梶井基次郎
「檸檬」(新潮文庫)
梶井基次郎
「檸檬」(新潮文庫)
梶井基次郎は一九〇一年(明治三十四年)大阪市生まれ。父は海運(後には鉄鋼)関連の会社員で、転勤のため一家は東京、三重県、大阪と移り住んだ。母は幼稚園の保母をしており文学好きであった。梶井には兄と姉、弟が二人いたが、異母弟もおり、家庭は複雑であったという。梶井が十代の頃、結核で祖母と弟が相次いで亡くなっている。梶井は初めは理科系志望であったが、府立北野中学から三高(現 京大)へと進み、漱石や谷崎を愛読するうちに、文学を志すようになった。在学中に肋膜炎にかかり、一年間休学している。復学後はトルストイに傾倒、いくつか習作も試みるが、泥酔して甘栗屋や焼き芋屋の鍋に牛肉を投げ込んだり、中華そばの屋台をひっくり返したり、下宿代が払えず逃亡したり、喧嘩をしてビール瓶で殴られ顔に怪我をするなど無頼の生活であった。
父は退職後にビリヤード店を経営し、梶井も熱中したという。卒業試験に落第し、在学五年にしてようやく卒業し上京、東大イギリス文学科に入学した。文学好きの友人らと同人誌「青空」を刊行し、創作に励む。「檸檬」は「青空」創刊号(一九二五年)に掲載された短編。
この頃から梶井は、血痰を見るなど病気が進行していった。肋膜炎が再発するなかで「泥濘」「橡の花」「ある心の風景」「Kの昇天」などが書かれ、友人の勧めで東大を中退し、伊豆湯ヶ島温泉で一年半ほど転地療養を続ける。当地に滞在していた川端康成を訪ね、近くの宿を紹介してもらい、「伊豆の踊子」の校正を手伝うなどして親交を深めた。
「青空」は休刊となる。川端は東京へ帰ったが、尾崎士郎、宇野千代らが湯ヶ島に来遊したので、梶井は彼らとも交流した。この頃の作品には「冬の日」「桜の樹の下には」「蒼穹」「冬の蠅」など。病勢が進み帰阪し、その後は兵庫県の長兄宅に移り、療養を続けた。「闇の絵巻」「交尾」などが書かれる。梶井の作品は少しずつ文壇で注目されるようになり、井伏鱒二は、河鹿の生態を活写した「交尾」を絶賛した。死が近いことを感じた友人らの尽力により、創作集「檸檬」が刊行された。大阪市内へと転居。
「中央公論」に病床での日々をつづった「のんきな患者」が掲載され、初めての稿料を得た。原稿依頼もあったが病状が悪化し、再び筆を執ることはなかった。母に看取られ肺結核により三十一歳で没した。
「檸檬」あらすじ
「えたいの知れない不吉な塊」に主人公の青年の心は絶えず圧迫されており、病苦や借金、嫌悪や焦燥、憂鬱な感情から逃れるように京都の街をさまよった。八百屋で目についた檸檬を一つだけ買うと、熱のある手に握った檸檬の冷たさと重さを感じながら、ちょっとした高揚感も得て、ふだんは気づまりに感じている洋書店の「丸善」へと入ってゆく。棚から画集を抜き出し、好きなものを少し見るが、先ほどの高揚感は失せてしまい、再び鬱屈した気分に支配され、重い本を元へ戻す力もないまま、次々と積み上げてしまう。所在なく崩してはまた積み上げる、という行為を繰り返していた。思いついて本を城に見立て、その上に黄色い檸檬を乗せてみると、積んだ背表紙との色彩が対比され、てっぺんの檸檬の存在が空間に際立ったのに気がついた。カーンと冴えかえり、檸檬の周囲だけが緊張感を孕んでいるように感じられ、しばらくそれを眺めた。ふと檸檬が爆弾となって破裂する幻想が湧き起こる。主人公は「黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けた」奇怪な悪漢のつもりになって、微笑みを浮かべ、檸檬をそのままにして店を出て、京極通りを下っていくのだった。・・・・
教科書に載っていた「檸檬」はほとんど筋らしいものもなく、散文で書かれた詩のような短編という印象であった。一筆書きでさらりと描いてあるようだが、実際には推敲が重ねられ、言葉は吟味され、凝縮され、最後には黄色いレモンの色が強い残像となって読み手の心に刻みつけられる、そんな感覚的な作品である。
「檸檬」は初出が同人誌であったので世間に知られず、発表時は文壇からの評価もなかったらしい。梶井の名が高まり、作品がよく読まれるようになったのは彼の死後のことで、「檸檬」が高校の教科書に採用されてからは、多くの読者を獲得したようである。
死期が近づいた頃に、文芸誌から執筆依頼もあったが、梶井はとてもそれに応えられるような体調ではなく、作家としてはこれからというときに力尽き、ふっとこの世から消えるように逝ってしまった。残された作品としては短編が二十篇ほど、一篇を除いてはみな同人誌に発表されたものであった。
「檸檬」の舞台となった京都河原町の丸善は、二〇〇五年秋に閉店になった。実際には梶井は、東京での体験をもとにこの作品を書いた、というのが真相といわれるが。
作品中「檸檬」の設定は京都の丸善店、当時の店舗は三条麩屋町にあったという。梶井は京都時代は市内に下宿し、河原町界隈は彼の馴染みの地でもあったという。破れたマントを風に翻し、汚れたズックのかばんを肩に掛け、下駄を鳴らしながら、三条や四条通りを歩き回っていたに違いない。丸善にもきっと立ち寄っていたであろう。そう思うとき、洋書や香水など舶来品の置いてある「丸善」の入りにくさとか、敷居の高さも何となく想像できるし、また店内の雰囲気も推測できるのである。
三島由紀夫は「檸檬」について、このように述べている。
「ヨーロッパの近代詩人たちが、詩で表現しようと思うことを、日本の現代作家は短編小説で表現したのであります。ですから日本の短編小説の最高のものは、ヨーロッパでならば散文詩として書かれたものに近いものもあります。ヨーロッパのコントのような物語性が無視されて、その作家の詩人としての眼が見た心象風景が明瞭に展開されただけで終わるものもあれば、梶井基次郎の有名な短編『檸檬』のようなただ一個のレモンが読者の眼の前に放り出されたような、鮮やかな感覚的印象をもって終わるものもあります」(「文章読本」三島由紀夫 中公文庫より)
個人的なことで恐縮だが、以前京都郊外に住んでいた筆者は、丸善河原町店が閉店になる前の月、買い物の帰りに立ち寄ったことがあった。後に「閉店を知った梶井の愛読者たちが檸檬を置きに来る書店」と紹介され話題になったのを知ったが、その日はどちらかといえばひっそりしており、客が少ないな、という印象であった。
店内を歩いていて画集の棚の前を通ると、「檸檬」の情景そっくりに、積み重ねた本の上にレモンを一つ乗せ、撮影している若い男性がいた。店側もそれを注意したり咎めているようでもなく、その人は置いたレモンの位置をずらしたり、何度も角度を変えてカメラを構えるなどして、熱心な様子であった。「檸檬」で有名になったこの店が、閉店になることはすでに報じられていたので、ああこうやって閉店が惜しまれているのだなあと感じ、その情景を眺めつつそっと通り過ぎた。小説世界を再現し、主人公がしたのと同様のことをしてみたいという思いは理解できた。
店が閉じられて十年後、京都丸善が復活したことが報じられた。河原町通りのファッションビルの地下に新装開店したという。店の雰囲気は一変したようだが、梶井ファンのために店内にはレモンを置く籠が設置され、開店時には市長さんも来られて、一つ入れて下さったそうである。籠に盛られた檸檬は、梶井へのいわば「お供え」であろう。「梶井ゆかりの文具セット」なども販売され、店内カフェには「檸檬ケーキ」もあるそうで、今もってその存在が人々から忘れられず、愛されていることがわかる。梶井は早逝してしまったが、京都を舞台にしたファンタジー小説「ホルモー六景」(万城目学著)の第三景では「もっちゃん」という人物となって登場し、ちゃんと現代によみがえっているそうである。
「桜の樹の下には」
衝撃的な書き出しである。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことなんだよ。何故って桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている」
すぐに読み終わってしまう短い作品で、筋もなくほとんど詩のような感じがする。生と死のつながり、生の輝きと死の対比、絡み合う生と死のかたちが静かに語られる。湯ヶ島で見た桜がモチーフになっているそうである。冒頭はとても有名なので、改めて説明の必要もないと思うが、この文章が喚起する情景は怖く儚く、美しい。
また私的なことで申し訳ないが、筆者が中学生のとき、病気で死んだ飼い猫を庭の一隅に埋めた。まだ子猫であった。お菓子の空箱に納め、母と一緒に庭の桜の近くを掘ってそこに埋めた。他の木もあったが、なぜ桜の樹にしたのかはわからない。梶井のことは知らなかった。
その桜は年月を経た今もそこにあって枝を伸ばし、毎年花を見せてくれる。後になって梶井の「桜の樹の下には」を読んだとき、猫を埋めたことを思いだした。毎年花の季節になると、梶井の冒頭の文とともに、可愛かった姿を偲ぶことがある。小さな友だちがそこに眠っているという感じにとらわれる。
「蒼穹」
これも散文詩であろう。主人公は自然の中で、雲の湧き出てくる情景を観察し眺めているうちに、青空の中に広がる虚無と闇を見る。
「雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無。白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚出来なかったのである」
三島由紀夫はこの作品について、このように述べている。
「梶井氏は志賀直哉氏の影響を受けながら、志賀氏のような現実に対する関心を、むしろ積極的に捨てて、その詩人的側面を強く示し、作品の一つ一つを象徴詩のような高さに高めました。・・・・『蒼穹』という短篇はドイツ・ロマンティックの作家ジャン・パウルのような趣をもった短篇で、私という人物が広い自然の景色の中で、雲のつきない生成のありさまを見ているうちに、その雲の溶け込んでゆく青空が、深淵のように思われてきて、青空そのものが闇のように見えてくる不思議な感覚的体験を描写しただけの短篇でありますが、そこにはただの自然描写を超えて、精神の深淵をのぞかせるものがあらわれています。これは作品そのものというよりは、梶井氏の文体の効果であって、氏は日本文学に、感覚的なものと知的なものとを綜合する稀れな詩人的文体を創始したのであります」(「文章読本」三島由紀夫 中公文庫より)
梶井は明治生まれの人であり、三島とは時代が異なっているのだが、このような賞賛の言葉を、生きている梶井に聞かせたかったと思う。
つけ加えることもないと思うけれど、鋭敏な感覚、繊細で緻密な描写は梶井独特のものがあって、どこか清らかである。浄化されたいという願望がどこかにあり、救済を求める思いがかすかに見え隠れするような気がする。心の底で絶えず死を意識している人の鋭い感受性であろうかと思う。
梶井は湯ヶ島に滞在中、尾崎士郎、宇野千代らと交流した。梶井は美貌の千代に強く惹かれ、その感情を隠さなかったらしい。梶井はそのとき二十六歳、千代は四歳年上でしかも尾崎の妻であった。梶井は無名の学生に過ぎなかったが、夫妻はすでに作家として名をなしていた。千代は奔放な性格で、梶井との交際についても、人目など気にする風ではなかったという。文学好きの者同士、心が通じ合い話が弾んだのであろう。多くの男性と関係を持ち、恋愛遍歴で有名な千代ではあるが、梶井との間には肉体関係はなかった、と後に本人自身が語っている。梶井の文学的な素質や感性を彼女なりに評価はしていても、恋愛の相手ではなかったのであろう。梶井は真剣な想いを向けたかもしれないが、千代にはそうでなかったということになる。
千代はその後尾崎と離婚して、新しく知り合った画家の東郷青児との生活に入っていった。千代が愛し選ぶのは、才能が豊かで見栄えもよい男たちであった。千代の噂は、帰阪して療養していた梶井の耳にも哀しく届いたであろう。梶井は自分の容貌が少々怖い印象を与えるため、女性にもてないことはわかっていたが、美しい人や素敵なものに焦がれる気持ちはひと一倍強かったと思う。健康を失い、結婚も恋愛も諦めていたであろうが、文学への情熱は衰えることなく最後まで持ち続けていた。