伏見稲荷大社 お山巡り お滝巡り
伏見稲荷大社 お山巡り お滝巡り
久しぶりに伏見稲荷を訪れた。千本鳥居で有名になったせいか、参道は人が多く、周辺も活気に満ちている。今回は滝をめぐりつつ進み、お山を一周して参拝の後、表参道を下ることにした。滝めぐりの道への入口は少しわかりにくいが、千本鳥居を抜けた奧社奉拝所の少し先にある神社を経て竹林へ降り、そのまま進んでゆくと、いくつかの滝を見ることができる。ただこちらの山道は表参道と違ってひと気もなく、たまに降りてくる人とすれ違う程度、中には寂れるだけ寂れ、荒れ果ててしまった滝もあり、こわいような雰囲気も漂っていた。
伏見稲荷大社は全国に三万社以上あるという稲荷社の総本宮、朱色の彩りが華やかである。豊臣秀吉が造営したという派手で大きな楼門をくぐってゆくと、左右には狛犬ではなく一対の狛狐が・・・・。狐は稲荷大神の眷属、神使とされている。左の狐は鍵を、右の狐は玉をくわえており、境内には稲穂や巻物をくわえている狐も多い。稲穂には穀霊が籠もるとされ、鍵は穀物倉の扉の鍵、神徳の象徴、玉は知恵の宝珠、願いの叶う宝珠をあらわすなどさまざまな解釈があるらしい。いずれも霊的な力を象徴するもののようである。
そのまま進むと朱塗りの外拝殿、さらに本殿が見えてくる。由緒によると、稲荷大神は約千三百年前、二月の初午の日に稲荷山に鎮座したとされる。主祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ、穀物神、食物神)で、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかおおかみ)、四大神(しのおおかみ)の五神が祀られている。
鎮座伝承は次の通りである。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)の祖先の秦伊侶具(はたのいろぐ)公は稲などの穀物を積みたくわえて豊かな暮らしをしていた。ある日、餅を的にして弓で射たところ、餅は白い鳥と化して飛び去り、舞い降りた山の峰に稲が成った。伊侶具はその場所にお社を建て、伊奈利社とした。その子孫の代になって過ちを悔いてお社の木を抜いてきて家に植え、これをお祀りした。(山城国風土記逸文)
餅を的にする、という行為は、人として傲慢なので、神様のほうから何らかのお咎めがあり、お詫びしてお祀りするようになった、というのなら理解できる話であるが、風土記のこの内容だけでみると、どうも不自然な展開のようである。子孫が過ちを悔いて、というくだりも、餅のことを反省した、という意味なのだろうけれど・・・・。何かが省略されているようでもあるし、読み手はそれぞれ自分で補って読むように、ということであろうか。
稲荷山の峰に神を祀ったという秦氏は渡来人で、応神天皇の御代、秦の始皇帝の末裔が、多くの人民を率いて朝鮮半島から渡来したともいわれるが、その出自についてはいくつかの説があり定かではない。秦氏の一族は、養蚕や機織、酒造りや土木など異国の進んだ技術をもって朝廷に仕え、山城の国に住み、主にその地域を拠点として栄えていたようである。松尾大社や伏見稲荷は秦氏の氏神であったとされる。
本殿から進み、千本鳥居へと向かう。こんなにたくさんの奉納鳥居が立て並べられるようになったのは江戸時代からという。この通路はいわば朱色の異空間、江戸の昔から今に至るまで、ここを通りぬける人々を魅了してきたのだと思われる。残念ながら今日は人があまりにも多くて、幻想空間というにはちょっと、という雰囲気であった。千本鳥居の先は、奧社奉拝所である。稲荷山の峰々を遥拝する場所とされる。
ここには「おもかる石」があって、願い事の成就を自分で占えるようになっている。祈願して持ち上げ、軽く感じるときは願いが叶うそうだ。おもかる石はここだけでなくあちこちの寺社にもあるようで、京都の今宮神社、高野山奥の院でも見たように思う。
ここで引き返す人も多いのだけれど、体力と時間に余裕のある人は、さらにお山へと進んでゆかれるようである。滝めぐりの道の入口がわからなかったので、社務所の人に訊くと、参道の脇道から入って神社の前を通り、竹林の中を進むということであった。教えられた通りに三ツ辻への参道を進んでゆくと、すぐ鳥居がとぎれる所があり、そこに神宝神社の案内板があったので、右手の山道へ入って上ること二分、神宝神社(伏見神寶神社)が見えてきた。せっかくなので寄ってゆく。
お社には狛犬ではなく一対の狛竜が置かれてあって、ぎくっとする。由緒によると、稲荷社が山上に祀られた時代から古の祭祀の場であったようで、十六世紀に里宮が造営されると旧跡地となり衰退していったが、昭和の中期にお社が再建されたという。丘のようであるが、稲荷山には古墳が多いらしいので、ここももしかすればもとは古墳であったのかもしれない。このお社は伏見稲荷大社の摂社や末社ではなく、関係のない別の宗教団体の神社なので、境内地図には載っていない。
社号にある通り、十種神宝(とくさのかんだから)が祀られている。十種神宝とは、物部氏の祖神、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天神御祖から授けられ、大和にもたらした霊的な呪物で、饒速日命は神武天皇よりも前に、河内の国に天降ったとされる。十種神宝の内容は、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかへしのたま)、道反玉(ちかへしのたま)、足玉(たるたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)。
鏡二面、剣一振り、玉四顆、比礼(布)三枚、どれも神秘的な品々のようで、唱えごとをしながらゆらゆらと揺り動かすと、死人も蘇生するほどの強い呪力を発揮するそうである。鏡、剣、玉と揃っているので、これを王権の象徴とみる説もあるようだ。古のものなので現存するものはないそうで、その神霊が各地に祀られているということであろう。十種神宝を祀るお社としては、天理の石上神宮、十津川村の玉置神社などが知られている。
ここを経てさらに進み、竹林を通りぬけていった。この道は「竹の下道」と呼ばれ和歌にも詠まれ、大和へと通じる道であったとも。左右はさやさやと風に揺れて竹の葉がそよぐ竹林、静かな緑の小道が続いてゆく。やがて「弘法ノ滝」が見えてきた。空海が祀られているという。
ここで空海と稲荷社の結びつきを少しみてみよう。嵯峨天皇より東寺を真言宗布教の拠点とすることを許され、東寺を託された空海は、五重塔を建立しようとした。その際に、用材として稲荷山の神域の木を伐ってしまったので、淳和天皇の病という祟りがみられた。それでお詫びとして、朝廷からは伏見稲荷に官位が授けられた。そして東寺境内にも、鎮守として稲荷社が建てられ、お祀りすることになったと伝承されている。(余談になるが、高野山にも、清高稲荷社という社号で稲荷神が祀られている)
また往時は密教僧の修行の場として、伏見の稲荷山が使われていたようである。秦氏と空海の係わりが実際にはどのようなものであったかはわからないが、接点はあったようである。
「弘法ノ滝」へと降りてゆく。細く水が流れ落ちているが、お滝場は立ち入り禁止で、英文でも土足禁止としてあった。滝の周囲は「お塚」に囲まれ、びっしりと奉納鳥居や神名を刻んだ岩や石碑、狛狐が隙間なく並び立って通路は狭く、無数の目に射すくめられるようでこわいのであった。
お塚とは「稲荷大神様に別名をつけて信仰される人々が、石にそのお名前を刻んで、お山に奉納したもの」(伏見稲荷大社ホームページより)だそうである。塚というのは一般に墓を意味する言葉なので、そうすると「お塚」とは、神様の鎮まられる御墓のことなのであろうか。お塚信仰は、庶民信仰の熱心なかたちと聞いているが、なにしろ参道をはじめ、境内、滝の周辺と、この稲荷山の神域全体では祀られるお塚の神様の数があまりにも多いので、その迫力に圧倒されてしまう。〇〇大神、△△大明神とその神名も実に多様で、地名、人名を付したものや独創的なものも多い。それぞれのお塚には謂れや事情があり、稲荷山にたどり着いてここを終の棲家とされるまで、何らかのいきさつがあってのことかと思われる。中には苔むし、凄味があって正視するのもこわいような狐像も混ざっている。狭い空間に大小の朱の鳥居が林立、たくさんの狐像が虚空を見つめ、石碑に刻まれた神様たちがひしめき合っている感じなので、なんともいえない濃密な空間となっている。
奉納者は各地に及んでいて、稲荷講、会社、個人など多岐にわたっている。ただこれら稲荷山のお塚は、古からあったものではなく、明治に入り神仏分離令が発布、施行され、その混乱や当惑、諸事情の中から自然発生的に広まったことらしく、その後も増え続け、現在築かれているお塚は稲荷山全体で一万を越えるとのことである。
石碑がひどく古びて傷んでいるのは、明治の頃のものなのであろう。当初は奉納した人もたびたび足を運んでお参りされたことであろうが、やがて年月が流れるうちにその人たちも亡くなってしまい、誰の訪れもないまま、忘れ去られつつあるのではないだろうか。お塚に祀られた神様たちは、自分をここへ連れてきた人や、親しんだ縁者の訪れを、そして誰かがまたここへ来てくれるのを、今もじっと待ち続けておられるのかもしれない。そんなことを考えつつお塚の間の狭い通路をそっと抜けてゆくが、至近距離で神様たちと向かい合ってしまうので、無言の、そして無数の視線を浴び続けているような気がしてきて・・・・心に緊張を覚えるのであった。戦慄しつつ息を詰めるようにして進み、ようやくお塚群を離れるとほっとした。
さらに進んでゆくと「青木ノ滝」であった。説明板によると、ここで祀られている神様は、猿田彦大神とのことである。そっと覗かせてもらうと、先ほどの弘法ノ滝と同様に、民家の庭先に降りるような感じで、人がいるような気配はなく、滝口ではとうとうと水が流れ落ちていた。
道を進んでいくと、三叉路に出る。山のほうに歩いてゆくと「七面ノ滝・鳴滝」の表示板を見つける。「七面ノ滝」に降りてみると、使われなくなって久しいらしく、崩壊注意、危険、の張り紙が・・・・。七面大天女の提灯(ちょうちん)が揚がっているので、日蓮宗関係のお滝場らしい。ここでもし地震に遭うと、周囲の石が崩れて埋まってしまうのでは、と不安になるような谷間であった。かつては利用されていたのかもしれないが、今は近づくのも恐る恐るという感じである。建物もあるにはあるがほとんど廃屋、ただ水は絶え間なく流れ落ちていて、古い行場の風情らしいものは残っていた。そこに漂っているのは、人が去ってしまった後の寂寥感、そして目に見えぬものがここを支配するようになり、それらが醸し出すある湿潤な気配とでもいえばいいのだろうか。鳴滝のほうへも回ってみたが、ここもひどく寂れてきており、滝の入口は閉じられてあったが、水は地を叩きつけるように間断なく流れ落ちていた。
先へと進み「白菊ノ滝」さらに「御剣ノ滝」へと向かう。七面ノ滝、鳴滝が谷間にあってあまりにも暗く寂しかったので、それに較べると、ここ白菊ノ滝、御剣ノ滝はともに陽光が差し込み、人影こそ見かけなかったものの、周辺の手入れも行き届き、どこかに人の温もりが感じられて、明るい印象を受けた。滝にはお不動様が祀られていた。
山道を進んでゆく。ずっと上りになるが、やがて左手の「末広ノ滝」へ。滝口は閉じられてあってよく見えなかったが、上ってゆくとお塚の間から眺めることができる。ここもお塚は多いのであった。
稲荷山へと向かう山道に入り、一気に上ってゆくと、お山めぐりの合流地点に出た。右回り、左回りどちらをとるか迷ったが、坂を下ることにして右の道へと進む。
「御剣社」(みつるぎしゃ、長者社とも)を少し上ると、お社の背後に注連縄を巻かれた大きな磐座が見られた。これはご神体で剣石(つるぎいし)と呼ばれている。別名は雷岩というそうだ。雷神を封じたともいわれ、お社の内部に別の霊石が祀られているともいわれるが、拝観はできないので定かではない。お社の左側には、井戸がありこれは「宗近の井戸」であった。三条小鍛冶宗近が刀を鍛えるのにこの水を使い、稲荷大神の霊験により白狐が童子の姿になって顕れ相槌をつとめ、それによって名刀を得た、という伝承があることでも知られる。
社殿裏の磐座は古から祭祀されてきたものらしい。稲荷山の多くのお社の中にあってここのお社の雰囲気は少し他のものと異なるものがあるように感じられる。ここを長者社と呼ぶのは、秦伊侶具を祀っているからという伝承もある。
御膳谷奉拝所の分岐から「清滝」へと歩いていった。これまで見てきた滝はどこもひっそりしていたが、清滝は訪れる人が多いようである。お山めぐりの道から近いので、行きやすいのであろう。滝には稲荷大社の人が常駐していた。地形が関係するのか、滝からの空気の流れのせいなのか、ここのお灯明は、非常に高く上っているのが特徴であった。
「清明滝」へと向かう。ここも稲荷大社が管理しているらしく、宿泊施設のついている滝であった。水量も豊かで音も高らか、今までの滝の中では一番立派であった。滝の水受けに何も置いておらず、ぱっと花が飛び散るように水が地に広がっていくのが、いい感じであった。(ほかの滝では、だいたいバケツなどで水を受けていた。陶器の入れもので、という滝もあったが)
「天龍社」「傘杉社」を経て、お山めぐりの道へと戻ってゆく。この辺りにはお社が多い。「薬力社」「薬力ノ滝」「おせき社」を経て再び御膳谷へ。ここは神供、御日供といって三つの峰の神様に日々のお食事を差し上げる所で、一般の人も申し込めるそうである。(もう少し先にある別のお社、たしか中社であったか、参詣者が折敷に盛りつけたお酒、お菓子の神饌を買い求めるたび、おばさんが、火打石でかちかちと切り火を打ってから渡していた)。
次に「眼力社」へと向かう。ここの手水舎には飛来する狐の像があり、動きのあるその姿も珍しいが、くわえた筒の口から水が流れでているのも面白くて(狐蛇口)、じっと眺めてしまう(余談になるが、阿倍野の安倍晴明神社にも、空から飛来する狐像が建っている)。そして「大杉社」へ。ここのご神体は大きな杉の木であった。
再びお山めぐりの道に戻って歩き始めると、四ツ辻に出た。時間の都合で訪ねなかったが、荒神峰には「田中社」(下社の摂社)があり、田中大神(別名を権太夫大神、大己貴命ともいわれる)が祀られている。神名からみると田の神、農業に関する神という位置づけであろうか。
四ツ辻から三ノ峰へと進む。三ノ峰は「下社」で、白菊大神を祀っている。ここは主祭神宇迦之御魂(うかのみたま、穀物の神)大神がご祭神である。神名が錯綜して混乱しそうになる。古くは大宮能売(おおみやのめ)大神を祀っていたとも。
石段を上るとお社があり、その周囲にはお塚がたくさん築かれている。青空に白菊大神と染め抜かれた紅白の幟がはためき、お塚の狐さんたちの前かけの色も赤。彩りが感じられるお社であった。ここはもと古墳だったそうで、出土品もあったそうだ。お社の下には竪穴式石室が残存しているといい、墳丘の上に社殿が建てられたことになる。古墳は四世紀頃の造営とされているそうだが、古墳を思わせる形は残っておらず、被葬者もわからない。
間ノ峰の「荷田社」へ。ここには伊勢大神(天照大神)が祀られている。荷田氏は稲荷大神を祀った社家といい、祭祀を司った社家は二系統あったそうで、荷田氏はその一つ、現在の社家は秦氏という。(社家が二つあったために神名が異なり、峰に祀られた神も変遷したという)
荷田社を経て二ノ峰へと向かう。ここは「中社」といい、青木大神を祀っている。それは佐田彦大神のことであるという。つまりご祭神は猿田彦大神とされる。ややこしいが、各時代を経て神様は別の名で称えられたということであろう。なお摂社には四大神(しのおおかみ)が祀られている。この神については、四季の神あるいは四方の神など諸説あって不詳。
ここもかつて古墳であったようで、調査では前方後円墳で、鏡などの出土品があったという。やはり四世紀頃の造営とされている。被葬者は不明。
三ノ峰と雰囲気は似通っており、青木大神の幟が揚がっている。墳丘上にお社があるのも同じで、周囲にお塚が多くあるのも共通している。小塚が林立する中に大塚があるという感じ、前方後円墳といわれても、周囲を見回してみても、その雰囲気はもう残ってはいない。
一ノ峰の「上社」へと向かう。稲荷山山頂にあって標高は二三三メートル。小高い社殿には、末広大神が祀られている。末広大神とは、大宮能売(おおみやのめ)大神のことで、それは天鈿女命(あめのうずめのみこと、猿田彦大神の妻神)のことであるという。調べると、大宮能売神ではなく、須佐之男命を祀っていたともいわれており、そうなるとどの神とどの神が重なっているのか、古の祭祀のかたちはどうであったのか、また仏教との習合も考え合わせていくと・・・・ますます混乱してくるのであった。
現在これら三つの峰に祀られている神様たちは、記紀の中にも登場する格の高い神々ということであろう。当初は山の神霊を祀ったのかもしれず、また秦氏の祖霊、祖神を祀ったのかもしれず、稲霊や穀霊の祭祀であったかもしれず、また地域の首長の墓所であったかもしれない・・・・。時代を経ていくうちに古の信仰や神が重なり合い、祭祀のかたちが変わって鎮座の場所も遷り、それにつれて神名も、時代の流れに応じて変遷しつつ並立していったということであろう。
ここももとは古墳(円墳)であったそうだが、完全に破壊されてしまっており、今は何の痕跡も残っていないそうである。稲荷山一ノ峰であり、最も高い地点なので、聖地として重要視された結果、古墳の破壊は早かったのであろう。お塚群に取り巻かれ、小高い位置にお社が建っている。たたずむとお塚の石碑が目立ち、石の迫力に四方から押されるような感じがする。異界めいた空間である。こんな高い場所まで、重い石碑やたくさんの石を人が運び上げてきて、お塚を築くのには、大変な労力を要したことであろう。信仰の力とはすごいものであると改めて思うのであった。それにしても古にここが古墳であったとは・・・・石が積み重なりかたまった今の情景からは想像しにくいが、往時は緑に包まれひっそりとしずまる場所であったろうかと思われる。
三つの峰を順にめぐりお社に詣でることは、現在祀られている神様を通して、知らず知らずのうちにさらに古い時代へとつながってゆく。たとえ古墳とは気づかなくとも、峰の頂に建つお社で頭を下げ、手を合わせれば、かつてここに祀られたはずの、遠い時代の古墳の被葬者のみたまや、古の山の神霊にも詣でていることになるのであろうか。
お山を一周し三つの峰を訪れたので、下山することにした。もう夕方になっているのに、今から上ってゆく元気な人もおられる。まっすぐ降りてゆくと先ほどの四ツ辻へ、さらに下ってゆくと三ツ辻で、やがて新池と「熊鷹社」が見えてくる。
新池は谺(こだま)ケ池と呼ばれ、祈願して池のほとりで手を打つと、返ってくるこだまの方向で、行方の分からない人の居所を知ることができるとされている。池の周囲の木々の緑が水面に映り込んできれいである。
熊鷹社の祠は、池を背にして水の上に張り出すようなかたちで建てられている。薄暗い建物の中に高価な太いろうそくが何本も揺らめき、水の匂いと溶け合って神仏混淆の雰囲気が漂う。熊鷹大神を祀っているが、この神については、よくわからないそうだ。ただ石碑やこの拝所に漂う仏教的な雰囲気から推測すれば、日蓮宗関連かと思われる。
明治初年の神仏分離令、廃仏毀釈の折に、伏見稲荷の境内にあったという神宮寺の愛染寺(真言宗)は廃された。愛染寺では荼吉尼天(ダキニ天、白狐に乗る天女の姿で表現される)が祀られ、稲荷神と習合した独特の信仰であったという。
神仏分離令によって、いわゆる仏教色は稲荷大社の神域から払拭されたのだと思っていたが、ここ熊鷹社に来ると神仏習合の気配が今も濃く残っており、稲荷山のほかのお社とは異なる仏教の雰囲気が感じられた。信仰のかたちを考える上で興味深い。
池をしばらく眺めてから降りていった。奧社奉拝所に帰り着いてほっとする。今日は朝から山道を何時間も歩いて疲労したが、多くの滝やお社を訪れることができた。ここまで降りると、ようやく起点に戻ったことが感じられるのであった。人が減って静かになった夕暮れの参道をゆっくりと下り、長い一日の行程を終えた。