一北陸道の古社一
気比神宮(越前一宮) 大湊神社 東尋坊 雄島
一北陸道の古社一
気比神宮(越前一宮) 大湊神社 東尋坊 雄島
越前一宮 気比神宮
JR敦賀駅に降り立った。駅前には角のかたちの前立のついた兜(かぶと)を被り、右手を高く上げ、左手に剣を携えた古代人の銅像が建っている。都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の像とあった。日本書紀垂仁紀には、崇神天皇の御代に「額(ぬか)に角(つの)有(お)ひたる人」が船に乗って気比の浦に渡来し、敦賀の地名の由来になったと記されており、それに因むものであろう。今は駅前から眺めても海の気配は感じられないが、古代にはもっと海岸線が近かったのかもしれない。
越前一宮を目指し、大通りのアーケードに沿って十五分ほど歩いていくと、気比神宮(けひじんぐう)の大鳥居が見えてきた。朱塗りで安定感のある木造の両部鳥居(江戸期のもの)である。空襲を受けて社殿は焼失したが、この大鳥居は残ったそうである。
参道へと入ると、すぐ左手に猿田彦命を祀るお社があり、さらに参道を進むと長命水という湧水があり、立派な亀蛇口から清水が流れ落ちていた。ほかに神水苑という湧水池もあり、境内には清らかな水が豊富に湧き出ているという。古来聖地とされる由縁であろう。権現造りの社殿は戦後になって再建されたもので、古色はないけれども、北陸道総鎮守の名にふさわしく、堅固で落ち着いた印象になっている。
主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)。またの名を気比大神、御食津大神(みけつおおかみ)とも。在地の神で、古くから海人族に祀られていたという。気比神宮ホームページによると「食物を司る神、海上交通の神、農漁業、衣食住の生活全般を守護する神」とある。
それ以外にも、渡来した都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祭神という説、天日槍(あめのひぼこ)説、仲哀天皇説などがあり、諸説あって判然としない。古社なので鎮座についてはさまざまな伝承があるのだろう。
後の時代になると、日本武尊、神功皇后、応神天皇ら六柱が合祀され、祭神は七柱となっている。書紀によれば、仲哀天皇は神功皇后とともにここに滞在し、笥飯宮(けひのみや)を営んだとされる。
・・・・天皇、角鹿(つぬが)に幸(いでま)す。即(すなは)ち行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。是を笥飯(けひ)宮と謂(まう)す。(日本書紀 仲哀紀)
境内右手の開けた地へと向かう。右手前方にはひと目見て神体山とわかる秀麗なかたちの山が望まれ、引き寄せられるように眺めてしまう。これは天筒山(てづつやま)といい、神降臨の神奈備山で、主祭神の霊蹟地とされるそうだ。
境内はフェンスで区切られており、その先には小学校があった。校庭には盛り上がった小山、あるいは塚、古墳のようなものが見えていて、妙に存在感がある。フェンス越しに眺めていると、神職のかたが通りかかられたので、その由来についてお聞きする。
「当社のご祭神は、はじめ天筒山に降臨され、その後この地に降臨されました。校庭の中にある盛り上った所を土公(どこう)といい、神様が降りられた所です。この辺り一帯を古殿地といい、仲哀天皇が滞在されたという行宮がありました。気比神宮の社殿は、今は左手にありますけれども、昔はここにお社が建っていたのです。(土地改革法により)境内地を、学校用地としてやむなく手放してしまいましたが、それは当社だけでなく、全国各地の神社でも同様のことが起きていたので、仕方のないことでした。でもどうしても土公だけは、ということで、こういうかたちですが、残ったのです」
だいたいこのような説明であった。
改めてその「土公」を見つめる。樹木の生い茂った丸い小山、島山のようである。小学校の運動場の中にあるので、無断で入るのも気がひける。少し探すと、離れてはいるが、鳥居と遥拝所も境内側に設けられており(説明の石碑もあった)、フェンス越しに土公を拝することができるようにはなっていた。
それにしても聖地が小学校の校庭にあるとは・・・・時代のせいとはいえ、神社にとって大切な地が失われて建物が立ち、聖所が飛び地のようになっている、その変容を受け入れざるを得なかったというのは、無念だったことだろうと推察する。
風ではらはらと落ち葉が散りかかって舞い、青空に天筒山の稜線が映えている。紅葉が進み、風情のある美しい秋の情景ではあったが、その風景の中にはまた、一抹の寂しさも漂っているのであった。
付近を歩いてみる。かつて大鳥居や社殿が建っていたという、こちらのほうが正面、表参道であったようだ。往時は参詣の人で賑わっていたのだろうが、今は落葉の積もる道、ひっそりと静まり返っている。摂社を順に見ていると、角鹿(つぬが)神社があった。祭神は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とある。少し日本書紀を見てみよう。
・・・・崇神天皇の御代に、額に角の生えた人が、船で苟飯(けひ)浦に着いた。名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)といい、日本(やまと)に聖王がおられると聞いてやってきました、と言った。天皇は崩御されたので、次の垂仁天皇に仕えて三年がたった。天皇に問われたとき、阿羅斯等は帰国を望んだので、天皇は「(先帝の)御間城(みまき)天皇の名をとって国名にせよ」と仰って赤絹を賜い、元の国に返された。その国を「みまな」というのは、この縁によるものである。(日本書紀 垂仁紀)
・・・・一説には、津怒我阿羅斯等は、殺された黄牛(あめうし)の代価として、村人の祀る白い石(神)を手に入れて持ち帰った。石は美少女になったので、阿羅斯等はまぐわいしようとしたが、ちょっと離れた隙に娘は逃げてしまい、妻に尋ねると東の方に行ったと答えた。阿羅斯等が追ってゆくと、乙女は日本へ行って難波に至り、比売語曽(ひめごそ)の社の祭神となって祀られた。また豊国の国東郡に行って、比売語曽の社の神となった。(日本書紀 垂仁紀)
・・・・天日槍(あめのひぼこ)という新羅の王子が、聖王がいると聞いて渡来し、播磨に来て上陸したので、天皇は臣下を遣わして事情を問いただした。王子は神宝を献上し、天皇の許可を得て近江、若狹など各地に滞在し、但馬に定住して子孫を増やした。(日本書紀 垂仁紀)
また古事記には、このように記述されている。
・・・・天之日矛(あめのひぼこ)という新羅の王子が渡来したが、その理由は次のようであった。賎しい女が太陽の光で孕んで産んだ赤玉を、王子が村人から得て、持ち帰ると美女になったので妻とした。しかし妻が珍しい物をあれこれ拵えて勧めるので夫は慢心し、妻を罵ると、妻は親の国に帰る、といって船で去ってしまった。これが難波の比売語曽(ひめごそ)の社に祀られる阿加流比売(あかるひめ)神である。天之日矛は後を追ってきたが、難波の渡の神が遮って入れなかったので、但馬の国に行き、土地の女性を娶って定住、子孫を残した。日矛が伝えた八種類の神宝は、出石(いずし)神社に祀られている。(古事記 応神天皇)
また播磨国風土記には、このように記述されている。
・・・・土地の神、葦原醜男(あしはらしこを)と、渡来した天日槍(あめのひぼこ)の軍が、土地の占有をめぐって激しく争い続けた。決着がつかず、両者は山の頂から黒葛を足につけて投げる占いで領地を分け、土地神は播磨国を、天日槍は但馬の国を得た。(播磨国風土記)
記紀、風土記には類似の逸話が複数載っており、渡来してきた人々の航路の痕跡が感じられる。都怒我阿羅斯等、天日槍、天之日矛、時代も名も異なっている。それぞれの時代にやって来た別々の集団とみる説、また同一人物に率いられた集団とみる説、などがある。
何らかの事情により渡来し、日本で定住した人物、またその人物に率いられてやって来た集団があったということであろう。読んでいると、誰が日本に住むために来た王子で、誰が妻を追ってきた王子なのか、混乱しそうであった。
妻を追った話では、どの人物も結局は妻には会えなかったらしく、別の地に移り定住したようである。何か事情がありそうで、肝心の事柄が省略されているようにも思われる。伏せているのであろう。逃げた妻とは、神を祀る巫女、あるいは巫女集団のことを指し、妻を追って来たのは、祀られる側の男神、その一族であったとみる説(三品彰英説)もある。
気比神宮社伝によると、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は渡来後、(天皇に)任じられてこの地を統治、境内の角鹿神社辺りが政治をとった「政所」跡とされている。当地の政治の中心地であったらしい。また敦賀の地名の起源とも。
川村二郎氏は「日本廻国記一宮巡歴」の中で、摂社の角鹿神社のことに触れ、祭神の都怒我阿羅斯等が「形の上では明らかに、気比大明神に従属する児神の位置だが、実はむしろ都怒我阿羅斯等が本来の主神で、仲哀を代表とする名の新来の勢力に位を譲ったのではないか」ともみておられる。
また主祭神の伊奢沙別命と、武内宿禰、応神天皇については、古事記に風変わりな逸話があるので、その箇所を紹介してみよう。
・・・・建内宿禰が太子(後の応神天皇)をお連れして、禊(みそぎ)をしようとして近江また若狹の国を経た折に、越前の敦賀に仮宮を造ってお住ませ申し上げました。その時に土地においでになる伊奢沙和気(いざさわけ)の大神が夜の夢に現れて「私の名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せのとおりお取りかえ致しましょう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、浜においでになるがよい。名をかえた贈り物を献上致しましょう」と仰せられました。よって翌朝浜においでになった時に、鼻の毀(やぶ)れた入鹿魚(いるか)が浦に寄っておりました。そこで御子が神に申されますには「私に御食膳の魚を下さいました」そこでこの神のみ名を称えて御食(みけ)つ大神と申し上げます。その神は今でも気比の大神と申し上げます。またそのいるかの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います。(古事記 仲哀天皇)
血浦という地名について、松田壽男氏の興味深い考察があるので、紹介しておこう。松田氏は、古代で重要視されていた朱砂に着目し、全国の朱産地を実地調査して、地名や伝承を拾い上げ、古代史との関連を解き明かそうと試みられたかたである。
・・・・朱砂の露頭部から削り崩された朱砂が、河川を運ばれて海に流れこみ、河口部の海岸にたまる。この場合が血浦であろう。その赤さが人目をひいて、入鹿魚の血といい伝えられた。この伝承を記念した社が敦賀市に鎮座する気比神宮。したがって社前の海浜がその血浦に当るわけだ。いま笙川は敦賀市の主街で海に入る。しかしむかしの河口はだいぶ東に偏っていたようで、気比神宮の社前にあったらしい。この川が上流から朱砂を運んだのである。私が敦賀市の東部地区である高野、舞崎、大蔵の三地点で採取した試料は、すべて古代の朱産地だったことを明らかにした・・・・。(松田壽男「古代の朱」より 学生社)
血浦という地名に関しては、松田氏の説で説明がつくかもしれないが、夢のお告げによる気比の大神と太子の名の交換、鼻を損傷した入鹿魚の献上、と続くと、妙な内容なのでどう理解してよいのか困惑してしまう。通説では、地方神が海の幸を奉って、中央政権に服属し、組み込まれたことを示す逸話、とするようであるが、それだけではどうも納得がゆかず、腑に落ちないようにも思われる。
また古事記では、気比大神と太子は名を替えたと語られているのにもかかわらず、文献上ではそうした事実を示す根拠はないそうである。それではこの逸話はいったい何を伝えようとしているのであろうか。勝手な想像ではあるが、考えてみることにする。
神功皇后は、仲哀天皇の后であった。熊襲討伐に赴いた折のこと、香椎宮で天皇が琴を弾き、武内宿禰が斎神者(さには)をつとめた神降ろしの場で、神がかった神功皇后は思いがけなく外征を告げた。天皇は神託を信じなかったため俄かに崩御、身重の皇后は神を奉じ、武内宿禰らとともに三韓征伐を行って勝利をおさめた。帰国後に筑紫の宇美で生まれたのが誉田別(ほむたわけ)皇子(後の応神天皇)であった。
大和へ帰還するにあたり、皇后の行く手には不安があった。仲哀天皇と先妻の大中津比売(おおなかつひめ)命との間に生まれていた香坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子のことである。二皇子は、新たに誕生した弟の皇子が皇位を継ぐことになるのをおそれ、叛乱計画を立て、先帝の陵墓造営を理由に兵を動員し、皇后の軍を迎え撃とうとしていた。
武内宿禰らはこれを知ると、幼い御子はすでに亡くなったと嘘の噂を流し、喪船に兵を隠して戦に備えた。これより先、二皇子は叛乱の成否を狩で占うことにした。兎餓野(大阪市北区、神戸市説がある)で狩を行うと、兄の香坂王は猪に襲われて食い殺され、不吉な前兆を示すが、弟の忍熊王は予定通り兵を挙げる。船が嵐に遭って難航した皇后は天照大神を廣田神社(西宮市)に、事代主神を長田神社(神戸市)に、住吉三神を住吉神社(神戸市説、大阪市説あり)にそれぞれ祀り鎮めて祈願し、自身は紀伊へと移動した。
忍熊王の軍は、住吉の地に引き、そして宇治に退いて武内宿禰、武振熊の軍と対峙した。武内宿禰は偽りの降伏の振りをして、弓絃を絶ち武器を捨ててみせ、それを信じた忍熊王の軍にも同様に弓矢、太刀を捨てさせる。そして隠し持った予備の武器をとると攻撃を開始した。武器を失った忍熊軍は逢坂を越えて敗走し、忍熊王と臣下はついに追いつめられて瀬田川に沈んでいった。(古事記、日本書紀より)
神功皇后は大和への帰還に際し、対立する香坂王、忍熊王の二王を撃ち、排除する必要があったようである。もし事態を静観していれば、皇后と御子のほうが攻撃を受けていた可能性もあった。先帝の崩御により空位となった次の皇位を巡り、熾烈な争いが起きていたのである。
大和に凱旋後、皇后は自ら政治をとったようである。そして皇太子は、武内宿禰に伴われて近江、若狹を巡り、気比の社に詣でている。
古事記には武内宿禰が「禊(みそぎ)せむとして」気比の宮に太子(ひつぎのみこ)を連れていったとある。この禊とは、殺された忍熊王らの祟りをおそれ、太子が即位する前に、身に受けたもろもろの穢れを祓っておくための旅であった、と解釈するのが一般的である。
香坂王、忍熊王の母は、大中津比売(おおなかつひめ)という女性であった。大中津比売のほうが、息長帯日売(神功皇后)より身分が高く、皇統の血が濃かったとされている。皇位継承者としての資格をいうなら、香坂、忍熊王兄弟のほうが、よりふさわしかったということになる。つまり正当な皇位継承者とは香坂、忍熊王のほうであり、そうなると史書では二皇子のほうが叛乱を企て滅ぼされたようになっているが、(香坂王は猪に襲われ命を落としたというが、皇后側の放った刺客に討たれたとも考えられる)もしかすれば皇位を巡って事を起し、作戦を立て、実行したのは、実は武内宿禰と皇后側であったのかもしれない・・・・。
どちらにしても、皇位を巡って対立した場合、武力でもって先に相手を倒したほうが、皇位に就く、そういう時代であったのだろう。忍熊王は、偽りの降伏を信じたため、敗者となってしまった悲運の皇子であるので、その霊は、祟り霊として当事者に害をなすおそれがあり、丁寧に鎮撫する必要があった。調べてみると、香坂王、忍熊王の墓所、旧蹟地とされるものは、奈良市押熊町、八幡神社にあるという。それとは別に、忍熊王の陵墓と伝わるものが兵庫県宝塚市、中山寺山中の奥の院に営まれており、両親(仲哀天皇、大中津比売)の霊とともに祀られていた。(以前訪れてみたが、大岩から湧水がこんこんと流れ出ている不思議な墓所であった)また忍熊王の霊は、福井県剱神社にも祀られているということであった。
このような背景を考えてみるとき、古事記の「禊(みそぎ)せむとして」という言葉はある重みと切実さをもって感じられてくる。忠臣だったという武内宿禰にとっては、仕えている皇太子が受けてしまった罪穢れは、なんとしても即位前に祓(はら)い清め、来るべき御代の安泰を願う気持ちがあったのであろう。
主従はここに詣で、境内に湧き出ていた井泉の聖水に身を浸し、祓い清めたことであろう。皇子には覚えがないけれども、武内宿禰には、戦場の記憶はまだ生々しいものがあったはずである。
古事記では、社に詣でた折に、気比大神が「わが名を御子の御名に易(か)えまくほし」と告げられ、これを受けて翌朝浜に出ると「鼻毀(やぶ)れたる入鹿魚、既に一浦に依れり」という状態であった。皇太子はそれを見て「われに御食(みけ)の魚(な)給へり」と仰った。あどけない言い方に聞こえる。皇子はまだ年若かったのであろう。
古代において「名の献上」は、相手への服従、服属のかたちであるが、「名の交換」はまた意味が違うとされる。名の交換はふつう親愛や生涯の絆の証ともいわれるが、この場合は、太子は禊のために訪れたのであるから「太子が受けたであろう罪穢れの付着した名」を神がいっとき引き受けて、そして祓い清めてくださった、と解するのはどうであろうか。(「古事記伝」をみると、本居宣長は、このとき互いに名を取替えたのではなく、神が御子の名を頂いたとみている。神が幽事として魚を捕らえ献上したとも)
名変えは一種の古代の呪術であった。一時的に神は「罪穢れを負った名の持ち主」となって海にゆき、その名に向かって寄ってくる悪しきものを打ち倒してくださったのではないだろうか。名変えの結果、その実態を示すものは「死んで血を流す入鹿魚」の姿であった。横たわる(複数の)死魚は、「忍熊王らの怨み、祟り霊」を象徴するものであり、このときに敗者の祟りは神の力によって、ついえ去ったのではないだろうか。
海原は異界であり、砂浜は現世、渚はその境界である。武内宿禰と太子は神に告げられて明け方の浜に出て、渚という境界に立ち、異世界から漂ってきた死んだ魚を見たのである。魚は海で「皇太子の名を持った神」に寄ってゆき、神の力によって鼻を一撃されてすでに息絶えていた。
禊とは罪穢れが祓い清められること、神は、皇子に罪穢れのなくなった名を返してくださり、主従二人は死魚と化したものを確認することによって、禊の旅は終了したのではないだろうか。これはそういう呪的な場面ともみえるのである。そして皇子と武内宿禰は禊の目的を達成して大和へと戻り、母(神功皇后)が用意した寿ぎの宴の席へと場面は進むのである・・・・。
謎めいた気比の宮の逸話であるが、興味深かったので、勝手な空想にもとづきこのように解釈してみた。
大湊神社 東尋坊 雄島
敦賀から東尋坊へと旅を続けた。三国の国民休暇村に一泊、翌朝路線バスで東尋坊の次の停留所まで行き、そこで降りて、荒磯散策道を海岸伝いに歩いた。海岸際まで下りてみたり、昔の製塩所の跡地や、草の中にひっそりと立つ文学碑などを眺めたり、高い木の枝に集まってさえずる小鳥の観察などをしながら、東尋坊まで引き返していった。散策道は、歩きはじめは人の姿をほとんど見かけなかったが、東尋坊タワーが近づいてくるにつれ、行き交う人が増えて賑やかになった。
東尋坊は、太古の火山活動により、噴出したマグマが冷え固まり、さらに火山岩が日本海の荒波にさらされて侵食され、特異な景観が造りだされたという。何キロにもわたって続く断崖絶壁は人を圧する奇観となって広がり、切り立った崖は垂直に海に落ちている。
東尋坊と名づけられた由来は、その昔、東尋坊という悪僧がいて、仲間の僧たちにここから突き落とされたことによるそうだ。禍々しい死の記憶がそのまま地名となったようである。
大きな柱状節理が海に突き出るかたちで断崖絶壁をなしている。荒々しい奇岩の連なりが続く様子は、ほとんど異世界のものとも映る。三段岩、蝋燭岩、屏風岩、形状からそう名づけられ、海辺に立ち現れた巨岩の佇まいはどれも異様でおそろしい。むき出しの異界とじかに接する恐怖の感覚に近い。
おそるおそる近づいて、深い縦皺のように刻まれた柱状節理、折り重なって連なる断崖絶壁をじっと眺めていると、生と死の境界を手探りしている心地になる。生の側に佇んでいるつもりではいるのだが、本当はそのあわいにいるのではなかったか。とても崖下を覗き込む勇気はなく、歩きにくい岩を先端まで進んでゆく気力も失せ、強い潮風に吹かれつつ岩壁にぶつかる激しい波の音を聞き、打ち寄せては砕け散る白波を無言のまま見つめるばかりであった。
観光船には乗らなかった。海沿いの遊歩道を進み、雄島の方向へと歩いてゆく。テレビや映画にもよく登場する東尋坊は、土産物店、飲食店が立ち並ぶ観光地になっているが、一方では自殺の名所という負の部分もあり、何箇所もある自殺防止の立て札には、何とか死を思いとどまらせようとする標語や警句が書かれてあった。
遊歩道の各所には、自然観察についての看板、パネルも多く設置してあり、海辺の生物や植生、岩石の種類、地層などについて詳しく解説してあった。福井県の教育に対する熱意が感じられる。道の途中には海蝕洞が見える地点があり、ぽっかり口を開けた洞窟、波にえぐられて面白いかたちになっている岩もあり、それらを興味深く眺めた。
遊歩道を数キロ歩くうちに、海岸から離れて安島集落に入り、ほどなく大湊神社の里宮が見えてきた。祭神は事代主神、少彦名神、三保大明神などで、創祀は白雉年間とされているそうだ。お社は村の鎮守という雰囲気で、陸(あげ)ノ宮というそうだ。社殿は海のほうを向いて建てられていた。
バス停留所の前には、雄島へと通じる堅固な赤い塗り橋(神橋)がかかっていた。島の山腹には大湊神社本宮が鎮座しており、雄島は地元で尊崇される神の島である。
雄島への長い橋を渡っていると、強い潮風が吹きぬけてゆく。徒歩で数分であるが、橋のなかった時代には、渡し舟で参詣したのであろう。往時を思いながら歩いてゆく。雄島に着くと、まだ新しい白い狛犬と鳥居が建っていた。参道入口には古い石段、奥には黒い森が広がっており、その暗さに一瞬不穏な印象を受ける。入ってみると、そう暗くはないのだが、頭上は樹木で覆われ陽光はあまり届かない道である。途中で分かれているが、左手の石段に進み、大湊神社を参拝する。ひっそりとした社務所(無人)を通り過ぎると、県指定文化財の社殿が見えてきた。古びて静かな佇まいで、建物は森の自然と溶け合って久しいようである。
由緒によると、源義経の一行が東北へと落ち延びる際に立ち寄り、家臣の兜を奉納したという伝承もあるそうだ。雄島の現社殿は十七世紀に建立されたものという。
小鳥の声が時折聞こえるだけの境内は静寂そのもので、苔むしたご神木のタブノキには洞があり、枝は奇妙なかたちに伸びて捻れていた。陸ノ宮を望む位置には朱の鳥居が立ち、行ってみるとそこは崖になっていて眺望が開け、遠く東尋坊の断崖も望まれた。
ここから言い伝えに従って、時計回りに雄島を一周した。反時計回りは不吉なので、してはいけないそうだ。順路に瓜割の水という表示を見たので海岸に降りてゆく。大きな岩を這うように伝うので歩きにくいが、覗くと岩と岩の窪みには湧水らしいものが見られた。真水だというが、確認はしなかった。見まわすと辺りは大岩が折り重なり、荒涼とした風景が広がっている。
元の道へと戻り、刻むようにつけられた小道を進んでゆく。右手斜面の上には、青空を背景に立つ白い灯台が見られた。左手海岸は、柱状節理の荒々しい岩が織りなす奇岩の情景が続き、時折突風のように激しい潮風が吹きつけてきて、その勢いに煽られるたび体が傾いて足元がふらつき、浮遊する感じが起きる。ここでは風が、まるで波のように押し寄せてくるのである。
見晴らしの良い所なのだと思うが、突き出た岩の先端まで進んで海を眺めるのは危険と感じるくらいの風である。前後左右どこから吹いてくるのか予想のつかないその吹き方に何かしらおそれを感じ、足早になった。
磁石岩という滋気の強い岩が何箇所かあり、針の向きがずれると聞いていた。落雷のせいで磁界ができたともいわれているそうだ。実はたぶんその辺りだと思い、行きかけたのだが、あまりに風が強くためらう気持ちがあって引き返した。(こういうときは、無理には行かないほうがいい)逃げ込むようにヤブニッケイ(クスノキ科)の群生する林の道に入るとそこは無風状態、まるで防風林の中にいるようであった。
林の中では奇妙なかたちに乱れた樹木が多く見られた。風に靡いたまま斜めに静止したような樹、細い手指が宙で絡まりあったような枝、ねじれつつ曲線を描いて野放図に伸びる枝、葉がよく茂って陽光を遮っているせいなのか、ふっと視界が暗くなったようで、歩くほどに暗さが増し、このヤブニッケイの道を抜けてしまうまで薄気味悪い印象が続いた。
ほどなく石段の分かれ道まで戻ってきた。ゆっくり一周して一時間もかからなかったと思うが、妙に心が緊張して疲労を感じた。荒々しい自然の中で、強い潮風に煽られて危険を感じ、急かれるように歩いたせいであろうか。
島の周囲は恐竜の爪のように険しい崖に取り巻かれており、思っていたよりも高さがあって足がすくみ、次々立ち現れる異界の様相、その厳しさに触れ畏怖の思いに打たれたことだった。陸へ向かって橋を渡っていると、まるで現世に戻りつつあるような安堵感が起きた。この島はちょっとした異空間であった。
ここは、ナホトカ号重油流出事故(平成九年冬)で大きな被害を受けた海岸でもあった。海浜自然公園にはそのことを刻んだ記念碑もあった。全国から駆けつけたボランティアの人たちも加わって、漂着した重油を柄杓ですくいとっている場面を、何度かテレビで見た記憶がある。どんなにか大変な作業だったことであろう。たくさんの人たちの努力のおかげで、海はきれいになっているようであるが。重油に汚染された海を見たときの住民のかたがたの恐怖や絶望、碑文を読んでいると胸に迫るものがあった。
この後、路線バスで崎浦まで行き、そこで降りてしばらく海岸を散策した。静かな集落である。夕暮れ近い崎浦の穏やかな浜に佇んで雄島を眺めると、島は海に浮かぶ黒い鯨のようなかたちに見えた。