アリス・マンロー
「ジュリエット」(新潮社)
アリス・マンロー
「ジュリエット」(新潮社)
アリス・マンローは一九三一年、カナダ・オンタリオ州の片田舎の生まれ。あまり裕福でない家庭で育ち、パーキンソン病を発症した母親に替わって十二歳から家事をし、弟妹の面倒をみた。奨学金を得て大学に進み、文学を専攻するが学費が続かず中退して結婚した。その後夫とともに書店を経営し、子育てをしながら作家を志した。後に夫とは離婚し、同郷の昔馴染みと再婚した。
三十七歳で初の短篇集を出すと、カナダでもっとも権威ある総督文学賞を受けた。やがてニューヨーカーに作品が発表されるようになると、国内外で評価が高まりアメリカでも幾つかの文学賞を受賞。作風は派手なものではなく、ごく普通の人々の日常生活を題材とし、それぞれに交差する人生を描きつつ物語を紡いでゆく。舞台地は主として片田舎で、時の経過を巧みに織り込んで物語を進行させ、短篇ながら長編のような味わいを持つとされる。短編小説の名手といわれ「短編小説の女王」「現代のチェーホフ」などと称されている。十三年にはカナダ初のノーベル文学賞を受賞した。同年、再婚した夫が亡くなった後、自身の年齢や病のこともあってか引退を表明している。
主な作品には「イラクサ」「林檎の木の下で」「小説のように」「ディア・ライフ」「ジュリエット」「善き女の愛」など。映画化された作品には、認知症で夫を忘れほかの男を恋する妻と、それを見て動揺する夫を描く「クマが山を越えてきた」(映画での題は「アウエイ・フロム・ハー 君を想う」)、ジュリエットという女性を軸に母娘の葛藤や生き方を描く連作三篇(映画での題は「ジュリエッタ」)がある。
「ジュリエット」
原書は「家出」(ランナウェイ)という短篇集。そこに収録されたジュリエットを主人公とする三部作「チャンス」「すぐに」「沈黙」が映画化されたことに因み、映画の題「ジュリエッタ」から本もこのタイトルになったという。従って「ジュリエット」という作品はない。元になったというこれら三篇の小説世界を順にみてみよう。
「チャンス」あらすじ
古典を学ぶ大学院生のジュリエットは、魅力的な容貌だが恋人もボーイフレンドもいない。私立女子校でラテン語の臨時教員をつとめるため、長距離列車に乗った。座席で本を読んでいると、中年の男が来てしつこく話しかける。行先も同じバンクーバーと知ってうんざりし、冷たくあしらって展望車に行き読書を続けた。森の中の駅で十分停車の後、動き出した列車は人を轢いた。自殺したのはあの中年男だった。動揺したジュリエットは自責の念にかられ、同じ展望車に乗り合わせていたエリックという漁師にいきさつを話して気が楽になる。エリックは医療経験があったらしく事故現場に立ち会っていた。
半年後、任期を終えたジュリエットは手紙を頼りにエリックの家を訪ねてみた。事故で八年寝たきりになっていたエリックの妻が亡くなり、その葬儀の後であった。手伝いの女性からエリックは近所の愛人クリスタのもとへ行って留守と聞き、帰途のバスも教えてもらうが、ジュリエットはすぐに戻る気にはなれず、無人の家で犬と過ごす。翌朝エリックと再会したジュリエットはそのまま彼の家にとどまり、やがてクリスタとも気が合って親友となった。
「すぐに」あらすじ
エリックとの間に生まれた赤ん坊のペネロペを連れて、ジュリエットは両親の家に帰省した。父は教師を辞めて野菜をつくっており、母は病気で車椅子の生活のため手伝いの女性を雇っていた。両親はジュリエットが、男とは子までもうけたのに正式な結婚をせずにいるのを、世間体が悪いと思い気にしている。けれどもジュリエットは堂々と娘を連れて町へ行き、買い物をした。出会った昔馴染みに「大胆な性的生活の成果を見せびらかしている女」と思われたようだが、ジュリエットは私生児を生み育てていることを、むしろ誇らしいと思うような女性だった。母を訪ねて家に来た牧師がふと、赤ん坊が未洗礼なのについて意見をいうと、ジュリエットは感情的になって反論し、信仰や神の存在をも否定する。母は自分の体調がもっと悪化したら、すぐにジュリエットが戻って看とってくれることを期待しておりそうほのめかすが、ジュリエットは無言のままだった。
実家訪問から数か月後、母は亡くなった。ジュリエットは葬儀のためにだけ帰った。父は何年か経って教師仲間と再婚し、二度ほど夫婦でジュリエットのもとを訪ねてきてくれた。エリックは二人をエビ漁の船に乗せてもてなし、父はエリックと意気投合していた。
「沈黙」あらすじ
二十年の歳月が流れていた。エリックの死後、ジュリエットは生活のため図書館に勤め、後にテレビのインタビューや司会の仕事をするようになり、今では世間で顔の知られた人になっていた。ところが娘のペネロペとは意志疎通がうまくいっていない。どこかで「修行」しているらしいペネロペから手紙をもらい、ある宗教施設を訪ねるが、娘はすでにそこにはおらず、行方も教えてもらえなかった。ただ娘の誕生日になると何も書いていないカードが届くのみだったが、五年後にはそれも途絶えた。
ペネロペが十三歳のとき、ジュリエットはエリックと口論したのを回想する。原因はジュリエットが赤ん坊を連れて帰省した折、エリックがクリスタとよりを戻していたのを、手伝いの女性から教えられ傷ついたのだった。十二年後になって昔の出来事を厳しく糾弾され、当惑したままエリックは漁に出て嵐に遭い亡くなり、浜辺で火葬された。
残されたジュリエットは働きながらペネロペを育てていった。娘にはエリックとの喧嘩の原因も打ち明け、その後出会った男たちとの恋愛や不倫も隠さなかった。娘がそれをどう感じていたかはわからない。ペネロペの心は次第に母親から離れていった。
後になって町で偶然娘の学校時代の友人に会い、遠くに住んでいるらしいペネロペの消息を聞いた。二人の子どもを連れて制服を買いにきていたといい、子は五人もあるという。ジュリエットが探し求めていた娘はもういないにひとしかった。
ジュリエットはテレビの仕事を退いた後は世間から遠ざかり、すっかり忘れられた。クリスタは老人ホームで命を終え、話せる友人も減ってしまった。ジュリエットはわずかに好きな書物に楽しみを見出しつつ、馴染みのカフェで少し働いたりして孤独な時間を紛らせている。ペネロペからの連絡を待つ心はあるが、今は切実にそう思っているわけでもなく、自然な和解ができたらと願うのだった。・・・・
簡単にだが、三作品を紹介してみた。ジュリエットという女性の生き方が、連作を通して描かれている。従来の価値観や結婚制度などに呪縛されず、新しい思想で生きようと決意し、それを自分なりに押し通したつもりであったが、払った代償は大きかったようである。エリックの死は不運であったが、ジュリエットは子育てをしてゆく中で、娘の心情を本当には理解できず、自分の生活や都合を優先させた結果、いつのまにか大切な娘との絆まで失っている自分に気づくのである。そういう母親を視点にすることによって、逆に描かれなかったペネロペという娘の孤独も、強く浮かび上がってくる仕掛けになっている。作者の選んだ手法であろう。ただ文化の違いや習慣の相違などで、違和感を覚える個所もあり、訳文も何となく読みづらく感じられるところがあった。原作がそのような雰囲気を持っているのかもしれないとも思うが。
ペネロペはギリシャ神話に登場する貞淑な女性。オデュセウスの妻で、夫の出征中多くの求婚者が現れるが、夫の帰還を待ち続けた。古典を勉強したジュリエットの好みが反映された命名というところであろうか。娘にしてみればもっと普通の名のほうが、と思ったかもしれないし、両親が正式に結婚している家庭であればよかった、とも内心で思っていたかもしれない。さらにいえば、父親の死後、母親が男遍歴をしないような人であったなら、母子の関係ももっと心理的に安定したかもしれず、そのようないくつかの設定が、母娘の亀裂を生んでゆく伏線になっている。少女期のペネロペは優しくて、しかもしっかりした性格に描かれている。エリックを亡くした直後、緊張しつつ夢中で仕事を始めたジュリエットに、夫を喪失したという実感が訪れる瞬間はこのように描写される。
そうだ、これが悲しみというものなのだ。ジュリエットは頭からセメントを注がれてあっという間に固まってしまったような気分だ。ほとんど体が動かせない。・・・・そして今度はこの状態をペネロペに隠さなくてはならない。夕食のテーブルで、ジュリエットは震えはじめ、指の力を緩めてナイフとフォークを離すことができなくなった。ペネロペがテーブルをまわって近づいて、手をこじ開けてくれた。「父さんのことね、そうでしょ?」とペネロペは問いかけた。・・・・
ペネロペは自分の冷たい手でジュリエットの両腕の内側をさすった。翌日彼女は、母は病気で休みますと図書館に電話をかけ、二日ほど学校を休んで家で母の看病をした。ジュリエットが回復するまで。というかすくなくとも最悪の状態が過ぎるまで。
その数日のあいだに、ジュリエットはペネロペに何もかも話した。クリスタのこと、喧嘩のこと、浜辺での火葬のこと(このことはそれまで、なんとか奇蹟的に娘に隠しとおしていた)何もかも。
「あなたの心の負担になるようなこと、あれこれ話すべきじゃないのにね」
ペネロペは「うん、まあ、そうかもね」と答えた。でもきっぱりとつけたした。「許してあげる。わたし、赤ちゃんじゃないんだから」(「沈黙」より)
十三歳の娘に隠していたことを全部打ち明けて、母は気が楽になったであろうが、聞かされた娘は、逆に重いものを心に抱え込まされたことになる。ジュリエットは立ち直れたが、ペネロペは母親の赤裸々な告白を聞き、平静を装いながらもその心は深く傷ついたことであろう。信頼していた両親の絆も実はもろく崩れやすいものであったこと、母親の思想や生き方への疑問、母親のその後の男関係の変遷などが、感じやすい心に影を落としていったことが推測される。そういう母親の影響下にあることから逃れ、母とかかわりなく自分の意志で選び取った人生を進んでゆくことが、娘の出した答えであったのだろう。
病気で車椅子生活者となったジュリエットの母親が、ジュリエットに戻ってきてほしいという思いをほのめかしたとき、赤ん坊を抱えており、エリックとの生活を維持したい気持ちから、ジュリエットは母親の願望を黙殺し、気休めになるような言葉さえかけなかった。母娘の密接にみえていても実はそうではない関係は、何かの折にその本質が剥き出しになることがある。二十年経って、母と子の姿はジュリエットとペネロペの上に連鎖するかたちで重なってゆくのである。
実体がよく理解できない「宗教」に娘を絡め取られたと感じたジュリエットは、何とかして取り戻そうと宗教施設に訪ねてゆくが、娘には会えない。娘のほうが拒否したのかもしれないが、詳細は明らかにはされない。そのうち連絡も絶えてしまい、娘が教団から離れたのかどうかの手がかりすらなく、居場所もわからない。わかるのは娘の友人がどこかでペネロペに偶然に出会って立ち話をし、その折に伝え聞いたという僅かな情報のみであった。しかも娘の友人はペネロペとジュリエットの間に横たわる深い断絶を知らず、明るい調子で近況を話してくれたのである。ジュリエットも娘との不仲や音信不通については語らなかった。
ジュリエットの陥った孤独は、現代に生きる人々が感じる孤立感に通じていく。親がどう願おうとも、自分を諦めるような生き方を肯定しない子どもは多いであろうし、子の望むような生き方をどうしても理解し得ない親もまた多いだろう。
エリックはエビをとる漁師という設定なので、知的なジュリエットとは釣り合わないようであるが、実はエリックはかつて医学を学ぶ学生で、友人(恋人ではない)のために中絶手術を施したのが発覚したことから、針路が変ったのだった。ジュリエットはエリックのことを「ただの漁師ではなく教育のある男」だと帰省の折に両親に説明しようかと思っていたが、元教師の父親も今や「野菜売り」なのでそういうことはもうどうでもいいと考え、両親にも詳しく言わなかった。ジュリエットの両親は、娘が暮らす相手について、その時点では会ったこともないし、よく知らなかったことになる。
親子の断絶や抑圧、愛情の葛藤、新興宗教、婚姻制度、中絶、未婚女性の子育て、不倫、この三篇の作品の中には、現代社会の抱える諸問題が目白押しである。どの一つをとってみても、人々が避けて通りにくいような問題であろう。作品の中に籠めるものとしては充分に重いテーマで、その詰め込みかたはかなり強引であり、あれもこれもと欲張っているという感じも受ける。そのため枚数の少ない短篇なのに読んでいて疲労するし、読後感も重い。今の混沌とした時代の、救いのない風潮をとらえているといえばいえるのだろうけれど。
ほかの作品も少しみておこう。「家出」は夫を失った初老の知的な女性と、近隣の人たちとの係わり方の難しさが語られる。手伝いに来てくれる女性の悩みに気づき、安易に手を貸そうとしたために、厄介な事態に巻き込まれてしまう。最後になって示される唐突な山羊の死の場面は不吉であり、しかも色んな解釈が可能という点で興味深い。
「トリック」は一年後に再会するという約束を交わした男女のすれ違いを描く。二人とも実は障碍者の身内を抱えており、自由に行動できるわけではないのだが、最後になって読み手に明かされる行き違いの結末は切なく、その手つきはあざとい。
「パワー」はある貧しい女性が超能力を持って生まれたため、人に利用されるかたちになってゆく。運命に翻弄されつつ各地を転々とする女性の姿が、元級友という別視点から描かれてゆく。透視能力が安定せず、力を失ったり、回復したりするのが現実味を帯びており結末も哀しい。
「アムンゼン」(「ディア・ライフ」所収)は結核療養所に教師として赴任した若い娘が、医者に誘惑されて捨てられる話なのだが、山場である肝心の「別れ話」の場面をうっかり読み飛ばしたのでは、と思わせるような流し方になっている。作者が巧妙にそっと張った罠であろう。足を取られかけた読み手は慌てて後戻りしてページを繰り、該当の箇所を探すのである。効果を狙って意図的にこういう書き方をしたものらしい。もっとも最後の行で読み手はもう一度足もとをすくわれるのだが。
「列車」でもなかなか物語の展開の先が読めないようになっており、この作品は珍しく男性が主人公である。風来坊のような男の行動は謎めき、結末の予測もしにくい入念な企みで、人の心に潜むものの恐ろしさ、子どもの頃に受けたトラウマ、深い闇の部分を抉り出してゆくことにかけて、その筆力には定評があるというが、読んでみれば納得できる。筆を滑らせず、書き過ぎず、物語に空白部分を残し、読み手に推測を促すという手法かと思われる。
「クマが山を越えてきた」(「イラクサ」所収)は老人ホームを舞台とし、認知症、老人問題を扱っている。自分のかつての浮気は棚に上げ、今は認知症の妻の恋愛に心を悩ます夫。一見ありそうで、ないような行動をとる人たちの話で、興味深い展開が続いてゆき、読み手を飽きさせない。これは映画化されたそうである。
図書館の棚にはアリス・マンローの本が、美しい花のデザインの装丁で並んでいる。彼女の描く人物像は心の中に寂しさを抱える人が多いのも特徴であろう。実はこの作家のことを、二〇一三年まで知らなかった。その年、村上春樹が最有力候補といわれていたノーベル文学賞を、この人が受賞したのである。村上さんに勝った作家、として彼女の名は日本でも知られ、広く読まれるようになったという。
アリス・マンローの本はきれいな衣装をまとっているけれども、内容はどれも重くて気軽に連続しては読めないような苦み、余韻があるのが特徴である。題はそっけないほど短いものが多く、装飾を取り除き余分なものを削ぎ落したかのよう。単純に無造作につけたようにもみえるが、簡素な題のその中身は、誠実や不実、裏切りや純愛などさまざまな要素が複雑に入り混じって構成されている。
アリス・マンローは若い頃からたゆまず創作を続け、確実に地歩を固めてゆき、八十二歳でノーベル賞にまで上りつめた。作品に接していると、集中力、一篇ごとに凝らされた工夫、その手つきの確かさ、鮮やかさに改めて気づかされる。けれども読後感の重さも相当のものであった。