴨神社を経て、最後は風の森神社、バスで御所駅へと戻ったのである。
葛城古道三度目になる今回は、九品寺からはじめた。門前から初夏の日差しが眩しく照りつける山麓の道を進んでゆく。緩やかで起伏の少ない道である。古に大和盆地がまだ湖であった頃、ここは湖沿いの岸辺の道であったという説があるけれども・・・・。大和三山がまるで湖に浮かぶ島山のように望まれる。
以前はなかった猪よけの柵が道に設けられていた。自分で開けて通り、閉めるようになっている。ほどなく直立する青い杉木立の中に「綏靖天皇 葛城高丘宮跡」の碑が立っている。神武天皇が大和の有力者の娘を娶ってもうけた二皇子のうちの一人、二代目天皇の宮跡とされる。
この辺りはまた、古代の有力豪族、葛城襲津彦(そつひこ)の関係地ともいわれている。襲津彦の娘、磐之媛(いわのひめ)は臣下の出であるにもかかわらず、仁徳天皇の皇后の座へと上った女性、嫉妬深かったことでも有名である。気の強い人だったのであろう(隼別皇子と雌鳥皇女 の項にも書いている)。
記紀に、磐之媛皇后の歌「つぎねふや 山代河を宮のぼり 吾がのぼれば あをによし・・・・わが見が欲し国は 葛城 高宮 吾家(わぎへ)のあたり」が載っていることでも知られている。その高宮がこの辺りだったのであろうか。付近には石碑の外は何もない。大和盆地が望まれる位置にあって眺望はとても良いが、ここの山麓の情景はどこかうら寂しい印象、地名のみの遠い記憶しかないことが、かえって古の時代への哀感を誘いだすのであった。
一言主(ひとことぬし)神社へは横の道から入っていった。大手毬(おおでまり)の真白い花が咲きこぼれている静かな小道である。このお社は、いちごん(じん)さんと親しまれ信仰を集めている神社、願いをひとつだけ聞いてくださるのだとか。
祭神は葛城一言主大神。幼武尊(わかたけのみこと、雄略天皇)。
一言主神は高鴨の神(味鋤高彦根神、あじすきたかひこねのかみ)とも、事代主神(ことしろぬしのかみ、託宣の神)とも同一視されることがある。伝承では多様な顔を持っているようである。文献の世界を少しみていくことにしよう。記紀には、葛城の神と雄略天皇の交流の様子が、次のように描かれている。
・・・・雄略天皇が葛城山に狩にゆかれたとき、紅い紐をつけた青摺(あおずり)の衣をまとった天皇の一行と同じ装束の人たちが、向こうの山の尾根を上ってゆくのが見えた。天皇が見咎めて問われると、向こうも同じことを問い返してきた。怪しんだ天皇の一行が弓矢を構えてつがえると、向こうの人々も皆矢をつがえた。そこで名乗り合ってから矢を放とうと、天皇が再び名を問われると、
「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と返事があった。
天皇は恐れ入り「神がかように現実の姿をお持ちになろうとは」と仰って、佩いていた太刀と弓矢をはずし、お供の百官の着ている衣服を脱がせて添え、神に奉った。神もまた手を打ってその贈り物を受けられた。天皇が帰られるとき、神は長谷の山の入口までお見送りした。(古事記)
山中で怪しい分身が幻のように現れる、まるで山の怪異譚のようにもとれるが、この現象はこだま(木霊、谺)を表しているという説がある。こだまだけでは説明がつかないけれども、深い山では、天狗笑い、天狗倒し、天狗囃子、天狗つぶてなどといって、聞こえるはずのない声や物音がし、行ってみると何もない、という怪異がときに起きるとされる。山中において、このとき何らかの不思議があったので、天皇も畏怖されたのであろう。このときの神は「悪い事も、善い事も、一言で言い分ける一言主神」と名乗っていることから、託宣の神とみられる。
また日本書紀にも次のような記述がある。
・・・・天皇は葛城山に狩にゆかれた。突如長身の人が出現し、谷間で行き合った。顔や姿は天皇によく似ていた。天皇は神かと思いつつ名を尋ねると「まずあなたから名乗りなさい」といわれたので、天皇は「幼武尊(わかたけのみこと)です」といわれた。長身の人は「私は、一言主神」と名乗り、二人は一緒に狩を楽しんで、一頭の鹿を追いつめても矢を放つことを譲り合い、ともに轡(くつわ)を並べ山中を駈けた。言葉も恭(うやうやし)しく、まるで仙(ひじり)に逢ったかのようであった。日が暮れて狩が終わると、神は天皇を見送りされて、久米川までおいでになった。(日本書紀 雄略紀)
ここでは、神と天皇が山中で互いに名乗り合った後、友好関係が深まり、二人は馬を駆って終日狩を楽しんだとある。出現した神は、狩を好まれる神だったようである。このような逸話から推測すると、この神は先にみた託宣神、という性格よりも、高鴨の神(味鋤高彦根神)の性格が濃厚であるように感じられる。
さらに後の時代の文献をみてみよう。葛城山中で雄略天皇が狩をしたさい、神と天皇が獲物を争い、天皇の怒りに触れた神が土佐に流された、という記述が「続日本紀」にみられる。
・・・・賀茂朝臣田守らが言うには、「昔、葛城山で雄略天皇が狩をされたとき、老夫があって、何度も天皇と獲物を争ったので、天皇は怒ってその人を土佐に流しました。これは先祖の神が老夫に化身していたのを、天皇によって放逐されたのです」と。そのことを賀茂朝臣田守らが淳仁天皇に申し上げたので、天皇は了承され、田守を遣わして土佐に流された神を戻し、大和のもとの場所に迎え祭祀をされた。(続日本紀)
また「釈日本紀」によると、このことに関し、高賀茂朝臣田守らが奏して葛城山の東下、高宮丘の上に迎え鎮めたとある。
時代が下り「続日本紀」の頃の記述になると、一言主神(高鴨神)は狩の獲物のことで天皇の怒りを買って土佐に流されたが、賀茂氏の末裔が奏上し、神が再び大和の地に迎えられた、という経緯になっている。ちなみに雄略天皇は第二十一代で、時代は五世紀、淳仁天皇は第四十七代で八世紀、約三百年後になって神の罪が許され、本拠への帰還がかなったということになる。
この逸話を、天皇の権威が増すにつれ、葛城の神が零落したことを反映する、とみる考え方があるそうだ。そういうことなのだとは思うが、当時「葛城山における、神と天皇の神秘的な交遊」の話はたちまち噂になって広まっていただろうから、伝え聞いた山の樵の老人が、つい神憑きの真似をして神のように振る舞ってしまい、再度狩をしに山に入っていた天皇に対し、失礼を働いて怒らせてしまった、とでも解釈するのはどうだろう。
天皇であっても、神を流罪にするとなれば問題であったろうけれど、人の流罪なら普通に行われたことだろう。流されたのは、無礼を働いた老人のみであったか、(老人なら、流罪後すぐに亡くなったかもしれない)あるいは老人に憑いたというその神を斎く社の祝(神職)だったか、あるいはその両方だったのか、神職といっても実際にはその負う神も含めてのことだったのか、詳細はわからない。
記紀には、狩で不興を買った神が、天皇によって土佐へ配流されたというような記述はみられず、後の時代になってから付加された逸話、とみる説もあり、その事件の真相については不明である。
土佐には土佐神社が一宮として存在し、祭神は味鋤高彦根神と一言主神の二柱、大和の神の流罪、の伝承もあるそうで、神が大和へ帰還した後も祭祀は続けられ、今日に至っているそうである。ちなみに味鋤高彦根神と一言主神(事代主神か)は異母兄弟、父親は大国主命である。味鋤高彦根神は出雲の伊農の郷で亡くなって葬られ(別名で出ているという。出雲国風土記)、事代主神は天孫の使者に国譲りの諾否を迫られ、出雲の美保の海で逆手を打ち、船を傾け海に沈んだとされる(記紀)。兄弟とも大和葛城を本拠とする神、ともに配流の伝承がある。
以上ざっとみてきた。古事記の逸話の場合は、天皇を畏怖させるなど、一言主神というその称え名で表現される通り、託宣の神としての性格が強い。書紀の逸話の場合は、天皇と終日狩をして遊ぶなど、天皇と親しく付き合ってその距離は縮まっており、同じ葛城山中に顕現し、名も一言主神とあっても、まるで別の神格のように表現されている。書紀のほうの神は、高鴨神(味鋤高彦根神)であるようにも思える。
一言主神と役行者(えんのぎょうじゃ)とに関する「日本霊異記」「今昔物語」の逸話もあるので紹介しておこう。時代が下り、葛城の神が零落した姿が描かれている。
・・・・役行者が岩橋山(葛城山系)と金峯山(吉野)の間に石橋を架けようとし、鬼神たちに命じ、使役しようとしたので神々は嘆いた。葛城の一言主神はある人に憑いて役行者を讒言、天皇は役行者を捕らえて伊豆に流した。役行者は許されて戻ると一言主神を呪縛した。(日本霊異記)
・・・・役行者が葛城山と金峯山の間に石橋を架けようとし、鬼神たちを集めて使役した。鬼神たちは顔が醜いのを恥じて夜しか働かなかった。役行者はこれを咎めて一言主神を谷底に呪縛したので、耐えかねた一言主神が人に憑いて天皇に訴えた。天皇は役行者を捕らえ、伊豆大島に流した。(今昔物語)
神は隠身(かくりみ)、夜の闇に包まれた世界こそが神の真の活躍のときであろう。人と同じように神に白昼の労働を命じるのが、礼を失した扱いということになる。この神がもし顔を隠そうとしていたのだとしても、それは容貌が醜いからではなく、隠身のゆえのこと。かつて天皇も畏怖したといわれるほどの神威が失墜し、ついには役行者に使役させられるまでに至った落魄の身を思えば、白日の下に姿をさらすことは、神には耐え難いことであったろう。
なほ見たし花に明けゆく神の顔 (芭蕉)
一言主神社境内には、上述の逸話を踏まえた芭蕉の句碑がある。句を詠んだとき、芭蕉はこの神の顔を醜いとは思っていなかったであろう。句でみるかぎり、きっと美しいに違いないその神のお顔を見たいものです、という風に受け取れる。
ちなみに書紀では、一言主神が葛城山中ではじめて出現したとき、天皇によく似た顔、姿だったと、記述されている。また一言主神は味鋤高彦根神とも同一視される神、味鋤神の同母妹は下照姫という美女で、歌の才でも知られている(古事記)。その兄なら醜いなどということはなかったであろう。敬われる神としての高みからいつしか零落し、役行者にまで酷使される境遇となり、醜いとまで貶められる伝承になっているのを、芭蕉は句でもってさりげなく打ち消してみたかったのであろうと思われる。
一言主神社の境内はそう広くはないけれども、大きな銀杏の古木があって印象的である。乳銀杏という。幹が太く枝を広く張ってはいるが、何かしら壮絶な雰囲気が伝わってくる木である。よく見れば木の勢いはもう衰えているのがわかり、以前来たときよりも老齢化が進み、痛々しさが増しているのであった。
境内の一角には蜘蛛塚があり、謡曲「土蜘蛛」の解説がされている。参道の鳥居のところにも別に蜘蛛塚があって、神武天皇に抵抗して殺された先住民の塚ということである。拝殿下には頭部が、拝殿横の塚には胴部、鳥居横の塚には足部が葬られているといい、三箇所に分けたのは霊の蘇りを封じる呪術とされる。
土蜘蛛というのは皇軍に逆らって滅ぼされた先住の人たちのことであるが、このような塚は葛城にはいくつかみられるのである。
・・・・高尾張の邑(むら)に土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類(あいに)たり。皇軍(みいくさ)葛(かづら)の網(あみ)を結(す)きて、襲い殺しつ。因(よ)りて改めてその邑を号(なづ)けて葛城(かづらき)といふ。(日本書紀 神武紀)
長柄神社
一言主神社を出て長い参道を下っていった。同鐸出土地として知られる長柄遺跡はこの付近ということであったが、出土地の池も埋め立てられたらしく、どこかにあるという碑を見つけられないまま、通り過ぎてしまった。古にはこの地域で同鐸祭祀が行われていたのである。ここは古の鴨族の人たちの里だったのだろうか、と思いをめぐらせつつ葛城川へと注いでゆくらしい細い支流を眺める。
長柄の集落に入ってゆくと、古い雰囲気を今なお保っている民家の家並が続き、少し下ると長柄神社である。このお社は姫之宮といわれている。
祭神は、味鋤高彦根命の同母妹、下照姫命(したてるひめのみこと)。ほかには事代主命、また事代主の妹、高姫命を祭神とする説もある。
境内はそう広くはなく、欅の大きな木があって濃い緑の木陰を作りだしている。社殿は古びていて装飾も剥落し、少々荒れた感じがするが、姫神の宮らしい優美さがどこかに残っている。訪れる人も少なく静かである。
祭神の下照姫命は味鋤高彦根命の同母妹で、父は大国主命、母は多紀理比売命。父親を助けて国土開発にいそしんだとされる。有能な人であったのだろう。
記紀によると、大国主命の娘下照姫は、高天原から葦原中津国平定の密命を受けて天下りしてきた天若日子(天稚彦、あめのわかひこ)を夫に迎えた。若日子は葦原中津国に八年とどまって復命せず、促しにやって来た天の使者、雉の鳴女(なきめ)に向かって矢を放った。血に染まった矢は天に届き、謀反を疑われた若日子は、天からの呪術の返し矢を受け、命を落としてしまう。
嘆き悲しむ下照姫の泣き声が風に乗って天に流れ、若日子の死を知った天上の若日子の家族が降りてきて、喪屋を作り葬儀を行った。下照姫の兄の味鋤高彦根命は若日子と親友であったが、容貌がよく似ていたため、若日子の天上の父母は息子が蘇ったと思って喜び、葬儀の場で味鋤高彦根に取りすがった。
味鋤高彦根命は、死者と間違われたのを不吉なこととして怒り、剣で喪屋を切り伏せた後、飛び去った。その兄の名を明かすために、下照姫はこのように歌った。
天なるや 弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる
玉の御統(みすまる) 御統に あな玉はや み谷ふた渡らす
阿遅志貴高日子根(あじしきたかひこね)の神ぞ
(天にいらっしゃる若い織姫が 首にかけている美しい玉を連ねた首飾り その玉のように美しく輝いて 谷二つ照らしながら 渡ってゆかれる あじしきたかひこねの神でございます)
この歌を詠んだことにより、下照姫は和歌の祖とも呼ばれているそうである。(和歌の祖としては、ふつう素戔嗚命が挙げられる)下照姫は大変美しい人であったとも。この逸話にはどこか奇妙な味わいがあるが、展開もまた変わっている。歌の解釈も難しいとされ、喪屋での騒動も動機がよく説明されず、省略されている部分や、書かれなかった背景があるようにも思われる。
記紀では、葦原中津国の国譲りに関する出来事は、すべて出雲で起きたかのように記述されている。けれども話に登場する味鋤高彦根、下照姫、事代主ら子神の本拠地は、実はここ葛城なのである。父親の大国主命にしても、普通には出雲の支配者とされているが、その呼称も固有名詞とはかぎらず、各地の開拓英雄神、地の神、地霊の代表者としての名であるとも考えられる。となるとこの逸話の舞台地ははたして出雲であったかどうか・・・・。
天稚彦(あめのわかひこ)が従者の天の佐具女(さぐめ)とともに難波の高津(上町台地の北部)に上陸したという伝承がある。(摂津国風土記逸文、万葉集)少し紹介しておこう。
・・・・難波高津(なにはのたかつ)は天稚彦(あめのわかひこ)天下りし時、天稚彦に属(つ)きて下れる神、天の探女(さぐめ)、磐船(いはふね)に乗てここに至る。天磐船の泊(はつ)る故を以(もち)て高津と号す。(摂津国風土記 逸文)
ひさかたの天の探女(さぐめ)が石船(いはふね)の泊(は)てし高津は浅(あ)せにけるかも (角麻呂 万葉集 巻三)
国譲りは出雲や高千穂だけでなく、各地において状況は異なるが、さまざまなかたちで段階的に起きていたのだとも考えられるだろう。葛城には天孫降臨伝承があり、高天原と伝わる地も存在している。大和の出来事が出雲に仮託され、あるいは習合し、各地の降臨伝承や国譲り逸話が、一本化したかたちで記紀に「国譲り」として載ったとも考えられるが・・・・。
また記紀に戻って下照姫の夫、天稚彦にも関連する「雄略天皇と狩」の別の逸話を紹介してみたいと思う。
・・・・天皇は葛城山に狩をされた。霊(あや)しい鳥が急に現れ、雀くらいで尾は長く地に曳いていて「ゆめ、ゆめ」(油断するな)と言った。追われて怒った猪が草の中から突然飛び出し、人にかかってきたので、狩人たちは木に登っておそれた。天皇に命じられた舎人もおそれ、木に登って度を失った。猪は直進し天皇に食いつこうとしたが、天皇は弓で突き刺し、足をあげて踏み殺された。(日本書紀 雄略紀)
不思議な鳥が出現して人の言葉を話し、その直後に怒った猪が天皇を狙って突進してくるが、天皇が弓で刺し、踏み殺したという内容である。この話は、高御産霊神に叛いた天稚彦が、返し矢で殺されるという逸話の一部に、通じる点がある。記紀にあるように、雉そのものではないが、妙な鳥が前触れとして使われていること、天皇自身が弓で(返し矢を暗示する)猪を刺すという展開、天皇に歯向かうものが出現するが、ただちに殺されてしまうという点が、似ているといえば似ているだろう。嗔猪(いかりい)の姿やその行動が天稚彦に重なり、その存在がなんとなく想起されるのである。
古事記にも、天皇が大猪に襲われる逸話が載っているので、紹介しておこう。
・・・・またある時、雄略天皇が葛城山に登られると、大猪が出てきた。天皇が鏑矢(かぶらや)でその猪を射ると、猪が怒って唸り声をあげて走り寄ってきた。天皇はおそれて榛の木の上に登り、難を逃れることができた。(古事記)
大猪が出現したとき、天皇が鳴鏑(なりかぶら、笛のような音の出る矢、戦の開始の矢)を射かけたというのである。それに対し猪は怒って唸りながら反撃してきた。先に発せられた鳴鏑の矢に対しての、猪からの返しが「猪怒りて、うたき依り来」であった。天皇は猪の反撃を相手の「返し矢」と認識され、返し矢は必ず相手を殺すものなので、(返し矢おそるべし、という諺)本能的に榛の高い木上に逃れたということであろうか。
慌てふためく臆病な天皇の姿は、まず載せないものであろうが、ここでは記述されている。何もおそれず真っ直ぐに突進してくる大猪の勢い、その姿には、天に弓引いた天稚彦の面影、あるいは葛城山の神霊の怒りの表情が垣間見えるだろう。このときの猪は単に猪でなく、殺された死者の霊が化身した姿、あるいは山の神霊の怒りの表象として描かれているようにも思われる。
以前伯耆一宮の倭文(しとり)神社(鳥取県)へ行ったときのことであるが、主祭神は建葉槌命(織物の神)だが、通説では祭神は下照姫命とされていて、夫の天稚彦命、兄の味鋤高彦根命、事代主命らとともに祀られていた。そこには下照姫の海路漂着、鎮座の伝承が残されていた。
伯耆の国湯梨浜町に下照姫が出雲から従者とともに海路で着船し、御冠山にきて住み、死去するまで土地の人々に安産、医薬、農業を指導し、死後そこに鎮まったとされている。境内には下照姫の墓と伝わる墳墓もあったらしい。(近年の発掘調査の結果では、時代が異なることが判明、姫の墳墓説は否定されたらしい)
大和葛城を本拠としているはずの下照姫が、どうして出雲から船出して辺鄙な伯耆の国の浜辺に上陸し、御冠山に鎮まったと伝わっているのか。なんとも疑問であるが、これを葛城での国譲りの際、捕らえられた父や兄弟らとともに出雲へと移送され、父と兄弟は死を免れることができなかったが、下照姫は女性なので命までは奪われず、伯耆の国に流されたと解釈するのはどうであろうか。
そんなことは史書に記録されているわけもないので、勝手な空想であるが、葛城には国譲り、天孫降臨の伝承が濃く残っているので、仮にそう考えてみた。葛城の闇が深く濃く感じられるのは、霧に閉ざされたこうした古代の出来事を掘り起こし、手探りするときであろうか。鴨の神、葛城、高天原、国譲り、鴨族、葛城族、蜘蛛塚、そういう名や言葉が喚起する世界は暗い謎を孕んでおり、さらに古層をめくって確かめてみたい気持ちと、そこへ踏み込むことをためらう心が入り混じる。
高天彦神社
水越峠からの道と葛城の古道歩きの道は長柄集落の辺りで交差している。交通の要所であり、古代からここは開けた場所であったろうと想像できる。葛城山はいったんここで低くなっていて、水越峠は葛城から河内へと抜ける重要な道であったことが、ここに立って地形を見ているとよく理解できる。
古道歩きはまたこの辺りからが、ちょっと体力的につらく感じられるようになる。入って休めるようなお店もないので、道筋に小さなお社を見つけるたびに、境内の樹木の下に坐って休憩をとった。
やっと極楽寺まで上って来たが、前回苦しんだ急登の山道は避けたいので、今日は別の道をとることにし、高天彦(たかまひこ)神社への「森の参道」を探しつつ進んでゆく。地図では神社へ向かう車道は二本あり、いずれも極楽寺近くから山へ入るが、途中で合流しており、車だとそのまま高天彦神社まで行けるが、徒歩の場合なら、別に森を抜けてゆく旧参道もある、と土地のかたに聞いたからである。
勾配のある手前の車道(かなり苦しい坂道)を上ってゆくと、森の入口に注連縄がかかった標柱(しめばしら)が立っているのを見つけた。これが探している旧参道のようである。標柱は鳥居の原型のようなもので、古風な参道には似つかわしい。森の奥へといざなわれる印象的な情景であった。
薄暗い森へと入ってゆく。階段が続くものの思ったほどの険しさはなくて、十五分くらいで森が終わり、猪よけの柵を出ると、そこにはのどかな高天の田畑が広がっていた(右手には蜘蛛窟の矢印がある)。
杉木立の参道を進んでゆくと高天彦神社である。社殿は森蔭にあってひっそりと静まり、山の冷気がひたひたと伝わってくるような神さびた雰囲気、背後には白雲嶽(標高六九四メートル)が聳えている。整ったかたちの神奈備の山である。
祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)。皇祖神。古事記では高皇産霊尊は「高木の神」とも表記されている。天孫降臨の折、指揮をとった神である。この神はここでは高天彦と同一視されているようであるが、高天彦は本来は地主神で、土地の山霊という説もある。時代を経て祭神が重ねられていったようでもある。
また古くからこの台地が、天孫降臨の高天原であると信じられてきたそうである。
天孫降臨伝承を伝える遺跡として、白雲嶽山中には「天孫降臨の地」という聖地があって、天孫桜という古木や磐座もあるという。その「天孫降臨の道」を訪ねてみたいとも思うが、古道歩きの延長で思いついて散策する、というような場所ではないらしい。思いのほか険しい山道らしく、金剛山頂へと続く登山道の途中にあるそうだ。金剛山はこれまで三度ほど上ったことがあるが、いつも千早本道からだったので、葛城から入ってゆく道のことは知らなかった。高天彦神社社殿がこの地に造営される以前は、その白雲嶽山中の聖林の磐座付近で祭祀が行われていたそうである。
高天彦神社には社務所がなく、高鴨神社が管理しておられるようで、社殿もこぢんまりとしており、森の静かなお社という印象である。社殿の左には一言主神社と同様、土蜘蛛の人たちを埋めた蜘蛛塚がある。あまり人が訪れない所なので、この塚もなんとなく翳りを帯びた印象、周囲の自然が美しいだけに、その一角には湿潤な気配が立ち込めているようであった。
神社を出て、蜘蛛窟へと足を運んでみた。蜘蛛窟は洞窟ではなく、小さな丘の上にある塚である。佇んでいると、隣接する野草園で手入れ中のおじさんが「よく見つけられたね」と声をかけてきた。蜘蛛窟は場所がわかりにくいので、探しても辿り着けず、諦めて引き返す人も多いのだとか。道がわからないというよりも、蛇が横切りそうで何やら不穏な感じ、つい進むのをためらってしまうのであろう。前回来たときは暗く鬱蒼としていたが、周囲の樹木が刈り込まれ明るくなった感じがするのは、季節のせいかもしれない。蜘蛛窟は皇軍に抵抗して滅ぼされた先住の人たちの住居跡、墓所ともされている。石碑には摘んできた草花などが手向けられていた。
葛城の地は多くの謎に満ちている。記紀によると、五世紀に葛城の中心的豪族の葛城氏は、雄略天皇によって滅ぼされたそうである。
鳥越憲三郎氏の説によれば、それより以前、第十代崇神天皇が、往時葛城を支配していた勢力、葛城族を滅ぼし、葛城王朝(鳥越氏の命名した言葉で、欠史八代の葛城の時代を指すそうである)は終わったのだそうである。(鳥越氏の説は発表当時は反響があったそうだが、今も支持されているのかどうか・・・・)
では氏の説によるその葛城族とは、いつの時代にどこから来た人たちなのだろうか。記紀の天孫降臨伝承(九州)や国譲り伝承(出雲)とどう接続させるのか、それとも切り離して別個の出来事として考えるのか、という点も気になってくる。
記紀の天孫降臨は、神武天皇の大和入りよりもかなり前に起きた出来事のように読みとれるのだが、葛城の地に天孫族が入ったとすれば、そのとき葛城にいたのは鴨族と、鴨族に従えられた先住民の縄文系の人たち、と考えてよいのであろうか。異族間で土地の領有、分割を巡りどんな経緯があったのか。葛城族と鴨族との間ではたして武力衝突があったのか、それとも回避して和議が結ばれたのか。結局支配したのは葛城族で、服属の形になって従ったのは鴨族なのか・・・・。
疑問が次々と湧いてくるので、あまり深入りしたくはないが、天津神系の葛城族がやって来て、国津神の鴨系の人々を支配するようになり、鴨族の一部がそれまでいた高台から平地へと移動して稲作をしたと考えるなら、その古い鴨の一族もまた、それ以前にどこからか来て葛城で稲作をして住みついた人たちであっただろうし(鴨族は鉄製の農機具や馬を用い、農業の技術にもすぐれていたという)、来たときには同様に先住の縄文系の人たちとの間で軋轢が生じたかもしれない。時を経て和睦し住み分けたのかもしれないが・・・・。
人類の歴史を思うとき、異族が入ってきた場合に、土地の領有、占有、民の支配を巡って、いつも平和裡に事が運ぶとは限らなかったであろう。葛城の国譲りの際にも天津神と国津神の間にも、記紀には深く語られないけれども、そしてその詳細は不明であるけれども、異族間における対立、紛争がおそらく避けられなかったであろう。支配、被支配の関係を軸にした旧勢力の抵抗、追放、服属、分断、葛藤・・・・。その果てしない連鎖を思うとき、古層をめくってゆくことの怖さも感じられ、底のない沼に落ちていくような感覚にとらわれる。
話は変わるが、後に神武天皇の軍が熊野山中で道を失って難渋したとき、現れた八咫烏(やたがらす)に導かれて大和へ抜けたとされている。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、下鴨神社の祭神)が大烏に化身して導いたのだとも・・・・。神話的にはそうかもしれないが、実際には土地の事情によく通じ、山を熟知するものたちが道案内をつとめたとしか考えられず、たとえば葛城の住民、鴨系のある一派が、皇軍を先導したと考えるのが自然かもしれない。後に皇軍が大和を制し葛城に入ったとき、葛城に住む人々はかなりひどい目に遭ったかと思われるが、その一方では事前に皇軍に協力した鴨の一族もいたことになり、さまざまな考えの人々がいたということが推測できる・・・・。
ちなみに賀茂建角身命は、「山城国風土記逸文」によれば、九州から神武天皇に随行してきて、皇軍の先陣をつとめ、(戦功があったので)葛城に至ってしばらく葛城にとどまり、後に山代の岡田へ移り、さらに葛野へと向かい、その地に鎮座したとされている(山城一宮)。賀茂建角身は九州から来た神ではなく、もとは葛城の神だったという説もあるが、その出自については定かではない。
高鴨神社
車道を下って高鴨神社へと向かうが、道のりがとても遠く感じられる。高鴨神社がいつも葛城古道歩きの行程の最後のほうになるので、ここへ来るときにはたいてい疲労困憊しており、くたびれ果てて高鴨神社へ辿り着くのである。
ようやく高鴨神社に着いた。全国に分布する多くの鴨神社の総本宮、創始起源は弥生時代にまでさかのぼるという。鴨族の本拠の地、またここが国内における稲作発祥の地ともされている。山城一宮として上賀茂神社、下鴨神社の名はよく知られているが、山城の鴨はここ葛城から分かれていったのだとも。
高鴨神社はどの季節に訪れてもきれいである。よく整備されていて、大きな池が左手にあってゆらゆらと周囲の景色が映りこみ、目を楽しませてくれる。池は氷室池で、古には氷を保存していたらしい。常に風が吹き降ろすのだろう。冬の厳しい寒さがしのばれる。また春から初夏にかけては、境内で栽培されているとりどりの桜草の鉢が見られることでも知られている。
石段上に造営された社殿は風格があり華麗で、背後の森も深く美しい。けれども一言主神社や長柄神社、高天彦神社という古いお社をめぐり、その古色蒼然とした雰囲気に触れてきた後では、このお社のきらびやかな彩りが、どこか幻めいたものに感じられてくるのであった。
主祭神は阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこねのみこと)。亦の名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)、神格の高さを示すという。主祭神の名は史書、文献により異なり、味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)など何通りもの表記がある。
大国主命の御子で、母は多紀理比売命。名の由来については、味は「可美し、うまし」と同義語で、味鋤とはすぐれた良い鋤という意味だが、味は鴨を意味する言葉ともされ、「しき」は倭の地名の磯城(しき)に依るという説も。通説では農具の鋤を神格化した神名で農業神とされ、水神、雷の神ともいわれる。
配祀として事代主命(ことしろぬしのみこと、託宣の神)、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)。天稚彦命(あめのわかひこのみこと)。主祭神と事代主命とは異母兄弟、阿治須岐速雄命は主祭神の息子、下照姫命は主祭神の同母妹で、天稚彦命(天津神系)は下照姫の夫。創祀当初は、阿治須伎高比子根命のみ、(あるいは下照姫と合わせた二神)を祀っていたとされる。
由緒によると「大和の名門の豪族の鴨一族の発祥の地で、本社は鴨族が守護神として斎き祀った社のひとつであります」さらに「弥生中期、鴨族の一部は、この丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、水稲生活をはじめました」と続く。
高鴨神社は美しく、すでに聖化された空間になっていて、ここに葛城の持つ闇の暗さは感じられないようである。葛城山の神秘や荒ぶる神霊の伝承と深く結びつき、今なお境内に複数の蜘蛛塚を抱え込んでいる一言主神社の重い空気、また一言主神社と同様、土蜘蛛伝承を持つものの、山の霊気に濃く浸された高天彦神社の森厳な雰囲気にくらべると、高鴨神社は平地にあって、陽ざしの降り注ぐ明るい静寂の中、すでに鎮まるものは鎮まりつくしたかのように、花の揺れる穏やかな聖空間となっている。境内で丹精されているゆかしい桜草の鉢の数々もまた、古に生きた葛城の地の神々への手向けなのであろうか。
(何かが棲んでいそうな気がして)おそるおそる境内の氷室池のほとりに佇み、池水を眺める。滴るような緑の樹木に包まれているが底の見えない池、水面には沈黙と静寂が広がっている。仮に池の底にひそむ主がいたとしても、ここは名だたる鴨の社、すでに祀り鎮められていることであろう。
この場所にお社が営まれるにあたっては、何かの曰く謂れがあるはずと思われるが、その根拠も痕跡も今となっては見えにくいようである。たとえばここが古の支配者の住居跡、古代祭祀の場であったかもしれない、などと勝手な推測の上に想像を重ねてみるだけである。
「出雲国造神賀詞」(いずもくにのみやつこかんよごと)という祝詞がある。出雲の国造が代替わりのたびに大和に来て、天皇に奏上する祝詞で、復奏儀礼とも服属儀礼ともいわれている。その内容は、大国主命(大穴持命)が天孫に国土を譲って大和から出雲に退去する際、自らの和魂(にぎたま)を三輪山に、また三人の子神らの御魂(みたま)を大和の要地にそれぞれ留め置いて(四地点を結ぶとほぼ菱形になっており、呪的なものを感じさせる)、天孫を守護することを誓い、自身は出雲に退去したというものである。
・・・・大穴持(おほあなもち)の神の申したまはく・・・・己の命の和魂を八咫(やた)の鏡に取りつけて・・・・大御和(おおみわ)の神奈備に坐せ、御子の阿遅須伎高孫根神(あじすきたかひこねのかみ)の御魂(みたま)を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主神の御魂を宇奈提(うなて)に坐せ、賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守り神として貢り置きて、八百丹杵築(やおにきずき)の宮に鎮まり坐しき。(出雲国造神賀詞)
名前の出ている鎮めの社であるが、大御和とは、桜井市三輪山の大神神社、宇奈提とは橿原市雲梯(うなて)の河俣(かわまた)神社、飛鳥神奈備にはいくつかの説があるが(明日香村を歩く ミハ山の項にも書いている)、飛鳥坐(あすかにます)神社(異説もあるが)とそれぞれに神社が比定されている。阿遅須岐高孫根神の御魂を留め置いた「葛木の鴨の神奈備」の社については、ここ高鴨神社とされている。
大国主命が大和から出雲へ退去したというのなら、続いて三人の御子たちも同様に退去となったのであろうか。その後の消息を辿ってみよう。
大国主命は出雲で「私は退いて幽界の神事を担当しましょう」「身に大きな八尺瓊(やさかに)の玉をつけて永久にお隠れになりました」と書紀にあるので、この書き方からみると、敗者としての死を免れなかったことがわかる。
事代主命は天孫の使者に、国譲りの諾否を迫られると承諾し、出雲美保の海で逆手を打ち、船を傾け水死した。逆手を打つのは、人を呪うときにする柏手(かしわで)という。どのように手を打ち合わせるのかは不明、哀しい呪術である。(この時点では事代主命には妻子の名が記されていないので、未成年であったともいわれる)
賀夜奈流美命は男性、女性の両方の説があり、定かではないが、有力な候補として大国主命の娘である下照姫説をとると、下照姫は船で出雲から伯耆の国湯梨浜町に従者とともに着き(それは追放、流罪とも考えられるが)、住民に安産、医薬、農業を教えて御冠山で生涯を終えたとされる。(倭文神社の祭神)
阿治須伎高日子根命のその後は、「出雲国風土記」によって語られている。
秋鹿郡伊農の郷(古くは伊努、いぬ)で亡くなったということである。別の名、赤衾伊農意保須美日古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけのみこと)で出ており、妃(天のみか津日女命、妃も別の名で)が尋ね来て、わが夫よ、と悲嘆したことが載っている。何か憚られる事情があり、名を変えて祀ったのかもしれない。
赤衾(あかふすま)は赤い寝具で、寝(い)ぬにかかる枕詞。赤は魔除けの色とされる。おおは大で美称、すは州という字を当てると国の意味、みは神霊、ひこは男子の尊称、さは神稲、わけは若い貴人を意味する、と解する説がある。
この長い名を持つ男神を祀る伊努(いぬ)神社(西の宮)がある。
「西の宮」に対し「東の宮」として都我利(つがり)神社があり、祭神として阿治須伎高日子根命の名とともに、命の所持した剣が祀られている。遺品が神体として祀られていることになる。その剣は天稚彦の喪屋を、阿治須伎高日子根命が切り伏せた剣とされる。出雲では都牟刈(つむがり)の太刀、という八岐大蛇から出た剣の名がよく知られていると思うが、都牟刈、都我利は、切れ味の良い剣を意味するとも、切った折の音をいうのだともいわれている。また我利は剣の名とも、剣を指す言葉ともいわれ、都我利神社の社号になっている。
楯縫郡多具の村の記事には、妃の天御梶日女(あめのみかじひめ)は多具の村で多伎都比古(たぎつひこ)を生み、「お父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うのならば、ここがちょうどいい」と御子に教えたという話も載っている。山の頂の西には石神があり、それは多伎都比古の御霊代で、雨乞いをすると必ず雨を降らせてくださるのだとも。
また仁多郡三沢の郷の記事には、阿治須伎高日子根命は、幼少時なかなか泣き止まず、父の大国主命が八十島を船で巡って宥め、さらに夢見で理由を知ろうと祈ると、御子は三沢といって父を石川の坂の上の川辺に案内し、みそぎの場所を教えたという。この話も出雲国風土記に載っているので、前述の多具の村の話はこの逸話を踏まえた展開と思われる。
なお三沢の話について、八十島といえば難波の八十島、なぜ出雲の奥地が舞台なのかと言う点は少々気になる。出雲にも八十島があるかと思うが、父子は難波の海を巡ったのではないかとも思われる。小さな島々が霊妙な玉のように見えることから、神霊の宿る難波の八十島は、古より巡ることによって神々の加護や霊力の付加されることを祈る場であった。石川も珍しい地名ではなく、よくある地名らしい。出雲説を否定する訳ではないが、河内の国にも石川があるという。下照姫が夫天稚彦の弔いの場で、兄の阿治須伎高彦根命を詠んだ歌の一節にも、石川の片淵、という言葉が入っている。
あと神門郡高岸の郷の記事では、阿遅須枳高日子命は、夜昼泣くので高屋を建ててそこで養育することにし、人が梯子で上り下りしてお世話したことが載っている。この神の雷神としての性格を示すものらしい。推測だが、緑に包まれたすがすがしい樹々の間に数メートルほどの柱を建て、高床式の小さな家屋を造ったのではないか。御子は地上よりも高いところで過ごし、森の自然や霊気に触れて霊力を養ったとも考えられる。
幾つかの逸話からみると、阿治須伎高彦根命は幼少時は出雲に居たかもしれないが、後に父大国主命らとともに難波を経て、葛城へと移ったとも考えられるだろうか。この神の農業神としての活躍の場、力を発揮した場所は、畿内であったかと思われる。
話は変わるが、日照りの折に、人々は雨乞い神事として太鼓を叩き(雷を模倣)、笛や舞、歌を神に奉納し、火を焚いて煙を出し(雲の表現)、雷神、雷雨を呼ぼうとした。人が激しく泣く、涙を流し続けることもまた、雨を誘い出す一種のまじないであったという(類感呪術)。
阿治須伎高日子根命が泣き止まないという複数の逸話は、聞き分けのない子だったという話ではなく、生まれつき雨や雷神と関連の深い御子であったことを示しているのだろう。御子がみさわと言って指したのは、おそらくそこが雨乞いの場、御沢として神の心にかなう地であると教えたのであろう、と思われる。阿治須伎高彦根神が雷の神、水神、農業神と伝承されていること、また遺児の多伎都比古命にも、祈雨に関する霊能が伝わっていたと想像できる多具の村の記述などから、推測してみた。
風の森神社
高鴨神社を出て、風の森神社へと向かう。道筋には青い田んぼが広がり、心地よい風が吹きぬけて、畔には可憐な野の花がかたまって咲き、蝶が舞っている。振り返れば金剛、葛城の山並が望まれ、高鴨神社の社叢がこんもりとした深い森をかたづくり、まさに日本の原風景のよう、幼い日を思い出しどこか懐かしく心惹かれる情景である。
風の森神社は、風の森峠の上にある。丘の上の小さな祠である。集落には民家が連なっていて、右手に石段のある所をお寺の墓地と思ってつい通り過ぎてしまいそうになるが、その石段が目印、迷わずそこを上ると祠がある。風の森神社という名から社殿があると思い込みがちであるが、家庭の神棚のような祠のみである。
祭神は支那都比古命(しなつひこのみこと)、風の神である。古にここで粟(あわ)、黍(きび)、稗(ひえ)などの穀物が栽培され、また稲作をはじめたとされる鴨族の人たちが、豊作を祈り、暴風を鎮めるために神を祀ったらしい。農耕には欠かせない風と水であるが、風の祭祀はここで、そして水の祭祀のほうは、おそらくもっと上流の山中の水源で行われたのであろう。
風の森峠は強い風が吹きつける場所という。良い風を祈り悪しき風を鎮める祀りが季節ごとに行われたかと思われる。本当に小さなお社であるけれども、その起源はかなり古いと考えられる。
かなり前のことになるが、はじめてここを訪れた折、祠のある場所を見つけにくく、ようやく探し当てて上ってみると、薄暗く狭い空間は静まり返り、忘れられたようにぽつんと小さな祠が草の中にあって、案内板もなかった。今にも崩れそうになりながらひっそりと祀られている、そんな印象であった。でもその祠が、古にここで稲作をして生活を営んだ人たちの信仰の原点を思わせるようであり、またそのささやかさが、お社の原型を示しているようにも感じられたのだった。
今回来てみると、道が整備され、説明板も立ち、祠は元のままのように思われるが、傷んだ部分や台座がちゃんと修理され、補強もされている。神様もひと安心されたことであろう。
見回すと、以前来たときにはなかった謎の大きな黒い石が祠の台座にあるが、ここに置いてあることの意味はよくわからない。その石は輝緑凝灰岩というものらしいが、見たところとくに緑色ということはなくて、ただ黒く、そしてその横には、地元産の日本酒「風の森」が一本奉納されているのが、お社らしい雰囲気となっていた。