一磐座探訪一
六甲山神社(石の宝殿) 天穂日の磐座(芦屋神社奥宮)
仰臥岩 雲が岩 六甲比命神社
一磐座探訪一
六甲山神社(石の宝殿) 天穂日の磐座(芦屋神社奥宮)
仰臥岩 雲が岩 六甲比命神社
六甲山には多くの磐座があり、古代を考える上で興味深い。以前岡本の保久良神社の磐座を訪れたが、今回は石の宝殿の南側にある磐座、六甲カンツリーハウス内の天穂日の磐座、六甲比命神社の磐座を訪れることにした。
六甲山神社
穏やかに晴れた晩秋の朝、阪急芦屋川駅から芦有バスで宝殿橋まで上っていった。芦屋ゲート近く、道路際に切り立った巨大な岩がちらっと車窓から眺められる。これは弁天岩といい、そこにはかつて水神社が祀られていたが(雨乞いのお社)、芦屋神社に遷座、現在は境内にある古墳の石室に祀られている。
雨乞いにはいろんな祈願の仕方がある。まずは神様の好まれる物をお供えして祈るのだと思われるが、それでも雨がないときは、禁忌を破るという方法をとるそうだ。当地の場合だと弁天岩の近くの岩でフカを切り刻み(フカ切り岩)、それを弁天岩に投げて汚すのだそうである。神様を怒らせると雨が降るとされる。穢れを洗い流そうとして神様が雨を降らせるというのである。
「東お多福山登山口」で、たくさんの人がバスから降りていった。今日は登山日和なのである。「宝殿橋」で下車し、六甲山頂への道路をしばらく歩いてゆくと、左手に赤い鳥居が見えてきた。六甲山(むこやま)神社の旧参道である。この辺りの市域は、芦屋ではなく西宮市になっている。参道はあまり人が歩いたようではなく荒れており、上りきると正面にこぢんまりとした神社があった。ここも小さな山の頂(標高八四〇メートル)になっている。市街地と海を見降ろすよい場所にお社が建ち、小高い位置に石祠が鎮座、それが「石の宝殿」であった。
六甲山神社は、現在は廣田神社(西宮市にある。天照大神の荒御霊を祀る)の境外末社で、廣田神社が管轄し、常駐ではないようだが、この日は社務所内に人がおられた。
祭神について、また鎮座についても諸説あるようなので順に紹介しよう。
六甲山神社(石の宝殿)を管轄する廣田神社との関連で考えてみよう。廣田神社の祭神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと、天照大神の荒御霊)である。筑紫申真氏によると、この長い神名の意味は、天を離れ水辺に向かって降りられ、神聖な木に依りついたあらたかな御魂、そのみたまをお祀りする媛、というようなことらしい。(「アマテラスの誕生」より)
六甲山一帯はかつて廣田神社の社領で、古くは向津峰(むかつみね)と呼ばれていたそうだ。伝説では、神功皇后が新羅から持ち帰った神の石を、石の宝殿に埋めたとされている。また祠の側のウツギの根元に、神功皇后が黄金の鶏を埋めたといわれている。(戦勝の記念品であろうか。加護のお礼として神に献納したとも考えられるが)。それで毎年元旦の朝には、この鶏の声が山に響きわたるといわれているそうである。そのような古い伝承が残っているのも、この地が古代において、重要な祭祀の場であったことを示す逸話かもしれない。
神功皇后のこの伝承を重んじるという視点でみるなら、神功皇后は天照大神の荒魂を祀って廣田神社とし、この六甲の峰の社に宝物を献じて、その奥宮としたという考え方も出てくる。そうするとここの祭神も、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命ということになってくるのだが・・・・。
廣田神社のホームページを開いてみると、六甲山神社は「境外末社」と位置づけられており、五月の行事の項に、六日、六甲山(石の宝殿)例祭、とわずか一行の記述があるのみで、六甲山神社の祭神名については、記載されていなかった。
廣田神社についてもう少し記しておくと、神功皇后の御代、皇后が外征に勝利して大和へ帰還の折、船が進まなくなったとき、神意により天照大神の荒魂を廣田の地、甲山山麓に祀ったことが起源であるという。災害で遷座しており、現在のお社は戦後に再建されたもの、勝運の神として地元では信仰を集めている。
石の宝殿は、白山系の行者との所縁が深いと考えられている。ここを霊場として開いたといわれる白山系行者の信仰とのかかわりで考えれば、祭神は白山の菊理姫命(くくりひめのみこと)ということになる。菊理姫神は日本書紀一書に一度だけその名を現す神で、生と死の境界に立ち顕われ、対立する伊弉諾(いざなぎ)神と妻の伊弉冉(いざなみ)神を和解させた。黄泉の国にいる妻の言葉を、地上に戻った夫に伝えたとされている。加賀白山一宮に祀られる水の女神である(このことは加賀一宮、の項にも書いている)。
六甲山では、今はもう滝で修行する行者さんの姿は見られないようだが、お籠もり堂もあって昔はよく知られた霊場であったそうだ。(高座の滝、弁天滝など滝が多い)
西宮神社(西宮えびす)の境内にも、六甲山神社が摂社として祀られている。その説明は次のようである。
祭神は菊理姫命。・・・・慶長期以前から、六甲山山頂には白山権現が祀られ、石の宝殿と呼ばれていた。六甲山一帯は古くは廣田神社の社領であり、此れの分社・遥拝所として、寛政元年、浜南宮に勧請された。(西宮神社ホームページより)
また伊丹市内には、六甲山の「六甲山大権現」への道を示す古い道しるべが、今も残っているそうである。
また越木岩神社(西宮市)によれば、境内末社、雨乞いの社である「貴船社」の奥宮は、六甲山神社石の宝殿、とされている。(越木岩神社ホームページ)
六甲山神社の石祠を建立したのは、越木岩神社の氏子だったともいわれており(慶長の建立と刻まれている)、貴船社とのつながりという点でみれば、高おかみ神、闇(くら)おかみ神(貴船神社の祭神、ともに雨を司る龍神)が六甲山神社の祭神ということになるだろう。越木岩神社境内には、末社として六甲山神社も祀られており、その祭神は菊理姫大神となっている。
だいたい以上であるが、祭神と各神社とのそれぞれの結びつきが感じられる。六甲山神社(石の宝殿)の祭神や鎮座伝承についてはさまざまな謂れが伝わり、創祀についても判然としない。所轄がどのように推移したのかも、はっきりとは見分かちがたいようである。異なった伝承があるのは、各時代によって異なる地域の人々の信仰が重なり合ってきたからであろう。
石の宝殿は六甲山頂から一キロ以内の距離にあることから、ごく普通に考えれば、古から六甲山に鎮まる神霊が祀られてきたのであろう。この地から川の流れは仁川、芦屋川、住吉川などへと分かれてゆく。水を司る神が祀られてきたというのも、ごく自然なことと思われる。前述のように六甲山神社の祭神として伝わっている複数の神名をあげた。これら別々の神名を重ね、同一視する考え方もあるようだが、定かではない。
石の宝殿は、霊験あらたかな雨乞いの社として尊崇されてきたという。ここの雨乞いはまず心経をあげてお祈りし、どうしても降らないときは、沢蟹を宝殿に投げつけると降ったと伝えられているそうである。また別の伝承では、雨蛙を石祠にすり潰して帰るのだとも。何とかして早く雨をと願うあまり、いろいろな試みがなされたようである。
磐座の場所を社務所でお聞きした。ほんの一、二分、お社左手の細い道を下るとのこと、行ってみると、思いがけず巨大な磐座が右手に現れて驚いた。下方は崖になっていて磐は続いており、ぼんやりしていると足元は危ないのであるが、大きな磐座に寄って佇んでみると、古代的な雰囲気が感じられて好もしい。磐座は豊徳大神という名で呼ばれているそうである。わかりにくい位置にあるので見過ごしそうだが、このような迫力ある立派な磐座が存在するので、ここが霊地とみなされ、お社も営まれたのだと納得したことであった。
磐座を後にし、石の宝殿に戻って石祠を見上げる。青空を背景にひっそりとした佇まいである。ここの祭祀がどのくらい昔にさかのぼるものかはわからないけれども、神功皇后の宝物献納伝承があることから、その時代にはもうすでにこの磐座は見出され、霊地とされていたのかもしれない。遠い時代に思いを馳せつつ石祠を仰いだ。
石の宝殿を後にし、お社の裏手にまわってみると、開けた場所になっており、ここにも複数の神仏がお祀りされていた。道路へとつながる道があり、降りてみると簡単で楽な道であった。裏参道に見えるが、今はこちらのほうがよく使われているようである。
近くまで来ているので、一軒茶屋の前から六甲山頂(標高九三一メートル)へと上ってみた。ここにも岩は多いようだが、名がついている磐座や、大きなものは見当たらない。元はあったのかもしれないが、鉄塔建設時に失われてしまったのだろうか。
今日は休日なので、子どもたちやたくさんの人で賑わっている。その昔、学校登山で風吹岩から苦しみつつたどり着いた記憶があり、懐かしさを覚えたが、風景は変わってしまっており、年月の経過を思うのだった。山頂の平たい岩でコンビニ弁当とみかんの昼食をとりつつ、ぼんやりと人の流れを見つめていた。
天穂日の磐座と芦屋神社
山頂から、六甲山カンツリーハウス内にある「天穂日の磐座」を目ざして歩きはじめた。車が行き交う道路を避けて山道を行こうとするが、道路と山道は何度も交差しており、山道のみを歩くわけにはいかない。上ったり下ったりを繰り返し、疲れると平坦な道路に降りて歩いた。山道では六甲を縦走するらしい人たちを何度も見かけた。
六甲山カンツリーハウス(有料)の東入口に着いた。「天穂日の磐座」は園内地図に載っておらず、受付の人に訊くと、磐座へ行ったことはないけれど、この辺りです、と丘の上を指して教えてくださった。園内には遊具が設置され、池で遊ぶ人や芝生でボール遊びをする子ども連れでいっぱい、目ざす丘は中央入口の正面である。
斜面には隙間なく芝が敷きつめられ、残された樹木はほんのわずか、ところどころに岩だけが顔をのぞかせている。昔はきっと深山幽谷だったに違いないが、今は行楽施設に変貌してしまったのである。磐座が破壊されなくてよかったと思う。
「天穂日の磐座」は小さな山の頂にあった。丸味を帯びたゆるやかな楕円形、注連縄がかかり、思っていたよりも大きかった。松の木の枝が磐座の上を手で覆うようなかたちで伸びて絡まり合っているのがどことなく不思議な印象、古代祭場にふさわしい独特の雰囲気をつくりだしている。磐座の近くには磐境(いわさか)があり、これは石を円形に組み合わせた神の座で、いわゆるストーン・サークルである(以前吉備津神社裏の中山に上って磐境を見たことがあるが、草に埋もれてかたちがよく見えなかった)。
ここの磐境は短い芝生のせいか、はっきりと美しい円をかたづくっているのが見てとれる。とてもきれいなので、施設造園の折に人が細工した、などといわれているそうである。そうは思いたくないけれども。
磐座にあった説明文によると、
「六甲山に天降(あも)りされた天穂日命(あめのほひのみこと、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみことの叔父)をお祀りした磐座で、神籬(ひもろぎ)と呼ばれている。神籬とは、まだ社を建てなかった大昔に、巨大な岩をもって築いた古代祭場のことである。近くには磐境(いわさか)と呼ばれる岩石が垣根のように敷かれ、中にはストーン・サークル、亀、蛙など神に仕えた動物をかたどったものもある。古事記によると、天穂日命は天照大神の第二皇子で、他の兄弟神とともに、瓊瓊杵尊に先立って地上に下られ、地の神である大国主命と力を合わせて・・・・」などとあった。
磐座が「天穂日の磐座」と呼ばれる由来については、天穂日命の降臨地という説、ここで天穂日命が祭祀を行ったことによるという説、芦屋神社の奥宮という説(芦屋神社は里宮になる)、天穂日命の墓所という説、など諸説あるようだ。
天穂日命は、天照大神と須佐之男命の間で行われた誓約(うけひ)によって誕生した天照大神の第二子。天穂日命は天孫降臨の折、その先兵に選ばれ、高天原から地上に降り、出雲の大国主命のもとへと遣わされるが、大国主の人柄に敬服して地上に住み、三年間復命しなかった。記紀では復命しなかったとされるが「出雲国造神賀詞」では、天穂日命は任務を果たしたとされているそうだ。天穂日命は大国主のみたまをお祀りし、その息子は出雲国造の祖となり、その子孫は今も続いている。
天穂日命はまた兵庫県芦屋神社の祭神で、芦屋市内でも祀られている。六甲山とどのように結びつくのか、少しみてみよう。
芦屋神社は阪急芦屋川駅から徒歩十五分の山麓にある。周りは住宅地であるが、裏山、あるいは背後の森の天神山(ここでの天神とは菅原道真のことではなく、天津神の意である)に天穂日命が降臨したとも伝承されている。一説によると、葦原中津国平定の密命を受け、高天原から地上に降り立った天穂日命の一行は、聖地六甲山に上り、山頂の磐座で神を祀って祈願した後、出雲へ向かったともいわれているのだが・・・・。
もし一行が六甲山で祭祀をし、(経路はよくわからないが)出雲へ行ったというのであれば、かなりの遠路になる。もし秘密裡に行動する必要があったのだとしたら、難儀したであろう。地理に通じた山の民に案内させ、ひそかに山越えで杣道をたどったのであろうか。
芦屋神社の由緒をみてみよう。
「天穂日命は天照大神の第二子。大八州(おおやしま)の主宰神である大国主神と国譲りの交渉を結んだ。その後大国主神の大神殿を築き、自ら祭主となった。その子孫は今も祭主として出雲大社をお祀りしている。芦屋神社の創始は不詳。天穂日命が高天原より降臨された磐座が六甲山頂に現存すること、境内に横穴式石室古墳があることから推察して、約千四百年前には、すでに六甲山を聖地として崇める豪族が芦屋の地にあり、山の神を崇拝する施設としてこの里宮を建設したのではないか。古来この地は天神山と称し特別な聖地であったと考えられる」などとあった。
天穂日の磐座を、芦屋神社の奥宮として捉えていいのかどうかはわからないが、芦屋神社側が里宮としておられるのなら、深いつながりがあることは確かであろうし、古の芦屋の里に天穂日命を祀るお社が建てられたという点には、注目してよいと思われる。
芦屋神社は、初詣のときは混んでいるが、ふだんはひと気もなくて、ひっそりとしずまっている。ご神木はおがたまの木。やまももの木もある。境内には市内のお社から合祀された摂社が多く、敷地内に神々や地霊(猿丸太夫の墓という宝塔も)が身を寄せ合っているような印象を受ける。入口は閉じてあるが、なにげなく暗い横穴式古墳の前に立つと、こわいような雰囲気が感じられて、思わず引いてしまうのである。古墳には、芦屋側上流の弁天岩から遷された水の神(菊理姫神)が祀られている。
先日久しぶりに芦屋神社を訪れてみると、以前にはもう少し残っていたかと思われるが、お社の背後、山麓の森はすでに消えて宅地となり、震災で被害に遭って建て替えられた神輿庫など、境内には新しいものも目立った・・・・。
話を元に戻すことにする。
カンツリーハウス内の「天穂日の磐座」は垣で囲ってあった。頂上なので冷たい風が立て続けに吹きぬけるたびに木々の枝を揺らし、佇んでいるうちにも気温が下がっていった。池の辺りで遊ぶ子どもたちの笑いさざめく声が、遠く近く潮騒のように聞こえ、やがてしだいに遠のいていく思いがする。
磐座はその前に佇んでいると、心に古代を呼び起こす。どんな人たちがここを霊地として敬い、どんな祀りが行われたのだろう。古には誰でも自由に上ることは許されず、祭祀者のみが訪れたのかもしれないと思う。鬱蒼としていたに違いない深い森、緑濃い山の樹木・・・・。開発時、整地の折に多くの樹木、巨岩群は姿を消してしまったに違いなく、そのことをやはり寂しいものに感じてしまうのだった。
磐座と磐境の間に立ってみた。磐座は大きくてまるく、磐境も円環なので、眺める情景からはどことなく柔らかい印象を受ける。それでもやはりしばらく佇んでいると、ここにはある種の厳かな気配が漂い、古の祭場だということが心に浮かび、古のことが意識されるのだった。
六甲比命神社・仰臥岩・雲が岩
カンツリーハウスを出て、六甲比命(ろっこうひめ)神社へと向かう。近くだと思うが、見つけにくいお社である。地図にはなく(雲が岩は載っている)、カンツリーハウスのかたに訊くがわからず、困っていると、ご親切にどこかへ電話をかけて尋ねてくださったので恐縮した。行きかたは、上から降りる道と、下から上る道の二通りあって、上からのほうが楽とのことであった。雲が岩と神社は近いという。
教わった通り、楽な道をとる。カンツリーハウス中央出口からバス道に沿って少し降り、目に入る最初の道を右へ、会社の寮や山荘の間の道を進んでゆくと、神社の標識があり、細い山道に入ると、むき出しのごつごつした磐座群、大岩が突如眼前に現れたので驚いた(ここまで徒歩十分程度)。特に目を引くのが「仰臥岩」であった。
仰臥岩は平らな大岩で、その前の岩には八大竜王(水神)、熊野権現、花山法皇などがお祀りされている。真言宗系寺院、神戸市北区多聞院の奥の院とされているそうだ。辺りには神仏習合の様相が感じられる雰囲気が漂っていた。
仰臥岩と名づけられたこの岩の近辺は、(勝手な想像であるが)雨乞いの霊地ではなかったろうか、という印象を受けた。祈願しても雨のない日照続きのとき、芦屋のフカ切り岩(まな板岩)と同様、平らなこの面で、行者さんが魚などを切り刻んだのではないだろうか。住処を汚された神様は穢れを流そうとして、雨を降らせる・・・・。仰臥岩を見ていると、そういう場面が思い浮かぶのであった。
周囲を見るとここも小さな山の頂であり、密集する岩の連なりは普通ではなく、もともとは先住の民の聖地であったろうかと思われる。太古の昔、これらの磐座では祈りが捧げられたことであろう。
近辺の斜面にも印象的な岩が多く見られた。どの岩も地面から湧き上るような力強さがあり、圧倒される。頭上の木々も枝や幹がよじれて野放図に延びて広がり、生命力に溢れている。木々を仰ぎ岩の間に佇んでいると時間が止まり、ふっと異空間に入り込んだような奇妙な感覚が起きてくるのだった。
すぐ下は急斜面となっていて、岩群れは樹木の間に点在し、草に埋もれつつ積み重なり、山肌を覆って続いていた。迫力ある岩また岩と樹木の織りなす光景であった。仰臥岩から下に続く道に降りてゆくと、すぐ丸みを帯びた磐座があり「雲が岩」と名づけられていた。
雲が岩は、ほぼ中央で断ち割ったように二つに割れている。その不思議さが人を惹きつけるのであろう。名の謂れは、インドから来られた法道仙人がここで修行中、紫雲に乗った毘沙門天が岩上に顕現したことによるという。「天穂日の磐座」からここへ来ると、磐座の由来にもにわかに山岳仏教色が強くなったことが感じられるのであった。
雲が岩の位置は斜面にあり、長くいるには不向きな場所になっていた。ここからさらに下へと降りてゆく。足場のような簡単な階段が設置されており、不安な気持ちでそっと降りてゆくと、そこが六甲比命神社であった。
岩陰にある小さなお社であるが、きれいにお掃除されていて、内部へ入ってお参りできるようになっており、たくさんのお水がお供えしてあった。お社の裏側へとまわってみると、大きな岩と岩が屋根のように組み合わされてできた薄暗い空間に祠があり、湿潤な空気が漂い、奥にひっそりと神様が祀られている。
祭神は、時代によって、むかつひめ、むこうひめ、ろっこうひめ、と名が変遷したようであるが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)、天照大神の荒御霊、とされているそうである。前述のように、六甲山は廣田神社の社領であったので、廣田神社の祭神がこの岩屋の奥に祀られ、そのみたまの鎮まる場所がここであり、一説によると、墓所ともいわれているそうであるが、定かではない。
ここは秘めやかで目立たず、しかも厳かな感じがした。静寂で空気は冷たく澄んでほの暗く、清浄な空間と感じられる。しばらく佇んでいると、しずくが一滴落ちてきて顔にかかった。見上げると庇の間からのようである。昨日の雨の影響であろうか、右手の岩の間からも静かに水がにじみでて伝い、しずくが滴っていた。
夕暮れが近くなっていた。もっとこの山道を下れば別の磐座にも出会えるのだと思うが、今日の散策はここまでとし、祠に手を合わせ、六甲比命神社を後にした。