古代史の風景(8) 幻 の 都 長 岡 京
古代史の風景(8) 幻 の 都 長 岡 京
784年、桓武天皇は奈良の平城京から長岡に都を移し、更に10年後に平安京に遷都する。向日市にある忘れられた幻の都、長岡京跡を歩いてみた。
天皇が政治をとったとされる大極殿跡は、今は史跡公園になっている。大きな石碑が立ち、周囲は緑の木々におおわれ、小安殿の柱跡を示す石が整然と並んでいて、往時の建物をしのばせる。公園の近辺では、現在も発掘が続けられていた。
大極殿前では、儀式の折に、中央に八咫烏(やたがらす)の幡を立てたという。その左右には、月や太陽に竜をあしらった日月蛟竜(じつげつこうりゅう)旗、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神旗を揚げたともいう。その柱跡も幾つか確認されており、大空に高く掲げられた幡が、風に翻る様子が想像できる。
だがメインストリートである朱雀大路や、右京、左京の中心部は、既に市街地に埋もれてしまっていて、往時の情景をその中で思い描くことは難しい。
幻の都といわれていた長岡京は、長くその正確な所在地がわからなかったが、「長岡京のシュリーマン」と呼ばれた、故中山修一氏の長年の努力によって、次々に遺構が見つかり、その全容が解明されていった。
氏は若いころ長岡京市神足に住んでいたが、ある時、家の近くの田んぼの区割りが、古代の条坊制に基づく方眼になっていることに気づき、それを手がかりに研究を続け、長岡京の発見に繋がったという。
史実の方をみると、長岡京造営中に、遷都推進派の藤原種継が、島坂で暗殺される、という事件が起きている。島坂は、現在の向日市石塔寺付近にあたり、行政上は御塔道というのだが、土地の人は、今でもそこを島坂と呼んでいるという。1200年以上を経ても、なお消えないで残っている、古地名に籠もる強い力を感じてしまう。
種継の死によって、遷都推進派と反対派の対立、次の皇太子をめぐる暗躍が深まっていった。桓武帝の弟、早良(さわら)親王は謀反の疑いで、乙訓(おとくに)寺に幽閉される。絶食して潔白を主張するが、聞きいれられず、衰弱した親王は、淡路に流される途中、船上で死去し、皇太子には桓武の皇子である安殿(あて)親王が立てられた。
以後、桓武帝の身辺には不幸が続いていく。母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏(おとむろ)、妃の藤原旅子らの相つぐ死、安殿親王の病、桂川の氾濫による被害・・・・。占いにより、これらは皆、早良親王の祟りであるとされた。当時の人々は、自然現象を含め、さまざまな出来事を怨霊と結びつけ、畏怖したのだろう。
島坂から乙訓寺へと回ってみた。悲劇の親王の寺としてよりも、今では牡丹の寺として有名である。かつてこの地で、帝位をめぐる怨念劇が繰り広げられたのだが、花の季節をはずれた寺に人影はなく、木漏れ日の中、黄色い秋の蝶が、境内の木々の間を縫うように舞っていた。
(2006・10・22)