羽衣
1
古老の傳へて曰へらく、近江國伊香(いかご)の郡(こほり)。與胡(よご)の郷(さと)。伊香小江(いかごのおうみ)。郷の南にあり。天の八女(やをとめ)、共に白鳥(しらとり)と為(な)りて、天より降りて江(うみ)の南の津に浴(かはあ)みき。(近江国風土記逸文)
涼しい風が野を渡っていく。丈の高い草がさやさやと揺れる小道を、清浄な白い忌み衣を身に着けた少女たちが八人、草を分けるように歩いていた。山を降りて湖へと向かう丹生(にう)一族の少女たちだった。白い羅(うすもの)の比礼(ひれ)を肩に掛けているのは、神に仕える乙女の証である。
丹生の人々は朱砂を採掘することに長(た)けた一族で、遠い昔、海を渡ってきてこの国に住むようになったともいわれているが、定かではない。丹生の人々は、朱砂の鉱脈を探り当てる技にすぐれ、朱砂を探してどこまでも川を遡ってゆくのだといわれていた。あるときは山麓から山中に深く入り、山に溶け込んだかのようにひっそりと暮らして朱砂を採るので、里人もその姿を見ることは少なかった。土地の人々とは一線を画しており、混ざり合って住むことはなかった。丹生の人々は川で魚をとり、山で狩をしながら谷の上の台地や山蔭に集落を営み、そこにしばらくの間とどまっているかのようにみえるのだが、あるときを境に住まいを捨て、掻き消えるようにいなくなってしまう。朱砂が尽きると、新たな地を求めて旅立っていくらしく、朱砂の鉱脈を探すためにはある種の託宣が必要なので、一族は神に奉仕する女たちを必要としていた。
この朝、丹生の少女たちは禊(みそぎ)をするために川沿いに山を降りて草原を横切り、その先にある湖を目ざしていた。青い鏡をそっと置いたような形の湖は清らかで、聖なる輝きを持っているようである。
先頭を行く娘は年嵩で、ときどき振り返っては、ともすれば遅れがちになる二人の少女たちの様子を気にして見ていた。かすかに眉を寄せ厳しい視線を向けるのだが、少女たちは話に夢中で気がつかない。
列の一番後ろを歩いていた沙羅(さら)は、すぐ前をゆく姉の夕羅(ゆら)に向かって話しかけた。
「今日の禊は湖でするのですね」
「ええ。沙羅は初めてだから、私のそばを離れないようにして、何でも私のする通りにするのですよ。いつもは近くの谷川で身を清めるのだけれど、次のお祀りはとても大切なので、清らかな湖に潜るように浸って、身についたこれまでの穢れを祓っておくのです」
「どんなお祀りなのですか」
「丹生の女神(ひめかみ)様は、善い験(しるし)として山から赤土を出してくださいます。よくお祀りすれば充分に出していただけるのですよ。赤土には不思議な力があって、細かく砕いて船板や家の柱に塗ったり、武器や道具に模様を描いたり、魔よけにするのは知っているでしょう。次のお祀りは、丹生の女神様がここと定められた場所に、新たに忌み杖を立てられる、という大事な儀式です。四方に忌杖を刺されると、その場所が神堺(しんかい)となり、そこに神様が降臨されるのです。そしてそこから遠くない川筋や山の中には、決まって美しい色に染まった土や岩があらわれてくるのですよ。激しい川の流れで表の土が削り取られて、今まで見えなかった色が浮き出るようになって人の目につくのです。井戸を掘ると、その中は赤く輝く土で満ちています。隠されている赤土のありかを、そうやって神様が教えてくださるのですよ」
沙羅は頷いた。心を震わせるような鮮やかな朱の色は、強い呪力を持つといわれている。それは神聖な色であったが、幼い頃から馴染んでいる丹生の少女たちにとっては親しみ深い色であった。目のさめるような色、それは体を流れている、人を活かす温かい血の色にほかならない。
「この山ではまだ赤土の大きな脈が見つかっていません。深い谷の奧には赤くみごとに染まった岩があるということですが。祠を定めるときや、赤土を採る井戸を初めて掘るとき、女神様にお祈りするのです。場所を決めることは、とても大事なことなので、そのお祀りが近く行われるのですよ。今日の禊はそのためのものです」
「でも私、何となくお祀りには出られないような気がしてならないのです」
「それは、どうして」
「実は明け方に夢を見たのです」
沙羅は暁にとぎれがちに見たあまり良くない夢を、ためらいながら姉に語った。皆が参加しているその忌み杖を刺すという儀式に、どうしてか自分だけが呼ばれておらず、見たこともない家の中にぽつんとしているというものだった……。不吉な夢や嫌な夢を見たときは、その中身を人に言うと、夢が真実になるといわれているので、うかつに口にしてはいけないことになっている。でもどうしても不安な思いが募り、心の中にしまっておくことができず、姉に聞いてもらいたくなったのだ。
「まあ」
思いがけない夢の内容に夕羅も驚いたらしく、しばらく口をつぐんで何か考えていた。悪い夢を聞いてしまったことが悔やまれるとでも言いたげな表情だった。それがもし正夢になったらどうしようと、困惑しているようでもあった。そういうとき、悪夢を打ち消したり弱めたりすることができる呪文とか、良い方法があったかどうかを思案している風であった。でもすぐには思いつかなかったらしい。気を取り直したように夕羅はつとめて明るい声で言った。
「沙羅、大丈夫。きっと夕べは寝苦しかったので悪い夢を見たのですよ。そんなこと起きるはずがないでしょう」
つい声が高くなってしまったらしい。先頭を行く娘が咎めるような視線を投げてきた。夕羅は軽く身をすくめて声を落とした。
「夢のことは気にしないで。忘れましょう。今は遅れないようにしっかり歩くことだけを考えて。もうすぐ湖だと思うわ」
夕羅は励ますように沙羅に手を差し出し、その手に掴まるようにして沙羅は草の道を急ぎ足で進んだ。一行の中で最年少の沙羅は歩くのが遅いのだ。明るい陽光のもと、野には可憐な草花が咲き乱れ、爽やかな風が吹き抜けてゆく。人の足音に驚いたのか一、二歩先を小さな虫が飛び跳ねて草に身を隠し、辺りには紋白蝶がゆるく舞っていた。二人はその後ずっと無言のままでいたが、沙羅は自分の手よりも姉の手のほうが冷たく、しかもかすかに震えているのを感じた。しばらく歩いて草原の道がとぎれると、やがて前方に青い水をたたえた湖が現れた。
天女の浴(かはあ)みし浦を今、神の浦と謂(い)ふ。(近江国風土記逸文)
2
丹生(にう)とは丹を産するという意味である。丹とは朱砂から取れる鮮やかな朱のことであった。辰砂(しんしゃ)とも呼ばれ、砕いて粉末にして用いる。朱の色が鮮やかであればあるほど、悪霊や邪気を祓う力が大きいとされ、祭祀、神事、祈祷の際に用いられた。朱を産し、朱を領するのは朱の女神である丹生都比売(にうつひめ)という神で、水がね姫とも呼ばれていた。この女神を祀ると、朱の産地をたやすく見つけることができ、朱砂が豊富に採れるのである。
朱は魔よけとして顔や体に塗るほか、船体、家屋の柱に塗って錆び止めとし、また衣服を染める染料にも使い、武具や祭具、道具や器物に塗れば、魔物を遠ざける辟邪(へきじゃ)のまじないとなった。朱砂はその美しい色に霊力が籠るので、服用すれば薬としての効能を持つ。古来仙薬として珍重されたのである。たとえば最も上質の朱をほんの僅か舌にのせて試してみると、甘く冷たい味がする。香草や酒に混ぜるなどして日々これをごく微量摂り続けると、老いを遅らせ命を延ばし、遂には神仙になると信じられた。
丹生の男たちは日々山野を渉猟して、特に川筋を念入りに見て回り、岩が赤く染まっている所があると目印として覚えておいた。赤い縞が入っている白味を帯びた大岩は母岩となることが多く、その岩陰に朱砂が散り、その近くを掘れば良い朱砂が出ることがある。川上の赤い岩が水流で削られて朱砂が川下に運び降ろされ、川の流れがゆるむ川床に鮮やかな朱の彩りとなって溜まっていることもあった。これは水中で洗い、すくってそのまま取り出すことができ、澄んだ色の赤い土が得られる。あちこちに目を引くような赤色の岩が剥き出しになり、朱砂の集まっている所は鉱脈、鉱床が近いことが多く、男たちは朱砂の堆積の様子や山野の地形を探って互いの考えを述べ合い、見極めが終わると採掘に取りかかるのだった。
一族の守護神である丹生の女神、丹生都比売神を祀って巫女が託宣を受けると、まず掘りやすい表面の赤土から浅く採り始め、さらに朱の鉱脈を求めて井戸を掘ってゆく。鉱脈は植物の根のように地下へと垂直に伸びていることが多く、朱を採る井戸は水の井戸とその形は同じであった。地盤が固ければ素掘りであるが、井桁(いげた)を設けることもある。ただ朱の井戸と水の井戸との違いは、水が出ると困る点であった。
朱の井戸の内部は赤ひと色に染まっている。男たちは藤づるで編んだ縄を身に巻いて地底へと降り、坐って行う作業のため、獣皮で作った引敷を使った。紐で腰に吊るすので、歩く姿が尾のあるように見える。最初は浅かった井戸も、採掘しながら掘り進むうちに次第に深くなると、鮮やかな濃い赤土は水銀(みずがね)を含み、それは赤い地表に汗のように滲み出てきて、玉のように滴ってきらきらと輝いた。銀の光の粒は集まって下に溜まると井戸を内側からぼうっと照らし、紅に光る井戸と化してそれを覗き込む男たちを、朱と水銀の妖しい魅力でもってさらに深く奧へといざなうのだった。
赤い井戸の中に長く身を置いていると、何かしら五感が狂うようで、この世のものとも思えない美に取り巻かれ浸るままに時を忘れてゆく。水銀を含む朱土の放つ独特の強い毒気を吸い込むせいなのか、それともあまりの美しさに気が昂ぶるのか、尖った道具や木槌を手にしたまま突如狂い始める男もおり、そんなとき狭い井戸の中は恐ろしい空間となった。
採掘には常に大きな危険がつきまとった。うっとりと目の前の朱に心を奪われているとき、我を忘れて掘り進んでいるとき、また慢心が起きたようなとき、井戸の壁は不意に崩れることがあり、地底から不意に水が湧いて、粘り気のある底の土に足が吸い込まれ、抜けなくなることもあった。真紅の井戸はたとえようもなく美しいものだが、その朱に魅入られていると、心が呑み込まれそうになるのである。不吉なほどの美しさはどこかに恐怖を孕み、その美の裏には死がひそんでいるのだった。
男たちは朱の女神に加護を祈って井戸に入り、一日の仕事を終えるときにも感謝して手を合わせた。女神は朱を司り常に朱の中に坐す神であり、一同を導き守護してくれる。この神を信じよく祀れば、朱砂の場所を教えられて朱を授かり、怪我人や死者を出さず、奇病にかかることもなく採掘がはかどり、豊かな朱砂に恵まれるのである。
また良質の井戸を神から授かっても、思いのほか早く採りつくして枯渇し、あるいは湧水のために、早々に諦めなければならないときもあった。朱には目には見えない力が籠っていることを男たちは知っており、それは神のものであるのだから、もうこれ以上を望んではならないのだと判断して、いさぎよくその井戸は放棄されるのであった。
朱砂は混ざり物を含み、そのままでは完成品にはならず、手を加える必要があった。固い岩石状であることも多いので、その場合はまず塊を割り、縁のある平らな円形の石盆の上に広げ、杵でできるだけ細かく砕いて粉末にしてゆかねばならない。粘土質の赤土の場合は、水飛と呼ばれる方法で何度も水洗いをし、雑物を取り除く。そうして得られる朱砂の品質はさまざまであったが、特に純度の高い朱は不老不死の仙薬であった。
丹生の男たちは朱砂をまとめておき、それらが一定量に達すると山を降りて、里の長の家に持って行くのを慣わしとした。里人は朱の効用を知ってはいたが、その鉱脈の見つけ方や、井戸の掘り方、朱砂の加工の技には通じていなかった。丹生の男たちは年に何度か朱砂を携えては里に降り、山では手に入りにくい布や衣服、必要な品物と交換し、再び山へと戻っていくのだった。里人は丹生の男たちを遠目に見かけることはあったが、自分たちとは違う習俗を持ち、異なる神を祀っているらしい、言葉もよく通じない丹生の人々をどこかで怖れてもいた。杣道で出会いそうになると、それとなくやり過ごして挨拶を交わすのも避けることがあった。また丹生の人々のほうでも里には近づかず、出向いていくのはいつも里の言葉に通じている同じ顔ぶれの男たちに限られ、それも用のある場合のみであった。
良質の朱は里からの献上品として甕に詰められ、遠く都にも持ち運ばれていった。社の柱を赤く彩ったり、神体の鏡や宝物を磨いたり、器物に塗ったり吉祥文様を描いたり、また貴人の埋葬時には遺骸を包み、墓所内に惜しげなく朱が撒かれた。
朱は呪術として用いられるものだが、丹生の民にとっては朱を見つけることもまた呪術なのであった。朱に憑かれたかのように、丹生の人々は朱を追い求める。女神の託宣通り、容易に見つかるときもあったし、占いで確信していたのにもかかわらず、何も見出せないときもあった。男たちが力を出し尽くし諦めきったとき、思いがけない場所から鮮やかな朱が立ちあらわれてくる不思議さ、目に見えない力が加わったとしか考えられないような形での鉱脈の発見、そんなとき朱を前に男たちは畏怖の思いに打たれるのだった。そしてそのような瞬間が丹生の男たちを魅了してやまなかった。朱という魔性のものを扱うゆえに、丹生の人々は占いや夢告、予感をおろそかに考えることはなかった。
丹生の民は各地の山野を移り住んでゆくのだが、中には豊富な朱砂に恵まれるまま山麓に住みついてしまう一族もあり、海辺の川尻に良い採掘地を得て長くとどまる一族もあった。けれども多くの丹生の民は川を遡行し山中へと入って小集団となって枝分かれし、移り住むことを繰り返して山地を縦横に行き交っていった。定住を選ばず、山野をさすらうように自在に生きて、神から授かった力と技でもって朱を採り続ける、それが丹生の民の本来の姿でもあった。
赤土を採り尽くしたとき、丹生の人々はその地を捨て旅立ってゆく。朱土を探して山を歩き、朱とともに生きる人々は、生涯にわたって朱から離れることはなく、朱が尽きたときが、去るときであった。そして移り住む地は仮そめの棲みかであった。里人からみると、丹生の人々は祭祀者が何かの術を用いて山から朱を得る、どこからか来てまた神隠しのようにいなくなってしまう、捉えどころのない集団であった。
尾ある人、井より出で来。その井光れり。(古事記)
3
時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若(も)し是れ神人(かみ)かと疑(おも)ひて、往きて見るに、実(まこと)に是れ神人なり。ここに伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して、得(え)還(かへ)り去らず。(近江国風土記)
行く手に視界が開け、三方をなだらかな山に囲まれた青く静かな湖がその全容をあらわした。北の方向だけが平野になっている。川は北の方向に流れゆき、やがて海に出るのである。青い湖の周辺には人家はなく、細かい波の立つ湖水は滑らかに眼前に広がって、周囲の山の緑を集めるように映して揺らめいていた。その情景に少女たちの間から思わず賛嘆の声が上がる。
「まあ、きれい」
「なんて澄んだ水なのでしょう」
口々に言いながら湖が珍しい少女たちは水辺へと急ぎ近づいていく。湖水は常に人を引き寄せる。山の中にはこんなに広がった水の景色は見られない。岸には芦がかたまって生い茂り、夏の明るい陽ざしが青い湖水に反射し、鳥が水面に群れていた。
「沙羅、ここへ脱いだものを掛けておくのですよ」
いつまでも湖に見とれている沙羅に向かって、夕羅が岸辺に立っている大きな柳の木の枝を指さした。ほかの少女たちはもう手早く身にまとっているものを取り去り、衣をそれぞれ思う枝に掛けて次々湖に入ってゆく。姉の横に並べるようにしたかったが、ほかの衣がすでにあったので、沙羅は自分の身丈に合う一番低い枝に脱いだ衣を掛け、姉に続いて最後に水に入っていった。
「冷たい」
足を浸すと透明な水は思いのほか冷たく、爪先から痺れていくような感覚があった。沼や池には特有の少し淀んだ水の臭いがあるものだが、この湖には不思議なことにそれがなかった。爽やかな風が渡ってゆく青い水面にはいっとき細かい波が立つが、やがてそれも静まってゆく。そのたたずまいはどこまでも静謐であった。
姉のしぐさをまねて左から右へと三度水を体にかけ、教わった作法通りに深く水に潜るようにして全身を浸し、それを繰り返し、神を称える唱えごとを声に出し、手を合わせて皆で祈る。濡れた髪の根元をひんやりとした風が通り抜けてゆく。禊と祈りの静かなひとときが流れていった。
どこからかひゅうと矢の飛ぶような不穏な音が聞こえた。その音は一度だけであった。矢を放ったらしい人の姿はどこにも見えなかったが、岸辺のどこかで何ものかが動く気配が伝わってきた。まったく気づかなかった少女もいたようだが、夕羅と沙羅の姉妹は一瞬その鋭い音を捉えて、思わず不安げに顔を見合わせた。異様な音に何かを感じたらしく、年嵩の娘が顔を上げると、確かめるように今しがた音のした方向を見つめていた。何かの異変と人がこちらに近づいてくる気配を感じ取ったらしい。決断は早く、すぐにきっぱりとした命令の声が響いた。
「これで今日の禊は済みました。皆急いで上がりましょう。手早く衣を着て、元の道に戻るのです」
静かだがどこか緊迫した空気が流れ始めた。少女たちは無言で岸辺を目指して水の中を急いだ。小石に足元を取られて歩きにくく、沙羅がよろけるたびに姉が横から支えてくれた。
歩きながらふと上げた沙羅の視線の先に、幻のように白い犬が岸辺を駆けていく姿が映った。犬は柳の木に近寄っていく。今見ているものが現実ではないような気がして、沙羅は走る白い犬の行方を目で追っていた。犬は矢に貫かれたらしい何か白い物をくわえていた。白い物は地面を引きずられつつ走る犬とともに潅木の茂みの中に消えていった。
柳の木の下で、沙羅は枝に掛けておいた自分の衣がどこにもないのに気がついた。ほかの少女たちは素早く着終わると先を争うように草の中へ駆けてゆくが、沙羅はどうしてよいかわからない。気が動転し、うろうろと周囲を探しつつ叫んだ。
「ないのです、私の衣が」
「沙羅、そのままでいいから逃げるのよ。早く」
半分衣をまとっただけの姉が、裸の沙羅の手を掴んで走り出した。けれどもいくらも進まないうちに焦った沙羅は石につまずいて地面に倒れた。姉もともに転んだがすぐに起き上がると、沙羅を助け起こそうとする。
「足が……」
沙羅が絶望的な声を上げた。左足首を捻ってしまったのだ。
「肩につかまって」
沙羅は立ち上がれそうにもなかった。足首だけでなく膝も痛い。どこかほかの所も怪我したらしく脇腹を手で押さえると、その手からは血が流れていく。さっきの白い犬がこちらを目ざして走ってくるのが見えた。その後ろには弓を携えた人影がある。
「夕羅、沙羅、早く」
年嵩の娘の厳しく緊迫した大声が飛んできた。逆らえない強さがあった。夕羅はなんとかして沙羅を立ち上がらせようとする。
「私は無理、もう行って」
「沙羅、きっと助けるから。待っていて」
夕羅はおろおろとためらいつつ、行きかけては立ち止まり、何度か妹を振り返りながらも、その場から離れ去った。沙羅は恐怖で震えながら近づく白い犬と若い男を見ていた。もう悪夢としか言いようがなかった。
青ざめたまま沙羅は身を縮め、どうしようもなくうずくまっていた。男が着ているものを脱ぎ始めたとき、犯されるのだと思って沙羅は思わず泣き出した。実際男はそうするつもりのようにも思われた。でも沙羅が怪我をしているのを見て、考え直したらしい。目の粗い男の上衣がそっと両肩にかけられたのに気づくと、沙羅は慌てて布の端を引っ張って体を隠した。男が何か話しかけてきたが、言葉は全くわからなかった。
男に背負われてどのくらい道を進んだのだろう。随分長くかかったような気がしたが、周囲を見る余裕もなく、沙羅はずっと泣きじゃくっていて体の震えも止まらなかった。
男の家について降ろされたとき、家の中からまず出てきたのは二人の女たちであった。男の母親らしい人とその娘らしい若い女である。父親も驚いて出てきた。口ぐちに男に事情を尋ね始め、沙羅が怪我をしている様子なのを知ると、家の中に運び入れた。
二人の女たちは男を遠ざけると沙羅の傷を調べて洗い、手当てをしてくれた。足首は紫色に腫れ上がっていたので、布に臭いの強い何かの植物を潰して練ったものを塗って巻き、膝や脇腹の傷にも同様にして寝かせてくれた。家の中の様子を見回して沙羅は新たな涙が湧いた。涙は流れ続けて頬を濡らし目の前はかすんでいった。夢の中で見た情景そのままの家だったのだった。
高い熱が出て足と脇腹の痛みも引かず、それから何日間も動くことができなかった。その間どうやって過ごしていたのか、あまりの衝撃と動揺で記憶もおぼろげであったが、女たちは日に何度も様子を見に来ては沙羅に優しく接し、回復するまで親身に面倒をみてくれた。
夕羅が立ち去るときに言った言葉を、沙羅は何度も心の中で繰り返した。きっと誰かが助けに来てくれる、その思いだけが支えだった。両親や姉のことを思い出すと涙が止まらなくなったが、その一方で早く歩けるようになっておかなければという考えも起き、当初ほとんど手をつける気にならなかった食事も、出されればつとめて摂るようにした。閉じ込められているわけではなかったが、誰かの手を借りないと室内を数歩も歩けないため、自分から外へ出て遠くへ逃げ出すことは不可能であった。
この間、沙羅は必要に迫られて、女たちから少しずつ簡単な言葉を学んでいった。話しかけられたとき、おそるおそる言い方をまねてそれを初めて声に出してみて通じたとき、これまでとは違う人間になったような気がした。
沙羅を連れてきた男は刀美(とみ)といい、世話をしてくれているのはその母親と刀美の妹の美加里(みかり)であった。沙羅と年齢の近い美加里は、そのせいもあって親しみを感じるのかよく側にきて話しかけ、幼児に対するように根気よく言葉を教えてくれた。美加里は、丹生の女の子を見るのは初めてだといい、本当にきれい、と沙羅の容姿をほめた。母親は沙羅が食べられず残した皿を見るとそれが気になるらしく、好みに合うように食べ物を工夫して整えて出してくれるので、沙羅は次第に食べ残すことも少なくなり、体力も戻ってきた。そういう細やかな心遣いは嬉しかったが、丹生への思慕は強く、思いはいつも丹生の家へと帰っていくのだった。
沙羅はたどたどしい言葉と身ぶりで、自分のことや丹生の家族のことを懸命に説明しようとした。早く帰りたいのだと何度も伝えようとした。乏しい表現で理解してもらえたかどうかはわからない。沙羅は自分だけがこのような目に遭っているということが、何としても受け入れられないのだった。あの矢がなぜ自分の衣に命中してしまったのか。その瞬間を思うたび胸が苦しくなる。どうして自分なのか。なぜ丹生の女神様は私を見放されるのだろう。その思いは解けない謎となって絶えず沙羅の心を苦しめた。心の中では気が狂いそうになるほどここを出たかった。早く家へ帰りたい。皆に会いたい。それなのにこの人たちは、こうなったからには沙羅がずっとここにいるものだと考えているらしく、家族が一人増えたことを明らかに喜んでいるようなのだった。
ある冷え込んだ朝、沙羅は外を見てちらちらと雪が舞っているのに気づいた。立ち居にまだ痛みの残る足をさすりながら、沙羅はいつの間にか季節が移り変ってしまったのを知って改めて悲しみに沈んだ。待ち続けていたが丹生からの救いの手は現れず、仮に来てくれたとしても、まだ自力で山道を歩けるような状態ではなかった。この地は雪が深く年によっては人の背丈ほども積もるようだ。春になって雪が消えてしまうまでは、帰れないのだろうか。そんな気持ちが入り混じるたびに辛くなってくるのだった。この頃になってようやく言葉が上達してきた沙羅は、美加里にいろいろなことを尋ねて、自分に起きた災難のあらましを知った。
「兄は山に狩をしに行ってたのですって。その日は何も獲物がなくて、もっと進もうかどうしようかと思ってふと湖の方を眺めると、見たこともない女たちが水浴びに湖に入っていくところで、驚いてもっとよく見ようとして山を降りて湖に近づいていったそうよ。白い羽のような薄い衣がたくさん木の枝に掛かって風に揺れていて、湖の中では女たちがゆっくりとした歌を歌っていて、どこか不思議な夢を見ているような気持ちになってきて、これが現実のことかどうか確かめたくなったのですって。気がつくと弓をとって矢をつがえていて、思わず一番端にあった衣に向けて矢を一本放ったのですって。命中して衣はふわりと地面に落ちて、あやかしの情景ではないとわかったけれど、そのとき連れていた白犬がぱっと駆け出して衣を取りに行ってしまったの。犬は矢が当たった獲物を逃がさないように教えてあるから」
「私の衣はどうなったの。今も兄さんが持っているの」
「それは、わからない」
「この家の中にあるの」
「いいえ、そんな白い羽のような衣は見たこともないわ」
美加里は首を振り、沙羅は考え込んだ。衣を返してほしかった。あの日のことは思い出すのも嫌だったが、あるとき刀美に思いきって訊いてみた。
「あの白い衣は、犬がくわえたままどこかへ持ち去ってしまった」
沙羅は落胆した。それは丹生につながる唯一のもので、沙羅にとって大切な品だった。白い忌み衣には、呪力があるような気がするのだった。犬がどこかへやってしまった、などと言われても納得がいかないし信じられない。刀美がどこかに隠してしまったような気がしてならない。けれども重ねて訊いてみても、答えは変わらなかった。
やがて長い冬がやって来て、里も見渡す限り雪が積もるようになり、山も道も白く閉ざされていった。この山麓では人の背丈を超えて積もる年があるのだが、この年がちょうどそうであった。冬の空は重く雲はどんよりと低く垂れ、白い世界が来る日も来る日も続いてゆく。降る雪の中、家の中で息をひそめるようにして人々は手仕事をして暮らし、女たちは麻からとった糸を紡いで機にかけて布を織り、家族のための縫い物や繕いをしつつ春の訪れを待つのであった。
そして雪が溶け、山から雪が消えてしまう日を、沙羅もまた心待ちにしていた。痛めた足はもうすっかり回復してきており、痛みもなくなり長い道のりも平気で歩けそうに思えた。ここからどういう方向に歩き始めるかはよくわからないけれども、とにかくあの湖へ出ることさえできれば、道筋を思い出し、川に沿って丹生の一族の住む山へと戻れそうな気がした。丹生の集落から湖へと降りた道筋はちゃんと覚えている。丹生の民は、子どものころからその習性として、一度たどった道は決して忘れないのだった。
そんな沙羅の心を読んだかのように、美加里が言った。
「沙羅、ここを出て丹生のお家に早く帰りたいと思っているの」
沙羅は頷く。実は先日、内緒でここから逃げようとしたことがあったのだ。誰にも見られないようにと家を出て道を急ぎ、裏山の道にようやく差しかかったとき、どこからともなく白い犬が現れて行く手をさえぎった。犬は動かず、沙羅が進もうとすれば激しく吠え立てた。まるで沙羅をどこかから見張っていたかのようである。この犬に、戻れ、と命じられているような気がした。こんなに吠え続けられたら、そのうちに異変を感じて誰かが様子を見にやってくるだろう。もうこれ以上は進むことが叶わないのだとわかった。しばらく佇んで犬と向き合っていたが、沙羅はついに諦めて引き返したのだった。
「沙羅、ここにずっといてほしいわ。別れたくない。このまま私たちの家族になってくれたらいいのに」
「でも」
「兄はあなたのことが本当は好きなのよ」
沙羅はうつむく。刀美が自分に向けてくる視線や表情、そぶりに何となくそう感じられるものがあるので気持ちは知っていたが、それよりも丹生の家族が恋しく早く家へ帰りたかった。私は自分の意思でここへ来たのではない。刀美があんなふうにして衣を奪ったから、仕方なくここにいるのだ……。
「沙羅がここへ来たとき、熱があって食べられなかったでしょう。でも熱が下がってからも何も食べようとしなくて、私たちはずっと心配していたの。このまま死ぬつもりなのじゃないかと思って。兄はずっと以前、雀の子を捕まえてきてここで育てようとしたことがあってね。雀はどうしても餌を食べようとしなくて、弱っていくし、かわいそうだから放してやったらって言ったのに、兄はどうしても飼う、って聞かなくて、結局雀を死なせてしまったのよ。沙羅が何も食べようとしなかったとき、そのことを思い出したわ。このままじゃ死んでしまうって。でも沙羅が初めて自分の意思で食べてくれたときは嬉しかった。私たちと暮らしてくれるつもりになったんだと感じたの」
「早く元気になりたかったの。どうしても家に帰りたかったのよ」
「そうね。私たちはこのまま一緒にいたいと思うけど、沙羅には家族がいるんですものね。本当はもっと早く、ここを出て家に戻りたかったのでしょう。でも、丹生の人たちは……」
美加里は何かを言いかけてやめた。
「沙羅は東の方の山から来たと言っていたわね。谷の少し上の方って。一度湖へ降りると遠回りだけれど、山の中を抜けて行く近道が別にあるらしいの。兄に道を訊いてあげるわ」
刀美は、意外なことに、
「それでは明日にでも、沙羅を丹生の谷まで送り届けてやろう」
そう言ってくれたので、沙羅は本当に安堵した。
美加里とその両親に別れを告げて、沙羅は刀美とともに丹生の一族の住む山を目ざした。あの白い犬も一緒である。刀美は遠出の折にはよくこの犬を連れていくのだった。湖のよく見える尾根に出たとき、
「ここでちょっと休んでいこう」
刀美が言ったが、沙羅は首を振った。湖を見ると、あの日のことが蘇ってきて嫌なのである。でも刀美はしばらく立ち止まって湖を眺めていた。仕方なく沙羅も少しの間青い湖に視線を向ける。湖は人の思いとはかかわりなく青くひっそりと清らかな水をたたえて陽に輝いていた。やがて歩き始めると、刀美が言った。
「私は丹生の人たちとは顔を合わさないほうがいいだろうな。沙羅をかどわかしたと知ったらどんな目に遭うかわからない」
「ええ、送ってくれるのは近くまででいいわ」
「実ははっきりと丹生の場所を知っているわけではないんだ。東の谷の上の方と沙羅が言うから、だいたいの見当はつくんだが」
「谷筋の道なら私が知っているから大丈夫」
沙羅は歩きながら気持ちが弾んできた。もうすぐ家に帰れるのだ。皆どんなにびっくりするだろう。早く会いたい。
尾根を過ぎると下り道になり、再び山道を上っていった。確かに湖に降りるよりは近いようだったが、山道はかなり険しいと感じられた。ようやく見覚えのある杣道に出たので、沙羅はひと息ついた。
「すぐ近くまできたわ」
ここまでで、と言おうとして沙羅は立ち止まり、ふっと凍りついた。
「誰もいない」
そこにあったはずの集落は消えていた。沙羅が見たのはすでに人が立ち去った廃墟に近いものであった。人影はどこにもない。打ち捨てられた用具の壊れた欠片だけが僅かに草の中に散らばっていた。小屋は風雨や雪の重みで崩れ、柱も蔓に巻かれ草に倒れ伏し、草で葺いた屋根も壁もその形をもうとどめていない。かつては家として使われた小屋も、人が住まなくなればたちまち荒れ果ててゆくのだった。辺り一面に残骸が散らばって風に吹かれ、雑草は生い茂って集落はまた元の静かな森に戻りつつあった。沙羅は言葉もなく佇んでいた。刀美は潰れた家屋の柱に手を触れて、その傷み具合を調べていた。
沙羅はふらふらと草の間を歩き回り、丹生の女神を祀っていた社の跡にも行ってみたが、何も手がかりはなかった。丹生の人々は自分を置いてここを去り、どこか知らない遠くの地へ行ってしまったのだ。見捨てられた惨めさと悲しさで、沙羅は社の近くの木に寄りかかって泣いた。
「雪の来る前に、皆旅立ったのだろう。気の毒だけれど、どうしようもない」
丹生の一族はそういうものなのだ、と沙羅は心のどこかでわかっていたのに、こんな事態を考えていなかったのだ。自分の愚かしさが情けなかった。そっと刀美が近づいてくる足音がした。すると慰めるようにそっと刀美の手が肩にかかり、沙羅をしばらく抱きしめてから草の上に横たえた。
絶望感に打ちひしがれながら沙羅は刀美を受け入れるしかなかった。それは社の前で執り行われる厳粛な儀式のように感じられた。広がる空の青が目に染み、流れ行く雲の動きをぼんやりと見つめるうちに目の前は涙でかすんでいった。丹生の神も遠く去ってしまわれたのだと思った。空ろになった荒れた社の中を風だけがゆるく通り抜けていった。
沙羅はうなだれたまま言葉少なく、刀美とともにもと来た道を引き返すことにした。丹生の谷を離れるとき、最後に姉とよく遊んだ場所に行ってみた。幼い頃、秘密の隠し場所があって宝物と称して木の実の首飾り、草で編んだ小さな玩具や小枝の人形、そんなものを手遊びに作っては、ここに集めておいたりしていたのである。組み合わせた岩をどけると空間があり、そこにはさすがにもう草の人形はなかったけれども、赤い石がひとつ置いてあった。石は朱を含む鮮やかな色を放ち、ちょうど手に納まる大きさであった。夕羅がここに残してくれていったような気がして、沙羅はそっとこの石を取って衣服の端に包み持ち帰ることにした。
湖が見える所まで引き返すと、刀美は歩みを止めて、行きと同様眼下に広がる鏡のように見える湖を眺めた。
「あの日、山から見るとまるで白い鳥が舞い降りてきて水を浴びているように思えた。人か神かわからなかった。そっと近づいてみるとそれは女たちだった。これは東の谷に住んでいると聞く丹生の神女だと感じた。自分がここへ来たことが、どうしても偶然とは思えなかった。思わず知らず、あの白い衣の持ち主を私の妻に下さい、と湖の神に祈って矢をつがえ、柳の枝で揺れている端の白い衣に向かって一度だけ放つことにした。もし矢が当たらなかったら諦めてそのまま引き返すつもりだった」
沙羅は沈んだ気持ちのままそんな刀美の言葉を聞いていた。青く澄んだ湖を無言で見つめれば、陽光を受けてきらきらと踊るように波が煌き雲の影が映っている。思わず涙が溢れてきて、湖は鈍く青い色に滲みぼやけていった。
山道は長く感じられ疲労は濃く足どりは重くなった。途中から疲労で歩けなくなってしまい、結局また前回の湖のときと同様、刀美に背負われて山道を降りることになり、家に帰り着いた。日々が巻き戻されて、また振り出しに戻ったような気がした。刀美の両親も美加里も事情を知ると、何事もなかったかのように温かく沙羅を迎え入れ、気を遣ってかもう丹生の話には触れなかった。その思いやりの気持ちは身に染みて感じられた。沙羅のいた集落はなくなり、家族とも丹生の人々とも遠く離れてしまった。沙羅はしみじみと孤独を感じ、深い寂しさが心に押し寄せてきた。刀美の妻となって、ここで暮らす以外生きる道がないのを知った。
伊香刀美、窃(ひそか)に白き犬を遣りて天の羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隠しき。天女、及(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人は天上に飛び昇るに、その弟一人は、得飛び去らず。天路(あまじ)永く塞(とざ)して、即(すなは)ち地民(くにつひと)と為りき。(近江国風土記逸文)
4
新しい家が建てられた。沙羅は刀美との間に長男をもうけた後、相次いで三人の子を産んだ。男女二人ずつであった。沙羅は最初の男子が生まれたとき、丹生の神に子の成長を祈る祭祀をしたいと刀美に頼んだ。
「母として、丹生の血を引くこの子のためにぜひそうしたいのです」
「丹生の人々も、沙羅の仕えていた丹生の神もともにどこかへ行ってしまったというのに、ここで祀りを行うのか」
刀美は怪訝そうに訊いた。刀美には父祖代々から自分たちの祀る神があった。それ以外に新たな神を家に迎えて祀ることへの畏れもあったようだが、沙羅は丹生の習わしとして、丹生の神の加護を子に願うことを強く望んだ。そうすれば子どもは母方の神と父方の神の両方の力を頂くことができるのだと説いた。
刀美がおそるおそる見守る中、沙羅は赤い石と山葡萄の実で造った酒と水を供えて丹生の女神に祈り、呪文を唱えつつ赤子の額に水と酒で溶いた朱の粉を押した。朱は丹生の谷から持ち帰ったあのときの赤い石を少し削り、平らな石の上に広げて細かく砕いたものである。朱には強い力があるのだと沙羅は説明し、こうすれば赤子は悪霊や厄災から守られて育つのだと説明した。
(本当は白い忌み衣を身につけたかった)
と沙羅は思う。あの衣を着けると、ある呪力が生じる。肩に掛ける白い比礼(ひれ)を大きく振って円を描くとき、それは空を舞う蛇の形となって魔を祓うのだ。衣は失ってしまったが、神霊にかかわる、ある物に付随するそのような力を沙羅は心のどこかで信じていた。やむなく手で空中に大きく形を描いてそれを行い、丹生の神に向かって呼びかけ祈りながら、そのとき沙羅は自分の中に何か目に見えない力のようなものが生じるのを感じた。
(子を思う切ない思いが神に通じたのかもしれない)
沙羅はそう感じた。ここは神が好まれるような清浄空間ではなく、神霊を招き寄せるのにふさわしい場とは思われなかった。そして自分自身もまた潔斎の適わない身であったのにもかかわらず、神が自分のつたない祈りに対して何かしら応えてくれたような気がして小さな喜びを感じた。心を込めて、指先で朱を赤子の額にそっと押したとき、そこには目に見えない力が一瞬働いたようにも感じられ、思わず神への感謝の言葉を呟いた。それは辛い日々を過ごした果てに、自分を諦めたゆえに授かった力かもしれず、沙羅の中でひそかな心の拠りどころとなった。
「この子が健やかに幸せに生きられますように。丹生の神の加護が長くありますように」
願いつつ重々しく沙羅が唱えごとを言うたびに、刀美は少し緊張した表情になったが、異族の神への畏怖からか黙したままその様子を見守っていた。
子どもは沙羅によく似たすぐれた容姿をしており、丈夫に育っていった。次の子のときにも沙羅は同様にし、その子がやはり丈夫なのを知ると、すでに夫を持ち身ごもっていた美加里が、自分に子が生まれたときには、ぜひこの朱をつける魔よけのまじないをしてほしいと頼みに来た。美加里は最初の子を流産し、二番目の子は無事に生まれたものの病弱で育たず、生後数か月でかかった風邪がもとで喪ってしまい、悲嘆に暮れていたのだった。
やがて美加里の産み月が近づくと沙羅は様子を見に訪ねては励まし、産屋にも付き添って見守った。そして美加里が望んだように、生まれた赤子の額に指で朱を押して神の加護を願った。今度の男児は元気にすくすく育ち、噂は少しずつ近隣に広がっていった。沙羅は頼まれれば快く引き受け、よその家にも出向いて同じことをした。
沙羅は薬草の効用によく通じていたから、山に行くと役に立ちそうな効のある草花や薬草を見つけるたびに引き抜いて持ち帰った。季節ごとに彩りの変わる近くの山を歩き、鳥のさえずりに耳を傾けていると心は晴れた。春には独活や食べられる野草を探して摘み、蕗やわらび、ぜんまいなどの山菜を採り、みずみずしい香りの芹を求めて沢にも降りていった。秋には栗やあけび、小さな木の実や良い茸の群生する場所を求めて、裏山の斜面を歩き回るのを楽しみとした。さまざまな薬草を抜いてきては家の庭先に植えて育て、花や葉を集めて乾かしたり、根を煎じて煮詰めたり、種子を取って保存しておく。ほのかな花の香りを嗅いでいると、姉と山の中を歩き茸の見分け方を教わり、薬になる花や草を摘み、薬草の種類と名を覚え、煎じる木の実を集めた遠い日のことが蘇ってくる。母のしていた手順を思い出しつつ、薬効のある葉を煮出したり、根を選り分けたり、乾燥させて束にして天井から何種類もの薬草を紐で吊るして蓄えておいた。室内はいつも山野のさまざまな香りで満たされ薬草庫のようになった。
里の人たちも蓬の葉を揉んで傷の手当に使うなど数種の薬草を用いるのだが、沙羅の方がさらに細かく用途を知っており、その扱いには詳しかった。胃の痛み、腹下し、眼病、喉の腫れ、利尿など、病状に合わせて自分で調合し、家族に使うだけでなく、近隣の人々が求めに来ると与え、その用法も教え、ときには症状を訊くと病人の家に行って枕辺でまじないをし、回復を祈ることもあった。沙羅はこうして次第に里の人たちの間に受け入れられ、馴染んでいった。
家族が増えるにつれて家の中に子どもたちの声が絶えないようになり、賑やかに年月が流れていくようだったが、沙羅は薬草を摘みに山へ行くと、自然と昔の日々が思い出されて一人物思いに耽ることがあった。何年経ったとしても、理不尽に連れ去られた悲しみや、丹生の家族への思いが消えることはないのだった。その日も一人で山に入り、斜面にひっそりと咲く笹百合の可憐な薄い色をぼんやりと眺めつつ昔を思っていた。そのとき見慣れない男が木立の間から現れると、こちらへ近づいてきた。
「あなたは沙羅か」
男の声に沙羅は驚いて相手を見つめた。それは思いがけず懐かしい丹生の言葉だったからである。まったく見覚えのない男だった。長く丹生の言葉を使わなかったので舌がもつれたが、かろうじて言えた。
「沙羅です。丹生の人なのですか」
「ああ、夕羅にとてもよく似ている。私はあなたの姉の夕羅の夫で、頼まれてあなたを迎えに来た」
沙羅は驚きのあまり、野草の手籠を取り落とした。
「父や母は」
「ずっと沙羅の帰りを待ちわびて、会いたがっている。一族の者は皆沙羅を忘れたことはない」
男の説明によると、あのとき湖から沙羅が連れ去られたことを知ると、丹生では男たちが出て麓の里を何日もかけて探したのだという。でも見つけることはできなかった。
「私は足を痛めてずっと寝込んでいて、外へ出ることができなかったのです」
男は続ける。
「丹生では、あの後、病人や怪我人が出るし、良くないことばかり続いた。それで神に伺いを立てて、あの谷を離れることになったのだ。娘が一人さらわれてしまったのだから、丹生ではこの里から若者を一人、連れて行こうということになった。それが私だった」
「えっ。ではあなたも私と同じようにさらわれたのですか」
「私の場合はもっと穏やかにことが運んだ。山で木を伐っていたら、丹生の男がやってきて私を誘ったのだ。丹の色の鮮やかな石を見せてくれて、こういう石のある場所を知らないかと話しかけてきた。丹生の人間のことはよくわからなかったが、気の良さそうな男だったし、たまたま川筋に赤い石があるのを知っていたから案内してやった。お礼にと男は丹生の自分の家に連れて行って、温かいうまいものを食べさせてくれた」
そういうことが続いて男と親しくなり、何度か行動をともにするうちに、丹生の人たちについていってもよいと考えるようになった。もともと親がおらず、親戚で養われている身だったから、誘われたとき、この地を離れることにそうためらいはなかったという。親代わりの親戚には、丹生の人々が土地を去ることや自分も一緒に行くことを話したという。よく聞いてみれば、その親戚というのは、刀美の一族に当たる家であった。
「それでは里の人たちは、丹生の一族が谷を出ていくのを知っていたのですね」
「知っていたはずだ。刀美も誰かから聞いていただろう。あるいは里の長と何らかの話し合いがあったのかもしれない。丹生の方では娘を返してもらおうとしたが、刀美の家が承知せず、それで沙羅と私が引き換えられることになったのではないだろうか」
思いもかけないことを次々聞かされて沙羅は驚いた。そんな風に考えてみたことは一度もなかった。そういえば刀美と二人で家を出て、丹生の谷へと向かった日のことが思い起こされてくる。あのとき刀美は、妙にあっさり丹生へ沙羅を送っていく、と言ってくれたのだった。あれは沙羅に廃墟となった丹生の集落を見せて、諦めさせる意味もあったのかもしれない……。
「夕羅が私のことを聞きつけてやって来て、里のことをあれこれ知りたがった。丹生の言葉はそのときに夕羅から少しずつ習った。夕羅は妹を湖に置き去りにしたのを悔いて、始終そのことを話しては悲しがっていた。沙羅については、里では誰も姿を見たものはいなかったが、刀美が天女のような娘を手に入れて、外にも出さず家族で大事にしているらしい、そんな噂を聞いたことがある、と言ったら、夕羅は何度もため息をついていた」
「そうだったのですか」
「私は夕羅と両親から言づてを頼まれて沙羅に会いに来た。丹生の一族は今近くまで来ているが、ここへもう一度住むために戻ってきたのではなく、ここを通って遠く南の山地へ下がっていく長い旅の途中なのだ。数日はまだこの近くにとどまっているけれども。沙羅が私たちとともに来たいのならどうか一緒に、皆そう言っている」
「四人の子どもたちが……いるのです」
男は頷く。
「丹生の旅がどんなものか知っているだろうけれど、小さな子どもたちを連れて行くのは無理だろうし難しい。年上の子どもならもしかすれば歩けるかもしれないが。このまま刀美の家で育つのが、子どもたちにとってはいいのかもしれない。むろん決めるのは沙羅だ。もし来るのなら沙羅だけで、と私は思う。こういう機会は一度きりで、もう二度はない」
「よく考えてみます」
沙羅は小声で答えた。どうすればよいのかすぐには決められない。そのとき誰か里人が山道を上ってきたらしく、茂みが音を立てて揺れた。山道の向こうに、薪でも拾い集めに来たのかかすかに人の動く気配がする。
「三日後の夜半、月が真上にかかる頃、この場所で待っている」
男は短く告げると、里人に姿を見られないようにその場から足早に離れ去っていった。沙羅は呆然とその場に佇んでいた。
その夜、目が冴えて沙羅はいつまでも眠れなかった。男から聞いた話が頭の中を駆け巡り、心はこれまでになく激しく揺れ動いた。上の子どもは、沙羅が連れ去られた年齢に近づいてきている。我が子を見ていると、沙羅は自分の上に流れていった年月を思うのだった。
上の男子二人は気質が父親に似ており、父とともに狩に出かけることが多くなってきていた。父に教わって弓矢の扱いも上手くなり、もうそろそろ母親の手を離れていく年齢に来ていた。けれどもまだ幼さの残る二人の娘たちは、どうなるだろう。美加里が母親代わりになって始終家を訪ねてくれて、二人を慈しんでくれるとは思うものの、いなくなった母親の姿を求めてどんなにか悲しむことだろう。
心がどちらにも定まらないまま次の日は過ぎていった。沙羅は産土の神である丹生の女神、この地に鎮まる神霊、土地の精霊、思いつく神の名を呼び、神々に神に手を合わせ、どうしたらよいのかを祈り続けて目を閉じ、少しでも眠ろうとした。疲れてうとうとまどろんだとき、どの神からかはわからないが夢を授かった。
……闇の中で小さく篝火が揺れている。よく見ると山間に篝火が浮かび上がっていた。丹生の集落では、行方がわからなくなった人が出たとき、火を焚いて家族がその人の名を呼ぶのである。父や母や姉の呼びかける声が遠く近くこだまのように聞こえてきた。白い犬がふっと目の前に現れた。犬は室家の横手にある納屋へと近づきそこに入ってゆく。沙羅は犬の後をついていった。犬はさらに導くように進み、奧へ行くと隅に置いてある古い木の櫃(ひつ)を促すように眼で示した……。
沙羅は目が覚めた。納屋は古い弓矢などが納めてあり、刀美だけが入れる場所になっていて、ほかの者は容易に近づけないのであった。白い忌み衣はあの櫃の中にあるのではないか。沙羅は一刻も早く確かめてみたいと思った。
翌日、沙羅は何とかして納屋に入ろうと何度も試みたが、その日に限って刀美の目があって、気持ちは焦るものの探すことができず、日暮れになってしまった。
三日後の夜になった。夜ふけに皆が寝静まるのを待って沙羅はそっと身を起こすと、足音を忍ばせて庭へ出た。そして納屋へ行き、きしませないように注意深く戸を開いた。斜めに月の光が差し込んで内部を白く照らし出していた。沙羅が奧へ進むと、そこには夢で見た通りの古い木の櫃があった。重い蓋を開けてみると、古びた衣などが入っている。ひとつずつ中身を順に取り出しては床に置いていった。すると一番下にあの白い忌み衣と肩に掛ける比礼(ひれ)があった。
沙羅は思わず見覚えのある衣を胸に抱きしめた。その白い輝きはまだ失われていなかった。この衣も比礼も長いこと沙羅を待っていたのだと感じられた。沙羅は手早く着ていたものを脱ぎ去ると白い衣を身にまとい、今まで着ていたものをきちんと畳んでその櫃の横に置いた。
懐かしい手触りの白い衣を着け比礼を肩に掛けた瞬間、沙羅は丹生の乙女に戻ったような心地がした。姉からいくつもの神歌を習い、笛の音で舞う優雅な舞いを教わり、祈りに明け暮れ、神を思って過ごしたあの清らかなひとときがありありと心に蘇ってくる。沙羅は音を立てないようにそっと納屋を出て、そのまま庭を抜け、家を後にしようとした。
子どもたちの顔が脳裏に浮かんでは消え、そして丹生への思いも溢れるように押し寄せてきて、二つの想念が絡み合い心の中で渦巻くように交錯していたが、沙羅は次第に気持ちが静まっていくのを感じた。もうここを去ると心を決めたのだ。
約束の場所へ向かおうと歩き始めたとき、ふと名を呼ぶ誰かの声が聞こえたような気がして、沙羅は振り向いた。見ると刀美が呆然とした表情で、庭に立ちすくんでいた。その顔は青ざめていた。けれどもまるで金縛りにでも遭ったかのように、刀美は硬直したままその場を動かなかった。今目の前で起きていることがどうしても信じられないようであった。
刀美は思わず犬を呼ぶときの合図をしかけたが、力なくその動作を止めた。仮に犬がこの場にいたとしても、それが何になるのだろう、そう感じたようだった。今離れつつあるのは沙羅の心なのだった。
白い犬は、もう何年も前に亡くなっていた。その後、別の黒い子犬を飼い慣らし、狩にもよく伴っているが、あの白い犬ほどにはぴったりと意思が通じ合わない様子であるのを沙羅は知っていた。夜の静寂の中で、二人はしばらく互いを見つめ合った。
「行ってしまうのか」
刀美は低く問いかけた。
「はい」
沙羅も短く答えた。
「子どもらに、なんと言えばよいのだ」
「母は、天へ帰ったと……」
「また、ここへ戻ってくるのか」
「……わかりません。でもいつか、戻ってくる日があるかもしれません」
しばらく無言のまま佇んでいた。
さまざまな想いが浮かんでは消えてゆく。刀美のしたことを許せないと思い、恨んだ日もあったが、次々に生まれた子どもたちにひたすら愛情を注いで育ててゆくうち、少しずつ諦めの気持ちも生じていった。そして時が流れ年月を経た今、感情が波立つ折はあるものの、ここで生きてゆくことをもう自分の運命として半ば受け入れるようにもなっていた。そして済んだことはもう忘れよう、嫌なことは思い出すまい、刀美を許そう、という心境に漸く至り、心を落ち着かせるようにしていたのだった。
けれども山で姉の夕羅の夫に会い、思いがけない話を聞いた時から、心は激しく動揺し始めた。そして失ったと思った衣を見つけて手に取った瞬間、溢れるような思いがいちどきに押し寄せた。衣をまとうと、沙羅はあの日の自分に立ち返ってしまったのだ。今は家族に会いたい気持ちが募り、どうしても抑えられない。
もし、ここにとどまってくれ、出て行かないでほしい、沙羅、一緒にいてくれ、と必死に刀美に懇願されたなら、出ていく決意は鈍っただろうか。でも刀美は言わなかった。いや、言えなかったのだろう。
沙羅は静かに白い羅(うすもの)の比礼を手に取ると、子どもたちの眠っている家に向かって思いを籠め、優しく揺するように振った。何かを祈るかのように何度も繰り返した。
今度は布を高く頭上にかざすと、夜風に靡かせて大きく振り動かした。比礼をこのように風に流して激しく振るのは、実は永の別れを告げる丹生の呪術であった。このとき白い布は二つの世界を隔て、たとえば魚の背びれが波を分けて先へと進むように、今いるこの空間を分けたのである。
刀美は、その所作の意味はよくわからないものの、別離に向かって進もうとする沙羅の強い意思を感じ取ったようであった。強いて引きとめもせず、沙羅を追うこともせずただ低くうめいてよろけ、立ち木につかまったまま、去ってゆく沙羅の後ろ姿を見つめるばかりだった。
沙羅はくるりときびすを返すと、そのまま道を進み一歩ずつ家から遠ざかり、もう振り返ることはなかった。銀色の淡い月の光を浴びて山道をひたすら登ってゆくその姿は、一羽の白い鳥のように輝き、木々の間に見え隠れしつつやがて小さくなっていった。(了)
伊香刀美、天女(あまつをとめ)の弟女(いろと)と共に室家と為りて此處(ここ)に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比売(なぜりひめ)。此は伊香連(いかごのむらじ)等の先祖(とほつおや)、是なり。
後に母(いろは)、即(すなは)ち天の羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、独り空しき床を守りて嘆詠(ながめ)すること断(や)まざりき。(近江国風土記逸文)
参考文献
「風土記」日本古典文学大系 岩波書店
「古事記」角川文庫
「丹生の研究」松田壽男著 早稲田大学出版部
古代の小説「羽衣」について
近江の余呉湖に伝わる「余呉の天女」に材をとりました。女性が衣を隠されるという羽衣伝説は、美保の松原、奈具の天女、余呉の天女など各地にあり、その中では余呉湖の伝承が最も古いのだそうです。「余呉の天女」の逸話は「近江国風土記逸文」にみられますが、「帝王編年記」にも載っています。美保の天女は衣を返してもらい天に昇ったとされますが、余呉の天女は人の妻になり母となって里に暮らした後、衣を探し取って姿を消します……。古に朱砂を探し求めて山中を移り住んでいったという丹生の民の姿を重ね、創作しました。