須佐之男の 里
須佐之男の 里
須佐之男命(すさのおのみこと)は日本神話に登場する神で、天照大神の弟神に当たる。粗暴な振る舞いを続けたため天上から追放されるが、降り立った出雲では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して英雄となり、文学にもすぐれ「八雲立つ・・・・」という歌を詠んで和歌の始祖となった。謎が多いとされる須佐之男命。出雲におけるその足跡をたどってみた。
まず松江市の郊外、佐草にある八重垣神社を訪れた。ここは大蛇退治の折に、須佐之男命が稲田姫を隠したと伝えられている。水占いの鏡の池があることで知られ、縁結びの神社として女性に人気がある。
入り口に巨大な椿の木があり、近寄るとその生命力に驚かされた。土壌が良いのか神秘なのかはわからないが、境内にも二本の木が絡み合って、一つになった連理の椿があり、愛の象徴とされている。
祭神は須佐之男命と稲田姫である。記紀によると、須佐之男は父伊弉諾尊(いざなぎのみこと)から海原を治めるように命じられたが従わず、死んだ母の国に行きたいと、その髭が胸まで伸びるくらい長時間「啼きいさちき」、つまり泣きわめいたので、暴風で山が枯れ海も干上がってしまった。そのため父から追放を言いわたされるが、姉の天照大神に別れを告げるために高天原へ向かうと、今度は国を奪いにきたと勘違いされてしまう。
姉との間で、心の清明さを証明する誓約(うけい)を行って勝つが、勝ちにまかせて田の溝を埋めたり切ったりして農耕を妨害、神聖な神殿をわざと汚し、機殿の屋根から馬を投げ込んで中の女性を死なせるなど、暴走が止まらなくなった。
そのせいで天照大神の岩戸隠れが起きてしまい、一連の騒動の罪を負って天上から放逐されたというのである。追放に至る真の理由があったのかもしれないが、受けた罰は次のようなものであった。
「髪を抜きて・・・・また手足の爪を抜きて贖ふといふ・・・・。天上に住むべからず。また葦原中国にも居るべからず。すみやかに底つ根国にいね」(日本書紀 神代 上)
(髪と手足の爪を抜いて償いとする・・・。天上、地上に居ることも許さない。ただちに地下の冥界に去れ)
神やらひに逐(お)われた須佐之男命は、神々に宿も断られ、青草を結い合わせた笠と蓑を着け、長雨の中をさまよいながら降りていく。屈辱と流浪の悲しみを味わうのである。出雲の斐伊川まで来たとき、上流から流れてきた箸を見て、人が住んでいるのを知った。そして稲田姫を前にして嘆き悲しむ老夫婦から、毎年やって来ては娘を呑むという八岐大蛇(やまたのおろち)の害を聞く。その形状は八つの頭と尾を持ち、目はほおずきのように真っ赤で、身に苔や杉、檜を負い、長さは谷八つと峰八つにわたるという。
大蛇を倒すことを決意した須佐之男命は稲田姫を貰い受け、醸した濃い酒を夫婦にたくさん準備させ、八つの酒船に分けて入れた。やって来た大蛇は、それを飲むと酔いつぶれてしまったので、剣で大蛇を切り散らすと、川は血で赤く染まった。八つ目の尾から取り出した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、後の草薙剣)は姉の天照大神に献上し、須佐之男命は須我の地に宮殿を営んで稲田姫を妻にした。
須佐之男命が降りたのは、地上を意味する葦原中つ国にある出雲であった。本来ならさらに先へ進み、死を連想させる地下の根の国へ向かうはずだったと思われる。大蛇から出た宝剣をわざわざ姉に献上したというのは、天上に恭順の意を示し、しばらく地上にとどまる許しを乞うたのかもしれない。
天上、高天原がどこを指しているかという点については、天空説、海外説、国内(大和)説などがあり、大蛇退治が何を象徴しているかについては、川の氾濫、越の国との闘争、製鉄部族の平定など、多くの説があり判然としない。
八岐大蛇神話は出雲が舞台であるにも拘わらず、出雲風土記には載っておらず、古事記と日本書紀にのみ記述がある、という特色を持っている。そのため舞台地が出雲でないとする説、また記紀編纂の折に、中央が各地の神話を吸収合併した結果、とみる説などがある。
この話を単に古代英雄の冒険譚、若者の成長や試練、再生の物語として読むのなら、未熟だった須佐之男命は苦難の中で一度死に、地に降り立ったときには新しく強い魂の持ち主として復活したのだ、という風にも受けとれる。死にひとしい辛苦を乗り超えた若者が強靭な精神を得て、以前とは別人のように思慮深く勇敢に振舞えるようになり、ふさわしい土地や家族を持つ資格も得たという解釈である。
八重垣神社の社殿、その境内は明るく開けていた。左手の奧にある佐久佐女の森へ行ってみる。折り重なった樹木が濃い影を作り、漂う空気はひんやりとしている。
暗い水をたたえた池があり、水占いの紙を手にした若い女性たちの姿が目立った。皆真剣な表情でしゃがんで池の水に紙を浮かべ、そっと紙の上に百円玉を置く。早く沈むほど縁が近いのだそうで、紙が近くに沈めば近くの人と、遠くで沈むと遠くの人と結ばれるそうである。
小泉八雲の「日本瞥見記」にこの池の情景が描かれているので少し紹介してみよう。
「池の水は非常に澄んでいて・・・・この池で恋するものが紙で小さな舟をこしらえて、それに一厘銭をのせ、それを池に浮かべてじっと見ている・・・・。沈んだ舟にイモリが寄ってきてさわると、その恋人は神様のおぼし召しによってしあわせを保証される・・・・。見るとどうにも沈まない気の毒な舟が一艘そこにあった。その舟は人の行かれない岸のほうへと流れて行って、水ぎわにがんじょうな垣根のようになって生い茂っている木の枝垂れた枝に引っかかっていた。この舟を浮かべた恋人はさぞ悲しい思いをいだいて帰って行ったに違いない・・・・」(「日本瞥見記」八重垣神社)
森を出て社殿の方に戻り、裏の摂社を見ていると、稲田姫の父、足名椎を祀る祠の横からするすると長い蛇が現れた。慌てて飛びのいたが、人の多い境内なのに堂々と蛇が出没するのを見て、さすがにおろちの国と妙に納得したのであった。
翌日、雲南市にある須我神社を目ざした。須佐之男命が稲田姫と住んだ地である。雲が厚くかかった空から雨が落ち始める。バスの窓から煙るような山並みが見え隠れし、水墨画のような情景が広がっていた。
須我神社には日本初之宮と刻まれた碑があり、須佐之男命と稲田姫、御子神らが祀られている。静かな山あいにあるお社であった。実際に宮があったのは、ここから徒歩三十分の八雲山(標高四二四メートル)だという。社務所で道を教わり行ってみることにした。
村道を進むうち道に迷い、農家の人に道を訊いていると、次第に雨足が強くなってきた。こんな雨の中を行くのを怪しまれたのか、猛烈に犬に吠えられてしまう。少しずつ人家が遠のいていき、山麓の杉林の続く道でようやく八雲山の登山道を見つけた。
神泉坂根水という禊場では、冷たい谷水が細く流れ落ちている。山道には和歌発祥の地にちなんで、多くの歌碑が立てられていた。歌人がここを訪れて、それぞれの感慨や思いを詠んでいるのだった。立ち止まって丁寧に鑑賞していたが、あまりにも数が多いのであきらめる。奉納歌碑は全部で六十基もあるという。
やがて長い階段と、その左手に少し開けた空間が現れた。須我の宮はこの辺りだったかもしれないと想像する。須佐之男命は宮の造営に適した地を求めて出雲各地を歩いた折、「ここに来て我が心すがすがし」と言って、山麓に宮を建てたと伝えられている。
頭上では薄みどりの葉が揺れている。階段を上がりきると、最大のものは数メートルの磐座が大中小と三体あり、しめ縄がかけてある。雨に濡れた大岩の持つ質感やその重量感に圧倒された。周囲には緑一色の世界が広がり、雨で色を深めた枝に、わずかに紅葉のはじまった葉が彩りを添え、静寂の中に枝を打つ雨の音だけが響く清らかな八雲山の森であった。
山を降りていく。雨は小降りになって空は明るみ、視界が開けてきた。さっきは雨が強くて景色を見る余裕もなかったが、雲が切れると、谷の向こうに折り重なった山並みが現れた。そして濃く薄く白い霧が湧きはじめ、刷毛ではいたようにたなびいていく。山々は靄に包まれ、谷から霧が立ち上がってはゆっくりと白く流れる。幽玄な光景にじっと見入った。
・・・・この大神、初め須我の地に宮作らしし時に、其地より雲立ちあがりき。ここに御歌よみしたまひき。
や雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を (古事記)
(雲のむらがり立つ、出雲の国の宮殿。妻と住むために
宮殿を造るのだ。その宮殿よ)
須佐之男命の歌い上げた古歌そのままの情景が目の前にあった。八雲山を雨の日に歩いたゆえに出会えたのだった。周囲の山々にかかる雲と霧の織りなす美しさ、大自然への畏敬、新居を持つ喜び、その感動の中から、日本の和歌の原型が生み出されていったのだ。そのことに改めて気づくとともに、山と霧に包まれた情景を心に刻みつつ道を下っていった。
次の日、出雲市にある須佐神社を訪れた。昨日とは打って変わった晴天である。出雲市からバスで四十分ほどの距離である。市街地を抜け神戸川沿いの道を進んでいくと、立久恵峡という景勝地があり、奇岩怪石が連なる山と清流が行く手に眺められた。
須佐のバス停では若い旅行者が数人降りた。皆須佐神社を目ざすようで、タクシーに分乗する。神社まで川沿いに徒歩三キロなのだが、ここは帰りのバス便が極端に少ないため、勧められるまま二人連れの娘さんと一緒にタクシーに乗った。彼女たちの話によると、須佐神社は最強のパワースポットと本で紹介されていたので、興味を持って来たという。
神社は周囲を山に囲まれた静かな盆地にあり、社のすぐ横をさらさらと素鵝川が流れゆき、周辺には民家と田畑が広がり、空には赤とんぼが舞っている。
祭神は須佐之男命と稲田姫、御子神、稲田姫の両親で、ここは須佐之男命終焉の地といい、その神霊の鎮まる地とされている。
須佐之男命はもっと後の時代になると、神仏習合の結果、牛頭天王という名で各地の祇園社に疫病神として祀られるようになった。京都祇園の八坂神社の常に人で溢れる華やかさ、祇園祭のあの激しい熱狂空間と比べると、同じ須佐之男命を祀る社でありながら、この地はまた何という静寂に満ちた世界なのだろうと思う。
天上の神々が凶暴さに畏怖したという荒らぶる神、暴風の神、人々を死に至らしめる疫病神、ここにはそうした荒々しい神の面影は見られず、あるのはすでに多くのことをなし遂げた末に退いた神、その神が眠るいわば奧津城に漂う静謐さであった。
社殿は重い存在感のある大社造(写真)で神木の大杉があり、道を挟んで正面に姉天照の宮もある。周辺を歩くと、眼前に現れるのは日本の原風景のようなどこか懐かしい鎮守の森のひなびた情景であった。境内に戻ると、樹木の間から射し込む陽光の柔らかさ、この里に流れている優しい自然にふと心が和む思いがする。須佐の地はまるで隠れ里のような雰囲気を持っていると感じられた。
須佐之男命は若い日、その内在する力のゆえに神々と相容れず、追放の憂き目にあったが、流浪の果てに行き着いた出雲の国では、地域の王としてよく民を統治し、敬われて生きたのではないだろうか。かつて「根国にいね」と命じられたその根の国とは、直接的には肉体の死の世界を指すのだろうが、天上からみればほとんど社会的な死をも意味する、辺境ともいうべきこの出雲の山間地ではなかったろうかと思われる。
最後に、須佐之男命を題材にした芥川竜之介の短編「老いたる素戔嗚尊」から少し紹介してみたい。話の流れは次のようである。
・・・・娘の須世理姫(すせりひめ)と暮らしている老いた素戔嗚(すさのお)命の所に、葦原醜男(あしはらしこお)という若者が妻どいにやって来て、若い二人は意気投合する。素戔嗚は若者を蜂や蛇の室に泊めて試練を課すが、若者は須世理姫からもらった呪力のある領巾(ひれ)を使って難を免れた。素戔嗚は若者を野にやって火を放つが、大きな鼠穴に逃れ落ちて若者は今度も無事だった。やがて素戔嗚が眠り込んだ隙をみて、若者は須世理姫を連れて逃げていく・・・・。
「卑怯ものめ」
咄嗟に一切を悟った彼は、稜威(いつ)の雄たけびを発しながら力一ぱい頭を振った。するとたちまち宮の屋根には、雷よりも凄まじい響が起った・・・・。
宮のまわりの椋の林は彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食った栗鼠も、ばらばら大地へ落ちるほどだった。彼はその椋の木の間を嵐のように通り抜けた。
・・・・素戔嗚は天の鹿児弓に、しずしずと天の羽羽矢を番えた。・・・・が矢は一文字に保たれたまま、容易に絃を離れなかった。その内に何時か彼の眼には、微笑に似たものが浮かび出した。微笑に似た、しかし其処には同時にまた涙に似たものもないではなかった。彼は肩を聳やかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。
「おれはお前たちを祝(ことほ)ぐぞ」・・・・
「おれよりももっと手力を養え。おれよりももっと智慧を磨け。おれよりももっと・・」
素戔嗚はためらった後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももっと仕合せになれ」
彼の言葉は風と共に海原の上へ響き渡った。この時わが素戔嗚は大日孁貴(おおひるめむち)と争った時より、高天原の国を逐(お)われた時より、高志の大蛇を斬った時より、ずっと天上の神神に近い悠然たる威厳に充ち満ちていた。
(芥川龍之介「老いたる素戔嗚尊」より)