一近江を歩く一
老蘇の森 奥石神社 繖山
一近江を歩く一
老蘇の森 奥石神社 繖山
老蘇の森 奥石神社
近江八幡市にある奥石(おいそ)神社と、歌枕の地として知られる老蘇(おいそ)の森を訪ねることにした。奥石神社の神体山、繖山(きぬがさやま)の参道を上ると、西国三十三番札所の観音正寺に至り、そこを経てさらに繖山の山頂まで上ってゆくと、そこには大きな磐座群がみられた。
老蘇の森・奥石神社へは、近江八幡市の地域コミュニティバス、あかこんバス(名産の赤こんにゃくからの命名か)を利用した。バスは麦畑の中を進んでゆく。なだらかな形の繖山が車窓から見えてくるのが印象的である。繖は、貴人の外出などの折に頭上にかざした絹傘、天蓋のことという。また繖は、貴人を古墳に埋葬する際、棺に差しかけて遺骸を邪悪なものから守る「魔よけの呪具」であったとも。繖山の名が優雅な傘に由来し、それが葬礼の呪具であったというのも興味深いことである。ちなみにこの山域には古墳がたいそう多いということであった。
バスを降りると石鳥居があり、くぐると奧石神社の参道であった。神社は老蘇の森の中にあり、参道は杉の木が重なり合って心地よい木陰をつくりだしている。ひっそりした道を進んでゆくと、ほどなく社殿が見えてきた。人影はなく、とても静かである。本殿は織田信長が家臣の柴田氏に命じて造らせたもので、三間社流造。趣があり、周囲の森の緑とよく溶け合っている。
祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと、藤原氏の祖神、高天原系の神)。由緒によれば、創祀伝承は次の通りである。
孝霊天皇の御代、この地は裂け、水が湧いてとても人が住めるところではなかった。石部大連(石辺大連とも、いしべのおおむらじ)が、杉や檜の苗を植えたところ、神助によりたちまち大森林となった。石部大連は百数十歳の長寿を保ったので老蘇(不老)と呼ばれ、当地は「老蘇の森」と呼ばれるようになった。その大連が森に社壇を築いたのが創祀とされている。そして崇神天皇の御代になって、四道将軍の一人である吉備津彦命(孝霊天皇皇子)が、社殿を造営したとされる。
景行天皇の御代、日本武尊が勅命で東征に赴いた際、走水の海で嵐に遭い船が沈みそうになった。后の弟橘姫が海神の怒りを鎮めるため尊の代わりに入水すると、嵐がおさまり船は無事に進むことができた。そのとき懐妊していた弟橘姫は「魂は老蘇の森にとどまり、女人安産を守る」といわれて入水されたという。このことに因み奧石神社は安産守護の神として皇室からも崇敬を受け、広く女性からも信仰されてきたそうである。
また「老蘇の森」は、和歌にもよく詠まれるようになり、歌枕の地として世に知られるようになった。古来多くの旅人、歌人、著名人がここを訪れて歌を残している。
中世になると、ここは鎌宮神社と呼ばれるようになった。蒲生野宮が訛ったものという説もあるが定かではない。竈の神、火除けの神として信仰されていたが、さらに竈から鎌へと転じたらしく、狩猟神また農業神としての性格も加わっていったようである。鎌宮の時代は長く続いたが、大正期になると延喜式に回帰し、社号、祭神ももとの奧石神社に戻された。
時代を経ていくうちに、社に祀られる神も変遷していったということであろう。祭神の交替や変更は、各地の神社においてしばしばみられることであり、特にここに限ったことではないようである。神幕を見ると、かつての鎌宮の信仰の名残であろうか、神紋は「違い鎌」で二本の鎌が交差している意匠、珍しいものとして目を惹いた。
日本武尊の妃、弟橘姫の伝承がここにあるのは、どういう結びつきがあるのかわからず、意外な感じであった。調べてみると、弟橘姫は忍山宿禰(おしやますくね)の娘、忍山宿禰(神官、物部系の人)は三重県亀山の忍山神社に祀られている人で、亀山付近が忍山一族の本拠と考えられ、弟橘姫も亀山が生誕地とされているそうである。弟橘姫が入水に際し「老蘇の森にとどまる」といわれたのは、当地と何らかのつながり、由縁があるのだろうけれども(たとえばこの地が父祖の霊地であるとか)、詳細はわからない・・・・。また入水時に弟橘姫が懐妊していたということは、記紀には載っていないけれども、弟橘姫の御子としては、稚武彦王の名が書紀には記載されている(古事記では若建の王)。
この記述に従うと、弟橘姫は幼い王子を(大和に)残して従軍していたことになる。さらに第二子を懐妊中の身で走水の海に消えてしまうのは、あまりに悲痛なことであるので、せめて魂は蘇りこの世に何らかのかたちでとどまりたい、と願われたということであろう。それはこの悲劇を知って語り伝える人たちの共通の思いでもあったかと思われる。そういう願いが込められた言い伝えがこの逸話に投影され、こういう伝承を生んだのではないかとも思われる。
この神社は繖山を仰ぐ位置にあり、古には秀麗な繖山を神体山とする信仰があったとされている。繖山には磐座が多くあることから神山として神聖視され、磐座祭祀というような古の信仰のかたちがあったのであろう。石部大連が祀ったのは、繖山に坐す古の神だったのではないだろうか。
石部大連がどのような人物であったのか、詳しいことは伝わってはいない。あまりにも遠い時代のことなので辿りようもないが、石部という名からは石を扱うことに長け、石の切り出し、その加工に携わった氏族、というようなことが想像される。山陵、古墳の造営、土木などに係わった渡来系の人という感じであろうか。
ここは琵琶湖に近く、古代には水をたたえた湖水だったと推測される。おそらくこの辺りには沼地が広がっていたのであろう。当時先端の技術を駆使して、石部大連は治水につとめ、人々を指揮して土木工事を行い、堤を築き、苗を植え、木を育てるなどして湿地を改良し、豊かな森に変えていったのだと思われる。人の住めなかったひどい湿地を開拓して、美しく深い森になしてゆく、そういう方法を知らなかった人々は、驚きとともに景観を眺め、その技術を神業のように感じたのに違いない。
お社の背後には、かなり縮小されているが、老蘇の森が今なお姿をとどめていた。杉と檜が多いようである。足もとは枯れ葉が厚く積もり、散策路をもうけるなどの整備はされておらず、人の手の加わらない自然林のままである。境内には、賀茂真淵、本居宣長の歌碑が建っていた。少しだけこの森に入り、木々の間にたたずんで梢を仰ぎ、昔をしのぶことにする。
身のよそにいつまでか見む東路の おいその森にふれる白雪 賀茂真淵
夜半ならば老蘇の森の郭公(ほととぎす)今もなかまし忍び音のころ 本居宣長
きえねたゞ老曽の森の秋風も 心にかよふ袖の上の露 太田道灌
東路の思ひ出にせむほととぎす 老蘇の森の夜半のひとこゑ 大江公資
逃れえぬ老蘇の森のもみじ葉は 散り交ひ曇るかひなかりけり 兼好法師
森にいる僅かな間にも、すぐ近くを走っている新幹線の轟音が響き渡り、なんとも残念な思いであった。新幹線が通りすぎてしまうと、ふっと静寂がおとずれる。昔の森はこうであったろうかと思われるような深い静けさである。ところがしばらくすると再び轟音が・・・・。ここは古来ホトトギスの名所であったとされ、前述の歌にも詠み込まれているが、今は森で鳥の囀りを楽しめるような雰囲気ではなくなっている。騒音は防ぎようもなく襲いかかり、列車が通過するたびに、周囲の空気を無粋に震わせてゆくのであった。
繖山に上ることにした。頂上近くに西国三十三番札所の観音正寺があり、そこへの参道が通じているようである。参道は幾つかあるようだが、山道の事情がよくわからないので、表参道と呼ばれる道から上っていった。自然石が粗く積まれた石段が連続している道である。
日吉神社の横から歩き始めると、ウグイスが立て続けにきれいに鳴いていて心が和んだ。ホトトギスもどこかにいるかなと耳を澄ませるが、聞こえてくるのはウグイスばかりである。緑の樹木に包まれた山道であった。
石段はかなりの数で、このときは知らなかったが、後で調べると千二百段ということであった。途中で裏参道の道と合流しており、右手からの別の山道とも合流し、最終的に一本になるようであった。どこまでも続いてゆく長い石段と感じられる。休憩しつつゆっくり上ってゆく。道に幟がはためいているのが目立つようになるとお寺は近いのであった。
繖山 観音正寺 桑実寺
「観音正寺」は西国第三十二番札所。開基は聖徳太子と伝えられている。近江は聖徳太子所縁の寺院が多いそうである。観音正寺は近江の古刹と思っていたが、近づいてみると意外にも本堂は新しく、平成五年に本堂や重文の御本尊が火災で焼失、平成十六年に再建されたものであった。本堂に入るときは、お香を手にすり込んで清めるようになっている。新しく造られた御本尊の千手千顔観音坐像(白檀製)が本堂におさめられてあり、拝すると柔和なお顔であった。本堂脇からの眺めはすばらしく、心地よい風の吹きぬけるお堂でしばらく過ごさせてもらった。
ここからさらに山道を上ってゆく。頂上への道があり、急勾配の道を進むと頂上に着く。標高は四百三十三メートル。山頂は樹木にさえぎられているが、眺望の良い地点もあり、安土の町やその先も遠くまで見渡せる。繖山は奧石神社から仰ぐと独立峰のように見えているが、山頂に来てみると、裏側は安土山(標高百九十メートル)へと道が続いており、ハイキングを楽しむ人たちの姿もあった。山頂をほんの少し行き過ぎたところ、山道の脇に大きな磐座らしいものが幾つか見られた。特に注連縄などで結界はされていないようであるが、山頂近くにある巨岩なので、古の磐座かもしれないと思ったことであった。
表参道から上ったので、裏参道のほうは見ておらず、そこには修験の人たちのかつての行場、岩屋や磐座もあるようだが未見である。帰途に裏参道を下るとそれらを確認できるのだが、今日はこの後、山を降りて「信長の館」と「安土考古博物館」とを見学する予定なので別の道をとることになる。しばらく山頂で過ごし、眼下の景色を眺めてから桑実寺のほうに下山することにした。
降りてゆくと「観音寺城跡」に出た。築城年代はわからないが、ここは佐々木六角氏の本拠の山城であったという。織田信長が佐々木一族にここを守らせていたが、天正十年、安土城ともに滅亡したということである。堅固に積まれた石垣は苔に覆われて今も残っており、草に埋もれた礎石らしいものの跡などを眺めつつ付近を散策した。
その後、さらに下ってゆく。道は荒れている所もあり、結構長く感じられる道で、桑実寺(有料)に着くと再び休憩した。
桑実寺(くわのみでら、そうじつじ)は天智天皇勅願の寺とされる。天智天皇の御代に、近江京で病が流行った。第四皇女の阿閉皇女(あべのひめみこ、後の元明天皇)も病気になったが、皇女は琵琶湖に瑠璃の光が差す夢を見られた。僧の定恵(藤原鎌足の長男)が、この夢を病回復の瑞夢であるとし、法会を営んだ。すると湖水の上に薬師如来が顕現して、流行っていた病が止み、皇女の病も平癒した。その霊験により薬師如来を祀ったのが桑実寺で、定恵によって創建されたと伝えられている。寺の裏山に上ると「瑠璃石」があるという。寺の名は、定恵が唐から持ち帰った桑の木がはじめて当地で栽培され、養蚕の技術が広められたことによるという。養蚕発祥の地に因んで名づけられたらしい。
お堂の仏様の前でしばし休ませてもらい、山門を出て長い階段を降りていった。途中大きな岩があってその巨大さに驚かされる。この辺りの山域は石の多い地形のようである。古代の人は不思議な石が山に多くあるのを見て、霊地と感じたのであろう。
山を降りてゆくと「安土考古博物館」「信長の館」の建物が見えてきた。両方を見学することにした。信長の館は安土城天守の五、六階部分が復元されており、館内はきらびやかで活気があり、賑わいがあったが、すぐに見終わってしまった。考古博物館のほうへ向かうと、こちらは人も少なくひっそりしていて、この日最後の入館者だった。