一近江の古社を巡る一
日吉大社 八王子山(金大巌) 大津京跡 近江神宮
一近江の古社を巡る一
日吉大社 八王子山(金大巌) 大津京跡 近江神宮
日吉大社
比叡山山麓にある日吉大社を訪ねることにした。京阪坂本駅で降りると、祝詞が聞こえてくる。見ると駅のすぐ横、鳥居のある細長い庭で神事の最中、近づくと低い木の前で祝詞があげられている。それはお茶の木であった。
比叡山を開いた伝教大師最澄が、唐からお茶の実を持ち帰って植えたのが、日本のお茶のはじまりで、ここ坂本はお茶発祥の地なのだという。知らなかったが、たしかに青々と茂っているのはお茶の木である。八十八夜にここで摘んだ新茶の葉を神前にお供えするために、神社所有のお茶園で儀式が行われていたのだった。今日は立春から数えて八十八日目、五月一日であった。
日吉大社への道を歩きはじめた。参道の道筋には、整った石積み「穴太衆積み」が見られる。寺社や民家の石塀、石垣などに用いられ、自然な形の石面を組み合わせて築く技術という。涼しげな音を立てて水路が流れゆき、白いシャガの花が道端にひっそりと咲いている気持ちのよい道であった。歩いているうち橋に出て、眺めるうちに何となくそこを進む気になり、日吉大社の東入口から入ってしまったので、東本宮からはじめることにした。周囲を見回すと思いのほか深い森が広がっていた。
日吉大社には西本宮と東本宮があり、それぞれ祭神が異なっている。広大な神域のため東西に入口が設けられており、地図の鳥居の位置からすると、西本宮から入るのが正しいようだが、東本宮に祀られる神のほうがより古く、本来の土地の神であるという。また日吉大社の読みについては、古では日枝、ひえと呼ばれていたようだが、後に好字の吉の字を当てたので、現在はひよしと読んでいる。
東本宮楼門の近くの参道脇には、猿がうずくまったような形の大きな磐座があった。日吉大社の神使は猿なので、これを「猿の霊石」というそうだ。そういわれればそんな気もしてくるが。楼門付近にあることから、しめ縄を頭飾りのように巻きつけた門番さんという感じ、蹲踞の姿勢で控えている。
由緒によれば、東本宮の創祀は崇神天皇七年、祭神は大山咋(おおやまくひ)神。大年(おおとし)神の子とされ、須佐之男命の系譜に連なる。祭神名の咋(くひ)は杭、柱を意味し、古代では土地の領有を示すのに柱、杭を打って支配域としていたことに由来するという。比叡山に坐す地主神を日枝(ひえ)の神といい、八王子山(牛尾山)山頂の磐座が奧宮で、里宮としてここに山の神を祀っていたらしい。古事記上つ巻にはこのように記述されている。
・・・・次に大山咋(おおやまくひ)神。またの名は山末の大主(おおぬし)の神。この神は近つ淡海(あふみ)の国の日枝(ひえ)の山にます。(古事記)
立派な楼門をくぐると、多くの社殿があって進み方に迷う。正面の石積みの上に拝殿が建てられて高くなっており、その背後に回ってみると古色蒼然とした本殿が現れた。日吉造りと呼ばれる独特の形式で建てられている。本殿の高欄の左右には、木製の狛犬が表情豊かな一対の置物のように坐っていた。近寄ってしばらく眺める。地上にある石造りの狛犬を見慣れた目には、優雅で珍しいものと映った。本殿下には下殿(げでん)と呼ばれる祭祀空間がついているというが、内部拝観はできないようだ。
摂社で目につくのは樹下(じゅげ、このもと)神社本殿、とても摂社とは思えない風格と気品、細部の金具の装飾も凝っており、神さびて美しい社殿である。少し離れた位置にある樹下宮の拝殿には、きらびやかなみこしが安置されていた。
樹下宮の祭神は、大山咋神の妃神の鴨玉依姫(かものたまよりひめ)命。樹下宮の向きは、八王子山を拝するように建てられていることから、ここが本来の祭祀の場であったらしい。もとは東本宮本殿もここと並立していたかもしれない。現在は向きが異なっており、そのせいか最初楼門から入ったとき、社殿の位置に違和感があった。
楼門を入った真正面の東本宮拝殿が石積みで高いため、本殿の位置がよくわからず、回りこんだ本殿の背後には神体山がみられず、神体山を仰ぎみる正位置には、摂社の樹下宮本殿があるので、戸惑うのである。ここは由緒ある古社、素人目にもなにか事情があって、こうなったとしか思えない。山麓にあることから自然災害に遭ったか、信長の比叡山焼討ちによる再建時に、本殿、拝殿の配置が変わった可能性もあるという。
境内には霊水の亀井があり、隅には流れを利用した水場もあって双葉葵が栽培されていた。社殿を取り囲むように側溝、水路が巡らせてある。そして樹下宮の本殿地下には湧水の井戸(霊泉)があるという。ここは水の聖空間でもあったのだ。
先ほどの水場に戻り、双葉葵を近くで眺めてみると、みずみずしい丸いハート形の葉が可愛い。もっとよく茂るように柄杓で水を汲んでかけておく。ここ東本宮の神紋である双葉葵は、また下鴨神社、上賀茂神社の神紋としても有名である。ほかに御子神の鴨玉依彦を祀る若宮社もあった。鴨玉依彦は鴨玉依姫の兄の名かとも思ったが、配置からすると、ここでは鴨玉依姫の子神と考えるのが自然かと思う。(玉依姫、玉依彦、豊玉姫などの名は神霊が憑依する人の名であることから、固有名詞とは限らないであろう)
主祭神の父神に当る大年神、母神の天知迦流水(あめのちかるみず)姫命の社など、主祭神を中心にした縁戚関係、所縁を持つ神々の座が、ちょうど大きな家族が寄り添って集うように配置されていた。食物を司り、縁戚関係にある奧津彦、奧津姫命を祀る竈殿社や、猿田彦を祀る内御子社、また祖神、須佐之男命の荒御魂を祀る悪王子社など祠の数は多い。悪王子とは穏やかでないが、この場合の悪とは、神威が強力なという意味だそうである。(余談だが、京都祇園の八坂神社境内にも悪王子社がある)神社側の説明文にも、神様御一家という表現がみえ、どの位置に立っても、どこかの社と視線が合う感じが起きるのは、おそらくこの配置のためと思われる。
参道脇には玉依姫の父、鴨建角身(かもたけつぬみ)命を祀る氏神神社もあった。玉依姫の御子神、別雷(わけいかずち)命を祀る産屋神社(これはどこにあったのか見逃してしまったが)もあるといい、鴨氏系の祭祀色が濃い神域のようである。
神木は、雌雄一対のなぎの木。境内にはまた多羅葉(たらよう)の木があって、説明を読むと、古では葉の裏に願い事、思いなどを書いて神前に捧げたという。後には通信手段としても使われ、葉書の起源であるということであった。郵便局の木として局の建物の前庭などによく植えられているそうだ。
触れてみると、葉は肉厚で楕円形をしており長さは二十センチくらい、しっかりした質感である。たしかにちょっとした文なら書けそうである。尖ったもので書くと傷ついた部分が黒ずんで消えずに残り、古代では葉を火で炙り、浮き出た模様によって吉凶占いをしたそうだ。多くの社、祠のたたずまいは、静かな空間に森を背景に調和した雰囲気が漂い、古に名をとどめた神々の息遣いが感じられるようであった。
西本宮へと向かう。このまま神域を横に歩いてもゆけるのだが、やはり西入り口まで行って大宮橋を渡ってみたくなったので、遠回りになるがそのようにする。大宮橋は古い石の反り橋であった。橋の下をさらさらと澄んだ水が流れ、眺めていると新緑の木々の色が染みるように鮮やかで、心が洗われていく思いであった。
緩やかな坂道を上っていくと、山王鳥居があった。鳥居の上部には三角形の屋根がつき、人の手が合わさったかたちに見えるので、合掌鳥居ともいうそうだ。神仏習合の様相を視覚的に表したものという。
山王信仰について簡単にみてみよう。比叡山に延暦寺が開かれ、仏教が隆盛するようになると、付近で信仰されていた山岳信仰の神や地主神を、延暦寺側では仏法の護法神として山王と呼んで、仏教風に山王権現として信仰、神仏習合が進んでいった。
延暦寺が説く「山王神道」の教義では、山王神が釈迦の垂迹であるとされている。そして京の都に、比叡山の僧兵が強訴のたびに担ぎ出したみこしは、日吉神社のものであった。延暦寺も日吉大社も都の艮(東北)に位置することから、都の鎮護、鬼門除けの寺社として権威を持っており、僧兵らの持ってくるたびたびの要求に、白河法皇が心にままならぬものとして、加茂川の水、双六の賽、山法師、の三つをあげて嘆いたことは有名。
しかし明治の神仏分離令によって、延暦寺と日吉大社は切り離され、山王権現の社号は消え、現在は神道の日吉大社となって、仏教色は廃されている。日吉大社は全国に約三千八百あるという日吉神社、山王社、日枝神社の総本宮である。
その山王信仰の象徴である赤い山のかたちをした鳥居をくぐって道を進んでいくと、参道右手にお猿が飼育されていた。これは「神猿」(まさる)と呼ばれ、日吉大社の神の使いが猿であることによる。魔去る、勝る、というよい響きにつながるのだそうで、まさるさんは檻の中で何か食べ物を手に持ち、黙々とかじり続けていた。
霊石、磐座が参道に散見される道を進むと、西本宮楼門に出た。壮麗な門をくぐると拝殿、本殿が現れる。東本宮と同様、安土桃山時代の建築で、秀吉が再建したという。東本宮を先に見てしまったからか、社殿の建築は、東本宮と似かよった雰囲気と感じてしまった。先にこちらの方を見ていれば、驚きとか別の感想を持ったかもしれない。西本宮、東本宮の本殿はともに国宝という。
西本宮の祭神は大己貴(おおなむち)命。天智天皇が大和から都を近江に移した翌年の六六八年、大津京および国家鎮護のため、三輪の大神神社からこの地に神を勧請したという。舟に神体を載せて琵琶湖を渡ってきたそうで、その様子は山王祭の神輿渡御で再現されるという。大己貴命は国家の神として招来したので、すでに祀られていた地主神の大山咋神よりも、こちらを上位としたようである。
社殿配置には東本宮のような違和感はなく、広々とした境内のふさわしい位置におさまっているという印象であった。本殿周囲には丁寧に溝が巡らせてあり、階段上の廻り縁の赤い高欄脇で向かい合って控える狛犬さんたちも、本殿床下の下殿の部屋の扉が閉まっていて外から見えないのも、東と同様であった。
西の神木は桂の木。双葉葵と同様、葉がハート型をしており、見上げるような大木であった。秋には美しい色に紅葉すると思われる。伝教大師が持ち帰った天台山ゆかりの竹も植えてあり、それは密集した細めの竹であった。
進んでいくとやはり勧請した神である宇佐宮、白山宮と大きなお社が続き、それぞれに趣のある社殿である。道に沿って細い水路が引かれており、薄暗い森の中に摂社が点在している。それらは周りの森の風景とよく溶け合って、頭上に重なり合う木立の緑が爽やかであった。
八王子山 金大巌
神南備山の八王子山(標高三八一メートル)へと向かう。三十分かかるらしいが、ゆっくり上ることにする。登りはじめの階段下には、左側に三宮、右に牛尾宮が祀られており、これは山頂にある神社の遥拝所で、東本宮に祀られる主祭神とその妃神である。階段を上ると、整備された広い山道へと続くが、これはみこしが通るためという。山王祭では、あらかじめ山頂の二つの社殿に安置しておいた二基のみこしを、松明が先導して坂を下り、みあれ神事(夫婦神の婚姻や子神の誕生を再現)を行うそうである。
山道の途中には苔むした大きな磐座も見られた。道幅が広いので歩きやすいが、小さな羽虫が来て顔の周りをしきりに飛びまわる。めまといと呼ばれる糠蚊の一種で(別名まくなぎ、古代ではまぐなきという)、夏の野山を歩くとこれが多い。手で払いのけながら道を進み、最後に急な石段を上りきると、正面に大きな磐座があらわれた。
はじめてここへ登り、巨大な磐座を見た古代人は、驚愕し畏敬の念を覚えたことだろう。古代では神の依りついた磐座も神体とみなされ、ほかにたとえば山中の高い木への落雷、不思議な蛇の出現(蛇は龍神につながり、水を導き、水を制する神であった)なども神の顕現とされていたという。
この磐座は金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれている。古に神が降臨し、日吉大社の信仰の起源という。大きさは約十メートル、重量感があり薄く苔がついているが、その特徴は表面がすっと断ち割ったように平らであることだった。
みごとな鏡岩で、これほど大きな鏡岩は珍しい。東を向いていることから、朝日を受けると、きらきらと輝きはじめるのだと思う。実際にそういう神々しい瞬間を見たことがないので、心で想像するだけであるが。ちょうどお掃除の奉仕に来ておられた女性にそのことを尋ねてみると、ほうきの手を止め、
「そうなんですよ。早朝ここに上ってくると、この岩が赤く光ってきれいですよ」といわれたので、昔から「朝日に輝く金大巌」と崇められてきたという、その謂われが事実なのだと納得できた。
磐座の左右には懸け造りの社殿があり、右が牛尾宮で祭神は大山咋命、左が三宮社で鴨玉依姫命、それぞれの神の荒魂が祀られている。二神は荒々しい神として出現したのであろう。二つのお社は崖の上に建てられ、何本もの柱で支えられており、ともに社殿の扉は閉められて内部は見えなかった。
深い山中での祭祀は、時代を経るうちに里宮での祭祀へと切りかわり、当初自然の猛威を振るい人々におそれられる存在として出現した荒ぶる神も、祭祀を受けるうちに鎮まって和魂(にぎたま)へと変わり、実りや恩恵をもたらす穏やかな神となっていく。祭祀がとだえ人が近づかなくなった山中の磐座は、草に埋もれ忘れ去られることも多かったと思われるが、ここでは今も聖所として大切にされているのが感じられた。
各地にある磐座を訪ねていると、山頂の磐座がコンクリートに埋没している(伊勢朝熊山)など、かつての聖地の変容になんともいえない気持ちになることがあるのだが、ここは清浄な場として聖性がよく保たれている。
眼下に目を向けると、坂本の町並みと青い琵琶湖が広がり、対岸には近江富士と呼ばれる三上山が望まれた。三上山山頂にも巨大な磐座があり、山麓にはひっそりと美しい神社があったことを思い出す。近江には美しい古社や森が多いのだと改めて思う。磐座の近くの石段に坐り、しばらくの間雄大な景色にみとれて時を過ごした。
大津京跡 近江神宮
坂本の町まで戻り、京阪の近江神宮駅で降りて、大津京跡を探した。大津京の所在地については候補地がいくつかあったそうだが、現在、内裏跡は大きな柱跡が見つかった大津市錦織(にしこおり)という地域でほぼ確定しているという。ただその所在地は街の中にあるので、まとまった発掘調査ができず、遺跡は住宅街に点在していた。それも小公園のようにくぎられた空間に、往時の柱跡の列などがわずかに示されている状態なので、説明文を読み、柱列をちょっと眺めるだけで終わってしまう。遺跡とはいうものの、現代風に整備されすぎた感はあり、残念であった。三箇所ほど(第一地点、第二地点など)まわってみたが、どこも道路や住宅に囲まれた場所で、おそらく遺跡はすでにある町並みの下に埋没、もうこれ以上の発掘は無理であろうかと思われた。
遺跡を探して町内を歩いているうちに、近江神宮まできてしまった。近江神宮は天智天皇を祭神とするが、まだ新しいお社で昭和十五年の創建という。百人一首の巻頭、天智天皇の御製にちなみ、競技かるた大会が開かれることでも知られているそうだ。
広々とした境内に入り、参道を歩いていると石段が見えてきた。威厳のある朱塗りの楼門をくぐると立派な拝殿に出る。堅牢で威風堂々という印象の社殿である。
六六七年、中大兄皇子は大和から近江へ遷都し、その翌年に即位して天智天皇となった。この錦織の地を中心にして都が造営されていったという。遷都の理由については諸説あり、斉明天皇の時、百済救援のために海外に出兵するが、斉明天皇は九州で崩御、六六三年、倭軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗してしまい、追撃を恐れた中大兄皇子が、大和から後退して近江に遷都した、という説が従来有力であった。
けれども最近、そうではなく、遷都は唐・新羅軍との戦を予期し、高句麗と連携するために前方に出たのだという積極説もいわれているそうだ。(日本海へ出ると高句麗へは近い)ただ高句麗は六七八年に唐に滅ぼされてしまい、結局連携はできなかったようである。一方大津京の造営に当たっては、近江に住む渡来系の人々の協力が欠かせなかったためという説、また大友皇子を養育した渡来系大友氏の存在を重視、その居住地に依るかたちで宮を営んだという説などもある。
六七一年、天智天皇が病で崩御すると、半年後に大海人皇子が吉野で挙兵、やがて近江は戦場となっていく。壬申の乱である。瀬田川を挟んで決戦となり、近江方は橋の一部を切り落として防ごうとしたが突破され、近江軍は敗れ、大友皇子は山前の地で自経した。勝利した大海人皇子は都を飛鳥浄御原宮に戻し、近江の都は遷都五年にして廃墟となった。いっとき賑わうが、たちまちのうちに滅んでしまった儚い幻の都であった。広い境内を歩いていると、いくつかの万葉歌碑に出会った。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ(天智天皇)
淡海(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けばこころもしぬにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂)
楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)のうらさびて荒れたる都見れば悲しも(高市黒人)
天智天皇は即位後、近江に寺院を建立し、蒲生野に遊猟を行った。蒲生野では兵の軍事訓練も行っていたようである。また大津宮で、はじめて漏刻(ろうこく)という水時計を使用し、鐘を鳴らし大鼓を打って時を知らせていたという。境内にはその漏刻の装置の模型が設置されていた。四角い容器に水を入れ、少しずつ下の枡へと水が落ちるように導き、それをさらに下の箱に溜めていって、刻んでおいた目盛りで時間をはかったとされる。一見階段状の大型玩具のようにもみえる装置であった。この仕掛けではたして正確にはかれたのかどうかわからないが、日本書紀にはこのように記されている。
夏卯月・・・・漏剋(ろこく)を新(あらた)しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろか)す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇(すめらみこと)の、皇太子(ひつぎのみこ)にまします時に、始めて親(みずか)らつくれる所なりと・・・・。(日本書紀 天智紀)
時を知らせるということは、当時画期的なことであったのだろう。人々は時を告げる鐘の音を聞きながら、改めて先進文化に触れる思いがしたのではないだろうか。漏刻はこの後も広まっていったようで、平安時代末まで全国各地の国府に設置され使用されたということであった。往時を思いつつ近江神宮を後にし、京阪の駅へと向かった。