湖北紀行 賤ケ岳 菅浦
湖北紀行 賤ケ岳 菅浦
もう二十年ほど前のことになるだろうか、北琵琶湖の菅浦と葛籠尾(つづらお)崎を訪れたことがあった。その辺りは古代史にも登場する地で、古い歴史を持っている。湖の景色もよかったが、雰囲気のある落ち着いた佇まいの集落であった。
村の東西の入り口には四足門という茅葺の門が設けられており、門をくぐるとき、ちょっとした異世界に入っていく感じがしたのを覚えている。山側に古い神社があり、村の中を歩いてみると、特徴のある石垣や民家の古い門構えに、この村が持っている歴史が感じられ興味深かった。そのときは岸辺にある民宿に泊り、翌日は葛籠尾崎の岬の先端まで散策し、湖にぽっかりと浮かぶ竹生島を飽きずに眺めて時を過ごしたのだった。
その後長く菅浦には足を運ぶ機会がなかったのだが、今回久々に日帰りで訪れてみようと思い立った。秋の観光キャンペーンの一環とかで、シーズン中の週末に北琵琶湖の周遊巡回バスが運行され、三百円という料金で終日乗り放題、という情報を得たこともその理由の一つになった。
十一月の好天の日曜日、朝早く家を出た。米原駅でJR北陸線に乗り換え、木ノ本駅に降り立ったのは、まだ十時前であった。今回は賤ケ岳に上って古戦場や琵琶湖を眺めた後、思い出の菅浦を回るつもりである。
早速駅前で一日チケットを購入、バスに乗り込んだ。ボランティアらしいガイドさんが、色々とこの地域についての説明をしてくださる。バスは古い神社の鳥居が見え隠れする田園地帯を抜けていく。民家が点在するのどかな集落が続いていく。
賤ケ岳登山口でバスを降りた。本当は緑の樹林帯の登山道を山頂までゆっくり登って行きたいところなのだが、この後の予定があるのでハイキングは断念、リフトに乗る。巡回バスのチケットを見せると割引になった。
リフトを降りると、頂上まで階段状の登りが続く。ふと左手に視界が開けると、琵琶湖が眼下に広がっている。立ち止まって静かな湖水の輝きをしばらく眺めた。
賤ケ岳は羽柴秀吉と柴田勝家が戦った古戦場である。本能寺の変の翌年、天正11年(1583)に、ここで激しい戦闘が行われ、秀吉側が勝利した。道の途中には戦死者を祀る石塔、地蔵、縁の欠けた墓などがあり、手向けられた草花が風に揺れていた。
戦いの合間に、彼らはきっと幾度もこの景色を眺めたことだろう。さまざまな思いが交錯したに違いないと思う。日を受けてちらちら踊る青い波の煌きは、死と隣り合っている彼らの目には、儚い生の輝きと映ったかもしれない。そんなことを考えながら石段を登っていく。
標高422メートルの頂上に着いた。そこには少しだけ平らな空間が広がっていた。古戦場の碑を見て説明文を読み、今度は余呉湖を眺める。小さな青い湖が見下ろせる。
秀吉方は湖を囲む形で山々に砦を築いていたというから、この山麓は多くの兵で溢れていたことだろう。勝家方は秀吉の留守を知って中川清秀の陣を急襲、一旦は勝利したかに見えたが、たちまち美濃から引き返してきた秀吉に反撃された。秀吉はこの賤ケ岳の頂上で指揮を取ったとされる。激戦の末、勝家は越前へ敗走し、北ノ庄で妻のお市の方とともに自害した。頂上に立っていると、このような美しい場所で、戦が行われたということが信じられない気がしてくる。
今見下ろしている余呉湖は、また別名を鏡湖ともいうそうである。青い手鏡をそっと置いたように静かな湖である。そこにはまた古い伝説が幾つか伝えられている。
・・・・伊香の小江にある余呉湖に天の八女(やおとめ)が白い鳥になって舞い降り、水浴していた。その様子を伊香刀美(いかとみ)という男が西の山で見て、人ではなく神かも知れないと思い、岸に行ってみた。感愛(めずるこころ)が起きて、白い犬に妹の衣を盗ませた。七人の姉は飛び去ったが末の妹は天に帰れず、伊香刀美の妻になって男女二人ずつの子どもをもうけた。兄は意美志留(おみしる)、弟は那志等美(なしとみ)、姉は伊是理媛(いぜりひめ)、妹は奈是理媛(なぜりひめ)で、この人たちは伊香連(いかごのむらじ)の祖となった。
後に天女は羽衣を探し当て、天へと帰ってしまった。伊香刀美は嘆くことしきりであったという・・・・。 (近江国風土記逸文より)
天女の羽衣伝説は各地に幾つか伝承がある。三保の松原、奈具の社、この余呉湖などで、どれも皆天女が水浴中に、置いた衣が盗まれてしまう、という気の毒な出来事から話が始まっていく。
たとえば謡曲「羽衣」では、松原の天女は、漁師に羽衣を隠されるが、交渉して舞を見せることを条件に衣を返してもらい、天に帰っていく。
奈具の天女は、羽衣を取り上げた老夫婦の養女になり、酒造りによって養父母を富ませるものの、追い出されてしまい、安住の地を求めて各地をさまよった末、奈具の村に辿り着く。
余呉湖の天女の場合は、羽衣を奪われて仕方なく男の妻になり、四人の子を生むが、後に衣を探し取り、天に帰ってしまうのである。
三保の松原の天女の話は、一番短くかつシンプルである。男が衣を取った後、天人の涙に同情し、衣を返すというただそれだけの展開だし、その描き方には事の真相が語られていないような気もする。それよりは、この余呉の伊香刀美という男が、衣を隠して天女を妻にし、四人の子をもうけたのにも拘わらず、去られてしまって落胆する、という話の成り行きのほうが自然で、人の行動の真実に近いような気がする。
それとは別に、余呉の天女と桐畑太夫という男の間に生まれた子が、菅山寺に預けられ、後に菅原家の養子になって出世し、菅原道真になったという話も余呉の川並に伝わっているそうだ。でもそれは時代も男の名も異なるので、確かに発端は似ているが元の話から派生した別の伝承なのであろう。
余呉湖はまた水上勉の「湖の琴」の舞台地になったことでも知られている。作家が山あいの清らかな湖にインスピレーションを受け、ここを背景にして、薄幸の女性の物語を構想したことが想像できて興味深い。
余呉湖を振り返りつつ、賤ケ岳を後にして、山を降りる。再びバスに乗り、葛籠尾崎展望台へ向かう。以前来た時はきれいなレストランがあり、その横手の道を降りて岬の先端まで歩くことができた。そこからは竹生島が間近に見えて印象的だったのだが、今見ると、不況のせいかレストランも遊歩道も閉鎖されていた。閉まったゲートを乗り越えて遊歩道に入るのも憚られるので、岬まで歩くのを諦めて菅浦に向かう。
菅浦は古い歴史を背負う集落である。758年に即位した淳仁天皇の隠棲地、保良の宮があった所とされていて、集落の案内地図には須賀神社の上に、淳仁天皇御陵とはっきり記されている。
歴史のほうを少し見てみることにしよう。
淳仁天皇は舎人親王の王子で、天武天皇の孫に当たる。大炊(おおい)王と呼ばれていた。藤原仲麻呂とは親密で、仲麻呂の邸内に住んでいたという。仲麻呂の画策によって考謙女帝から皇位を譲られて、若くして淳仁天皇となったが、実権は考謙上皇の手にあった。藤原仲麻呂も恵美押勝という名を貰って権勢を振るったので、天皇とはいうものの全く名のみの存在であったらしい。
当時の都は奈良の平城京であったが、近江の保良の宮を副都として新しく造営し、淳仁天皇らも一時移り住んでいた。ところが考謙上皇は次第に僧道鏡と親密になっていって、保良の離宮で天皇がそのことを諌めると、上皇は激怒して平城京に戻って法華寺に籠り、天皇と上皇の間は不和になっていった。
仲麻呂は上皇の寵を道鏡に奪われたことから、天武系の別の王子である塩焼王の擁立を画策して、反乱を起こしたものの(恵美押勝の乱 藤原仲麻呂の乱とも)失敗する。愛発関(あらちのせき)越えで、息子が国司をしている越前に逃れようとするが、先回りした上皇軍によって国司は殺され、愛発関も閉じられた。行く手を阻まれた仲麻呂軍は近江の高島に敗走、そこで捕らえられて仲麻呂の一族は殺害された。
そのときに中宮院にいた淳仁天皇も、実際には乱には無関係であったらしいが、捕らえられて淡路へと流された。天皇はそのため淡路廃帝とも呼ばれている。天皇は淡路から逃亡しようとして失敗、その翌日に亡くなった。亡骸は淡路に葬られたとされる。
ところがここ菅浦では、淡路は淡海の誤ったものと信じられていて、天皇は近江高島に流されたとされる。この地に残る伝承の方を、村人は重視しているようなのである。現在は須賀神社となっている社は、元は保良神社といったそうで、それは保良の宮がここにあったことに由来するからだという。
たとえば村の資料館にある須賀神社縁起を見ると、天皇がここにおられたときに、自ら榧(かや)の木をもって自身の肖像と妃の肖像を彫刻し、
「何処に寿を終わるも、神霊必ずこの肖像に留め置く」
と述べられたのだそうである。そのことから、本殿周囲を舟形に石で積み、一社を建てて廃帝を祀っている、とある。
その須賀神社に詣でるのに、村人は今でも必ず裸足でいくという。その掟の守り方、延々とそのしきたりを子孫に伝え続けていくという厳格さは、他にはみられないものがあるように感じられる。
須賀神社の参道に入ってみた。長い参道なのによく落ち葉の掃除が行き届いている。そんなことにも村人の畏敬の気持ちが表れているようだ。そこはまだ靴のままでよいようなので、ずっと進んでいくと、石段下に水屋があり、土足厳禁の表示があって、そこでスリッパに履き替えるようになっていた。
見ると、雨の後であまりスリッパがきれいでなかったので、ソックスを脱いで裸足になった。急な石段を拝殿に向かって上がってみる。一足踏みしめるごとに、冷たい石の感触が痛いように足裏にじかに伝わってくる。きっと古代の人もこんな風に歩いたのだろう。考えてみると、現代では滅多に戸外を裸足で歩き回ることがない。
白洲正子さんの「かくれ里」には、菅浦の印象が記されているので、少し本文を引用してみよう。
「菅浦は、大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(つづらお)崎という。竹生島とは目と鼻の間で、街道からは遠く外れるため、湖北の中でも全く人の行かない秘境である。つい最近まで、外部の人とも付き合わない極端に排他的な部落でもあったという。
それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである。・・・・ここには淡路の廃帝が、一つの信仰として生きているのはおもしろい。神を創造することが、日本のかくれ里のパターンであることに私は興味を持つ。人里離れたところに住む人々は、何か心のより所がほしかったのであろうか。不幸な貴人に同情することが、貧しい人々の真情なのか。・・・・そこには必ず信じるに足るだけの、事実と根拠があったに相違ない・・・・」
白州正子著「かくれ里」(講談社)より
なお付け加えると、白州さんは同著の中で、菅浦の御陵は、あるいは高島で恵美押勝らとともに殺された塩焼王か、その王子の墓ではないかとも推測しておられる。
この須賀神社が古代の保良の宮跡、または離宮跡であったという確かな根拠はなく、他に候補地も挙げられるそうであるが(石山付近など)、ここでは伝承はほとんど真実に近いものとして、村人の心の中に定着しているらしい。
廃帝は淡路でなく、淡海の高島に流され、そこを脱出しようとして捕らえられ、殺されたとここの人々は考えているようである。密かにつづらに帝の亡骸を入れて、従者が高島から舟でここに運び、帝が遺された言葉通り、帝の思いの籠もるこの菅浦に御陵を築き、祀り続けることを、今も村のしきたりとしているのだ。葛籠尾崎の名も遺骸を舟で運んだことに由来するという。
千二百年以上も前の歴史の真実は謎のままである。帝の配流地が淡路であるのか、淡海であるのか、また殺されたのかそうでないのか、つづらの中に入っていたものは帝の亡骸なのか、あるいは衣服など遺品だけなのか、など説はさまざまにあり、その真偽の程は私にはよくわからないが、祖先からの古い言い伝えを信じ、代々そのことを申し送り、御陵を守り続けていこうとすることこそが、ここに住む人々の精神なのであろう。
手入れの行き届いた社の前に立つと、村の人たちがこの場所を大事にしていることが感じられた。
廃帝は歴史書に記述されている通り、淡路島に配流となり、不慮の死を遂げてそこで土葬されたのだろうし、明治になって、怨霊鎮めのために淡路から京都白峯にみたまが遷されたというから、たぶん今もそこで祀られているのだろう。
でもたとえどこに葬られ、どこに遷されたとしても、その魂はこの菅浦の山に辿りつき、穏やかな入江を見下ろす古えそのままの風景の中で、村人に守られ鎮まっているのではないだろうか。死後人の魂はその人が最も愛着を感じる場所に還っていって、そこにとどまり、やすらうと考えられる。ここにはそう思わせるような古代の奥津城の静けさと寂寥感が漂っている。
山を下りて、村の入り口に当たる四足門のところに戻ってみた。江戸時代の門が保存されている。門だけでなく、ここには「菅浦文書」といわれる学問的に貴重な古文書が多く残されており、それによると、中世には「惣」と呼ばれる独特の掟を持つ、農民の自治組織が既に形成されていたという。
村の中を歩いてみる。お寺があったり、店屋があったり、代官屋敷のような古い門構えの民家や石垣のある通りをそぞろ歩く。すれ違う子供が、きちんと挨拶をして通り過ぎていく。
二十年前に泊まった民宿はもう無くなっていて、世代が代わったらしく、新しいモダンな民家が建っていた。打ち寄せる岸の波の優しい音を聞きながら、湖沿いに葛籠尾崎の方に向かって歩いていく。
小弁が歌一首。
高島の安曇(あど)の港を漕ぎ過ぎて 塩津菅浦今か漕ぐらむ (万葉集巻九)
万葉集を調べてみたが、小弁という人については詳細がわからなかった。奈良朝の歌人、官吏ともいわれるが・・・・。(勝手な空想ではあるが)この人が単に名所的に高島、塩津、菅浦と地名を歌に詠み込んでいった訳ではないようにも思われる。
仲麻呂が上皇方と戦って破れ、越前へ逃れようと船を出し、嵐に遭ってかろうじて上陸したというあの塩津、愛発の関を目指すが上皇軍に阻まれ、行き場を失って心ならずも引き返していって殺されたあの高島、そして所縁の保良の離宮のあったあの菅浦・・・・と一つ一つの地にまつわる歴史を踏まえた詠嘆であったような気がしてくるのである。
そういう風に想像してみるとき、この歌には湖上を舟で敗走していく幻の古人(いにしえびと)の姿が浮かんでくるのだが、どうだろうか。
目を上げると辺りの空は赤く染まって、湖の向こうにちょうど秋の夕日が沈んでいくところであった。