一京都散策 嵐電沿線一
蚕の社 車折神社 斎宮神社
一京都散策 嵐電沿線一
蚕の社 車折神社 斎宮神社
以前、京福電鉄(嵐電)の竜安寺道の近くで四年間暮らしていた。昔ながらの古い商店が軒を並べる町並み、時代劇の撮影をよく見かけたお寺の境内、散歩した仁和寺の土塀の道、窓の外に始終聞こえた踏切の音や嵐電の響きが今でも懐かしい。冬の一日、思い出の嵐電に乗って沿線の寺社を訪ねてみた。
阪急で四条大宮まで行き、信号を渡って嵐電の乗り場へ向かう。五百円で乗り放題の一日乗車券を買い求め、早速電車に乗り込んだ。遠い記憶では二両連結が多かったような気がするが、今日は一両車、色は見覚えのある緑とクリーム色であった。最近導入されたらしいぴかぴかの紫やレトロ調の茶色、派手な広告入りの車両も走っているのを見て時の流れを感じた。
蚕の社
蚕の社(かいこのやしろ)で降り、三条通りに面した鳥居をくぐって、北に向かって歩いていった。参道は両側に住宅が迫っており、昨日降った雪がまだ道路脇に残っていたので、ずっと足元に気を取られて歩いていて、ふと目を上げると、もう二の鳥居前に来ている。何だかもっと駅から遠いように思いこんでいたのだった。森の樹木の奧にひっそりと小さな社殿が見え、緑の繭に包まれたようなお社である。
通称は蚕の社だが、正式名は木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社、略して木島神社ともいい、創建の時期は不明。現在の公式祭神は、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。
神社名にある天照御魂(あまてるみたま)神が、どのような神であるのかについては諸説あり、邇邇芸命(ににぎのみこと)を指すとも、天火明命(あめのほあかりのみこと)を指すともいわれているが、古代の太陽信仰と結び付けて考える説が有力かと思われる。
上田正昭著「日本神話」(岩波)によれば、天照御魂神は、古くから日の神アマテルとして対馬や大和、摂津など各地に祀られている神で、伊勢神宮に祀られる皇祖神としてのアマテラスではないそうだ。この蚕の社の天照(アマテル)神も、伊勢神宮系の神ではない、としておられる。
本殿に立つと、正殿の神以外に、西側には名前の書いていない八神が並び、東には別に織物の神を祀る社があり、この東殿が蚕養(こかい)神社で、通称名の由来になった蚕の社である。こちらのほうが古い祭神で秦氏が祀っていた氏神とされる。秦氏の小社として思い浮かぶのは、京都植物園の中にある半木(なからぎ)神社であるが、半木神社も養蚕の神を祀る社であった。ともに緑濃い森の中にひっそりと立っており、両社の雰囲気にはどこか似通ったものが感じられる。
渡来人の秦氏は古くから葛野に住み、そこを本拠とする一族で養蚕、機織などの技術をもたらしたことで知られる。当時このあたりの森は樹叢も深く広大で、この周辺にも渡来人の集落が立ち並び、青々とした桑畑が続いていたことだろう。
蚕の社は今も名残の森が残されていて、元糺(もとただす)の森と呼ばれている。下鴨神社の糺の森はここから遷したのだそうで、糺とは禍事を直す、正しくする、という意味であるという。
社殿の左手には元糺の池があり、以前は湧水があり水をたたえていたというが、現在水は枯れている。乾いた池の中には三角形に組み合わされた石鳥居が立ち、石積みの中心には御幣が差してある。上から見ると三角形という風変わりなもので、三柱(みはしら)鳥居と呼ばれており、その本当の意味は不明で、謎の鳥居とされている。
変わった鳥居としては、大和の大神神社や檜原神社の三つ鳥居が知られている。それは中央の鳥居は大きく、左右に少し低い鳥居が付けられて横に広がった形なのだが、ここの三柱鳥居は、それを折り畳んでくっつけて、高さを揃え三角にした形になっている、といえばいいだろうか。(この三柱鳥居を開いた形が、三つ鳥居であるともいえるわけだけれど)
三柱鳥居は京都三珍鳥居の一つだそうで、ちなみにあと二つは、北野天満宮の伴氏社の蓮華座の鳥居、京都御苑の厳島神社の唐破風(からはふ)鳥居だそうである。
竹の柵で遮られているので、すぐそばまで行くことはできないが、水のない池に降りて、囲いの間からしばらく鳥居を眺めた。三角形になっている意味については、夏至、冬至との結びつきや(内裏から見て、蚕の社は夏至の日の出、冬至の日没線上にあるという)また鳥居の三方向の延長上にある双ヶ丘、松尾大社、伏見稲荷との関連などの説がある。松尾大社も伏見稲荷も秦氏によって建てられた古社である。
昼でも薄暗く感じられる元糺の森の佇まいである。水のない池の中に、ひっそりと古の聖所であることを示す古い石鳥居が立っている。それは何も語らない。訪れる人もまばらな古の聖空間には、うつろう木漏れ日がちらちらと揺れているだけであった。
かつてこの森は今よりも深く、樹木は豊かに枝を広げ森の中に聖水が湧き出る泉があり、それはあふれ出てさらさらと流れゆく小川になっていたのだろう。人々が夏のある日、積もった身の穢れを流すために、清水に足を浸し、祈りを捧げたであろう。そういう古の情景を心のうちにしのぶだけである。
下鴨神社の鬱蒼とした広大な糺の森や、御手洗池を思うとき、今見るこの森と池は元糺の森の名を今も負っているにしても、あまりにも小さく感じられる。
下鴨神社の境内で、土用の丑の日、御手洗池に足を浸して無病息災を祈る足つけ神事は、京の夏の行事として知られているが、その糺の森や池の神事の起源はここにあるという。秦氏の信仰がどうして鴨氏のものになっていったのか、疑問といえば疑問であるが、幾時代かを経ていくうちに鴨氏は秦氏と婚姻を通じて結びつきを重ね、やがてその祭祀が鴨氏に引き継がれ、発展して今日に至ったとみるのが通説であるらしい。
元糺の池を離れ境内の摂社を巡っていく。稲荷社がいくつもあり、そのうちの一つ、何気なく石室のような稲荷社に入ってみて、その場が放つ怖い雰囲気に思わず身震いする。近づいてはいけない古の墓所とか、または異世界への通路かと思った。そのとき隣接する幼稚園からあどけない園児たちの歌声が聞こえてきて、現実の世界の物音に触れほっとしたことだった。もし静寂であればもっと恐怖を感じたであろう。何かしら鬼気迫るような稲荷社であった。
車折神社
再び嵐電に乗って、今度は車折(くるまざき)神社で降りる。駅のすぐ前に鳥居があり、ここは裏門なので裏参道から入っていくことになる。
右側に「清めの社」があり、立砂が祀ってある。円錐形の細長い石である。思わず触りたくなったが、触れていいのかどうかわからなかったので思いとどまり、手を合わせた後、本殿へと向かう。
祭神は清原頼業(よりなり)。平安後期の儒学者で、その廟がここにあったという。廟は社の前身で、故人が桜を好んだので多くの桜が植えられ、桜の宮と呼ばれていたという。
社名はまた車裂とも車前ともいい、その由来は、鎌倉時代に後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に巡幸された際、ここに差しかかると牛車の轅(ながえ)が折れてしまった。天皇は戻られてから土地の霊への非礼を詫び、車折大明神の社号と正一位の神階を贈られたという。
天皇の乗る牛車の轅が折れるという椿事が起きたのは、そこに祀られているものの存在を無視したせいと当時の人々は考え、おそれたのであろう。その地霊の力があまりにも強いために折れた、そうも思ったであろう。小さなお社ながらここはそういう創建逸話ゆえに、力のある霊験あらたかなお社として人々の信仰を集めているという。またこの神社はテレビや本で有数のパワースポットとしてよく紹介されているそうだ。そのことは本殿前に貼り付けられた何枚かの宣伝写真などを見て初めて知った。
摂社には芸能神社(祭神は天鈿女命、あめのうずめのみこと)があって、柱もどこも千社札が貼られて埋め尽くされている。車折神社のご祈祷には、家内安全、交通安全、商売繁盛など普通の項目に加え、勝運上昇、債権回収、売掛回収など妙に具体的で、更にヒット祈願、芸術才智、芸能上達、人気上昇、公演成功、個展成功など芸能にかかわる人の願望を実現する独特のものもあるのが特徴であった。ここ芸能神社には、参拝した俳優や歌手、タレントが奉納した名前入りの朱色の板の玉垣がずらりと並んでおり、それはおびただしい数に達していて赤い波と化して境内をうねり、この神社の人気のほどを示していた。
さっきは裏門から入ったので神様に失礼かと思い、表の鳥居からもう一度入って正面からお参りした。見ていると人気の神社であるらしくお参りの人は絶えない。改めて説明をよく読んでみると、先ほどの清めの社に祀られているのは車折石といって、後嵯峨天皇が敬意を表した石であるらしい。
参詣の順序としては、まず清めの社を参拝してから、社務所でお守り袋に入った「祈念神石」かお札を買い、本殿で祈願し、買い求めた祈念神石はお守りとして身につけておくのだそうだ。祈願が叶ったお礼には、川原などで拾った別の石をきれいに洗ってお礼の言葉を自分で書き、神社に持ってきて納めるのだという。本殿前には合格お礼などと書かれた小石が積んであった。
祈念神石のほうは買わなかったが、本殿前には節分にお焚き上げしてくれるという紙の人形(ひとがた)が置いてあったので、名前を書いて息を吹きかけ体を撫でてよくお願いしてから百円を志納し箱に入れた。これで今年の分の罪や穢れがなくなったらいいなと思いつつ神社を辞す。
斎宮神社
地図を見ると、嵐電の有栖川駅の南東に斎宮神社がある。ここから歩いていけそうなので、車折神社の鳥居を出てその方向を目指していると、ほどなく有栖川に出た。この有栖川はその昔、斎宮が禊をした旧跡と伝えられている。今見る川はその名前に惹かれなければほとんど見過ごしてしまうようなか細く小さい流れであった。この川は街中を流れ下って桂川へと注いでいる。
斎宮とは伊勢神宮で神に仕えた未婚の皇女、女王のことで、斎王ともいう。卜で選定されるが、その多くは少女で、幼女の場合もあったという。斎宮に選ばれると、まず家族と離れ宮廷内で潔斎の日々を送った後、郊外の清浄の地に宮を建てて移り住み、近くを流れる川などで禊を行って身を清めた。神に近づくためであったという。期間はだいたい一年から三年であったようで、その後、斎宮は多くの従者を従えて都から伊勢へ向かうのだが、その列は群行と呼ばれた。
嵯峨野の野宮は皇女らが潔斎のために過ごした宮として有名であるが、ほかにも何箇所か野宮はあって、ここ斎宮神社もその一つであるという。
往時は人通りもない寂しい場所であったかと思われる。先ほど見た有栖川も野を縫って流れゆき、夏には蛍が舞うような清流であったろう。その岸辺に仮屋を設け、年若い皇女は冷たい川水で身を清めたのであろうか。
斎宮神社は有栖川を越えたすぐ近くにあった。こぢんまりとしたお社である。通りに面してはいるが、車折神社の賑わいに比べると、訪れる人影もなく静かである。鳥居をくぐると正面にお社があって、天照皇大神が祀られている。左手には樹齢数百年という椋(むく)の神木があり、あちこちに花木が植えられて整えられた境内は、いかにも斎宮ゆかりのお宮にふさわしい優しい雰囲気が漂っている。
伝承ではここは垂仁天皇の皇女、倭姫の別荘があった場所という。天照大神をはじめて祀ったのは崇神天皇皇女、豊鋤入媛であるとされ、あくまでも伝承上の初代斎宮であるが、その跡を継いだ姪に当る倭姫は、神の御杖代となって大和を出て、近江、美濃と各地に旅をして天照大神を祀っていった。やがて倭姫の旅は伊勢に至り、そこで伊勢神宮を創建したと伝えられている。
その後も天皇の代替わりごとに、伊勢の大神を祀ったという皇女の名は幾人も記紀に記述されているが、皇女たちは必ず伊勢に行ったとはかぎらず、途絶えた時代もあったようで、伊勢斎宮が制度として定着したのは、かなり後の天武天皇の時代になってからであった。記録に残る初代斎宮の名は、天武天皇皇女、大伯皇女(大津皇子の姉)である。壬申の乱の戦勝祈願の神への御礼として、大伯皇女は卜占により十二歳のとき斎宮に選ばれ、宮を出て泊瀬で潔斎、父天皇の崩御、大津皇子の刑死により任を解かれるまで、十二年間を伊勢の地で神に仕えた。
時代を経て、奈良から京に都が移り、ここ有栖川のほとりでどの天皇の時代にどんな皇女が禊の日々を過ごしたのかはわからないのだけれど、斎宮に選ばれるとは、神の名のもとに家族とは切り離され、身を慎むことを強いられ、都から遠く離れた地に移り住むことにほかならず、高貴の女性の運命の変転を思うと痛ましい。
以前「斎宮志」(山中智恵子著)という本を読んだことがあるが、それは斎宮に選ばれた年若い皇女たちの不幸な逸話で満ちていた・・・・。そんなことを考えながら境内を一巡、冬枯れで花はなかったが、樹木を見つめて往時の様子をしのんだ。
嵐電で帷子の辻に戻り、北野白梅町行きに乗り換えて、昔住んでいたあたりを歩いてみた。まず仁和寺で降りて境内を歩き、昔よくお参りした水掛け不動尊に立ち寄って、お礼を言い、長い柄杓で水を汲んで何度もかけた。裏へ出て、四国八十八箇所の札所のある山道を少し登ってみる。たしか二時間ぐらいかけて辿る山道であったと思う。時間がないので数箇所の札所を回ってから元の道へと引き返した。仁和寺の土塀の道を歩いて竜安寺へと向かう途中、鎮守の社を見たので立ち寄ったが、長い間地域の八幡社だと思い込んでいたそのお社は、実は住吉大伴社というのであった。同行の夫に聞いて見ると、夫は物部氏の社だと信じていたそうで、人の記憶というのは何と曖昧なものだろうと思ったことだった。
雪の積もる龍安寺の境内を歩いてみたが、鯉に食パンの耳をちぎって与えて楽しんだ小さな池は立ち入り禁止になっており、水鳥が泳ぎ回っていた大きな方の池の感じも変わっていた。考えてみれば、この近くに住んでいたのはもう三十年も前なのであった。
日々の買い物をした商店街を歩いてみたが、シャッターが下りていたり、お店がなくなっていたり、寂しい雰囲気であった。かつて住んでいたところもマンションになっていた。最後に竜安寺道の駅に行ってベンチに坐った。三十年前、何度もこうやってここで電車を待った。毎日のように長男を抱いて来て電車を見せた。ときどきは帷子ノ辻へ買い物に行き、季節の良いときには北野白梅町や嵐山まで足をのばすこともあった。ふと若い日の自分がそこにいるような気がして、懐かしさに胸が迫ってくる嵐電の駅であった。