一神功皇后の社一 敏馬神社
一神功皇后の社一 敏馬神社
阪神電車岩屋駅から南東に数分歩くと、敏馬(みぬめ)神社が見えてくる。国道二号に面して新しい鳥居が立ち、社殿は石段を上った丘の上にある。ここは往古には海辺の岬であったという。今は海は遠のいているが、かつてはお社の下には青い海が迫り、白波が打ち寄せているような情景だったかもしれない。
社殿の規模はそう大きくはないが、境内には静かな雰囲気が漂い、頭上の木々の梢からは野鳥の囀りが降ってくる。白砂青松の景勝地だったと伝えられる敏馬の浦を称えた万葉歌碑があり、古の旅人たちの歌の世界を垣間見ることができる。
主祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、配祀は天照皇大神、熊野坐大神である。いつの時代に祭神が替わったのかは判然としないが、古くは敏馬神(みぬめかみ)が祀られ、美奴売、三犬女、見宿女など幾通りにも表記されていたという。
由緒によれば、創建は神功皇后の御代とのこと。神功皇后が筑紫の国へと向かう折、摂津の神前の松原(豊中市、あるいは神崎川の辺り)で神集いをされた。皇后が航海と遠征の安全を祈願すると、能勢山の美奴売神(女神)が「吾も護り祐(たす)けまつらむ」と言って次のように教えた。私が住んでいる山に杉の木があるので、これを伐り私に船を造らせ、その船に乗って行けば幸福(さいはひ)となりましょう。
皇后は美奴売神に船を造らせ、その船で軍を進ませ、新羅を討って勝利をおさめた。身重だった皇后は九州で皇子を出産し(応神天皇)、大和へと帰還していった。岬まで来ると船が進まなくなったので、占いで神意を聞くと、この地に留まりたい、と神が告げられた。皇后は美奴売神をお祀りし、船もここに置いて神に奉った。(神社縁起、摂津の国風土記逸文による)
敏馬神(美奴売神)とはどのような神であろうか。通説では、美奴売神は弥都波能売神(みずはのめのかみ 水の女神)と同一視されている。上述の逸話では美奴売神は山の女神のようであるが、平地で船の建造にもかかわっているようである。
折口信夫によれば、みぬま、みぬは、みつは、みつめ、みぬめ、みるめ、ひぬま、ひぬめ、はみな同じものとみなし、音が転じていった可能性があること、また水による禊に関連した名であり、山谷の精霊らしく見えるが、もっと広く海川について考えてよいはずである、と考察しておられる。(折口信夫「水の女」より)
古の能勢山(三草山)から伐り出されたという杉の木は、猪名川を下って海岸まで運ばれ、木工集団によって船が造られたのであろう。言い伝えでは、皇后の船は五百艘もあったとされる。数はともかく、多くの船が準備されたという意味であろう。必要な木材は、能勢だけでなく近辺の山々からも調達され、武庫川の水運も利用したと考えられる。魚崎(五百崎)の辺りで船が建造され、忠臣の武内宿禰がそれを遠くから見て監督していた(遠目の浜)、また芦屋の浜から皇軍兵士が船出をした(打出浜)という地名伝承などが残っていて興味深いが、あまりにも古代のことなので定かではない。
「住吉大社神代記」によると、古に為奈川(猪名川)の女神と武庫川の女神が、住吉大神の妻の座を巡って争ったそうである。為奈川の上流には土蜘蛛(先住民)がいたが、住吉大神が制圧して、神の領地としていた。あるとき住吉大神が美しい男に化身して顕現した。
「大神、霊(くす)しき男神人と現れたまひて、宮城(おほみや)を造作(つく)る料(しろ)の材木を流し運ばんと為行事(おこなはしめ)たまふ」
とある。この文脈で考えると、男神は神功皇后の御座所か行宮のための用材を伐り出し、猪名川に流し落とす作業を差配していたようである。すると「この川に居(いま)す女神、妻に成らむと欲(ねが)ふ」また武庫川の女神も「同じき思を欲す」。それで二人の女神の間に争いが生じていった。
その様相は「為奈川の女神、大石を取りて武庫川の妾神に擲(な)げ打ち、併せて其の川の芹を引取る。故、為奈川には大石無くして芹草生え、武庫川には大石有りて芹草なし」
武庫川は大岩ばかりとなり、岸には芹も生えず荒れはててしまった。つまり武庫川の方にだけ洪水とか氾濫が起きたことをいうのであろう。この記述からみると、為奈川の女神である美奴売の神の方が、武庫川の女神より霊威にもすぐれていたので競り勝ち、住吉神の嫡妻となったと思われる。
「風土記」の方の記述によれば、美奴売の神は、船材とした能勢の杉に籠る霊力によって、皇后の外征を勝利に導いたかのように書かれている。住吉神の妻神として軍につき従い霊威を顕した、という意味にとってよいのだろうか。往時、船の建造時に、中央の帆柱部分には、ご神体として霊力あるもの(女性の毛髪、ひとがた、五穀などの)を入れた筒を安置して船の守りとしたそうである(船玉様の信仰)。
ところが外征を終えてここまで帰還してくると、船は動かなくなった。そして美奴売の神は故郷である能勢の山に帰ろうとはせず、岬の地に留まることを選んだ。何らかの理由があったと思われる。
神功皇后の帰還にまつわる逸話では、神社の鎮座伝承が語られることが多い。畿内では廣田神社、長田神社、生田神社、住吉神社の鎮座伝承がよく知られているだろう。帰還の折、皇后は香坂王、忍熊王(仲哀天皇皇子)二皇子の反乱計画を知って紀淡海峡へと迂回するのだが、難波に入ろうとして船が進まなくなったため、務古(武庫)の水門に入って占いをした。
託宣によって西宮に天照大神の荒御魂を祀り(廣田神社)、神戸の長田に事代主神を祀り(長田神社)、神戸に稚日女神を祀り(生田神社)、住吉三神も大津淳中倉長峡(おおつのぬなくらのながお)の地の住吉神社に祀った。住吉神社の鎮座地には、神戸市東灘区の本住吉神社(JR住吉駅近く)と大阪市住吉区の住吉大社の二説がある。通説では住吉大社の方とされているが、本住吉神社が元の鎮座地で(元宮)、仁徳天皇の御代になって大阪へ遷座したという説もある。ともかく神々を祀った霊験によって海はしずまり、忍熊王の反乱も制することができたとされている。
神戸市東灘区の本住吉神社では、住吉大神の当初の鎮座地とされているようだ。本居宣長はこの菟原郡鎮座説をとっている。仮にこの線で考えてみると、住吉神が祀られた本住吉神社と、美奴売神が祀られた敏馬神社はそう遠くないので、並立する夫婦神のお宮として、位置関係では納得できるものがある。
神功皇后は神々への謝意として各地に多くの社を建て、祭祀を続けながら大和へ帰還していった。これらの鎮座伝承はあくまでも神話的なもので、政治的にみれば、皇后は九州に帰還すると、戦勝祈願をした神社や戦功のあった軍団、協力した氏族に対し、社を建て神田を定めるなどの褒賞を行っている。戦には九州の宗像族、住吉族、安曇族をはじめ各地の海人族、その軍団が加わっていた。皆それぞれの神を奉じていたと思われる。神への謝意として社を定めるとは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物も獲得し、海辺なら海上交通の支配権も持つということであった。
美奴売の神は、境内の一隅に「水神社」として今も祀られており、ゆかりの「閼伽井の井戸」もある。また神功皇后も「后の宮」に祀られている。神社は高台にあるので災害に遭いやすかったのか、社殿は昭和二十年に戦災で焼失し、その後再建されたものの阪神大震災で再び被災、このときに閼伽井の水も枯れてしまったそうで、残念ながら湧水はみられない。
今は海岸線も遠のいてしまっているが、かつては波の打ち寄せる海辺の岬で、神戸市灘区岩屋(岩谷)という地名からもうかがえるように、岩のある地形、東側は港に適した入江で、天然の良港であったという。
時代が下ると「敏馬の泊」として栄え、敏馬社は港の守護神として信仰され、ここを通過する旅人は神に歌を捧げて旅の安全を祈るようになり、遣隋使、遣唐使も立ち寄る港であった。また新羅など海外からの客や使節が港に入った際には、生田の社で醸した酒を客に供して祓いとしたらしい。
境内には万葉歌を刻んだ碑があるので紹介しておこう。木の駒札に書かれた歌も多く立ち並んでいる(吉田兼好、賀茂真淵など)。万葉集には、敏馬を詠み込んだ歌がほかにも何首か載っているそうだ。
玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の 野島の埼に舟近づきぬ(柿本人麻呂)
八千鉾の神の御代より百舟の 泊つる泊りと八島国 百舟人の定めてし 敏馬の浦は朝風に 浦波騒き夕波に 玉藻は来寄る白真砂 清き浜辺は行き帰り 見れども飽かずうべしこそ 見る人ごとに語り継ぎ しのびけらしき百代経て しのはへゆかむ清き白浜
反歌
まそ鏡敏馬の浦は百船の 過ぎて往くべき浜にあらなくに(田辺福麿)
敏馬の浦は船が停泊し、多くの船が行き交う港であったらしい。さらに時代が下って大輪田の泊に港が移るまでは賑わっていたという。今は景勝地の面影はなくなってしまったが、かつては美しい海岸だったと伝承されている。境内には、古地図や埋め立て前らしいひと昔前の松林の浜の写真が掲示されており、興味深く眺めた。
敏馬の浦は、難波津から西国に向かう船の最初の寄港地であったという。一泊して翌朝船出、あるいは風待ちなどをしたらしい。上述の人麻呂の歌は、敏馬に立ち寄らず淡路島に向かう様子を詠んでいるらしく、福麿の歌も敏馬を褒め言葉を並べて賛美しているが、反歌をみると、福麿の船は敏馬に寄港したのではなくて、通過しただけのように思われる。船の上から敏馬埼を眺めたのであろうか。難波津を発った船は必ず敏馬に寄港したわけでもなく、時間や風向きの都合で立ち寄らない場合もあったかと思われる。
たとえ参詣はできなくとも、海上からでも旅人は敏馬社に対する敬意を怠らず、歌を以て土地や神への挨拶とし、敬意を示して旅の安全を祈願したのかもしれない。万葉の旅人たちは霊威のある地を通る場合は、地霊に崇敬の念を忘れず、土地を褒め称える歌を詠み、また非業の死を遂げた人の祟りを恐れて、葬地を通るときには哀悼の歌を献じて霊を慰めたのだそうである。そういう慣わしの上に立って考えれば、敏馬の神は、旅人が無視して通り過ぎることができないような、ある種の畏れを感じさせる存在であったといえる。
難波津を出て西へと進む船は、敏馬で大和の山々に別れを告げることになる。信貴、生駒、二上、葛城、金剛と連なる山並みは、敏馬埼を過ぎるともう見えなくなるのである。逆に西国から帰還する船では、敏馬に至ると、そこからは懐かしい故郷の山々が見え始める。敏馬は昔の旅人にとっては感慨深いものがあっただろう。
私事で恐縮だが、以前、泉大津港から阪九フェリーで瀬戸内海を通り、九州へと向かう旅をしたことがあった。出航後、船の上から景色を眺めていると、神戸に近づくにつれ大和の山並みは遠ざかり、六甲山脈が近づいてくる。大和の山々は敏馬の辺りで、つまり摩耶埠頭を過ぎると視界から姿を消していった。
旅の帰路も同フェリーであったので、神戸に近づくころ進路に目を向けていると、なだらかな六甲山脈に続き、特徴のあるお椀型の甲山(西宮市)が目に入ってくる。その日は朝靄がかかっていたが、薄く大和の山々の稜線が前方に見えてきたとき、昔日の旅人たちの心情が偲ばれ、古の旅を思ったことであった。
島伝ひ敏馬(みぬめ)の埼を漕ぎ廻(み)れば 大和恋(こほ)しく鶴(たづ)さはに鳴く (若宮年魚麿 わかみやのあゆまろ 万葉集より)