一古代への旅 出雲一
佐太神社 加賀の潜戸
一古代への旅 出雲一
佐太神社 加賀の潜戸
加賀の潜戸
高速バスを利用して、夫と出雲へ二日間の短い旅をした。
朝早く京都を発ったので、昼にはもう松江に着いた。ところどころに古い町並みの残る、落ち着いた雰囲気の町である。
その日は、緑の多い松江城の辺りを散策した後、バスで島根町まで行って、加賀の潜戸(くけど)という海中洞窟を訪れた。
小さな遊覧船に乗り込むと、お客は私たち夫婦ともう一組の四人だった。船を進ませながらおじいさんが、とつとつと古代の伝説を語り始めた。
「この洞窟は、古事記にも登場する道案内の神、猿田彦命の誕生地で、出産のとき母の支佐加比売命(きさかひめのみこと)が、流れてきた金の弓矢を取り上げて、暗き岩屋かな、と言いつつ射通すと、射抜かれた洞窟の入り口から一筋の光が差し込んで、明るく照り輝いたといいます」
古事記では、猿田彦命は天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の軍を遮る土地神として登場するが、天宇受売命(あめのうずめのみこと)に名を明かした後は、転じて道案内の神となり、日向でその役を勤めた後、妻となった天宇受売命とともに伊勢にゆき、最期は海で比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ、と記述されている。(伊勢一宮 椿大神社の祭神、伊勢の地主神ともいわれる)。
先導の神、道開きの神とされ、各地の多くの神社で猿田彦神は祀られている。天孫の行く先々で、土地の事情に通じ、道案内を務めた複数の猿田彦神がいた、という意味にもとれるが・・・・。記紀の記述によれば、猿田彦神は謎めいていて、波乱の多い生涯だったようだ。でも当地の伝承では、佐太大神(猿田毘古大神)は、出生のときは、洞窟で太陽の光に祝福されるという、英雄伝説によくあるような輝かしい逸話とともに誕生したのだ。
船が洞窟に入ると、光が途絶え、さっと冷気が頬に当たり、思わず身震いする。
岩が厚く折り重なっている。天井までの高さは四十メートルもあるという。洞窟の中は薄暗く、微かに波の音が響く他は、何も聞こえない。岩の間に巣があるのだろうか、頭上を時折イワツバメが舞っていく。奥に入るに従って、時を遡って古代の海を漂っているような心持になる。
「大声を出してみて下さい」
おじいさんに促される。早速夫がおーいと叫び始める。私は声を出すのは恥ずかしいので手を叩いてみると、音が岩壁に何重にも反響し、こだまになって耳を打ってくる。聞いていると、鳥肌が立つ。まるでこの世の外から響いてくる音のようだ。
船端から下を覗くと、海水は藍を流したような深い色だった。透き通って揺れる波を見つめる。
「出雲国風土記」には、
「人この窟(いわや)の辺りを行くときに、必ず声とどろかして行く。もしひそかに行けば神現われて、つむじ風起こり、行く船は覆る」
と伝えられている。
洞窟の先は外海に通じており、船は再び滑るように海へ出た。面白い形の岩が点在している。
伝承を語るおじいさんの力強い声は、海の上を吹く風に乗ってゆっくりと流れていった。それは観光船でよくテープで流される、機械的な説明口調とは一味違っていて、まさに土地の「語り部の翁」という感じであった。
集落の中の民宿に泊まった。翌朝民宿の近くの神社に何気なく立ち寄ると、そこは猿田彦命の母の支佐加比売命を祀るという加賀神社であった。
佐太神社 (出雲二宮)
バスを乗り継いで出雲大社(出雲一宮)に次ぐ古社、佐太神社を訪れた。行ってみると、祭神は佐太大神、この神は猿田毘古大神と同一視される、とあった。昨日から猿田彦神ゆかりの所ばかりを回っていることになる。(猿田彦神については、日向 くしふる神社 荒立宮 の項でも書いている)
日本書紀の記述によると、
大己貴神(おおなむちのかみ)は、国譲りの際、大きな宮殿を建てて貰い、「自分は退いて幽界の神事を受け持ちましょう」と言って国を天孫に譲り、岐神(ふなとのかみ、猿田彦神のこと)を道案内に差し出した。そして体に大きな八坂瓊の玉をつけて永久にお隠れになった。それで経津主神(ふつぬしのかみ)は岐神(猿田彦神)を先導役として、方々をめぐり歩き平定した。(日本書紀)
佐太神社では、小雨がぱらつくひっそりと静まった中、何か神事が行われていた。
神前には、ワカメに似た海草のホンダワラがたくさん紐に掛けてある。どれも雨で濡れており、まるで女性の長い髪の毛のよう、竹筒も掛けてあって不思議な光景であった。後で知ったことだが、これは潮草といい、家に不幸があったとき、服喪が終わると海で潮草をとり、竹筒に海水を入れて神社に持参し、潮草を海水に浸して三度身を祓う風習があるそうだ。出雲には古いしきたりが残っているのだと改めて思う。
青葉で飾った四角い白木の箱が、うやうやしく神前から持ち出され、どこかへ運ばれていくと、儀式は終わりになった。
他に参拝客はおらず、しめ縄を外している宮司さんに少しお話を伺ってみる。
「ここは旧暦の十月(十一月)に、全国から八百万(やおよろず)の神々が集まって来られ、神無月とは言わず、神在(かみあり)月というので有名ですが、実は十一月の裏の月に当たる五月にも、全く同じ行事をしています。各地からの神様がここに集まって過ごされた後、今日はそれぞれの土地に戻っていかれる日なのです」
十一月の行事は有名だが、五月にも同じことが行われていたとは、知らなかった。
後日このことを図書館の本で調べると、古代では、半年を一つの単位と見ていたらしいこと(一年を二年とみなす)、種まきをする春には、田の神を里に迎え、収穫の終わった秋には、その神を山へ送る神事の名残である、などとあった。
また十一月に、全国から神々が出雲へ参集する折に、国に残って留守番役を務めた神様が、春には交代して出雲へ行く、という説もあるそうだ。
佐太神社では、神様たちの入った白木の箱が、近くの朝日山の山中に運ばれて、さらにそこでお見送りの行事をするという。宮司さんは、
「中には、帰るのを忘れていつまでもここにとどまる神様もいて、そういううっかり者の神様を止神(しばかみ)というのです」
などと面白い話もしてくださった。
秋の神事の折は、神社は大勢の人で賑わうそうだ。
「十一月にするのと同じ行事を、あいにく今日は雨模様なので、午後の予定を変更して午前中にしていたのです。雨の山の中を、箱を持って登っていくのは大変ですから」
見ると雨はまだ降っている。この後、私たちは出雲大社と日御碕を回って、稲佐の浜へ行く予定なのだが・・・・。
佐太神社で行われる今日の神事のことは、全く知らないでやってきたが、滅多にない行事が見られる場に偶然行き合わせ、色々お話を聞くこともできて、幸運なひとときだった。
出雲大社(出雲一宮)
出雲大社に向かう。壮大な社殿である。境内では、発掘された平安時代の神殿の柱の一部を、復元したものが置いてあった。近づいて触れてみて、その大きさに息を呑んだ。三本の杉材を合わせて一つに結んだもので、直径が三メートルを超すという。それはきっと驚くほどの大きさだったのだろう。
祭神は大國主大神。
記紀によると、稲佐の浜に経津主神、建御雷神の二神が降り立って、大国主命に対し国譲りを迫った。大国主命は息子たちに命運を託すが、二人の息子のうち、事代主命は美保の海で天の逆手を打って海に沈み、また建御名方命は戦いを挑むものの、諏訪に敗走、諏訪の地にとどまることを誓って降伏する(建御名方命の逸話は古事記のみ)。気になるのは、大国主命には有力な長男の阿遅志貴高日子根命がいたはずだが、どうしてこの場面で登場しないのであろうか、という点である。もしかすればもうこの時点で、長男は亡くなっていたのかもしれない。
頼みの綱の子供たちを失い、大国主命は天孫に国を献上する。現世の政事は天孫に譲り、自らは幽界の神事を受け持つことを承諾し、大きな宮殿を建ててもらって退き「八坂瓊の玉を身につけて永久にお隠れになりました」と記述される。
古事記には、宮殿は「底つ石根(いわね)に宮柱太しり・・・・氷木(ひぎ)高しりて・・・・」
日本書紀には「その宮を造る制(のり)は、柱は高く太し。板は広く厚くせむ・・・・」
と往時の建物の造営の様子が記されている。巨大な神殿のたたずまいを心の中で想像してみる。
天孫降臨、国譲りについては、出雲の国譲りがよく知られているが、日向、大和葛城など伝承地は複数あり、各地の国譲り逸話を一本にまとめる形で記したものが記紀に載ったとする説もあるようだ。(「出雲国造神賀詞」によると、大和から父の大国主命、御子の事代主命らが帰順し、出雲へ退去したように読める)
裏の小道を回っていくと、森の緑に包まれて、感じのいい小さなお社があった。
素鵞(そが)の社とある。祭神は素戔嗚尊。椿の木が植えてあって、緑が深く何とも清々しい。立ち去りがたくここでしばらく休んでいく。
神社を出て、裏の駐車場近くの店で出雲そばを食べる。薬味も色々あって黒くてとてもおいしい。割子そばとあった。
日御碕まで行くバスを探す。土地の人に訊くと、実に親切に丁寧に教えてくださるので、心が温かくなる。
日御碕神社は海の近くにあってひっそりと静まっていた。あいにくの天気なので日没は見られない。古代を思いながら海岸へ出て、ウミネコが乱舞する島を見ながら周辺を歩く。
再びバスで引き返し、国譲り逸話で知られる稲佐の浜に降りる。
小雨の中、波が打ち寄せる無人の浜辺にたたずんで、雨雲が重く垂れ込めた空と海を見つめ、遠い時代のことを考える。
松江に戻り、松江大橋を歩いて渡り、橋の上から町の夜景を眺めつつ、自分なりにこの二日間を振り返った。
感じたことは色々あった。それを今後、どんな風に創作の中に反映させていったらいいだろう。そんなことを考えながら水に映る灯を見つめていた。