一賀茂川の源流一
志明院 惟喬神社
一賀茂川の源流一
志明院 惟喬神社
賀茂川の源流は、北区の雲ケ畑、志明院(しみょういん)というお寺の山内にある。標高四百五十メートル、境内の洞窟に湧水があって、お不動様が祀られ、古来水源の聖性が守られてきたという。修験の人たちの行場でもあるらしい。また志明院は、妖怪が出没して宿泊客を驚かせる不思議な寺として、司馬遼太郎氏がエッセイ「石楠花妖話」を書いたことで、その名を知られるようになった。
初夏の石楠花が美しいお寺と聞き、付近には惟喬親王ゆかりの神社もあるので、一度雲ケ畑を歩きたいとは思っていたのだが、交通が不便であることと、志明院が神秘に包まれた怖い場所と聞いておそれを感じ、ためらってきた。冷え込みの厳しかった秋の一日、季節が違うので石楠花はないけれども、賀茂川の源流を訪ねることにした。
雲ケ畑への路線バスはすでに廃止され、現在は地域自治体による九人乗りバス「雲ケ畑もくもく号」が日に二度(北大路駅~岩屋橋)運行されているのみである。朝のバス便は八時台一本のみで、これに遅れるとタクシーしか方法がないので、まだ暗いうちに起き出して、電車、地下鉄と乗り換えを繰り返し、北大路駅前のコンビニでお弁当を購入、バスになんとか間に合うことができた。
この日のもくもく号の乗客は数人。バスは賀茂川沿いに上り、上賀茂神社の社叢を右手に見ながら市内を抜けていった。山間部に入ると清流の谷や紅葉のはじまった山並みの間の狭い道を縫うように走り続け、途中の集落で乗客が次々降りてゆくと、やがて終点、岩屋橋に着いた。(運賃は500円)
橋の周辺にも集落が営まれていた。標高が高いのか空気は冷えきって、橋の下を流れる水は澄んでいる。志明院への山道をたどりはじめると、すぐ惟喬神社があったので立ち寄った。階段を上ると、社殿は村の鎮守社のような雰囲気、周囲を見まわすと薄い霧がかかったような静かな山里の朝の情景である。
祭神は惟喬親王。説明板には、
「惟喬(これたか)親王は文徳天皇第一皇子、皇位を継ぐはずであったが、藤原氏の圧力により皇位を奪われ、都を後にした。雲ケ畑は惟喬親王の隠棲地で当地で出家した。親王の死後臣下や村人が親王の徳を奉じ祭祀するため、ここに創建した。親王が寵愛していた雌鳥がこの地で病死したため、ここに祠を建て、その縁から雌社(めんどりのやしろ)とも呼ばれている」とあった。
調べてみると、親王の雌鳥とは、狩に使われた鷹のことらしい。皇位から遠ざけられた失意の惟喬親王は、在原業平に誘われ交野渚院(別荘)に滞在、遊猟で心を慰めていたという。あるとき愛鷹を見失ってしまったが、池に映った姿を手がかりに(影見池)探し出したという逸話があるそうだ。おそらく、その鷹のことなのであろう。
惟喬親王(母は紀氏の娘)は、本来なら天皇になるはずの人であったが、皇位が弟の第四皇子、惟仁親王(清和天皇、母は藤原氏の娘)のほうにいってしまい、若くして出家、隠棲を余儀なくされた。隠棲地としては近江の小野や蛭谷、君ヶ畑、北区雲ケ畑に伝承が残っている。雲ケ畑での伝承は次のようなものであった。
親王は乳母のはからいで当地に来られ、桟敷ケ岳(標高八九五メートル)の山頂に桟敷を作り、都をしのび懐かしんで眺められた。翌年雲ケ畑に迎えられ高雲宮を建てて住み、そこで出家された。後に高雲寺となり、同寺には親王の手になる写経が伝わっている。親王は晩年に病を得て死期が近づいたとき「この地は内裏の上流にあり、墓所とするには失礼である。山の向こうに移りたい」と仰って、村人と別れを惜しみ大森東河内(北区)に移り、そこで亡くなられた。享年五十四、墓所は大原の地にある。村人は親王を悼み、その霊を慰めるため、毎年八月に松明を灯して献じる「松上げ行事」(無形民俗文化財)を行っている。
藤原氏によって皇位への道を絶たれた悲運の皇子、それが惟喬親王であった。在原業平と親しかったことは、よく知られているだろう。在原業平は祖父(平城天皇)が起した薬子の変に、父の阿保親王が連座したことにより臣籍に下った人で、伊勢物語の主人公であり、また歌人としても名高い。惟喬親王も在原業平も、ともにある時点で運命が暗転し、不遇の身となった人たちであり、二人は(婚姻関係を通して)親戚の間柄でもあった。
都で高い身分にあった惟喬親王も、藤原氏に疎まれたとあっては、都の友人たちの足も藤原氏に遠慮して遠のき、文通も途絶えがちになったことであろう。雲ケ畑は今日でも京北の山深い里である。
惟喬神社を出て山道を上っていった。左手に清流があって木立は深く緑が美しい。司馬遼太郎「石楠花妖話」から一部抜粋し、紹介してみよう。当時産経新聞の記者であった氏は休暇をとり、同僚の若い記者とともに、昭和二十五年初夏、志明院を訪れた。(ただし発表年月は昭和二十九年となっている)
・・・・志明院という寺なのである。・・・・寺伝では、少なくとも四百年前までは谷々を埋める坊だけでも四十数軒あったというから、相当な巨刹(きょさつ)であったに違いない。いまはただ、本坊、一宇を止めるだけ。宗派は真言宗仁和寺派に属している。
・・・・志明院というのは、代々の勅願寺で、この寺一帯山林を所有し、明治までは、その寺有林の収益があるのと、勅願寺の権威をまもるために、民間の寄進を拒否し賽銭をあげることすらゆるさなかったといわれる。
・・・・バスを捨てて山路を歩く。道といっても雨の日は川に変わるらしく、岩を避け、凹みに足をとられ大変な難路だ。杉木立が深いうえ、出発が夕四時だったからそろそろ日が落ちはじめ、一町ごとに、あたりの暗さが増してきた。眼の前を横切った物体がある。もう一度、左手の杉木立から右手の木立へさっと消える。
「ムササビですよ」 S君、私の顔を見る。・・・・とたんにヒグラシが人魂のような声でないた。いやな山である。・・・・
・・・・物の怪とは、たとえば鬼や狐狸やその他の怪物のような実体のあるものではなかったようだ。一種の気体のようなもの、そのくせ随意に音響を立て、人に病いを起させ、時には便所の入口などで黒煙のように立昇り、気の弱いお公家さまを卒倒させる。ところが、年を経るにつれ、いつのほどにか都に住みにくくなり、どこへともなく民族移動をはじめた。
・・・・物の怪ども、世の中が住みづらくなったのにちがい。いずれにせよ、平安期の貴族をおびやかし続けた物の怪は、その後どこへ行ったか。そのときのぼくのインスピレーションでは、この洛北志明院の山中にこそ、彼らの残党が余喘(よぜん)を保っている、ということであった。(「石楠花妖話」より)
司馬氏がここを訪れた頃から、もう数十年が経過している。いくら山里といっても、もうむささびは飛ばないだろう、と安心して歩いていた。ふと足元に目を向けると、小さい沢蟹がすぐ前にいて、危うく踏みそうになる。気をつけて見てゆくと、川から上ってきたらしく、道のあちこちに蟹が・・・・。気の毒なことに車に轢かれて死んだ沢蟹、小蛇も見かけ、慌ててよけて通る。横たわる小蛇との遭遇は二度も。山が深いとは、こういうことなのであった。
三十分ほど歩くと志明院に着いた。ここまでは車道があるので、車で来られる人も多いようである。人の気配に犬が吠えて、お寺の女性が出てこられ、受付と説明、順路などを聞く。入山料は300円、リュックなどの荷物を預けることに。袋物の類は持ち込めず、撮影、飲食も禁止とのこと。
このお寺は真言宗で山号は岩屋山といい、岩屋不動と呼ばれている。創始は役行者である。淳和天皇の御代、賀茂川の水源を祀るため、空海が勅命を受けて再興した。以来皇室の勅願所となり、ご本尊は大師の手による不動明王(秘仏)、水源地は神降窟(しんこうくつ)といい、洞窟内に湧水を祀る。奥の院には菅原道真が刻んだ眼力不動明王(秘仏)が安置されている。歌舞伎十八番「鳴神」の舞台地とされ、上人ゆかりの護摩洞窟があり、修験道の聖地ということであった。
ただしこの寺院が有名になった司馬遼太郎の妖怪エッセイについては、お寺のかたは何も仰らなかった。ほかの参拝者が、「陰陽師とのかかわり」や「都の妖怪封じ」についてしきりに質問していたが、寺側はきっぱりと否定されていた。
蓮華の手水鉢から流れ出るお水で手を清め、山門(仁王門)をくぐって上ってゆく。本堂には空海開眼の不動明王が安置され、緑濃い樹木に包まれた豊かな植生の森が広がっている。紅葉には少し早いようだが、わずかに朱が混ざりはじめた木々の梢の色合いが美しい。見まわしていると、厳しいほどの冷気が流れていて身が引き締まる。
進んでゆくと、開けた所に龍神を祀る滝があった。飛龍の滝というそうだ。静かに細い滝水が落ちている。空気はかなり湿潤である。滝や石仏のあるこの空間はさらに空気が冷たくなったように感じられ、日が差しているのにもかかわらず、漂うものの気配に寒さを覚えた。
さらに山道を上ってゆく。奥の院へと向かう道は、折れた枝が散らばり少し荒れている。けれどもせせらぎの音や鳥の囀り、風のそよぎに耳を傾けていると、俗塵を離れた遠い世界に来ていることが実感できるのだった。やがて右手に巨大な磐座のような岩塊が見えてきて、その大きさと重量感に圧倒された。これが神降窟(しんこうくつ)であろう。懸け造りになっている鉄製の階段を上ってゆくと、舞台になっていて、岩蔭に張り付くように奥の院根本中院が建てられ、菅原道真手彫りの眼力不動明王(秘仏)が祀られているようである。
その左手には結界が張られ、大岩の裂け目の奥にひっそりと湧水が祀られていた。「岩屋清水」である。覗き込むと岩肌は黒く濡れて光っていた。上の大岩の間から、賀茂川の最初の一滴が滴となって落ちてくる、という聖所がここであった。京に都が遷されたとき、賀茂川の水源をよく祀り、水を鎮めることが大切と考えられたのであろう。天皇即位の折には勅使が派遣され、ここで国家鎮護、宝祚延長、万民安穏を祈願した、ということであった。
佇んで岩を見つめていた。大岩に木の根が絡みつき、まるで蛇のように長く延びて岩を巻きつつ上っている。その様子をしばらく観察し、樹木の持つ生命力の強さに改めて感嘆した。せせらぎの音が清らかに響き、時折野鳥の声がするほかは、静寂そのものの世界である。雨が降らない日が続いたせいか、岩に染みこんだ水が少なく、岩の間から水滴が落ちるところは見ることができなかったが、ちょうど朝日が差していて、水を受ける岩が窪みになっているのをうかがい見ることができた。
舞台から下を眺めると、細い流れがあった。さらさらと光って流れてゆくのを目で追った。上流に目を向けると、八十八箇所霊場巡りの祠のようなものが複数山中に見え隠れし、山道をたどれるようにも見えたが、道が荒れているらしく、ロープで閉じられ、通行は禁止されているようであった。
舞台は小高い位置にあり、緑のすがすがしい空間が広がっているので、心地よい感じであった。大岩の雰囲気からすると、神道のほうの祭祀の場とみてもおかしくはない雰囲気が漂っている。神降窟と名づけられているくらいであるから、岩の神や水の神を祭祀するお社があるほうが自然で、習合して仏教色が強くなっているように見受けられるが、古にはここは神降臨の磐座として敬われていたのでは、という印象を持った。
岩屋を下りて元の道を引き返していった。先ほど行かなかった滝の上の道を鳴神上人の護摩洞窟のほうへと向かう。行ってみると、その洞窟はなんともいえない暗さに満ちていた。歌舞伎「鳴神」の世界を少しみてみよう。
帝から、皇子誕生の祈願を頼まれた鳴神上人は、呪法を用いて帝の望みを叶えてみせた。けれども帝は寺院建立の約束を守らなかったので、上人は怒って、雨を司る龍神を滝壷に封印し、そのため国内は日照り続きとなって、皆困り果てた。そこで内裏一の美女、雲の絶間姫が上人を篭絡するために送り込まれた。上人は誘惑に勝てず、戒律を犯し、酒に酔って寝てしまう。絶間姫はその隙に滝壷の上の注連縄を切り、龍神の封印を解いた。辺りはたちまち豪雨となり、その中を絶間姫は逃げてゆく。目覚めて異変に気づき騙されたと知った上人は、怒り狂って後を追うのだった。
その「鳴神」の舞台地がここであった。洞窟内にはいろいろお祀りされているが、どうも雰囲気が少々怖い。闇がさらに深い別の闇と押し合っている、という感じがする。漂う負のエネルギーにおそれを覚え、そっと洞窟から離れ、明るい所に佇んで深呼吸する。陽光が降り注いでいるのにもかかわらず、眼前はまだ暗いのであった。
飛龍の滝に戻って、もう一度滝を眺めた。ここもなにやら怖そうな雰囲気である。再び「石楠花妖話」をみてみよう。
・・・・外は、月光がいよいよ強くなり、お互いの表情まで見えるほどだった。四人、山頂近くにある奥の院を目標に山中に分け入った。途中、岩窟があり、糸ほどの滝が掛かっている。そこで先導の上田行者が足をとめた。
「この辺で竜火を勧請しましょうか」
この行者、勧請という言葉を使う。神仏が何かの意思をこの竜火によって顕示するという意味で使われているのだろう。すると竜火とは、われわれこそ不遜にも化物扱いにしているが、神聖な霊験として考えられているようだ。上田行者は、何か経文のようなものを唱え、九字を切り、最後に、ええいっというレッパクの気合をかけた。
すると、ポツリ、
見えた。たしかに火である。われわれより一間ばかり前方の空間に、ポカリと浮かんでいる蛍光色の火、大きさは十円銅貨ぐらいであろうか、正体は何にしろ、気合と同時に火があらわれたことはたしかだ。近づいて、ためつすかしつしても消えない。・・・・
行者は、さらに奥の院へ行く途上、一、二度試み、帰りも、われわれが望む場所で、竜火を出してくれた。(「石楠花妖話」より)
司馬氏の実体験であるから、こういう世界もあるらしい、とだけの感想にとどめておく。けれども志明院の不思議は、氏によると、泊り客の部屋で、夜に騒動が起きるということであった。
・・・・十一時ごろであった。・・・・三方の障子が、一時に、ガタガタと鳴りはじめたのである。誰か、外で障子のサンをつかんで力まかせにゆすっているという感じだった。とにかく両名、ふとんを蹴って起き上がり、さっと三方、障子を開け放った。とたんに音がやむ。誰もいない。・・・・
ややあって再び西側の障子が鳴った。・・・・今度は東側が鳴動する。ゴウをにやして、ついに、三方の障子を開け放って寝た。月光が枕元までさしこんで、曲者の捜索にはさまで不自由はない。・・・・こんどは、屋根の上で、シコでも踏むような鳴動が聞こえはじめた。濡れ縁までとび出て屋根を見上げたが、音は聞こえても形がない・・・
「恐れいったな。一体、何だろう」 (「石楠花妖話」より)
さらに続きを読んでゆくと、この騒動を起した妖怪は、司馬さんたちの部屋から院主の部屋へと移り、屋根の上で音を立てて大暴れしたらしい。でも大和の行者と碁を打っていた院主は「ああ、やってますな、もうすぐ済みますよ」と落ち着いた声で返したという。院主によると「建武のころの古文書が寺にあるんですがね。そこにも書いてありますよ。もうずいぶん古い霊異らしいな」ということであった。そこで好奇心旺盛な司馬氏は、その古記録を実際に見せてもらい「例のドタバタのほか、竜火、天狗の雅楽などの記載」を自分の目で確かめるのである。
司馬氏の一泊体験では「物の怪騒動」と「竜火」はどういうものかがわかったけれども、「天狗の雅楽」のみは聞くことができなかった、と残念そうに記しておられる。笙、ひちりきの音が太鼓とともに山頂から階調正しく響いてくるのだそうで、雲ケ畑の集落では、誰でも子どものころからこの音楽を聞いている、とも紹介しておられる。
また、昭和三十六年発表になる、別のエッセイの中でも、志明院についての言及がみられる。
・・・・私は洛北雲ケ畑の志明院という真言宗仁和寺派の山寺で、室町時代以来、出つづけているという妖怪に出会ったとき、たとえば平安京のむかしならば、禁中のとのいの部屋にも、公家の屋敷にも、ちまたの辻々出ていたもののけのたぐいが、しだいに人間の文化がひらけるにつれ、街から愛宕山へ逃げ、貴船へ逃げ、鞍馬へ逃げ、ついには、わずかに雲ケ畑の深山のひだで、かろうじて余セイをたもっているという実感を受けた。(「歴史の亡霊」より)
氏にはほかにも「洛北の妖怪寺」(昭和三十二年)というエッセイがあるそうだし、「街道をゆく 四 洛北諸道」にも志明院について記されているという。
司馬氏のこれらの興味深い文章を読んで関心を持ち、志明院を訪れる人は多いようである。怪異はおもに夜に起きるということであるが、現在は志明院では宿坊のほうはなさっていないようであった。もっとも、お寺に電気が通じるようになって以来、このような怪異はなくなったそうである。志明院の暗がりを好んでいた妖怪さんたちは、電気がついたのを見て落胆、あるいは眩しい光に圧倒され、もっと山の奥のほうへと去っていった、ということであろうか・・・・。
預けた荷物を受け取って、志明院を後にし、帰途につくことにした。岩屋橋まで徒歩で下り、午後の「もくもく号」を利用する。バスは午後の便はこれ一本のみである。バス停の近くのベンチで遅いお弁当を開き、魔法瓶の熱いお茶を飲みつつ、志明院での印象を振り返った。バスの時間の都合とはいうものの、朝から飲食なし数時間の滞在というのは、やはりきつかったように思う。
境内山域の聖性を守ろうと、お寺の方ではあれこれ対策を講じておられるようであったが、押し寄せる時代の波の前では、もう無理な段階にきていると思われる。いくら撮影を禁じ、受付で訪問者の荷物やカメラを預かったとしても、個人情報の入った携帯まで寺が預かることはできないし、写メールを禁じる手だてもない。それらは個人の良識に任せるほかなく、実のところ、もう結界は揺らぎはじめているのだった。
司馬遼太郎氏だけでなく、シラク大統領や、宮崎駿監督、著名人の方々が多く志明院を訪れたようである。おそらく四季の自然の移ろいに魅了され、寺の持つ歴史に触れ、心に何かを感じられたことであろう。境内はすがすがしくて自然が豊か、美しい所である。けれどもその表層を一枚めくれば、何かおそろしいものがあちこちに潜んでいるような感覚があって、うっかり踏んでしまうのが怖く、心に緊張を強いられる場でもあった。それは、目に見えず、実体のないものへの怖さ、ででもあったろうか。神秘体験や超常現象を期待して、気軽な観光気分で出かける場所ではないようにも思われた。
引用文献 「司馬遼太郎が考えたこと エッセイ 1」(新潮社)