三浦綾子
「細川ガラシャ夫人 上・下」(新潮文庫)
三浦綾子
「細川ガラシャ夫人 上・下」(新潮文庫)
長岡京市内に、細川忠興と妻の玉(ガラシャ)が若いころ住んでいたとされる勝竜寺城址がある。このことにちなんで、毎年十一月には「ガラシャまつり」が開催され、当日は輿入れ行列や、忠興との婚儀の様子が勝竜寺城公園で再現される。その日は多くの人で賑わうのだが、ふだんは静かなところである。文庫本「細川ガラシャ夫人」を手に、勝竜寺界隈を散策してみることにした。どんな話なのか、まずあらすじからみていこう。
「細川ガラシャ夫人」 あらすじ
玉子は明智光秀と煕(ひろ)子の三女として生まれる。明智の主君である織田信長の命により、十六歳で同い年の細川家の長男、忠興に嫁ぎ、勝竜寺城で夫とともに何年間かを過ごした。やがて忠興が丹後を任せられることになり、玉子が夫と二人の幼子とともに、丹後の地にあったとき、思いもかけない出来事が起きた。
玉子の父、明智光秀が謀反を起こし、織田信長、信忠親子を殺した「本能寺の変」である。玉子はこのとき三番目の子を身ごもっていた。
変を知って細川家は動揺し混乱するが、藤孝、忠興親子は、光秀からきた再三の加担の誘いを断った。そして藤孝は信長への強い弔意を表すため剃髪して僧形になり、反光秀の立場を明らかにした。玉子の父光秀と、舅、夫は敵対関係になった。
ほどなく光秀は勝竜寺城を占拠して本陣とし、天王山山麓の山崎で秀吉側の軍と対峙する。天下分け目の決戦といわれている、天王山の戦いである。
光秀の思いに反して、光秀側を支持する武将は少なかった。縁戚である細川家には断わられたし、高槻の高山右近も、大和の筒井順慶も味方しなかった。光秀は秀吉側の軍勢と戦い、敗北する。光秀は一旦勝竜寺城に兵を引き上げ、その後、ひそかに城を出ていく。つき従う兵は少数であった。そして光秀は近江坂本へと敗走する途中、小栗栖の藪で土民の手に掛かって、あっけなく亡くなった。
主を失った坂本城は落城し、玉子の母や姉弟など明智一族の人々は城中で滅ぼされ、やがて天下は秀吉のものになっていく。
平穏だった玉子の運命は暗転したのである。玉子は一どきに父母姉弟も、帰るべき実家も失った上、逆臣の娘という、生涯消えることのない汚名を背負って生きなければならなくなった。
玉子は細川家から離縁という形をとって、ひとり丹後半島山中の味土野に幽閉され、失意のうちにそこで出産する。孤独の日々を過ごすうちに、二年後、ようやく秀吉に許されて、大阪玉造の細川家屋敷に戻ることができ、再び夫や別れた子供たちとも暮らせるようになったのだが、夫忠興は既に側室を持っていた。
やがて玉子は、侍女清原マリアの手引きで、キリスト教の教えに導かれていく。信仰に心のよりどころを得た玉子は、外出を禁ずる夫の目をかいくぐって宣教師に会い、対話や書物を通して教義を学ぶ。そして夫の留守中、侍女を通してひそかに洗礼を受け、ガラシャの名をもらう。
秀吉がキリシタン追放令を出し、信者たちにとっての苦難が続いていく。玉子の信仰も、やがて夫に知られることとなって怒りを買い、侍女たちが厳しく処罰されるが、玉子の信仰はゆるがなかった。
やがて秀吉は病を得て没し、そのあと石田光成と徳川家康の戦いが始まっていくのだが、夫の言葉に忠実に従おうと決意した玉子は、夫が出陣中、屋敷を取り囲んだ石田光成方の人質になることを拒んで死を選び、自害を禁じるキリスト教の教えを守って家臣に胸を突かせ、屋敷は燃え落ちていく。玉子は38歳であった。
この出来事は、当時の人々の心に大きな衝撃を与え、細川家には同情が集まった。強引なやりかたを批判された石田光成は、以後武将の妻を人質に取ることをやめ、戦局は結果的には、徳川方に有利に働いたといわれている・・・・。
JR長岡京駅から、西国街道を勝竜寺のほうに向かって歩きはじめた。
後のガラシャ、明智玉は十六歳のときに、細川藤孝の長男である同い年の忠興のもとに嫁いできた。評判の美人であったといわれている。
その輿入れ行列は、玉が育った近江の坂本を出発し、京の都を経て、この西国街道を通ってきたと思われる。行列は西山山麓に沿って進んだはずだから、沿道に住む集落の人々は、華やかな婚礼の列に見入ったに違いない。
西国街道を歩いてみると、昔の雰囲気を少しでも残そうという方針なのか、道路も落ち着いた感じにしてあって、道幅も狭いままである。この町並みの中には古い商家も混じっていて、文化財にもなっているという石田家住宅には、昔の井戸や竈の跡、珍しい虫籠(むしこ)窓が残っており、古い面影を伝えている。
やがて道を左折し、JRのガードをくぐっていく。左手に神足(こうたり)神社がみえてきた。神足とは珍しい名だが、桓武天皇の夢見による命名という言い伝えがある。ご利益のほどはよく知らないけれども、「神足」にあやかろうと、近年はサッカー関係者の参拝が多くなっているのだそうだ。でも本来ここは、球技の神様ではなくて、舎人親王をまつる古社であった。舎人親王は日本書紀を編纂したといわれている人である。
通称ガラシャ通りと呼ばれる通りに出て、右にいくと勝竜寺城公園である。
見回すと、庭園風に整えられた、明るくモダンな感じのする公園であった。周りは堀になっていて、橋を渡ると、中にお城風の建物があり、二階が資料館で、写真パネルや発掘された展示品が置いてある。残念ながら石垣も城も古いものではなくて、遺構を復元したともいえないほどの真新しさである。周辺はさくらなど樹木が植えられて、市民の散策に適した場所になっている。
ここにはかつて勝竜寺城という城があった。織田信長のときに、それまでにもあった城が整備され、細川藤孝が城主となって住んだという。
桂川、木津川、宇治川も近いし、淀川に出るのにも早く、京都からもそう離れてはいないため、交通の要衝とみなされていたのだろう。
細川玉の劇的な生涯は、色んな作家が取り上げて作品化していると思うが、同じキリスト者で、女性という独特の視点から描かれた、三浦綾子著「細川ガラシャ夫人」を読むと、信仰に裏づけられた玉の生き方を、きめ細かくたどることができる。
前半は両親の結婚のいきさつから書き起こされ、本能寺の変に至るまでの光秀の行動や、その内的葛藤などが描かれる。後半は玉の苦難の結婚生活が順を追って語られていくのだが、キリスト教の信仰が、一人の女性の心を強く捉えていく過程に焦点が当てられる。
その時代にキリスト教に出会い、信仰を持つことの意味、そして信仰に支えられながら現実と折り合っていこうとする玉の姿勢がくっきりと描き出される。嫉妬深い夫に禁じられて、外出もままならないような窮屈な生活を強いられながらも、心を常に開き、人間らしく生きていく道をさぐろうと模索する姿が、多くのエピソードを交えて活写されるのである。
散りぬべきとき知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
玉の辞世は、このような歌であった。
それは明智光秀が本能寺の変の前、愛宕山で催された連歌の席で詠んだ、内心の決意を思い切って表明する、有名な次の句をふっと思い起こさせる。
ときは今 天が下しる皐月かな
娘である玉は、父が詠んだ「とき」や「しる」など同じ語句を用いて、父とはまったく異なる生き方を、辞世の歌で示してみせた。でも父の句と玉の辞世とは、どこかでつながっているような気がする。玉は父のあの恐ろしい発句を、このように歌うことによって、見事に巻き収めたのではないだろうか。
小説を読んだあとで城跡にたたずんでみると、若かった日の玉の様子がしのばれて興味深い。玉のその後の人生を思えば、ここ勝竜寺城で過ごした何年間かの新婚生活は平穏なものであったろうと思われる。この地で生きた芯の強い若い女性の姿が、風景の中に浮かび上がってくるような気がする。
勝竜寺城を出て、戦いのあった天王山のほうに向かって歩いていく。天王山の戦いの様子はルイス・フロイスの「フロイス日本史」にも詳しく書かれていて興味深い。両軍は川を挟んで睨み合っていたが、明智側が先に川を渡って山崎村に入り、まず高山右近の軍とぶつかるのである。
光秀と秀吉方の軍が戦った天王山は標高約270メートル、長岡京市内からはよく見える山で、そう高い山ではない。麓から一時間程度で登ることができ、山崎側からと小倉神社側からの二コースがある。
今はかすかに井戸の跡ぐらいしか残っていないけれども、天王山山頂にはかつて城があったという。山道の途中にある見晴台のところには、秀吉が自軍の千成瓢箪の旗印を立てたという旗立松、また山崎合戦の石碑などがある。
けれども山崎合戦の主戦場は、天王山山中ではなく、もう少し下の大山崎町であるといわれているので、今日は山麓の辺りを散策してみることにする。
勝竜寺から歩くうちに、途中、六世紀の古墳である恵解山古墳の傍に出た。ここ乙訓の地は古くから開けたところなので、古墳や遺跡が市内の随所に今も多く残っている。竹藪と樹木に覆われて盛り上がっている約120メートルの大きな前方後円墳で、地域の首長墓というが、被葬者は誰かわからないらしい。
車が往来する道路に面しているのに、昼間でもなんとなくしんとした空気の漂っている古墳である。光秀が勝竜寺城を出て、本陣を置き指揮を執ったといわれている「御坊塚」は、ここだったという説もある。勝竜寺城からの距離は500メートルぐらいだろうか。もう一箇所、本陣跡といわれているところがあるので、尋ねてみることにする。
古墳の横を通り、サントリービール京都工場の裏に回って、探してみた。確かに児童公園の中にそのことを説明した「本陣跡」の大山崎町の表示板があった。どちらが本当の本陣跡なのかはわからない。古墳のほうは勝竜寺城に近く、ここは戦場となった山崎に近い。どちらにしても、光秀は悔しい思いで刻々不利になっていく戦況を見つめたことだろう。
山麓を流れていく円明寺川を挟むようにして両軍は布陣し、戦闘はわずか一日、それも短時間のうちに勝敗が決したという。フロイスはその様子を次のように記している。
「明智は、勝竜寺と称する、都から三里離れた非常に重要な一城を占拠していた・・・・武将は軍勢を率い、山崎と称せられる非常に大きく堅固な村落まで進んだ・・・・・右近殿は羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた・・・・彼は、デウスを信頼し、戦闘においては大胆であったので、約一千名の彼の兵とともに門を開き、敵を目指して突撃した。キリシタンたちは実に勇敢に戦い、ただ一人の戦死者を出しただけであるが、彼らは明智の身分ある者どもの首を二百も討ち取った。そのため明智の軍勢はたちまち動揺をきたし、混乱した・・・・」 (フロイス日本史より)
激戦のあった大山崎のほうに進んでいくことにする。阪急の踏切を越え、小泉川(円明寺川)を渡っていく。川は水草が茂り、細い流れではあるが、今も陽の光を受け、きらめきつつ山麓を流れ下っていく。竹薮の続く道に沿って少し歩き回ったあと、住宅街に入って、公園の中に入って休んだ。地名は大山崎町円明寺、この付近がたぶん山崎合戦の主戦地であったかと思われる。
そこは、今は子供たちの遊ぶ声がひびく、のどかな光景の中にあった。緩やかな傾斜地になっていて、周辺には住宅が立ち並び、団地もあるが、かつてこの辺りを中心として両軍の戦闘が行われ、多くの血が流されていったのだろう。
なだらかに続く緑の山並みを見上げつつ、往時のことを思う。天王山山麓は、近年はモウソウ竹が多く一面の竹林が続いているが、当時はどんな風景が広がっていたのだろうか。
ベンチに座って、三浦綾子著「細川ガラシャ夫人」(新潮文庫)を取り出して、ぱらぱらとページを繰ってみた。玉子という女性の心の動きに沿って書き進められているので、大変読みやすい。長岡の地名も風景も丁寧に書き込まれてあり、できるかぎり関係地を訪れて取材もしたのだろう。あとがきにはこんな風に記されていた。
「・・・・逆臣光秀の娘という恥を見事に雪(そそ)ぎ、立派な最後を遂げた玉子のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの「緋文字」の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を、終生胸につけなければならかったその女主人公は、信仰と善行とによって、その緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う・・・・」
もう何十年も前のことになるのだが、三浦綾子さんの講演を聴いたことがあった。
それは西宮市にある大学近くの教会で開かれた、小規模な集まりであった。新聞懸賞小説「氷点」で受賞し、成功を収めた三浦さんは、一躍世間にその名を知られることになり、作家としてのステップを着々と上がっておられたころであったかと思う。
その日、三浦さんは地味なスーツ姿で演壇に立ち、低い声で「氷点」の作品世界やその背景について淡々と語られた。間近で見る三浦さんは、ほとんど化粧気がなく、飾り気のない感じであった。講演が終わり、質疑応答になったとき、男子学生らしい人が立ち上がって訊いた。
「人が生きる意味は、なんでしょうか」
咄嗟には答えにくい質問だったかと思うが、三浦さんは動じることなく、ごく自然なしぐさで演壇に置かれていた一冊の手ずれた本を取り上げると、聴衆に示してみせた。
「それは、この中に書いてあります」
本は聖書だった。皆しーんとしていた。
ここが教会の一室であること、そして三浦さんがキリスト者であることを、このときほど強く感じたことはなかった。印象的な場面であった。
余談になるが、文庫本「細川ガラシャ夫人」の解説を書かれた関西学院の水谷昭夫先生の文章も、信仰と作者の深いかかわりに言及され、作品を生み出していく背後にあるものの重さ、確かさについて考察しておられて心に残る。
本を書かれた三浦さんはガンで闘病の末、この世を去り、解説を書かれた水谷先生も逝ってしまわれた。
もうこの世にない人たちが残していった言葉の持つ響き、そこにこもる深い思い、そういうことを反芻しながら、もう一度緑濃い天王山の山並みを見上げ、本をところどころ読み返すのだった。
引用 参照
「フロイス日本史」3 (中公文庫)