辻邦生
「安土往還記」(新潮文庫)
辻邦生
「安土往還記」(新潮文庫)
辻邦生(つじくにお)は一九二五年東京生まれの小説家、フランス文学者。父はジャーナリストで薩摩琵琶の演奏家。父親の家系は山梨県の医家で、母方も鹿児島県の医家であった。邦生という命名は、誕生日が九月二十四日であることに由来するという。松本市で旧制高校時代を過ごし、寮生活で北杜夫と知り合い、文芸活動を通じて生涯の親友となった。東大仏文科卒業後は大学院に進み、五七年から四年間パリに留学した。立教大、学習院大などで教鞭をとる傍ら小説、翻訳、評論、戯曲、エッセイなど多くの作品を文芸誌に発表した。留学で知り合った加賀乙彦、森有正らと親交を結んだ。妻は美術史家の辻佐保子で、辻の作家活動を支えた。
代表作は「回廊にて」(六三年 近代文学賞)「安土往還記」(六九年 芸術選奨新人賞)
「背教者ユリアヌス」(七三年 毎日芸術賞)「西行花伝」(九五年 谷崎潤一郎賞)ほかに「嵯峨野明月記」「「天草の雅歌」「夏の砦」「春の戴冠」「風の琴」など長短篇含めて著書多数。作風は格調高く、物語性が豊かで明晰な文体、読みやすく美しい表現により読者を魅了した。その一方で江藤淳により、辻邦生、小川国夫らの作品が、空っぽでまがいものであると批評されたこともあった(フォニイ論争)。九六年に日本芸術院会員となる。晩年は藤原定家を題材にした小説を構想し、執筆にとりかかっていたといわれる。九六年に交通事故に遭って体調を崩し、事故から三年後、滞在先の軽井沢で心筋梗塞により七十三歳で逝去。
「安土往還記」 あらすじ
南仏の町で、十六世紀の日本の様子が描き出された古い手紙が発見された。ジェノヴァ生まれの元軍人の船乗りの私信であった。彼はイエズス会の宣教師たちを日本に送り届けた後、京の都や安土に滞在し、信長や他の武将らと交流した。彼の日本での体験は次のようなものであった・・・・。
一五七〇年、私はオルガンティノ師らとともに堺に上陸し、繁栄する町で富裕かつ狡猾な武器商人たちに会った。彼らは尾張の大殿(シニョーレ)、織田信長を残忍で冷酷な武将と忌み嫌っていたが、私は逆に興味を覚えた。私たちはフロイス師に会いに京の会堂へと移動、戦乱で荒廃する都では、突如東山にあがった火煙に人々が怯えていた。北方の浅井、朝倉軍団と南の三好軍団に囲まれた尾張の大殿(シニョーレ)が先手を打ち、比叡山を焼き打ちにしたのだった。私はその作戦に感嘆する。大殿(シニョーレ)は神も仏も信じず、特に堕落した僧侶を憎悪するが、異国のパードレには好奇心と探究心を持ち、布教を認めているという。
宣教師たちはさらなる庇護を願うため、遠眼鏡やマントなど贈り物を携えて岐阜へ向かい、私も同道し初めて大殿(シニョーレ)に会った。知的で敏感な人物に思え、彼は私が披露した射撃の腕を褒め、銃の種類や製造に関心を示した。私は鉄砲術、三段銃撃の戦法について助言した。
大殿の軍団は京都に入っていたが、信玄殿の死を知ると、大殿はただちに浅井、朝倉軍を攻めて滅亡させた。新年の酒宴で大殿は浅井、朝倉殿の頭蓋骨に黒漆を塗り金粉をまぶして飾り、暗い恐怖感で人々はその噂をした。
長島では大殿の苛酷な攻撃命令により、大殿の軍は万を超える仏教徒、婦女子らを殺害した。私は京のイエズス会会堂建設に力を貸し、大殿側近の高山右近殿、荒木村重殿らとも知り合った。大殿は鉄砲隊を用いた長篠の会戦で武田軍団を破り、さらに大阪石山城に立て籠る仏教徒たちを攻撃し始めた。武器物資の水上補給路を断つため、私は軍船の建造と砲撃訓練に協力、九鬼水軍を指導した。
長い石山城攻防戦に苦しみ、側近の荒木殿が謀反すると高山殿父子もそれに続いた。高山殿は人質として、妹と息子を荒木殿に差し出していた。大殿はオルガンティノ師を送って高山殿の説得につとめ、翻意させた。荒木殿自身は有岡城を逃れ出て生き延びたが、妻子ら一族は京都で斬首、侍女たちは尼崎で磔刑、家臣団とその家族らは集められ焼き殺された。やがて石山城の仏教徒たちも力尽き討伐されていった。
私は大殿が実行する冷酷な戦術戦略の中に、残忍さだけではないものを感じとった。「理にかなう」ことが彼の掟であり意味があり、それを純粋に守り、この世における事の道理を真摯に求めようとする姿勢があった。大殿は「事の成る」ことをもって至上の善と考えていたが、大殿は人に理解されず孤独に見えた。
大殿は安土に壮麗な宮殿をつくり、オルガンティノ師らを招き入れて自ら城内を案内し、さらに城近くの湖畔に会堂セミナリオの建設も許し、宣教師たちを厚遇した。美貌の巡察使ヴァリニャーノが都に着いて、その黒人従者ジェロニモが評判になると、噂を聞いた大殿は一行を安土に呼び寄せた。金の燭台やガラス細工、赤ビロードの椅子などが大殿に贈られ、地球儀を前にして、大殿は航海の行程やヨーロッパの風土、文明について質問を重ねた。大殿は無神論者だが、布教、伝道という目的のために危険な航海をし、命がけで海を渡って来るキリシタン僧の勇気や、その厳しい生き方には強く共感していた。
京都の宮殿の馬場で大規模な騎馬パレードがあり、私たちは大殿に招かれ見物した。大殿は巡察使が贈った赤ビロードの肘掛椅子に座り、人々を驚かせた。騎馬武者は、一騎ずつ駆け抜けながら背から矢をとり、巧みに標的を射抜いて喝采を浴びた。
安土セミナリオ(神学校)では、高山殿の上級武士の子弟たちが教義と学科を学んでいた。巡察使ヴァリニャーノの出発が近づくと、大殿は安土城郭を細密に描かせた屏風を彼に贈り、さらに八月の夜、光の祝祭を楽しませてくれた。盆の夜、大殿の命で町の灯はすべて消され、合図で安土城郭に明かりがつくと、闇の中で美しく高楼が照らし出された。やがて城門から松明をかざした武士団が疾走し、その中に大殿もいて、ヴァリニャーノに向かい馬上から火で別れの挨拶を送った。
一五八二年六月、大殿は毛利軍団を攻撃するため、京都の寺院に滞在していた。大殿の信頼する側近将軍は二人あり、ともに果断かつ冷厳であった。冷静でどこか暗い理知的なまなざしの明智光秀殿と、風采はあがらないが陽気で意地悪く率直で、才智に恵まれた羽柴秀吉殿であった。私はかつて明智殿がひどく疲労し、ただ眠りたい、と述べたことを聞いていた。相次ぐ戦闘の疲労以上のものが、彼を苦しめていたと思う。
私は安土から京に向かい、信じがたい出来事を知った。突然の明智殿の反逆、本能寺の炎上と大殿の死、そして安土城郭の大火災、安土セミナリオの倒壊、明智殿の死、台頭する羽柴殿の軍団・・・・。壮大な何ものかが崩れ去ってゆくのを感じ、その翌年、私は日本を離れた。・・・・
辻邦生の初期の歴史小説である。語り手が外国人という一風変わった雰囲気で展開される戦国絵巻。端正な筆致で滑らかに筆が進んでゆくので、読んでも読んでも尽きないような感じに陥り、気がつくと夢中でぺージを繰っていた。実をいうと筆者は若い頃の一時期、辻さんの作品に嵌まりあれこれ読みふけっていた。いつしか熱が冷め遠ざかってしまっていたが、今回久しぶりに再読した。
織田信長の描き方は色々あると思うが、視点人物を外国人水夫にした点が、何といっても目新しい趣向であり、本作で芸術選奨新人賞を受けている。執筆に当たっての参考引用資料は、太田牛一の「信長公記」イエズス会宣教師ルイス・フロイスの「日本史」とのことである。
「フロイス日本史」は膨大な分量なので、読み通すとなると大変だが、宣教師の目線で克明に日本での体験や見聞を綴っており興味深い。フロイスは信長に気に入られたらしくて、十数回に亘って信長と会見したといわれ、安土の様子、信長の言動やその印象についても記しており、同書はこの時代の貴重な資料とされている。本棚にあった「フロイス日本史3 安土城と本能寺の変」を「安土往還記」とともに読んでみた。
安土城の訪問、信長と宣教師との親密な交際、また荒木村重の謀反、一族の処刑の様子などについて、辻はフロイス資料から逸話を取捨選択し、巧みに作中に取り入れていったようである。フロイスの記述は丁寧だが、どうしても布教者の立場からものを見ているので、偏りや身びいき、小さな誤解などがあり、受洗した高山右近父子や細川ガラシャについては好意的に描き、信長が僧侶を嫌って仏教徒を迫害し、キリスト教を庇護したことについても、神の恩寵であったかのようにとらえている。日常の出来事にしても、神の恩恵とか神の賜物、悪魔の邪魔、悪魔の敗北とかいうような表現が頻出し、その文章は宗教色に染められているが、当時の街の様子、人々の暮らしぶりが活写されており、外国人の眼に映った戦国時代がどのようなものであったかを知ることができる。
「安土往還記」の語り手は、宣教師に随行してきた元軍人の船乗りである。これは創作人物で、フロイスの古写本の中に綴じ込まれていた、船乗りの私信が偶然発見された、という設定にしている。
「フロイス日本史」の引用も多いので、語り手をフロイスと同一視されたくなかったのであろう。船乗りを出したのは物語の導入部に用いる一つの手法、架空の手紙をあたかも実在するかのように思わせ、読み手を物語世界に誘うという仕掛けである。
船乗りは、妻とその情夫を刺殺した後、官憲を逃れ航海者となって放浪し、叢林での戦闘経験も持つという怪しい経歴の持ち主である。彼は日本に着いた後は宣教師たちに随伴し、信長に射撃の腕を認められて鉄砲術を教えたり、鉄板装甲船の設計に携わって九鬼水軍を指導するなどして、戦国の世に浮沈する武将たちの一時代を冷静な視線で見つめ、その眼に映った様相をつぶさに語ってゆく。
舞台地は堺から京、安土へと推移するが、織田信長だけでなく、側近の高山右近、荒木村重、明智光秀、羽柴秀吉らも船乗りの観察の対象となり、史実を盛り込みつつ人物像が描写されてゆく。信長は大殿(シニョーレ)と作中で頻繁に繰り返され、あたかも信長が颯爽とした外国人であるかのように描かれる。他にも宮廷(コルテ)、宮殿(パラッツオ)、諸将(ジェネラーレ)など、多くの片仮名ルビを振り、横文字も多く使っている。外国人を装った文体で書き進め、翻訳作品風の雰囲気を強調したかったのであろう。そのように工夫を凝らした文飾でもって、物語を進めてゆく方法が実は作者の気質には合っていて、おそらくそのほうが自由に筆が伸び、書きやすかったのだとも考えられる。
・・・・正面の引き戸が左右に開くと、家臣団に囲まれた長身の人物が入ってきた。フロイス師の言葉のように、蒼白な、面長の、引きしまった顔立ちで、鋭い目をし、右のこめかみがたえず病的にひくひくと動いているのが目についた。それが「彼」であることは一目瞭然であった。彼は部屋に入るなり、片手で家臣団に合図をした。すると一瞬のうちに彼らはそこから退席した。あたかもその片手の一ふりが魔法の一撃ででもあり、彼らが瞬時にして掻き消されたような感じだった。
私は彼のなかに聖域を焼き払った果敢な軍略家の姿を見いだそうと努めたが、上機嫌でいるらしい現在の彼からはそうした風貌は感じられなかった。彼は贅沢ではなかったが、さっぱりした簡素な衣服を着けており、態度はきびきびして、むしろ快活であった。(「安土往還記」Ⅱより)
・・・・大殿(シニョーレ)が私たちに示した親しみは、ただそれだけの理由から生まれたものではない。むろん武器、戦術、航海術、自然諸学に対する彼の異常な関心が働いてはいた。しかし私にとって最大の理由と思われるのは、私たちが、大殿(シニョーレ)に対して、なんらの偏見も先入観もなしに、一個の人間として対処し、話しあうことができたからではなかったか、という点である。(「安土往還記」Ⅲより)
宣教師たちは大殿に面会して、必要な庇護を求めた。大殿は承諾し許可を与えたものの、大殿は「眼に見えぬものは信ぜず、理にかなうものだけを重んじた」ので、宣教師から天地創造説や霊魂不滅説など教義を聞かされても、受け入れなかった。大殿が彼らに好意を持ったのは、宣教師たちが「自ら信じるもののために、身命を賭(と)して、水煙万里の異邦にまで来て、その信念を伝えようとした熱意であり、誠実さ」であって「彼らが見知らぬ異郷で苦難と孤独をなめているその時に、ほとんど直感的な洞察によって、彼らの心情を理解した」のだと、船乗りは大殿を観察しつつ思うのである。
大殿の姿はどこか孤独の影を漂わせており、衆愚の高みに昇った者の宿命であるかのように描かれる。資料を読みこなせば、ほぼ信長のイメージは造型でき、通説として浮かび上がってくる固定された人物像もあるだろうが、作者はさらに内面に踏み込んでその心理を分析し、より近代的に描こうとする。
・・・・大殿(シニョーレ)が私たちに示した厚意や親密感には、たしかに多くの理由が考えられるが、少なくとも私には、こうした一個の人間として接する私たちの態度のなかに、彼がある種の安堵感、自然らしさ、くつろぎを感じたためではなかったか、と思われるのである。・・・・彼は、君主として、宮廷の孤独や、臣下との儀礼的な接触には慣れていたし、その戦略や統制計画に見られるような数理的な明晰さを愛してはいた。しかし同時にその感じやすさ、人懐っこさ、善良さが自分でも気づかぬ場所で、自らの伴侶を求めていたことは考えられるのである。政治、軍略に関してあれほど自己に対し苛酷であり、人にもそれを要求した大殿(シニョーレ)が、心の内奥で、こうした人間的な触れ合いを求めていたことは想像できる。(「安土往還記」Ⅲより)
「フロイス日本史」での信長の描写を見てみよう。フロイスの記述によると、信長は宣教師たちがヨーロッパからしてきた旅を理解しようとして、地球儀を持って来させ、示すようにといった。
・・・・彼はそれを見聞した後、手をたたいて感心し、驚嘆の色を見せ、かくも不安全で危険に満ちた旅をあえてするからには、彼らは偉大な勇気と強固な心の持ち主に相違ないと言い、司祭と修道士に向かい、笑いながら、貴公らはかくも危険を冒し、遠く長い海を渡って来たからには、その説くことは重大事に違いない、と語った。(「フロイス日本史3」 安土城と本能寺の変 中公文庫より)
フロイスはまた、信長が宣教師から贈られた金の装飾のある濃紅色のビロード椅子をことのほか喜び、都の有名な行事(賀茂の祭のことらしい)に入場の際、従者たちに高く掲げて持ち運ばせ、誇らしげに座ってみせたと「フロイス日本史」に記している。見物の群衆は二十万近く、七百人の華麗ないでたちの騎馬の武将が集い、内裏も見物に姿を見せ、武者たちは用意された柵に添って競技をしながら馬を走らせた、とも述べている。この辺りは辻の筆にかかると、豊かに空想を膨らませた華麗な「騎馬パレード」の場面となり、勇壮な行事として再現されてゆく。
「背に挿した揃いの長旗をはためかせ、黄金の兜、鎧を輝かした騎馬武士たちが緋色の衣服をつけ、同じ緋色の手綱、馬具で飾られた馬に乗って走りこんできた」
騎馬隊第一陣の後は「百騎にあまる騎馬隊のすべての馬が雪のような白馬で占められていた。紺青の衣服に黒金の甲冑、同じく紺青の旗差しを背にひるがえしたその騎馬隊は、青の手綱、青の馬鐙を用いていた」
そして第三陣は「金襴の衣に黒い冠の文官風の装束で、馬具も黄金の金具が光っていた」と続き、「曲芸に似た馬術や自在に隊形を変化させながら駆けぬける騎馬隊」があったり、また「駆けぬけながら、一騎ずつ、矢で射ちぬいてゆく」流鏑馬(やぶさめ)らしい技の披露なども織り込まれ、実に華やかな場面展開となっている。
そして八月の安土のお盆の夜は、幻想的な光景が安土に広がってゆく。「フロイス日本史」でも詳しく描写されている。
・・・・信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守閣を飾らせた。七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提灯の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。・・・・多くの位の高い若侍や兵士たちが街路を走って行った。松明は葦(カンナス)でできているので、燃え上がると火が尽きて多くの火花を散らした。これを手に持つ者は、わざと火花を地上に撒き散らした。街路はこれらのこぼれ火でいっぱいとなり、その上を若侍たちが走っていた。(「フロイス日本史3」より)
辻はさらに筆を足してこのように美しく描写する。
・・・・ながい、明るい、華やかな夏の夕焼けが安土山の向こうに消えてゆくと、やがて湖の方から濃い、輝くような宵闇が安土の町々のあいだを這って流れはじめた。
・・・・しばらくすると、その焔のなかを、黒装束に同じようにたいまつをかざした騎馬武士の群が、ひとつづきの火の河のように、城門から溢れだし、宣教師館にむかって疾走し、宣教師館の門前までくると、突然火を消して、闇のなかへ溶けてゆくように次々に姿を消し、そのようにして溢れてくる火の流れは小半時もつづいた。
私たちは呆然として火竜のうねりに似たその河の火を見ているうち、一段と明るい焔の群が宣教師館に近づいてきた。
・・・・その光のなかには、同じ黒装束の大殿(シニョーレ)が馬上から、たいまつを高々とかかげ、ヴァリニャーノにむかって挨拶を送っているのであった・・・・。(「安土往還記」 Ⅲより)
松明をかかげて、宣教師に別れの挨拶をする大殿の姿は、後に本能寺の変で炎に包まれて命を終えてゆく信長の運命を予感させ、その最期の姿に重なってゆく。その手法は上手いと思うが、いつの間にか大殿(シニョーレ)と「眼の澄んだ美貌のヴァリニャーノ」との間に何やら男同士の友情らしいものが育ち、絆ともいえるような共感の思いで結ばれたような展開にもっていく辺り、筆を端折ったような印象を受けた。作品前半の描写の丁寧さに比べて後半は話の展開を急ぐためか、説得力に乏しいようにも感じられる。心理の分析に次ぐ分析、長い説明ではなく、読み手が納得できるような逸話を創作して入れる方法もあったのでは、と思われるが。
恵まれた家庭の出のヴァリニャーノもまた訳ありの人だったようで、女性の顔を刃物で切って投獄され、後に回心して布教の道に入った、という黒い過去を持つ聖職者であった。大殿とはどこか暗い虚無感、孤独感でもって心情的につながる、という風に作者は説明するのだが・・・・。
船乗りとヴァリニャーノはともに女のことで忍傷事件を起こし、その犯罪歴も似通っているためか、どうしても二人の存在がだぶるのであった。作中で後に登場するヴァリニャーノの人物像はどこか作りものめいて、印象が薄く感じられた。史実のほうでみると、巡察使ヴァリニャーノはイエズス会で実在した人物で、船乗りは物語の進行役を担う創作人物なのだが。ヴァリニャーノら宣教師たちの世俗的な面が投影された人物が、軍事に長けた船乗りだとみることもできるだろうか。
「フロイス日本史」を読んだ後では、フロイスの文章と、語り手の船乗りの文章が心の中で入り混じり、ときに見分けがつかなくなった。二人が同一人物であるかのような感覚が起きる。冒頭はたしかに船乗りの手紙だが、進行するにつれフロイスの記述や引用も多く入ってくる。新たな言葉が心の高ぶるままに次々と繰り出され、その高揚感の中に作者がのめり込んで、筆が走っていくような感じ、両者は憑依しているとも、あるいは憑依されているとも思えてくる。実はその船乗りというのも、作者の影法師であり分身とでもいう存在、フロイス、船乗り、作者は物語上で一体化された人物とも見受けられる。
「フロイス日本史」の魅力的な「使える逸話」を拾い出して再構築、信長を中心に文芸的に高めつつ美しく語り直した作品、というのも言い過ぎであろうか。失礼かもしれないけれど、作者は「フロイス日本史」の持つ臨場感や筆力に魅了され触発され、その強い影響下から逃れられなかったのではないだろうか。けれども「フロイス日本史」というフィルターを通して透かし見た結果、独自の眼力を得た作者の眼は冴え渡り、みごとな手腕を発揮して、これまでとは異なる、新鮮な近代的信長像を描くことに成功したと思われる。
以前舞台地になっている安土を訪れたことがあった。初夏の爽やかな風に吹かれながら青々とした麦畑の中を歩いたり、安土山の石段を登って安土城跡や、總見寺の辺りを散策したり、また別の暑い季節に、奥石神社から観音正寺を経て繖山(きぬがさやま)に登ったり、安土考古博物館で出土品に見入り、再現されたきらびやかな「信長の館」を見学したり、記憶をたどるとこれまでに三度ほど安土を訪れていた。(紀行「幻の安土 信長ゆかりの地を訪ねて「老蘇の森 奥石神社 繖山 近江を歩く」の項などにも書いている)。
安土近辺を歩くと、のどかに広がる緑の田園風景に心が和み、なだらかに連なる繖山の佇まいに惹かれてゆく自分を感じる。JRで安土の辺りを通過する折などは、山麓に中世ヨーロッパの教会を思わせる安土考古博物館が建つ情景が印象的で、つい建物を探すように目を凝らし、車窓から眺めるのがいつからか習慣になっている。